柳澤健「1984年のUWF」について(追記)

 

 

※このウェブ・サイト内の他の各ページに、2017年6月24日に追記をしました。その追記分だけをまとめたのがこのページで、6月14日に先にアップしていました。各ページへの追記が完了した6月24日以降にそれらを読まれた方は、このページを読む必要はありません。

 

1章 リアルワン

P31)

 カール・ゴッチはルー・テーズに勝るとも劣らない強者だが、ふたりの間には決定的な差が存在していた。テーズの妻であるチャーリーは、亡き夫とカール・ゴッチの違いを次のように評している。

《カールはプロフェッショナル・レスリングのリアリティに決して飛び込んで行かなかった。カールにとって、レスリングは誇りであり、コンペティション(競争)だった。でも、ルーにとって、レスリングはビジネスだった。レスリングは、チケットを買ってくれる人の汗でできているのよ。》(『Wrestling Observer』2007年8月6日号)

 

 チャーリー夫人は30も年下の後妻で、テーズやゴッチの全盛期を直接に知る人ではない。夫といっしょにリングに上がっていたザ・シーク夫人のような人とは違う。「テーズ曰く」と付けなければこの考察も価値が限定されよう。

 

P33)

 観客を興奮させることのできないレスラーがメインイベンターになれるはずもない。カール・ゴッチは、短期間の例外を除いて前座レスラーの域を出ず、当然ギャランティもわずかなものだった。

P35〜36)

 その後、ゴッチは6年ぶりにアメリカのリングに復帰した。上がったリングは意外にもニューヨークのWWWF(のちのWWE)。ピエール・レマリンとフランス風に名前を変えたゴッチは、レネ・グレイとタッグを組み、短期間だがチャンピオンベルトも巻いた。

 

週刊ビッグレスラー(立風書房、1984年11月8日号)

熱筆コラム 黄昏の一杯とアメリカン・プロレス  安達史人(評論家)

 (前略)ただ、12チャンネルでアメリカのプロレスを放映していてそれはかかさずみていて、それが隠遁生活のまえなのかあとなのかはっきりしないにもかかわらず、この番組でみたカール・ゴッチの勇姿だけは今も鮮やかに記憶している。ストロング・スタイルとか、そんな激しいものでなく、ゴッチは頭から相手を馬鹿にして、うしろ足をひょこひょこけあげるような、何かの踊りを踊りつつ、相手のレスラーをやっつけるというぐあいで、しかし印象は強かった。(後略)

 

 ゴッチはその気になればフランス人を演じ、ショーマン・スタイルで闘うこともできた、ということであろうか。件の東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組は、田鶴浜弘さんが解説者を務めた「プロレス・アワー」と思われる。

 

 

第4章       ユニバーサル

P104〜)

 プロフェッショナルであるマンテルは、試合を盛り上げようとベストを尽くしたものの、興奮した日本人のベビーフェイスは、観客を喜ばせることよりも、むしろ自分を強く見せることに夢中になっていた。

 そして最悪の瞬間がやってくる。

 マエダのスピニング・ヒールキック(フライング・ニールキック)がモロに顔面に入った、とマンテルは自伝の中で回想している。

《その一撃で俺は失神し、目からも口からも、そして鼻からも出血した。もし私が経験の少ないレスラーであったなら、マエダが俺にシュート(リアルファイト)を挑んできたと考えたに違いない。たとえストリートファイトでも、俺がこれほどまでにこっぴどく痛めつけられたことなど一度もなかった。

 その後のことは、マエダが俺をピンフォールしたことも含めて、何ひとつ覚えていない。覚えているのは、試合後の俺が若い日本人レスラー数人とレフェリーに支えられながら控室まで戻ったことだけだ。

(中略)

 ホテルまで戻るバスの中では、ずっと頭がガンガンしていた。急いで残りのスケジュールを確認すると、俺とマエダとの試合は組まれていない。心からホッとした。

(中略)

 ケーシーは、呆れ顔で言った。

「バカ言ってるんじゃないよ。ヤツらには最初から試合を盛り上げるつもりなんかないのさ。ほとんどシュートグループじゃないか!」

「どういう意味だ?」

「ヤツらは普通じゃない。80%がシュートで、ワークは20%だけだ。彼らは(観客を楽しませるためではなく)相手を叩きのめすためのトレーニングを積んでいる。パンチやキックを使って、試合を可能な限りリアルに見せようとしているのさ。マエダにボコボコにされたくせに、お前にはそんなこともわからないのか?」

 (中略)いま思えば、もし私がマエダの意図に最初から気づいていれば、あのような試合にはならなかった。最初からリアルファイトとわかっていれば、私が勝つことも可能だったはずだ。(後略)》(『The World According to Dutch』)

 

 ビデオを見ればわかるが、前田のきつい攻撃はニールキックだけ(顔に当たって口の中を切っている。ただしフィニッシュはジャーマン・スープレックス・ホールド)。マンテルは自分で立ってすたすた歩いてリングを降りている。旧UWF旗揚げ戦のメインを語るために、他であれほど引用している週刊プロレス等の専門誌ではなく、(翻訳が正しいとすれば)間違いだらけのマンテルの自伝をわざわざ引用するのは、前田が一番悪く書かれているから、としか思えない。

上記引用文の冒頭「興奮した日本人のベビーフェイスは、観客を喜ばせることよりも、むしろ自分を強く見せることに夢中になっていた。」は、引用でなく柳澤自身の筆になる部分だから、マンテルのせいにはできない。柳澤自身の責任による誤りである。

個人的には、試合が盛り上がりに欠けた要因はヒール役のマンテルの力量不足(知名度不足もあったろうが)であり、むしろ前田が一方的にマンテルを攻め倒した方がよかったのではないかと思う。

シリーズ第3戦(4/14下関大会)のメインイベントで2人は再戦し、ニールキック(当時の週刊プロレスの表記では「レッグ・ラリアート」)から体固めで前田が再び勝利している。マンテルの自伝に前田戦は1試合だけのように書いてあるのは、再戦があったのならそこでやり返さなかったのか、と言われないためであろうか。第2戦はメインでラッシャー木村に負け、第4戦はセミ・ファイナルでボブ・スイータンと組んで木村・剛竜馬組に負け(木村がマンテルをピン)、最終第5戦は第4試合で剛に負け。外人組では当初エース扱いだったのかもしれないが、段々ランクが下がって行った印象で、結果は全敗。

ちなみにスコット・ケーシーは木村、剛、マッハ隼人にシングル3連敗を喫した後、第4戦でやっと前田と対戦(メインで負け)。最終第5戦でマッハ隼人に雪辱して何とか1勝を上げた。旧国際プロレス勢を「シュートグループ」と感じたのだろうか。

 

P127)

 最後に更級は「ここが勝負だと思って、藤原喜明さんを引き抜いてくれ」とUWFの伊佐早に強く求めた。

 

Kamipro」(No.130)

更級 そしてしばらくして、伊佐早さんから連絡が来て「引き抜きに協力してほしい」と。そこで名前を挙げられたのが佐山さんと藤原さん。

――これは当時から格闘技路線でいこうという中でビックアップされたんですか?

更級 いや、そういうことじゃなくて、前田さんの意向ですね。(後略)

 

 どっちなのか。

 

 ちなみにターザン山本も、自分が藤原引き抜きを提言した、と書いている(「暴露 UWF15年目の予言」世界文化社、1999)。

 しかし藤原は、旗揚げシリーズ最終戦に新日本から派遣されて出場した選手なのだから(ちなみにメインイベントの前田戦を裁くレフェリーとしてタイガー服部も派遣された)、UWFに引っ張ろうと発想するのは自然なことで、皆が手柄争いをするような話でもないと思う。

 

P137)

 テレビ初登場となったこの試合を契機に、21歳の若者の前にはタイガーマスクの後継者という路線が敷かれていく。

 (中略)

 しかし、青春のエスペランサは、華やかな舞台を用意してくれた新日本プロレスを捨てて、マイナー団体のUWFに走った。

 

 UWFに来る前の状況を、前田と藤原に関しては冷遇されていたかのように書いているが、なぜか高田伸彦についてだけ、新日本プロレスでの売り出しぶりを強調している。

 

波々伯部哲也「『週刊ファイト』とUWF」(双葉社、2016)

<藤原がメーンイベンターに満足していたのなら新日プロから離れて行きはしない。チャンピオンになりたいのなら高田はサンドバッッグを巡業に持ち込みはしなかった。

 猪木のプロレスがどうであるかではなく、自分のプロレスをやりたかった――それが藤原、高田UWF移籍の全てである>(『週刊ファイト』84年7月10日号)

 

 井上義啓編集長の文章である。

 

 「週刊ファイト」1984年7月10日号より、直接引用する。

 

解説 プロレス・ルネッサンスへの同意

 昨年十二月、大阪・ナンバの「角力茶屋」で藤原、前田、高田の三人に話し合ってもらった。本紙読者ならおぼえておられるだろう。

 このとき、前田は、「外人レスラーが文句ばかり言うので、思い切った攻めができず、ゴッチさんから教わったプロレスが生かされていないのが残念です」と唇を噛んだ。高田は黙っていたが、藤原も前田と同意見で、「真のプロレスとは何か――それを考え、プロレスの原点に戻るべきだ」と、本紙I編集長提唱の「プロレスルネッサンス」に全面的に賛成した。

 奇しくも、この三人が、今回の電撃移籍で一つにまとまった。座談会をやった当時、こんな発展の仕方をするとは夢にも思わなかったが、この座談会を本紙が行っていたため、今回の藤原、高田UWF入りの背景が即座にのみ込めた。

 ゴッチ流のプロレスをリング上に生かし切ろう――それはすぐわかるのだが、隠された真の理由は、プロレスの原点に戻りたいという格闘技者としての熱望だったと思える。

 (中略)

 “テロリスト”藤原は、ひどく実体とは違う。やむなくそうなってしまったのだが、「メーンエベントでも藤原らしいプロレスをやれ。テロリストは藤原とは異質のものである」との本紙論調を、ここで思い出していただきたい。「メーンエベントに出場できるようになったのに、なぜ藤原は新日プロを去ったのか」「高田はJ・ヘビー級王座が目前なのになぜ?」とのファンの疑問に対する答えがこれだ。

 藤原がメーンエベンターに満足していたのなら新日プロから離れて行きはしない。チャンピオンになりたいのなら高田はサンドバッグを巡業に持ち込みはしなかった。

 猪木のプロレスがどうであるかではなく、自分のプロレスをやりたかった――それが藤原、高田UWF移籍の全てである。

 

 特に署名はないが、波々伯部さんが言うのだから井上義啓編集長の文章なのであろう。自分を「I編集長」と書くぐらいは普通なのであろう(「I編集長の喫茶店トーク」というシリーズ記事もあった)。

UWFを応援していたのは週刊プロレスだけではない。

 

 

第5章       無限大記念日

P164)

 選手たちの入場テーマ曲やコスチュームについてアドバイスしたのは、『週刊プロレス』の人気連載「ほとんどジョーク」の選者をつとめるイラストレーターの更級四郎だった。

 荘厳かつスリリングな『ワルキューレの騎行』(リヒャルト・ワーグナー作曲)を藤原喜明の入場テーマ曲に選んだのは、東京藝術大学出身のアーティストだったのである。なんとわかりやすい話だろう。

 

 「ワルキューレ」は新日時代に前田の入場曲として使われたのが先なので、転用とも言えよう。フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」に使われていたので、子供のわたしでも耳になじみがあった。ちなみに「スパルタンX」は、三沢光晴よりも先に上田馬之助の入場曲として使われている。

 

 

第6章       シューティング

P217)

1981年にデビューしたタイガーマスクは日本のマスクマンの元祖だ。

ミル・マスカラスやドス・カラスに代表されるメキシコのマスクマンは存在したものの、日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて。(後略)

 

元祖は国際プロレスの覆面太郎(1967年。後のストロング小林)である。そのマスクは芸術的ではなかった、と言いたいのかもしれないが、では旧UWFの同僚でマスクマンの先輩、マッハ隼人は?そのマスクはメキシコのトップと同じものであったのだが。

 G SPIRITS」(辰巳出版、2013.5.5、Vol.27)は、「マッハ隼人が愛した「赤ラメのチカナ・タイプ」」と題してそのマスクを写真で紹介。メキシコのマルティネス製で、親友のサングレ・チカナからもらったものだという。「国際のデビュー戦を始め、初の後楽園ホールでのTVマッチなど重要な時にそれを被った」とある。マッハは1975年にメキシコに渡ってプロレスラーになり、1979年に国際プロレスに凱旋帰国している。

 

P223〜224)

 そんな佐山に、更級はリーグ戦を提案した。選手たちを1部のAリーグと2部のBリーグに分け、Aリーグ最下位の選手はBリーグに落ちるという仕組みだ。

 負けても失うものが何もないUWFにリーグ戦を持ち込むことで、降格の悲しみと昇格の喜びを生み出そうとしたのである。

「ほかのレスラーにBリーグに落ちてくれなんて、僕からは言えません」と佐山に断られた更級は、自ら前田日明に会いに行った。

「僕から前田さんに言いました。あなたや佐山さんが優勝したのでは誰も驚かない。でも、あなたや佐山さんが、意外にも1勝くらいらいしかできなくてBリーグに落ちれば、大変な話題を呼びますよ、って。

 前田さんは即答しました。Bリーグに落ちてもいい。UWFを存続させるためだったら何でもやります、と。この人はいいなあ、と思いました。UWFが一番苦しい時に、前田さんが自分を犠牲にして頑張ったことは忘れられるべきではないと思います。

 (後略)」(更級四郎)

 

更級四郎が旧UWFでの2リーグ制導入と前田のBリーグ落ちを進言したとあるが、前田がBリーグに落ちた事実はない。層が薄くて2リーグ制は機能しなかった。高田は2度もBリーグに行くとされながら行かず仕舞い。Bリーグ廃止で山崎がAに上がったのみで入れ替えはなされず。

 

・格闘技ロード公式リーグ戦 順位

1木戸 2藤原 3タイガー 4前田 5高田 6山崎 7空中 8マッハ

 

 順位決定戦で高田に勝った前田まで4人がAリーグ入り(他に外人招待選手2名)とされたが、外人選手を1人にして結局高田もAに。

 

・第1回公式リーグ戦(Aリーグ)順位

1藤原 2タイガー 3前田 4木戸 5高田 6キース・ハワード

 

 日本人の最下位・高田と、Bリーグ1位・山崎(他は外人選手のみ)とで入れ替えのはずだったが、Bリーグは廃止となり、第2回リーグ戦は山崎を含めた日本人6名で行われることに決定。

 

「俺たちのプロレス VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017)

前田 (前略)佐山さんは一銭も出してない。「選手の面倒は俺が見る」って言うならいいよ。でもそれはしないで、「試合は月1回にしよう」「2リーグに分けよう」って、日本人選手は6〜7人しかいないんだよ?(笑) どうやってやるんだよ。

――最後にはA・Bリーグ制になっていましたが、実際厳しそうでしたね。

前田 当時の状況では実現不可能みたいなことばっかり言うんだよ。(後略)

 

 

7章 訣別

P239)

《俺と営業サイドの衝突は、ルール問題にとどまらなかった。興行を増やすか減らすかでもめた時もそう。営業サイドが、赤字だから地方興行を増やせと俺に言っても俺が譲らなかった、みたいな報道をされてたと思うが、(中略)事実は違う。元々、地方興行は赤字だから、打てば打つほど赤字が増えるんだ。だから俺は、黒字になる大都市だけを狙って月1回とか2回の興行方式にしようと主張したんだ。こちらの方が合理的だし、現に、今のUWF(注・新生UWFのこと)はそれを実行して成功しているじゃない。経営面を無視して理想論を振りかざした、とか言われると、ちょっと心外だ。》(『フルコンタクトKARATE』(1989年10月号)

 

地方が赤字なのは佐山がマスクを脱いだから、というのが営業の言い分であろう。第2次UWFで試合数を減らしたのは、それでも皆食えるようになったから。理想を現実化する力が佐山のいない第2次UWFにあったからであろう。月1回が後楽園ホールでは無理であろう。

 

佐山提唱の旧UWFの1シリーズ3週間で5試合というスケジュールは6人のリーグ戦とセット。ただしこれはスポンサーがついたという前提で立てた試合数、とは佐山も認めており、スポンサー撤退後は7試合に増やす所までは妥協していた。

 

「週刊ファイト」1985年10月29日号

――改めてお伺いしますが、UWF脱退の原因は、佐山シューティングの路線が維持できなくなりそうだったことですね。

佐山 ボクがT・マスクを辞めた時点からスタートさせたのが、シューティングという新格闘技だったわけです。つまり、一つの信念をずっと固守していた。でも、それがなかなか理解してもらえなかった。そのうち、シューティング路線がUWF内部で非難を浴びるようになったんです。

――すなわち、あの少ない試合数ではとうてい団体を存続させていけない、ということでしょう?

佐山 UWFはプロの興行団体だった。それがネックになりましたね。無論、ボクは興行団体としても、あの試合数は正しいあり方と思っていました。確かにスポンサーがついたという前提で立てた試合数でしたが。

――現実にはスポンサーはつかず、苦境に追い込まれた。当然、試合数を増やそう、となりますね。まず、食っていくことが第一ですから。

佐山 最終的に三週間で七試合という線を提案しました。しかしこれも難しい。それに単に試合数を増やしたからといって、必ずもうかるものでもありません。事実、地方興行ではお客さんが入らなかった。そこでシューティング路線をちょっと変えてプロレスにやや近づけようという案も出ました。

――生き残るためには、やむを得ない選択とも思えますが…。

佐山 ボクの感覚でいくと、ちょっと変えてもそれはやっぱりプロレスになってしまうんです。そうなると、ジムの練習生たちに絶えず言ってきたことも、なあーんだってなってしまいますし…。

 

 

8章 新・格闘王

P250〜251)

前田日明との試合後、新日本プロレスは必死にアンドレのご機嫌をとった。

「ビッグファイター・シリーズ」の最終戦は5月1日の両国国技館である。それから、IWGPリーグ戦がスタートするまでの2週間、アンドレには沖縄で休養してもらい、費用は全額新日本プロレスが負担することにした。

アンドレをアメリカに帰してしまえば、戻ってこないかもしれないと考えたからだ。

フロントの努力の甲斐あって、アンドレは5月16日から6月20日まで行われた第4回IWGPリーグ戦に出場してくれたものの、以後、新日本プロレスのリングにアンドレが上がることは二度となかった。

世界中どこでも稼げる超人気レスラーにとっては、不愉快な思いをしてまで新日本プロレスに固執する理由はひとつもなかったのだ。

 

「週刊ファイト」1986年5月6日号

沖縄特訓でゼイ肉落とし 大巨人

猪木しぶ〜い顔

 アンドレ・ザ・ジャイアントが何と沖縄でトレーニングするという。「IWGPシリーズ」は五月十六日、後楽園ホールで店開き。五月一日の両国大会が終了した直後アメリカへは帰らず、五日から沖縄でトレーニング、十四日の前夜祭に舞い戻ってくるというから驚く。一体、アンドレは何を思って沖縄特訓に突入するのだろうか。

 

 翌週5月13日号で報じられた前田戦より先に、アンドレの「沖縄特訓」は公表されており、無関係なのは明らか。こじつけはやめてほしい。

次期シリーズ「IWGP」では猪木にギブアップ負け(6/17)、タッグながら前田との再戦を組まれる(5/30前田・藤原対アンドレ・スヌーカ、両者リングアウト)等、新日本もアンドレのご機嫌をとる一方でもなかった。その後アンドレが新日本に来なくなったのは、前田のせいではなく、WWF(現WWE)の世界戦略の都合ではないか。

週刊ファイトの井上義啓編集長は「今年で幕を下ろす 猪木−アンドレ戦」と書いており、アンドレの新日本離脱は既定路線を匂わせる。その後のアンドレは、新日本の許可を得て米国でもマスクマン(ジャイアント・マシン)になった後、ヒール・ターンしてハルク・ホーガンと抗争。翌年のレッスルマニア3でホーガンにピンフォール負け。WWEの世界戦略に大いに貢献した。確かにその後、新日本で試合をすることはなかったが、猪木30周年セレモニー(1990年9月30日)でリングには上がっている。だから「新日本プロレスのリングにアンドレが上がることは二度となかった」も誤り。

 

「週刊ファイト」1986年5月27日号

昨日・今日・明日‥‥ファイト直言

今年で幕を下ろす 猪木−アンドレ戦

(前略)

 ☆…IWGPにおける猪木とアンドレの勝負は今年でさいごだろう。来年の話をすれば鬼が笑う。アンドレは今年一杯と見て沖縄特訓に出かけたはずなのに、ブラウン管で見たアンドレには何もなかった。時代は移り変わる。(中略)

☆…アンドレの沖縄特訓がどうであったかを問うのは愚かである。それより、何かを残したかが問われる。プロレスラー25周年の一九八六年に、猪木がどうアンドレと闘って二人の抗争に幕を引いたか。繰り返すが、二人の闘いに来年はない。

 

 柳澤は、シュートを仕掛けたのは誰かの指示ではなくアンドレ自身の意思であると(根拠も示さずに)書いているが、もしそうなら団体側には迷惑な話で、ご機嫌をとるどころか普通ならペナルティを科すような事案である。気を使っていたとすれば、それは新日を去るに際して長年の功に報いるとか、あるいはその前に猪木との決着戦に臨んでもらうためのインセンティブといったことだったのではないか。いずれにせよ前田戦とは関係あるまい。

 

P269)

 『ワールドプロレスリング』は1988年4月から火曜午後8時のゴールデンタイムを離れ、土曜午後4時からの枠に移った。

 

テレビ朝日のプロレス中継は、ゴールデンタイムを離れる前は、金曜→月曜→火曜(悪名高き「ギブUPまで待てない!」)→月曜(いずれも午後8時)と変遷していた。火曜から土曜へ移ったというのは、だから誤りである。

 

第9章       新生UWF

P288〜290)

 『格闘技通信』1988年7月号には、旗揚げ戦を終えたばかりの前田日明の手記(実際には聞き書き)が掲載されている。

 新生UWFの方向性を示す所信表明演説ともいえるもので、大変興味深い。

 (中略)

 「UWFは真剣勝負をやっている」と、前田が手記の中で書いているわけではない。

 (中略)

 しかし、その一方で、この手記が読者を一定の方向に誘導していることは間違いない。

 「誰もが納得して見てくれる」「偽りのない本物のプロレス」「総合格闘技」。これらの言葉を文章にちりばめることによって、「UWFは真剣勝負をやっている」という印象を読者に与えようとしているのだ。

 

UWFは真剣勝負をやっている」と、前田自身が語った証拠を探したけれど見つからなかったのであろうか。「誘導していることは間違いない」「印象を読者に与えようとしている」と決め付けているかどうか。例えば「総合格闘技」という言葉になじみのある人が当時どれだけいたか。「プロレス」という言葉がややもすれば「やらせ」という意味で使われる、現在の視点からこの文章を読んでは誤るところもあろう。

そもそも「手記」とあるが、実際は違う。

 

昨日の睡眠時間は3時間。しかしなぜか疲れが感じられない。

まだ気持ちの高揚が続いているのだろう。

いまの気持ち、いろんな人たち、みんなに「ありがとう」といいたい。

こんな朝、迎えられるなんて、オレは……。

※これは翌13日、前田日明に「語って」もらったものです。本人の了承のもと、「手記」という形で発表させていただきます。

 

このように始まる「手記」だが、失礼ながらこのような状況で前田がどれだけ理路整然と語れようか。誰かはわからないが、文章のまとめた人の関与も大きいのではないか。よって、本人の「手記」であるからという理由で、特別に重要視する必要はないと思う。

UWFの方向性について前田は他の媒体でも語っている。

 

「週刊ファイト」1988年5月5・12日合併号

前田が語る 新生UWF構想の全貌 独占!!旗揚げ直前 ザ・ロングインタビュー

(前略)

 ――リング上に絞るとどうなります?もちろん、旧UWFの延長上にあるわけですが、旧UWFはある部分で行き詰っていましたね。

 前田 UWF独自でやった最先鋭のものを求める実験とは別に、今のプロレスもプロの技術を持った人間がやりようによってはもっとよくできるという気持ちも強い。それも求めたい。両輪だね。

 ――つまり二つの方向性を求める……。

 前田 でも、こちらからこの試合はこっちの方だとか言う必要はない。それはファンが勝手に考えればいいことだし……。

 ―― 一つの試合の中で、その二つが見え隠れすることもありうると……。

 前田 1試合の中でゴチャゴチャになることもあるだろうし、第1試合は完全に右の試合、第2試合は左の試合とか、ある日は3試合とも右の試合だったという場合もあるだろうね。

 (中略)

 前田 格闘技にあるのは攻めと防御だけ。受けの凄みを発揮するにしても思いっ切りやらなきゃ、客はついてこない。ハンパじゃない蹴りやパンチ。それならファンも「なるほど、レスラーは鍛えているな」って思う。天龍さんがやっているじゃない? ハンセンやブローディ相手に。あれが正当な受けの凄みだよ。

 ――前田選手も受けの凄みを出せる自信があるでしょ?

 前田 オレは天龍選手ほど頑丈じゃないから、やってみないとわからない。あの人だからできるというのがあると思うよ。

 

もっともUWFの段階で目指すものが実現できたとは限るまいが。後に前田は次のように語っている。

 

「週刊ファイト」1995年7月13日号

――前田選手はUWF時代から現在のリングスのようなものを目指していたんですね。

前田 と言うか、UWFはプロレスの原点回帰。それはもうできちゃったから、そのあと何が来るんだろうというとリングスしかなかった。

 

 前田以外の選手の言葉も紹介する。

 

「週刊ファイト」1989年2月23日号

山崎一夫の格闘講座

プロレスと格闘技は別物なのか もっと昔のレトロプロレスに戻そう

(前略)

 つまり、プロレスは格闘技にも芸能にも入らない、一つの独立したジャンルであるという点で、とらえ方が一致していたように思えた。これはプロレスを「ジャンルの鬼っ子」と称した村松友視氏の影響が大きいと思うのだが……。

 ボクの考えは違う。もちろん格闘技のジャンルにプロレスは含まれる。

 (中略)

 先頃、プロレス週刊誌等でよく目についた全日本プロレスの宣伝コピー。「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」を初めて目にした時、誰かが雑誌で指摘していたが、ボクも「じゃぁ、プロレスとは何なんだ」と思った。

 ひょっとすると馬場さんは「プロレスは格闘技である」と思っているかもしれない。しかし、あのコピーからは「プロレスと格闘技は異質」とのニュアンスしか感じとれなかった。それほど、今のプロレスは、レスリング以外で見せる部分が大きくなり過ぎた。でなければ、あのコピーで、プロレスが格闘技かどうかなどの論争は起きなかっただろう。

 それを“本来”の形に近づけようというのが、UWFであり、前田さんや自分らの主張だ。もちろん、どっちが“本物”だとか言っているのではない。

 全日プロでは「オールディーズ・バット・グッディーズ・レトロ」を企画してジョナサンを呼び、好評を博したという。

 同じレトロでも、プロレス自体を「もっともっと昔のレトロプロレスに戻そうじゃないか」――これがUWFなんだ。

 

「週刊ファイト」1988年12月15日号

高田延彦 あくなき挑戦者

 ――その他のテレビ番組などでも、やたらと“ほんもの”とか“真剣勝負”というフレーズが出てきて、それが反感を買っているようなところもあるけど……

 高田 うん、でもいまの時代はやってる方が“オレたちを見てくれ”という時代じゃなくなってきているから。昔は人気スポーツといったら、野球とか相撲だけだったでしょ?だからファンもそれに集まっていたけど、いまはおもしろいものがいっぱいあるんだから。ラグビーだっておもしろいし、F1なんてすごく盛り上がってる。もう勝手に選んで勝手に散らばってる時代でしょ?だからいくら“オレたちは本物だ”とか言ったところで、1回見てみて「なんだ、つまんねェな」となったらもう来なくなっちゃうんだしね。

 ――そうだね。

 高田 今の世の中、見る方の買い手市場じゃないけど、見る方の選択権が強いから、とにかく、講釈いわずに1回見て下さいでいいんじゃないですか。山ちゃんが言った通りで、全日本がおもしろい人は全日本、新日本が見たい人は新日本、三つとも見たかったら三つ見ればいいんです。(後略)

 

「週刊プロレス」1988年6月21日号、No.262

6・11札幌を前に高田延彦が爆弾発言!!

(前略)

――メジャーになりたい、という部分のことですが。

高田 ああ! その気持ちは強いですね。どんなに強くても、うまくても、メジャーになれないっていうのは、俺はイヤなんです。どこの世界にもいるじゃないですか? 日本一とかいっても、表には出てこれないっていう…。もちろん本人がよければ、それでいいんだけど、なんか俺はイヤなんです。

 プロレスにしても同じことで、とにかくメジャーなレスラーになりたい。だから俺、UWFを選んだんです。

(中略)

――そういえば、山崎選手も「東京ドームでやれるように…」という希望を話していましたね。

高田 東京ドームといえば、マイク・タイソンがいい例です。あの観衆のなかで専門的に見ているマニアは何人いると思います? ほとんどの人は「すごい迫力だ」って、それだけですよ。たとえ遠くにいる客にも伝わるものがあるわけでしょ、タイソンには。

 野球でも相撲でもラグビーでも、技術的な部分で見ているのは少ないと思いますよ。女の子なんて、ルールも知らないで見ているわけでしょ? でも何か、ひきつけるものがあるわけですよね。そういう部分で俺はメジャーになりたいんです。

――かつての旧UWFのようにグラウンドが中心になると…。

高田 絶対にメジャーにはなれないです。でも、そこのところが一番、難しい。マニアも離してはならないし、底辺も広げたい。その両方をつかまなければメジャーになれません。

 

「週刊ファイト」1989年1月5・12日合併号

検証 前代未聞の一大ブーム UWF徹底解剖 猛爆パワーの秘密

(前略)

他団体との兼ね合いを配慮 何も言わなくてもファンはついてきた

(中略)

 旧UWFはその成り立ちから絶えず追い詰められている緊張感があった。今にも崩壊しそうな危機感から、ともすれば妄想めいた被害者意識があった。加えて他団体との違いを強調しないことには崩壊必至。これらがUWFの過激な他団体批判となって表れた。しかし、これは信者と呼ばれる熱狂的ファンを作ったが、反面、新日ファンの反感を買った。UWF拒絶反応だ。だが、新生UWFには他団体を攻撃する必要はない。何も言わなくてもファンはついてきたのである。

 

 前田も高田も山崎も、他団体との比較が批判につながらないよう慎重に言葉を選んでいたようであった。それがファンの態度にも反映したようだ。次に引用するのは新UWF旗揚げ戦の解説であるが、こういう記事にこそ「慧眼」という言葉を贈りたい。

 

「週刊ファイト」1988年5月26日号

どこまで広げられるかファン層 減った過激ヤジ 旧UWFと同じ道を歩んではならない

解説

 新生UWFは明らかに旧UWFとは違うファンを掴んでいた。会場のムードは旧UWF時代の「折れ!」だの「殺せ!」だのの殺バツなヤジも少なく、女性ファンの姿が多く目についた。

 (中略)

 考えられる理由は二つ。テレビ放送のなかったに等しい旧UWFはあくまでもマイナーで、試合を見たファンの数は限られていた。それが新日プロマット参戦によってテレビに登場。初めてUWF勢の闘いぶりやレスラーの個性にひかれて、ファンになった。

 もう一つが、前田が言うように「現在のプロレスに落胆した反動で、期待を寄せる」ファン。海賊亡霊だの、ビッグバン・ベイダーだの、やたらとチビッコファンをターゲットにしたかのような新日プロ。その方向性にガッカリしたファンがUWFに救いを求める形で足を運んだ。

 (中略)

 旧UWFもこのようなファン層でスタートした。ところが、あまりに先鋭的、求道的になったため、プロレスらしい華やかさを求めたファンのUWF離れを起した。

 その結果、会場はUWF信者あるいはプロのファンを自負する観客によって占められ、「折れ」だの「殺せ」だの殺バツなヤジが横行した。大票田であるファンが締め出された形。これでは収容人数1万人以上の大会場は満杯にはならない。

 新生UWFは旧UWFと同じ道を歩もうとは考えていない。有明コロシアムや大阪府立体育会館、東京ドームなどを満員にできる団体を目指している。それには絶好のファン層を得てスタートを切った。

(後略)

 

「週刊ファイト」1988年6月2日号

★走査線上のファイター達★(文中、M=MAKOTO、T=竹内義和)

(前略)

 T UWFにとって一番怖いのは、一部マニアの勘違いだと思う。ハッキリ言って、UWFはプロフェッショナルレスリング(プロレス)なんですからね。

 M そうそう。UWFは、空手家でもキックボクサーでもないんです。前田―山崎戦はどちらもフラフラでしたでしょ。あれはお互いが限界まで相手の技を受けてるからです。空手もキックも、相手の技を受ける事はないし、受けて耐える肉体も作ってないんです。

 T UWFは、プロレスの究極をめざしてるんですよ。攻めはブローディ以上、受けは天龍以上、スピリットは猪木以上のものをね。

 M シュートをやろうとしてるわけではないんです。あくまでプロフェッショナルレスリングの完成がUWFの目標なわけ。そこをファンはわかってあげてほしいですね。

 

MAKOTO」は現在の北野誠。竹内義和と共にABCラジオで「MAKOTOのサイキック青年団」という番組をやっていた由。ただしお二人とも当時は関西でしか知られていなかったのではないか。ファイトではとても真面目にプロレスを語っていた印象。

 

P296〜297)

「マエダとの試合は、自分のファイターとしてのキャリアの中でも、最も難しい試合だった」

 と、ジェラルド・ゴルドーは振り返る。

「(前略)

 プロレスは難しいから私も敬意を表するが、マエダには言いたいことがある、

『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ。

(後略)」

 

 ゴルドーが怒っている(らしい)前田の発言は、一体いつなされたのであろうか。試合直後でさえ、前田はゴルドーに対して勝ちを誇るようなことは言っていない。仮にどこかで前田がそのようなことを語ったとして、それがどうやってゴルドーに伝わったのか。本書中のインタビューは、Q&AのQ(問)を省いてA(答)だけをまとめており、質問に煽りや誘導があっても読者にはわからない。また外国人の発言は、翻訳によって大分ニュアンスが変わり得る。誰かがゴルドーに裏を取りに行けば、かなり違う話が聞けるかもしれない。

 

「週刊ゴング」1988年9月1日号 No.220

「右目に1発もらったら塞がっちゃうと思ったから無意識のうちにガードが高くなってしまってボディとかに結構もらっちゃったね。手強い…パンチもキックも重くて、ガードの上からでも重いよ。(関節技を)ある程度、知ってるみたいで、逆に締めを食ったのは自分自身、ショックだったね。3Rでアキレス腱を決めなかったら、やられていたかも…。準備期間が長くて、神経がスリ減ったし、今回は自分自身、勝つことだけしか頭になかった」

 と、報道陣に囲まれて試合を振り返る前田。(後略)

 

「週刊ファイト」1995年3月9日号

 大成功を収めたリングス・オランダ旗揚げ興行。ヨーロッパ進出に向け、しっかりとクサビを打ち込んだ印象を残した。(中略)旗揚げを終えた前田をパリでキャッチ。2・19オランダを総括してもらった。

 (中略)

 ――ドルマン軍団の他にルッテンがいる、ゴルドーがいる。ウィルヘルムも来てましたね。彼らと話をしましたか?

 前田 したよ。ゴルドーは「今度はいつ、オレと試合をやってくれる?」って聞いてきた。

 ――何と返事を?

 前田 「そのうちやろう」と答えておいた。ゴルドーって何か抜けてるんだよね。(後略)

 

 後年でも悪口めいた?発言はこの程度のもの。リングスでは「ドルマン軍団」が幅を利かせていて、自分が重用されなかったという不満がゴルドーにあったのかもしれない。

 

「週刊ファイト」1985年3月19日号

昨日・今日・明日‥‥ファイト直言

コメントを正確に伝えないと大喧嘩

(前略)「金が必要だったし、ここは日本だから、わざと手加減してやった。そしたら攻め込まれて負けてしまったんだ」といった発言はレスラーなら十人中九人までが口にする。だれだって負けた試合を「全力をあげて闘ったんだが、相手の方が強かったので負けてしまった」とは言わない。こんな話は、ちょっと考えればわかりそうなものである。それを暴露すれば、とたんに真実と信じ込まれる。中には本当の話もあるが、すべてがそうだとは限らない。(後略)

 

 井上義啓編集長の文章。時代を超えて通用しよう。こういう反論を許さないために、もう一方の当事者に裏を取る(取れなくとも取ろうとする)ことが大事なのだが、柳澤はしようとしない。

 

P307)

 新生UWFのスタイルは、佐山がユニバーサルで作り出した“シューティング・プロレス”そのものだ。レガースもシューズもルールも、1か月に一度、大都市のみで興行を行うというやり方も、すべてユニバーサルの時に佐山が考え出した。だがいま、前田日明は、佐山のアイデアを丸ごとパクり、新生UWFを真剣勝負の純粋な格闘技と詐称している。

 多くの人々が前田の言葉を信じた。新聞も雑誌もテレビも広告も、あろうことか『格闘技通信』『ゴング格闘技』などの格闘技雑誌までもが、UWFを真剣勝負の格闘技と報じた。

 その結果、UWFは大ブームを巻き起こし、佐山のシューティングは、UWFの劣化版のように見られてしまった。コピーに本物が追い詰められたのだ。佐山にとっては、まことに厄介な事態であった。

 

 シューティングをUWFの劣化版、と見た人がいたのだろうか。別のものと見ていただけではないか。シューティング(修斗)がブームを起さなかったのは、UWFとは関係がなかろう。UWFがなくなっても、修斗にブームは起きなかった。その代わり今も修斗は続いている。目指すところが違った、でいいではないか。

 雑誌が何を取り上げるかは編集方針次第。「ゴング」には月刊誌時代はボクシング、キックの記事があったし、「フルコンタクトKARATE」もかつてはプロレスについても(UWF以外も)少しは書いていた。そもそも柳澤の理屈ではプロレス専門誌も否定されよう。

UWFは真剣勝負をやっている」と、前田が手記の中で書いているわけではない。」から「新生UWFを真剣勝負の純粋な格闘技と詐称している。」へは飛躍しすぎであろう。結局、「詐称」の証拠を上げられていないので、単なる誹謗になっている。

 「佐山のアイデアを丸ごとパクり」ともあるが、佐山がUWFのために考えたことを、残された者が続けるのに何の支障があるのか。用具もルールも、選手達の実践による試行錯誤によって進化して行った。旧UWFにおけるそれらの「実験」は佐山のためにもなったのではないか。そして、新生UWFでは佐山以外の人達によってそれが続けられた。

 

「週刊ファイト」1985年7月16日号

公式ルールの波紋 各選手で異なるシューティング理論 理想と理想の激突!!

(前略)

 今回のルール決定においても、ほとんど佐山一人の手で作り上げてしまった。時折、疑問を投げかけ、前田あたりが「ここは、こうしたらどうですか」などの意見を述べたに過ぎない。

 

 若干ながら前田らの意見も入っていたようだ。そもそも「シューティング・ルール」ではなく「公式UWFルール」だから、第2次UWFがそのまま使っても問題はなかろう。ただし実際にはかなり変えている。

 

「週刊ファイト」1985年7月23日号

ルールを通して見たシューティング UWF「格闘熱帯ロード」開幕

(前略)

 真新しいシューズが届けられた。ルール上の“キック専用シューズ”である。これまで使用していたシューズには問題があった。試合中、脱げそうになるのだ。それに足首の保護上にも難点がある。それを強烈に思い知らせる事件が起こった。前田の負傷→欠場だ。先の「格闘技オリンピア」開幕戦、“5・18”下関大会で前田は高田と対戦した。その試合中に、右足首ジン帯切断という重症を負った。

 前田はくちびるを噛みしめて「オレのミステークだ」と語ったが、試合中、シューズが何度も脱げそうになったのが最大原因だった。

 

公式UWFルール

2章競技用具

第3条       シューズ

1)UWF認定のレスリングシューズ、あるいはキック専用シューズ(スネから膝下全体を覆ったもの)を付ける。

 

 UWFの段階ではシューズとレガースが一体のものとして扱われていた。新生UWF のオフィシャル・ルール(1989年5月4日付のものを参照)では、シューズ、レガース、ニーパッドがそれぞれ材質、形状、重さを細かく規定されている。

 

8章 試合

 第30条 当て身攻撃使用規定

 (1)当て身攻撃で相手の首から上に対し、頭突き、ナックルや手甲によるパンチ、肘打ち、膝蹴りなどは使用してはならない。

 (2)当て身攻撃で下腹および、関節部への攻撃は行ってはならない。

 (3)UWF認定のキック専用シューズ以外をつけてファイトする時は、キック攻撃を行ってはならない。

 

 旧UWFでは上記のように、特に首から上への打撃が制限されているが、新生UWFでは顔面パンチが禁止で、頭突きは許されている。ただし肘打ちは全面禁止、膝蹴りはニーパッド着用が条件。新旧ルールともポジションに応じた更に細かい規定があるが、ここでは触れない。

 他に新旧ルールの相違点としては、ロストポイントの扱いがある。旧ルールでのロストポイント(ダウンとロープ・エスケープの回数)は、リーグ戦において勝敗ポイントが同点だった選手間の順位付けにのみ使用されるものだったが、新ルールにおいては試合の勝敗に影響するものになっている。つまり、ダウン1回ないしロープ・エスケープ3回でロストポイント1となり、それが5になるとTKO負けになる(5ノックダウン制)。また時間切れの場合、ロストポイント3以上の差で判定勝ちとなる。1988年9月24日から実施されたこの制度は、新生UWFとその後継団体の試合の大きな特徴となった。

 なお旧UWFでは、A・Bリーグの人数・構成(専属選手と招待選手)、試合形式、年間のシリーズ数やシリーズ・試合の間隔、シリーズ優勝や年間優勝、UWF実力NO1タイトルの制度等が、公式ルール内できっちり定められた。営業社員もルールに反発したというのはそのためである。新生UWFにおいては興行に関わる規定はルールにはない。

 

(P315〜)

「リングス・オランダ」の看板がいまも掲げられるアムステルダムノード(アムステルダム郊外の町)の道場でドールマンに話を聞いた。

「マエダとの試合はヤン・プラス(メジロジム・アムステルダム会長)が持ってきた。UWF関係者が全日本キックのカネダ(金田敏男会長)に相談し、カネダがヤンに連絡した、と理解している。

 2試合契約。リアルファイトということだったが、契約後まもなくヤン・プラスから電話が入り、『お前が負けを受け容れない限り、試合はできない』と言われたんだ。

 リアルファイトを望んでいた私は不服だったが、仕方なくフィックスト・マッチ(結末の決められた試合)を受け容れた。

 (後略)」

 

「紙のプロレスRADICAL」(ワニマガジン社、2005.4.25、No.85)

「リングス・オランダ総帥が語る前田日明! クリス・ドールマン」(現地取材・写真/瀬戸川伸明、構成/堀江ガンツ)

 

ドールマン (前略)…今度はオールジャパンエンタープライズのミスター・カネダ(全日本キックの金田会長と思われる)から電話があって、「前田という人間がいるんだが、『真剣勝負』してくれないか」とのことだった。『真剣勝負』でなら、ということでそのオファーを承諾したのさ。(中略)

――UWFというスタイルはどう思いましたか?

ドールマン とても気に入った。キックに関しては長い間練習してなかったので、キックの練習を再び始めなければならなかった。キック以外にも様々なスタイルに対応しなければいけなかったし、オールラウンドな力が要求された。とても好きなスタイルだった。しかし、UWFもショーであったことは認めなくてはならない。

――つまり、厳密に言えば真剣勝負ではなかったと。

ドールマン YES。当時としてはフリーファイト(総合格闘技)の完成度が高かったと思うが、リアルファイトではなかった。これはヤマザキと闘ったときのことなんだが、観客を喜ばすために、彼も俺もサンボ着を着て試合をした。89年11月(29日)のトーキョードームだった。(後略)

 

 「1984年のUWF」とは違って前田戦ではなく、山崎戦について語っている。

 柳澤健は、試合がシュートであったかにこだわりを持っているようだが、それならなぜU-COSMOSをその観点から検証しないのか。

 

 上記で(後略)とした部分を続けて引用する。

 

そのときUWFの代表がこう言ったんだ、「DON’T KICK! DON’T WIN!」つまり「もし勝つとしても最初の2ラウンドで勝負を決めるな。最初の2ラウンド(1ラウンド5分)で、もし山崎が君の足を痛めることができなかったら、あるいは彼が君を倒すことが出来なかったら、その後は山崎を倒してもいい」とね。だから俺は10分はとにかく投げ技だけを使って試合を組み立てたんだ。彼は強烈なローキックを主体に俺を蹴りまくってきた。それはとても効いたさ。寝技を組み入れたが、すぐにブレークさせられ、その度に蹴りをいれられた。とにかくどんなことをしてでも10分持たせる必要があったんだ。そして3ラウンド腕を速攻で極めて勝利した。

 

 

10章 分裂

P339〜340)

 1989年11月29日、UWFはついに東京ドームに進出した。大会名は「U-COSMOS」である。

 旗揚げからわずか1年半での東京ドーム大会は、6万人もの大観衆を集めて大成功に終わった、と一般には報じられている。

 ところが実際には、実券が売れたのはせいぜい1万枚から1万5000枚程度。残りは招待券を大量にばらまいて、無理矢理に客席を埋めた。閑散としたスタンドは、UWFの満員伝説に大きなダメージを与えると考えたからだ。

 

「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)

7章 「崩壊」の目撃者たち 証言 川ア浩市

「最終的な収益まではわかりませんが、ドーム大会が赤字だったという印象はないです。チケットの実売も2万枚強だったと記憶しています。(後略)」

 

「俺たちのプロレス VOL.7 ドーム興行連発!プロレス・バブル時代の光と闇」(双葉社、2017)

証言04 川ア浩市

川ア まあ、3万人前後入れば満員に見えますからね。実売で2万〜2万5000、それに企業売りとか招待を合わせて、3万5000ぐらい入ればというところだったと思います。(後略)

 

「週刊ファイト」1989年10月12日号

 「U-COSMOS」11・29東京ドーム決戦の発表記者会見が、30日午後1時から東京都千代田区の九段・グランドパレスホテルで行われた。会見には、UWF所属の10選手、神新二社長、冠スポンサーとなるメガネスーパー社、大会応援の集英社(週刊プレイボーイ)が出席。(中略)

――冠スポンサーとして、経費の負担などはどうなっているのでしょうか。

富永氏 今回、このイベントに使います全部の額は2億弱と見ています。その中には、宣伝費も含まれていますし、冠料も含まれています。この冠料の考え方としては、私どもは入場料の一部を私どもが負担させていただく――そういう考え方で提供させていただきます。

 

※富永氏は「メガネスーパーの富永巽氏(本部総務部次長)」。

 

「週刊ファイト」1989年12月14日号

マット界舞台裏 編集部談話室

 A ところでUWFの11・29東京ドームだが、満員の盛況だった。前売り初日でガーンと売れた後、途中経過発表がなかったものだから、ちょっと心配していたんだが……。

 B いかに東京といえども、お金を払って見に来るファンは5万人もいない。

 C 3時過ぎにドームに到着した時はビックリした。チケット売り場から数百bもの長蛇の列。ところが、これは「メガネスーパー」と「週刊P誌」のチケット引き換えに並んでいるファンだった(笑い)。当日券売り場には人が並んでいなかったし……。

 D しかし、あれだけ観客が入れば興行としては大成功だ。

 C それは言える。満足して帰ったファンが多かった。

 

 「週刊プロレス」(1989年11月14日号、No.347)にメガネスーパーの広告が載っており、「今!!メガネスーパーでお買い上げの方にU・W・F U-COSMOS東京ドーム引換券プレゼント」と書いてある。スポンサー料の見返りとして、眼鏡販促用の引換券を渡した(実券も行っているだろうが)のであろう。わたしも引換券で行ったことがあるが、会場で余っている実券(通常は売れにくい遠目の席)と引き換えるので、実券の招待券と違って有料販売の機会を失うことがない。興味のない人は無料でも来ないので、ただ券で客席の空きを埋めるのにも人気と営業力が必要だし、無理矢理動員をかけても客席に熱が生まれないのは、後のSWSで証明済みである。満員と言える大観衆が集まって熱気があったのであるから、人気は否定できまい。

なお、「週刊P誌」とは「プロレス」ではなく「プレイボーイ」ではないかと思うが未確認。

 

P342)

「(前略)

 最終的には僕から、前田たちに帳簿を見せようと言った。ただ、勝手に情報を持ち出されても困るので、こちらの目の届くところで見せましょうと。

 ところが前田が連れてきた人は、公認会計士でも税理士でもない、資格のない人で、要するに数字のわかる人ではなかった。

(後略)」

 

UWF顧問弁護士の大谷庸二の言だが、帳簿を調べに来たのは当時(株)マネジメント・リサーチの代表で、後にリングスの経理担当役員になる相羽芳樹(柳澤本でもP346には名前が出ている)。当然、数字に明るい人物であろう。

 

「週刊ファイト」1990年12月13日号

マット界舞台裏 編集部談話室

 B 神社長サイドの孤立っていうと、12・1松本でもう一つの事件があった。高橋(蔦衛)取締役が神社長に辞職を申し出たんだ。

 C 高橋氏って神社長から前田の出場停止処分を決めた役員会に出席したと言われた第三の人物だろ?

 B そう。実際は事後承諾の形で自分の名前の載った新聞報道を見て本人が一番驚いたらしい。高橋氏は「UWFの一ファンに戻ります」ってことだったけど、イヤ気が差したんだろうな。

 

 

終章 バーリ・トゥード

 

「週刊ファイト」1988年8月4日号

アキラの明日 前田白書 ’88  文・次郎丸明穂

29     格闘技戦のルールは難しい

メジャー化への制約 オープンルール 暗さと残酷さだけに

(前略)

 「本当に雌雄を決しようと思ったら、道場でロープブレイクなんか無しでやるしかないんだよね。お互いの技術をフルに生かせる形でね。でも、そうすると闘争に近いものになってしまう。お客さんに見せるもんじゃなくなっちゃうんだ」

 なぜ、お客に見せられないのか。残酷になるというのも理由のひとつだが、それよりも地味になるからなのである。

 ロープブレイクを失くし、グラウンドもフリーとしたときの試合を想像してもらいたい。

 リングの端っこ、エプロン際になっても寝技の攻防が続いている。しかも、防戦に回った方は、きめられまいとして、ひたすらムキになる。

 つまり、闘っている本人同士は必死でも、観客にとっては何だかわからない団子状態を見せられることになってしまうのである。

 これでは興行として成り立たない。一部の好事家の中には、そういう試合こそ見たい、と目の色を変える人もいるだろうが、あまりオシャレとはいい難い。やっぱりスペクテータ・スポーツらしい爽快感を、見る人に与えなければならないのだ。

 それに加えて、メジャー化のための制約もある。有明はニッポン放送の参入によるビッグイベント。各方面の企業にとっては、スポンサーになるメリットがあるかどうかをチェックするだろうし、同時に今後のテレビ放送の可能性を占う試金石の意味も持つ。

 そういうコマーシャリズムが何をいちばん嫌うか。それは、暗さと残酷さである。

(後略)

 

 書き手は前田のブレーンだった人。かぎ括弧の中は前田の発言。「有明」は8.13有明コロシアム大会「真夏の格闘技戦 The Professional Bout」で、ジェラルド・ゴルドーとの異種格闘技戦のルールが決まった際の記事。ヴァーリ・トゥード(当時はまだ日本で知られていなかったが)に対する前田の態度は一貫していたと言ってよいのではないか。

 

「週刊ファイト」1995年9月21日号

(前略)格闘スタイルを追求するが、前田はアルティメットスタイルには懐疑的だ。「ストリートファイトと同列でスポーツの持つエンターテインメント性がない」とまで言い切る。だから、前田はリングスをエンターテインメントの総本山であるラスベガスで試してみたい。プロボクシングのヘビー級と同様に、「リングスも激しさの中に華がある」ことを証明したいのだ。前田が頑固にアルティメットを拒む理由はここにある。

 

 

あとがきにかえて

 

「シリーズ逆説のプロレスVol.8 新日本プロレス アントニオ猪木「罪と罰の闘魂最終章」」(双葉社、2017)における前田のインタビューによれば、新日の若手時代にサイレント・マクニーという選手とシュート・マッチを行った由(1979年4月2日)。かつては素人が思うよりも垣根は低かったのかもしれない。1994年8月20日、リングス横浜大会で前田とツハダゼ・ザオールというグルジアの選手の試合を見たが、ザオールの腰投げで前田が頭から落ちるなど地味ながらシュートっぽい試合であった。前田はこの試合で肋軟骨を骨折。

 

 

特別付録

1981年のタイガーマスク

P407)

 タイガーマスクが入場する時に、エプロンからトップロープにひょいっと一気に跳び乗るでしょ? あれができるレスラーは、ほかにひとりもいないんですよ、いまだに。

 

 小林邦昭の言としてこう書かれているが、本当にこんなことを言ったのだろうか?歴代のタイガーマスクが皆やっていることではないか。

 

竹内宏介「全日本プロレス馬場戦略の真実!? 防御は最大の攻撃なり!!」下巻(日本スポーツ出版社、2001)

 その夜、自宅に戻った馬場はメキシコの三沢に電話を入れた。馬場は梶原氏との交渉の問題などもあり、この時点では計画に関して多くは語らなかったという。

「お前、タイガーマスクみたいにコーナー・ポストの上に立つ事が出来るか?」

 そんな馬場からの唐突な質問に対して三沢は「ハイ」とだけ答えた。すると馬場は「お前、そっちのスケジュールをすべてキャンセルして1日も早く日本に帰って来い!」と、いう指令が下された。

 

中田潤「三沢さん、なぜノアだったのか、わかりました――。」(BABジャパン、2000)

 三沢光晴は、気の抜けた声を出すほかなかった。

「(前略)たとえば、『入場の時にトップロープに立たなくてはならない』ってことまで契約書に入っていたらしいんですよ。全日本プロレスと原作者が交わした契約なんでしょうね」

 

 原作の漫画でタイガーマスクは、コーナーではなく鉄柱の上に飛び乗っていた。これはさすがに無理なので、梶原一騎も妥協したのであろう。

 

P409)

「ルチャドールが使う蹴りと、佐山の蹴りはまるっきり違うから、怖かったです。

 佐山との試合で一番怖かったのは、ロープに飛ばされて戻ってきたところに、バックスピン・キックを食らったとき。モロに顎に入るんですよ。試合後には血痰が大きな塊で出ました。病院に行くと、声帯が壊れる一歩手前だったと医者から言われました。胸骨が折れたこともあった。胸骨って結構頑丈なんですけどね(笑)」(小林邦昭)

 

 同様にハードな攻撃で対戦相手を怪我させても、前田については「プロレスラーとしては最悪」(P108)、佐山については「空前絶後の天才プロレスラー」(P154)と評する。絵に描いたようなダブル・スタンダードである。

 

 

 

メニューページ「柳澤健「1984年のUWF」について」へ戻る