柳澤健「1984年のUWF」について(追記4)

 

 

※このウェブ・サイト「柳澤健「1984年のUWF」について」内の他の各ページに、2017年7月30日に追記をしました。その追記分だけをまとめたのがこのページで、同時にアップします。7月30日以降にこのウェブ・サイトを初めてご覧になった方は、このページを読む必要はありません。

 

第5章  無限大記念日

P165〜166)

 UWFの最高顧問に就任したカール・ゴッチも来日して、全10戦のシリーズすべてに同行。若手をトレーニングして、リング上で挨拶した。

 それでも、「ビクトリー・ウイークス」の観客動員は決して好調とはいえなかった。

 8月29日の高崎市中央体育館、30日の岡谷市民会館、31日の古河市体育館の観客動員はいずれも振るわず、9月2日の戸倉町綜合体育館の観客席はさらに閑散としていた。

 その夜、戸倉温泉の旅館で小さな事件が起こった。巡業に同行していた更級四郎の部屋に、突然カール・ゴッチが現れたのだ。

「相変わらず絵を描いているの?」

 更級はゴッチの似顔絵を週プロに描いたことがあり、ゴッチはそれを覚えていたのだ。

 ゴッチは何かを言いたそうだったが、通訳が不在でうまく伝わらない。

 ゴッチが去ってしばらくすると、高田伸彦が「更級さん、ゴッチさんが一緒に風呂に入ろうと言っています」と呼びにきた。

 『週刊プロレス』のカメラマンが前田と高田が師匠ゴッチの背中を流している写真を撮り終えると、前田と高田とカメラマンは風呂を出た。

 残ったのはゴッチと更級、そして通訳の3人だけだった。

 ゴッチは更級の目をまっすぐに見て、深刻な顔で言った。

「このままでは、UWFがつぶれるのは時間の問題だ。サヤマをエースにしないといけない」

 

「週刊プロレス」1984年9月25日号、No.60

意外 無類の話し好き神様ゴッチ 逃げ回るUWFの弟子たち

(前略)

 ジョークを連発するユーモアたっぷりの性格で、なにしろ一度ゴッチにつかまると3時間ははなさない。そのため佐山、前田、藤原らは、なるべくゴッチから理由をつけては逃げようとする。巡業中、ゴッチは外人と行動を共にするので日本人側は会場でしか顔をあわせない。

 ところが、9月3日、この日は外人が長野県上田市、日本人が戸倉町でそれぞれ試合がなくオフ。のんびりしていた矢先の午前10時半、ゴッチが戸倉町の若の湯旅館にやってきた。

 この若の湯旅館は温泉があり、温泉好きのゴッチがわざわざ上田から足をのばしてきたのだ。驚いたのはゴッチの弟子たち。

 さっそく前田と高田のふたりが玄関に出迎え、温泉に案内、ゴッチの背中を2人がかりで流し始めていった。来日前、足の先を手術したゴッチにとってここの温泉はよほどきくのか、気持ちよさそうに湯につかっていた。(後略)

 

「週刊ファイト」1984年9月18日号

スポット

 ○…九月三日、UWFはオフで選手はのんびりしたものだが外人ホテルに投宿していたゴッチが日本人宿舎の温泉へつかりに来た。風呂を済ませロビーでくつろぐゴッチの姿を見て、昼ごろ目ざめた前田と高田はあわてて「グッド・モーニング・ゴッチさん」と挨拶。ところがゴッチは時計を見て「ノー、グッド・アフタヌーン」。「昨日午前四時ごろまで高田とプロレスについて話してたんですよ。ホント」と前田は必死に弁解をしたが、受け入れられない。結局、風呂へ入ってゴッチの背中を流すことで、ごきげんを取り結ぶことになったという次第。

 

 9月2日の夜、ゴッチが上田に投宿していれば戸倉温泉の更級の部屋を訪れることはあり得ないし、前田と高田がゴッチの背中を流したのは2日の夜ではなく3日の昼。ゴッチがわざわざもう一度風呂に入ったのは、あくまでも前田らとの絵作りのためではないか。更級と話をするため、というのは無理がないか。「週刊プロレス」(10月9日号、No.62)には前田、高田がゴッチと共に湯船に漬かる写真も掲載されており、2人がゴッチの背中を流しただけで風呂場を出たということもない。そもそも、風呂場の撮影には週プロだけでなくファイトもいた。

柳澤の記述を真に受けるわけには行かない。少なくとも相当の脚色、ないし創作が加えられているのではないか。語り手のはずの更級自身も、柳澤の記述を一部否定している。

 

「証言UWF 最後の真実」(宝島社、2017)

 

 長野県の戸倉町総合体育館(84年9月2日)での試合後、旅館の風呂場で更級がゴッチに「サヤマをエースにしないといけない」と言われたという話は語り草となっている。

 

更級 あれも、違うんだよ。独り言みたいにゴッチさんが僕に言うんですよ。「サヤマしか客を呼べないんだよねえ」って。だいたい、なんで「一緒に風呂に入ろう」って言ってくるのかわからないでしょ。そんなところで聞いてりゃ、いくら僕がバカだとしてもわかるじゃない。「フロントに『サヤマをエースにしろ』と言ってくれないか」ということなんだろうと。(後略)

          

 前田日明は「当時、ゴッチさんに通訳をつけたことなんか1回もなかったんだよ?」と語り、このエピソードに疑問を呈している(KAMINOGE」Vol.67、2017年7月6日発行、東邦出版)。

 

10章 分裂

P359)

 1993年9月21日、日本の格闘技界に衝撃的な事件が起こった。

 藤原組を辞めた船木誠勝と鈴木みのるが新団体パンクラスを設立。東京ベイNKホールで行われた旗揚げ戦は、すべてリアルファイトだった。全5試合の合計試合時間はわずか13分5秒。“秒殺”はパンクラスの代名詞となった。

 夢枕獏が夢見た“リアルファイトによるプロレス”は、ごくあっさりと達成されてしまったのだ。

 

https://twitter.com/manji_ex001/status/827532234756235264

万次 @manji_ex001 氏の上記Tweetにあるように、パンクラスやUFC(第1回は1993年11月12日)より先に、リングスが「後楽園実験リーグ」を始めている(第1回は同年2月28日)のだが、柳澤は一切触れていない。

前田は当時、左膝の手術をして欠場中で、10月23日福岡大会、ソテル・ゴチェフ戦での復帰を控えていた。

当時、格闘技通信の編集長だった谷川貞治は、次のように述べている。

 

「格闘技通信」(1993年10月23日号、No.95)

ファンは今回のトーナメントで前田日明だけを見に来るはず。その期待に、前田選手がどれだけ応えるかが、テーマとなるだろう。特に最近の格闘技ファンは、異常に目が肥えてきている。そんな状況下でも「やっぱり前田は強い!」という印象を与えなければならない。(後略)

 

「格闘技通信」(1993年12月8日号、No.98)

復帰戦で前田日明の怒りを見た!

バトル・ディメンション・トーナメント一回戦が、スタート。約9ヵ月ぶりにリングに立った前田は、第一関門であるゴチェフを下すと、もの凄い形相でリングサイドを見渡した。それはまさに“どうだ見たか!”と言わんばかりの顔をしていた。

(中略)

 前田はリングスの方向性を「UWF時代に作った基礎をもとにした最後の進化形で、プロレスとの境界線になる」と語っている。9ヵ月ぶりにリングに帰ってきた前田は、今後等身大の自分の闘いを通して、それを世間にアピールしていかなければならない。

(中略)

この日の前田は、様子を見るとか、技を受ける意志は全く見られず、最初から最後まで攻め続けた。

変な余裕なんか見せず、今、自分が出来る最大限の範囲で、ゴチェフを仕留めようとしたのだ。

最後はゴチェフのミドルキックをボディで受け止め、ハンがよく見せる軸足払いで倒してからの片逆エビ固めだった。

(中略)

「両国大会までには、(体調を)ベストにもっていきたい。とにかく一戦一戦大切に闘い、1割でも内容の良いものを見せたい。だから悪いところがあったらどんどん書いてほしい。ただし中傷は嫌だけど……」

試合後に前田が見せた怒りは、ゴチェフに対してのものではない。前田は試合中ずっとゴチェフを見ながら、ゴチェフを見ていなかった。ほとばしる気合いや怒りは、自分に対する、あるいはリングスに対する評価に対してのものに違いない。

試合が終わったリング上で、ほんの一瞬だけ、その怒りの目をした前田と目が合った――。(谷川)

 

「ゴング格闘技」(イースト・プレス、2017年6月号、No.300)

 「(前略)安西さんは、プロレスファンなのに何から何までガチンコ野郎だった(笑)。で、いつの間にか格通の誌面でリングスに対してもの凄い批判をしてるんですよ。『リングスは真剣勝負じゃない』みたいなことまで書いたのかなあ?

 僕、多分、最後の解説だと思うけど、前田さんにリング上から怒鳴られたんですよ。ブルガリアかなんかの選手と試合して、勝って、解説席に座ってる僕を睨みつけて『見たか、この野郎!』って。自分は真剣勝負でやったぞ、ということが言いたかったんだと思うんだけど、『怒ってるのは俺のせいだよなぁ』と思いながら、その日は挨拶もせずに帰ったんだけどね(苦笑)。安西さんは前田さんに詰め寄られて、色々と言われたみたいですね。(後略)」

 

 

 

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