1917.4.17 三宅太郎 対 ジム・ロンドス

 

 

Stanford University

HOOVER INSTITUTION LIBRARY&ARCHIVES

邦字新聞デジタル・コレクション

Hoji Shinbun Digital Collection

Japanese Diaspora Initiative

https://hojishinbun.hoover.org/

 

Nippu Jiji / 日布時事 [The Nippu Jiji], (Honolulu, HI)

Shin Sekai / 新世界 [The New World], (San Francisco, CA)

Nichibei Shinbun / 日米新聞 [The Japanese-American News], (San Francisco, CA)

 

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1917.03.07 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19170307-01.1.5&e=------191-en-10-tnj-1-----------

 

◎誰も知らぬ間に帰米せり

    例の柔道家三宅太郎は

    目下桑港に滞在中なり

例の柔道家三宅太郎は今尚當市に滞在中なりと思ひの外何時の間にやら桑港に帰りて目下同地に在る事今朝同地より到着せし左記の新聞記事に依りて判明せり

太平洋沿岸に於ける相撲チヤンピヨンと稱して眼中更に人無かりしアド、サンテルは二十二日夜世界のチヤンピヨンと稱するステツカーと三番勝負の試合を行へるが試合の結果は脆くもサンテルの敗北に帰せり、之より先き此の勝負の未だ初まらざる時日本人柔道家三宅太郎氏は興行主シユラー氏に導かれてリングに登り此の試合の勝者に向つて試合を申込む旨宣言せしめたるがステツカーが此の挑戰に應ずるや否やは未定也

聞く所に依れば三宅太郎は馬哇嶋(まういとう)ラハイナの興行に於てヤング、サンテルに敗られて帰府せし後當地に滞在する事僅か兩三日にて直ちに帰米せしものの由

 

 

 三宅は試合に負けたためハワイから逃げて行ったかのような書き振りですが、ステッカーの世界戦に合わせての米大陸帰還だったのではないでしょうか。「日布時事」紙とは折り合いが悪くなっていたようで、この記事では敬称もつけられず呼び捨てにされています。

 さて、三宅がヤング・サンテルに敗けた話は、本当なのでしょうか。

 

 

 

The Maui news. (Wailuku, Maui, H.I.) February 02, 1917, Page 5

https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn82014689/1917-02-02/ed-1/seq-5/

 

Japanese and Swede

Will Wrestle For Stake

日本人とスウェーデン人は賞金を賭けてレスリングしよう

 

 A good deal of interest centers around the wrestling match which is billed for tomorrow evening at the Valley Isle theater between Young Santell, a Swede, and Tarro Miyake, a Japanese jiu-jitsu exponent of Hilo. The mach in Wailuku is to be a catch- as catch- can affair, or American style of wrestling. Santell arrived on Maui by the Mauna Kea on Wednesday night.

 

 多大なる関心が集まっているのは明晩谷ヶ島劇場にてヤング・サンテル、スウェーデン人と、三宅太郎、ヒロの日本人柔術専門家との間でと発表されているレスリング試合である。ワイルクに於けるその試合は掴める様に掴め流、つまり米国式レスリングとなる。サンテルはマウナ・ケア号によって水曜日の夜マウイに到着した。

 

 Some time ago Young Sanlell lost out to Miyake at Hilo in a jiu-jitsu bout. A catch-as-catch-can match was arranged between the men for two weeks ago, but the weather prevented it coming off. In the coming match Young Santell has agreed to throw his opponent in forty minutes or forfeit one hundred dollars. He began training last Saturday for the match, at the Healani boat house, and says he is now in fine fettle for his encounter with the Hilo Japanese champion.

 

 かつてヤング・サンテルはヒロでの柔術勝負に於いて三宅に敗れ去った。掴める様に掴め式試合が両者の間で二週間前に準備されたが、天気がその実現を阻んだ。来たるべき試合に於いてヤング・サンテルは彼の敵を四十分内に倒すかさもなくば百ドルを失う事に同意している。彼が先週の土曜日試合に向けて練習を開始したのは、ヘアラニの船小屋に於いてであり、曰く彼は今ヒロの日本人王者との対戦に向けて素晴らしい状態にあると。

 

 Young Santell was born in Stockholm, Sweden, on April 6, 1893, and weights now 165 pounds. Miyake claims to weigh the same, but looks easily ten or fifteen pounds heavier than his adversary.

 

 ヤング・サンテルは、スウェーデンの、ストックホルムにて1893年4月6日に生まれ、そして体重は現在165ポンドである。三宅は同体重と主張するが、優に十ないし十五ポンドは彼の敵よりも重い様に見える。

 

 

 

The Maui news. (Wailuku, Maui, H.I.) February 09, 1917, Page 8

https://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn82014689/1917-02-09/ed-1/seq-8/

(右から3列目中程)

 

 Because of lack of interest and promise of poor door receipts, the wrestling match between Young Santell, the Swede, and Taro Miyake, the Jap, did not come off in Wailuku last Saturday night. The wrestlers returned to Honolulu Monday night.

 

 関心の欠乏と入場料収入の不足の見通しの為、スウェーデン人の、ヤング・サンテルと、日本人の、三宅との間のレスリング試合は、ワイルクに於いて先週の土曜の夜に実現しなかった。両レスラーは月曜の夜ホノルルに帰還した。

 

 

 三宅がヤング・サンテルに敗れた試合を報じた記事は、結局のところ見つかりません。ラハイナはワイルクと同じマウイ島にある町ですが、ワイルクでの試合が中止になった後、両者はオアフ島のホノルルに戻っています。

 しかし、ヤング・サンテル自身がそう語っていたことは事実のようです。

 

 

日布時事 Nippu Jiji, 1917.03.03 Page 5

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnj19170303-01.1.5&e=------191-en-10-tnj-1-----------

 

◎サンテル對江戸櫻の試合

    來る十七日スケーチング、リングに於て興行

何時か馬哇嶋(まういとう)ラハイナに於ける興行にて例の柔道家三宅太郎と西洋相撲を行ひ三宅をして遂に甲を脱かしむるに至りたりと傲語しつつある白人相撲チヤンピヨン、サンテル君は今尚ほ當市に滞在中なるが今回或る人の紹介にて江戸櫻と試合を行ふ事となりし由にて昨日サンテル君は本社に來訪して語る「昨日江戸櫻君に會つて一切打合せを定めて來たが成る程東京本場所の力士丈けに耻(はづ)かしからぬ体格を有して居る、勿論柔道と相撲とを同日に論ずる譯には行かぬが只打ち見たる所江戸櫻君の方が例の三宅よりも強そうに思はれる……アノ三宅か、アノ男なら最早當方から御免を蒙りたい…江戸櫻君と僕との試合は來る十七日(土)フオート街のスケーチング、リングで行ふ筈です」云々

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.02.14 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170214-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-11-----------

(右下の方)

 

●三宅太郎帰桑 布哇(はわい)にありし柔道家三宅太郎氏は昨日の汽船マツソニヤ號にて帰桑したり

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.02.20 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170220-01.1.2&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-61-----------

 

●三宅太郎闘はん

    ▼對手は中々剛の者也

柔道家三宅太郎氏は布哇より帰り來り目下當地南部ホテルにあるが同氏に對し當地のレツスラーとしてサンテルさへ一籌(ちう)を輸する體量二百十パウンドあり米國西北部のチヤンピオンなるデビスコートは試合を申し込みたるが同人より何等の返答なしとの事にて本社に來り一應問ひ訊し呉るる様依頼する所ありしが右に關し三宅の支配人なる伯佐(さへき)氏は曰く

▲返答せざりし は三宅氏が旅行中なりしに依るものにして三宅氏は何人とも喜んで試合をなすべく來月の始めならば都合宜しくと明言する所ありたり、デビスコートはサンテルが大試合を爲す時に常に其對手として稽古し又試合に於ても引き分けと爲りたる事あれば若し此勝負が實現せば面白き見物(みもの)なるべし

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.02.21 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170221-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-51-----------

 

●勝つた人に挑戰

 三宅の大勇氣

    =ステカ―でも誰でも

明夜エキスポジヨソン、オーデトリアムで米國ヘビー、ウエイト、レツスラーのチヤンピオンたるジヨー、ステカーとアド、サンテルとの大試合があるのでスポート社會では今大騒ぎであるが之に就て日本人柔道家三宅太郎氏は昨日記者に語つて言ふ事に此試合の勝者に向つて自分は挑戰する事に決心し當夜リングに登つて申込む積りであるサンテルだらうがステカーだらうが自分は毫も恐れはせない勝負は時の運と言ふ事もあるから或は負けるかも知れぬがウオールド、チヤンピオンと言ふ人間を對手に一つ組打ちして見やうと思ふのだ自分はサンテルと引分けを取つて居るのだから對手にせないと見縊(みくび)る譯にも行くまいデビスコートが自分に試合を申込んだ事は事實だが自分はデビスコートよりもサンテルかステーカーとチヤーレンヂする積りだから承諾せなんだのだが彼が是非とも遣りたいと言ふのならやつてやる聞けばサンノゼで試合をしたいと言つて居るさうだが何處でも宜しい三宅太郎の腕はどの位ひあるか口で彼是言ふより先づツライする方が善からうと思ふと大分元氣旺盛に見受けられた

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.02.26 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170226-01.1.2&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-41-----------

 

●煙の様な人氣

   ▼サンテルを云ふ者無し

日の出の勢のサンテルが無造作にステツカーの爲めに敗けて仕舞つた、今まで桑港の寵児であつたサンテルは氣の毒に今や何人も彼の名を云ふ者はない、或英字紙の如きは「サンテルはフエリーからマーケツト街迄はチヤンピオンだ、田舎相撲は遂に田舎角力さ」などと悪口を云つてゐる、サンテルも此人氣の急變には頗る癪に障はらざるを得ない「桑港が若し自分を不用だとなれば何處へでも行く」と云つた口調を洩らして居る、其處で余りな悪罵を氣の毒に思つた英字紙は「サンテルの重量であれだけ強い者は無い」とか「外の人々より能く闘つた」などと慰めて居る、三宅などもサンテルとやるやらぬは別として「敗けた人と試合ふのも精が無いからネ」と今度は上手に出て居る、別にサンテルの技量に變化が來たのではないのに、さても人氣は煙の様なものであると某運動家は語る

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.02.26 Page 6

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170226-01.1.6&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-41-----------

 

サノンゼ (廿五日)

 

●三宅氏の依頼 來月二日當市ガーデン・セアターに於てノースウエストのレスリング・チヤンピオンたるデビスコート氏と試合を爲す柔道家三宅太郎氏の支配人佐伯より當日は在留同胞諸君の後援を乞ふ旨當市知友の許まで依頼し來りたりと云ふ

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.03.01 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170301-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-51-----------

 

●ステカー再戰

 兄もサンテル

 ――更に試合をなさん

過般オーデトリアムにてサンテルを物の見事に破つたチヤンピオンステカーは三月廿日頃更に桑港で一と腕見せんとして居るとの事だが敵手が無いのに閉口して居るとの事だ之に就てプロモーター、シユラー氏は善い敵もがなと探して頻に東部に電報をうつて見たがジヨン、オリンもアール、カジツクも他に試合が極まつて居つて來られぬとの事で此外にはオーデマンが強いが是も差支があるらしい而してシユラーは何人(なにびと)か適當の人を得ると言つて居る是と同時にシユラーが語る所によるとサンテルとステツカーの兄と大抵試合する事になるだらうとの話だステカーの兄と言ふ人はアントン、ステカーと言つてチヤンピオンよりは早く名を賣つた人で弟を今でも仕込んで居る位だから仲々に強い躯は百七十斤迄は無いがチヤンピオンと同じくシザーの名人であるとの事だ尚又羅府の英字新聞には三宅とステカーとで試合の契約をしたと報じてあるさうだが夫(それ)は事實でないらしい

 

 

 ステッカー戦は実現せず、三宅は挑戦して来たデビスコート(※)と闘います。

 

※この頃の英字紙に、カナダ人の「Nick Daviscourt」がサンテルと闘った記事があり、この人物と思われます。

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.03.04 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170304-01.1.7&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-1-----------

 

サンノゼ

 ●三宅太郎氏勝つ

既報の如く去る二日午後八時より三宅太郎對デビスコートの仕合ありしが其れより先自轉車の二哩競争(之れは電氣仕掛けか何かの金属製の滑車の上に自轉車を乗せ踏むの装置なり)一回並に一人にて一哩二回レスリング大小三回等ありて本物の仕合なりしが第一回廿分間と第二回二十分間の二回は勝負なし第三回目は二分間位にして首締にて三宅の勝に帰したり腕力の勝れたるデビンコートは何時も攻勢に出で毎回の素人観は頗る優勢なるかに見えたるも休憩時の模様にてはデビスコートの疲労甚だしきを認め三宅は何等疲労の様子なく取組中と雖も餘裕綽々たるものありし雖然三宅より掛けたる三回の腕締は三回共失敗したるより見てもデビスコートの凡物ならざるを知るべし同時にデビスコートの懸命の努力を以て三宅の喉を締めたる八九回なりしも何時も失敗に帰し時折り帰らんとする事あるも三宅の外しに逢ふときは脆くも外れ他に施すべき術なかりしが如し兎に角観客一同を満足せしめたよき勝負なりと云ふべきか因に入場者は千二三百名にして白人七分日人三分位の割なりし

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.04 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170304-01.1.7&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1--img---------

 

サノンゼ (三日)

  ●三宅氏勝つ

豫報の三宅太郎氏對デビスコート氏の柔術レツスリングの大試合は昨夜カーデンセアターに於て行はれたり七時半頃より日白人の観客犇々(ひしひし)詰め掛け八時には既に滿場立錐の餘地なく入場者約千三百名と註せられたりやがて八時十五分となるや當夜餘興たる自轉車二哩競争次ぎに白人のレツスリング數番ありたる後九時ニ十分滿場の拍手に迎へられて二勇士出場サンテル氏審判役となりて兩氏を観客に紹介し試合は一本勝負にて一時間とし各二十分に五分の休憩と宣するや振鈴一聲と共に兩勇士は握手を交換して愈第一回戰は開始せられ三宅氏は巴投にて敵手を投付くること數回ありたるも勝負なく五分休憩の後第二回戰に入り龍攘虎搏の壮観に滿場を熱狂せしめ此間三宅氏はデ氏の左逆手を取りたるも外れ遂に第二回戰も勝負なく第三回戰に入りたるにデビスコートは頗る振はざるに反し三宅氏は大に活氣を帯び來り僅々一分間にして首締にて敵手を降伏せしめ遂に三宅氏の勝利に帰したり本試合はデビスコートの最初より全力を注ぎたるも三宅氏は始終餘裕綽々として観え常にデビスコートを飜弄(ほんろう)し居たるが如き態度なりし故三回戦迄は邦人観客をして八百長にあらずやと思はしめし程なりき猶ほ白人観客は何れも三宅氏の足業をヒユマンエレベターと賞讃し二百十斤のデ氏を兩足にて跳ね上げる毎に白人の中にはゴー、アツプ、ストツプ、サードフロアーなどと彌次つく者もありたる程にてデ氏は勝負後観客一同に對し柔術とレスリングは其術根本に於て相違し居るを以て如何ともなし難けれど自分はレスリングならば再び三宅氏と戦はんと挑戰したり

 

 

3月2日サンノゼでの柔術試合、三宅は首締めでデビスコートに勝ち。1、2回戦は20分時間切れでしたが、3回戦で勝負がつきました。

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.09 Page 6

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170309-01.1.6&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1-----------

 

サノンゼ (八日)

●デビスコート氏の挑戰 過日當市に於て三宅太郎氏と柔道對レスリングの試合をなし遂に三宅氏に敗られたるデビスコート氏は昨日支社を訪問して自分はレスリングにて再び三宅氏と試合を爲したし條件は一時間に三宅氏を二回敗る事にて若し能はざる時は三宅氏に入場料の七割五分を提供すべしと挑戰し居れるが果して三宅氏が承諾するや否や不明なり

 

●明晩の試合 明九日金曜日午後八時よりガーデンセエーターに於て過日三宅氏と試合をなしたるデビスコート對伊太利人トラマツシのレスリングの試合ある由なるが今回は純然たるレスリング同志の試合なれば定めし興味多からんと

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.03.11 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170311-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-11-----------

 

 ●高橋柔道の三宅評

講道館二段の高橋柔道は三宅太郎氏とデヒスコートの試合を見て批評して曰くデビスコートは米國に於て名のあるレツスラーなり或程(なるほど)サンテルには負けたれど侮る可からざる選手なるに三宅氏が之を破りたるは柔道の爲に氣煙をあげたる者なり自分の見る處によれば三宅氏は場なれたるだけにリングに登つて更に敵を恐れず優々たる處に長所あり柔道の伎倆として余は彼是同氏を評するを避けんとする者なるが同氏の長所は寝業なる如く見ゆサンノゼの試合に於て同氏が巴返しにて數回デビスコートを擲げ先づ其度胆(どぎも)をぬきたる處なぞは全く巧者のものなりステカーと假りに試合するとせば果して如何なる手を用ゐんとするか或は案外容易に勝ち得るやも知れず云々

 ●ステカーの大試合

過般サンテルを子供扱ひにして打負かしたるレスリング世界チャンピオンステカーは今夜羅府のバーノン、ホールに於てミネソダの人と呼ばるるヘンリー、オーデマンと大試合をなす由尚亦羅府に於けるロマーフとデメトラルの一昨々夜の試合は引分けなりと

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.11 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170311-01.1.7&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-11-----------

 

サノンゼ (十日)

 

●デビスコート勝つ 昨夜ガーデンセアターにてデビスコート對伊太利人ツラマツシユの試合あり第一回戰は伊太利流のレツスリングにて二十七分にて伊太利人の勝となり二回戰よりは亞米利加流のレツスリング即ちキヤツチ・アズ・キヤツチ・キヤンにて十七分にてデビスコートは敵手の右逆手を採つて降伏せしめ三回戰は又もデビスコート敵の右足を採り僅々四分間にて勝を制したり猶ほ昨夜試合に先だちツラマツシは三宅太郎氏と如何なる流儀にても試合を爲し必らず三宅を負かすべしと観客一同に發表したり因に右伊太利人は年齢二十五歳、體量二百十斤、力量は實に驚くべきものにて同人の兩腕に縄を懸け双方より各十七人にて引くも其腕を延ばし得ずと云ふ

 

 

 伊太利流」は、グレコローマン・スタイルでしょうか。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.03.13 Page 8

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170313-01.1.8&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-31-----------

 

サンノゼ

 

●三宅對デビスコート再仕合 先日三宅氏と勝負して敗をとつたるデビスコートは如何にも残念で まらず純然たるレスリングにて勝負せんと三宅氏へ申込み來る十六日ガーデン、セアターに於て左の如き條件にて再度の仕合ある由

 デビスコートは一時間内に三宅氏を二回負すべし若し二回負す能はざるときは収入の七割五歩を三宅氏へ與ふべしと

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.13 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170313-01.1.7&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1-----------

 

サンノゼ  十二日)

 

●三宅氏再び戰はん 過日當市に於て三宅氏に敗られたるデビスコート氏は其後三宅氏に對し復讐戰として純然たるキヤツチ・アズ・キヤツチ・キヤンの試合を申込み居たるが愈(いよいよ)交渉纏まりたる故來る十六日(金曜日)午後八時より再びカーデンセアターに於て試合を爲すべしと今回の條件はデビスコート氏はレスリングにて三宅氏を一時間内に二回負かすことなりと

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.16 Page 6

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170316-01.1.6&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1-----------

 

サンノゼ (十五日)

 

●明夜の試合 明十七日(※正しくは16日)午後八時よりガーデン・セアターに於て三宅太郎氏對デビスコート氏の米國流の相撲試合あるは既報の如くなるが三宅氏は世人の知る如く柔道家なれば果してレスリングに於てデ氏を敗り得るや否な疑問なれど三宅氏も亦たレスリングに於ても相當の修養ある由なれば當夜の試合は定めし見物ならん

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.03.18 Page 8

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170318-01.1.8&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-21-----------

 

サンノゼ

●三宅負傷の爲め敗く

先般報導 置きたる如く相方共レスリングの仕合にしてヂビスコートは一時間内に三宅を二回負かす若し二回負かし能はざる時はデビスコートの負けと云ふ條件を三宅氏に申込みたるが去る十六日市内ガーデンセアターに於て其試合ありたり同日午後八時十五分より三四の取組みあり愈々三宅對ヂビスコートの取組みの開始せられたるは九時を過ぐる五六分デビスコートは常に攻勢に出で三宅氏は守勢なるも能く防ぎ五十分を経過したるときデビスコートは三宅氏の胴を締めたる儘上に乗りて強力にて壓へつけたる上にデビスコートの靴の踵(くびす)は三宅氏の肋骨を壓し非常なる痛みと苦しみとを與へたる爲め兩肩はマツトに附かざるも苦しさに堪へずマツトを叩き一回の敗をとりたり十五分間休憩後第二回戰を宣したるも三宅氏の負ひたる傷は氏の再戰を許さず拒絶したり第二回戰は十分間を餘すのみなれば普通なれば何でもなく防禦すべく然して一回敗けは三宅氏の勝ちと云ふ譯なれば今回も勝つ筈なりしも二回戰をなす能はざるの負傷をなしたるは返す返すも残念なりし入場者は前回に劣らず千四五百名なりしなるべし

 

 

3月16日サンノゼでのレスリング試合は、デビスコートが一時間以内に三宅を二度倒さなければ負けになるハンディキャップ・マッチ。三宅はデビスコートの胴締めに肋骨を痛めて1本目は降参、2本目も棄権となりました。

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.03.18 Page 7

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170318-01.1.7&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1-----------

 

サンノゼ (十七日)

 ●昨夜の試合

過日柔道にて三宅太郎氏に敗られたるデビスコート氏は其の復讐戰として三宅氏に純然たる亞米利加流のレスリングを申込み然かも三宅氏を一時間に二回負かすと云ふ條件にて昨夜ガーデン・セエーターにて兩氏の試合ありたるが之より前(さ)き三宅氏は柔道家なればレスリングの試合に於ては到底斯界の剛者デビスコートには敵すまじとは一般の批評なりしに昨夜の試合に於て三宅氏は亦たレスリング家としても驚くべき手腕を發揮したり九時十五分兩勇士マツトに現はれサンテル氏審判役となり愈々開戰十分ニ十分三十分四十分経過するも勝敗決せず五十分に達したる時デビスコートは三宅氏に胴締を掛けしに此時デ氏の靴の踵(かかと)は三宅氏の左横腹にしたたか當りたる故三宅氏は之を外さんとて肱にてマツトを打たるを審判者は三宅氏降復(こうふく)したるものと誤認し茲に勝負ありとて勝をデ氏に與へ十分休憩残り十分間の試合となりたるも三宅氏横腹の痛み甚だしきを以て遂に勝負を決するに至らず中止となりたるが昨夜の試合振りによればデ氏は一時間に三宅氏を二回負かすは愚か到底一回すらも負かし得まじとは日白人観客一般の批評にてデ氏も試合後自分は三宅氏の如き強敵と未だ曾て相會したることなしと三宅氏の手腕を賞讃し居たる程なれば以て如來(いか)に三宅氏が能く奮闘力闘したるかを察するに足らん

 

 

 「日米新聞」は三宅寄りの書き振りで、試合は三宅の敗戦ではなく「中止」とし、一本目のタップも降参の意図ではなかったと三宅の主張を載せています。しかしレスリング試合で三宅の分が悪かったのは確かなようです。審判の「サンテル氏」は、アド・サンテルでしょうか?

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.04.02 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170402-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-11-----------

 

 ●三宅太郎氏戰はん

    ▼當地にて米人選手と

當地に滞在中の柔道家三宅太郎氏は來る四月十七日オマハのロンドスなる選手と當地にて試合を爲す筈にして目下オマハに在るロンドスは月曜日に同地を出發し當地に向ふ筈なり尚同試合の興行主はシユラー氏なり尚嘗てステツカーと引分けを取りたるオリンも七月には多分當地に來たりステツカーと雌雄を決する筈なり

 

 

 後に「黄金のギリシャ人」と呼ばれてスーパー・スターとなるジム・ロンドス(ただしこの時のリングネームはクリス・ロンドス)と、三宅太郎のこれが初戦のようです(2人はその後も闘っています)。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.04.11 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170411-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-61-----------

 

●三宅對ロンダフ試合

   ▼來る十七日當地に於て

來る十七日の夜ドリームランド、リンクに於て三宅太郎氏對ロンダスのキヤチアス、キヤチキヤン試合ある由にて此試合の勝者に對してサンテルが試合を申込む事となり居れる由亦カドツクと稱する力士サンテルと試合する筈となり居りしも別項記載の如く同人は一昨夜オマハに於てステカーを破りたるを以てサンテルの試合は段違ひとして破約せらるべし

 

●世界の大選手

  ステツカー破らる

   ……強敵はゴツチの弟子

レスリング世界のチヤンピオンとして桑港に來り當時日の出の勢ひなりしアド、サンテルを子供の如く扱ひて打負かしたるジヨー、ステカーは一昨夜オハマに於てアール、カドツクに負かされたり同夜の試合は最初の一回は一時廿四分にてカドツクを負かしたるが此負かし方は甚だ面白からずとて見物人に非難ありたりカドツクはロープの外に抛げ出されたりしも其後二回目の試合にはカドツク自由にステカーを扱ひステカーを二度とも抛げたるが第一回目の分はステカーの肩未だ能くマツトルに着かずとて文句出でたる故カドツクは第二回にフル、ネルソンと云ふ手にて見事にステカーを負かし更に第三回試合をなさんとせしもステカー出で來らざりし故審判官はカドツクの勝と宣言せり此カドツクは引退せる世界チヤンピオンのフランク、ガツージが練習し居る力士にて大搏(たいはく)當時飛入勝負をなし片端より抛げ倒したる人なりと

 

 

 1917年4月9日、ステッカーはアル・キャドックに敗れ、三宅の挑戦を受けぬまま世界ヘビー級王座を失いました。

 既に米国も第一次世界大戦に参戦しており、その後両者とも従軍したため、リターン・マッチは1920年まで行われませんでした。

 ステッカーが王座を取り戻したその試合を、次のページでご紹介しています。

 

1920.1.30 キャドック−ステッカー

http://www7a.biglobe.ne.jp/~wwd/PW091120/

 

 「YOU TUBE」の動画はこちらです。

https://www.youtube.com/watch?v=JQl6mmAtkbE

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.04.14 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170414-01.1.2&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-1-----------

 

●三宅對ロンドスと

 相撲界の紛擾

    =サンテルの大元氣

三宅對ロンドスの試合が十七日夜ドリームランド、リンクに擧行せらるるは既に報じたる如くなるが目下レツスリング界に非常なる紛擾にて其理由はステカーとイルスの試合をなさんとしイルスが稽古中にサンテル之を負かし此試合を砕きたる爲一方はサンテルを恨むサンテルは又下らぬ者を連れ來りて桑港スポート社會を馬鹿にする者なりと力み出し之が爲一般観客はレスリングに興味を失ふに至りたりと言ふ事にて今回もロンドスが來桑せるを見てサンテルが稽古中に負かすやうの事は非ずやと一般の噂なりしに昨日ブルチン新聞社にて圖(はか)らずもサンテルとロンドスの支配人等落ち合ひ遂に大論判となりたりとの事なるが之が爲三宅對ロンドスの試合は一層此社會の注目を起したれば意外の大入りを見るならんとの風評なり

 

 

 「イルス」は「(エド・)ルイス」の誤植でしょうか?

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.04.17 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170417-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-11-----------

 

●米國流の試合

    ▽三宅太郎の試合本日

三宅太郎ロンドスのレツスリング試合は今晩午後九時よりドリームランド、リンクにて擧行の筈である従來當地には米國人と日本人の間に柔道試合はあつたが日本人の純米國流レツスリングは今回が始めてで好角者の興味を持て見て居る所だ、三宅氏は語る「柔道でやるならば決して退けを取らぬ自信はありますがレツシリングでは萬時勝手が違ひますから困ります、聞くと先方も中々の剛の者だそうですから」云々と云つてゐた、對手は既報の如く年齢二十二歳、百八十五封度で三宅氏は百七十五封度だ

 

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レスリング大試合

三宅太郎 對

  クリス ロンドス

  (グリーキ チヤンピヨン)

尚右大試合の外にニ三の取組ああり

場所 ドリームランド リンク

時日 四月十七日 火曜 午後九時

入場料 一弗五十仙 一弗、五十仙

ロンドスはリスリングに於て将來世界のチヤンピオンと仰がる年力士なれば本試合は非常なる一般の注意を引きつつあり

 

 

 

日米新聞 Nichibei Shinbun, 1917.04.19 Page 3

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=jan19170419-01.1.3&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-jan-1-----------

 

●物謂(ものいひ)の(つい)た勝負

     ▲兎に角三宅氏の敗

柔道家三宅太郎氏は柔術と米國相撲の試合を望みしも相手を發見せなかつた例のシユラー氏が態々希臘力士ロンダスを紐育より呼びしより止むなく米國相撲式で一昨夜ドリームランド・リングで試合をした實際三宅氏はレスリングに経験の薄い様で始めより唯防禦一方で旗色の惡るい事夥しかつたロンダスは三宅氏の口鼻を手で塞ぎ息止りし故氏は其手を打つた行司のアンドリユー氏は三宅氏の負とした此間二十一分二十九秒其略(そこ)で氏は「敗けし相圖(あいづ)なればマツトを打つ手を打つたのは仕方の無法を示したのだ」と物謂ひを着けた「口鼻共に塞ぐのは違法だ仍て再勝負はせない」と主張したがクラーク氏が宥めて再び上り今度は三分四十八秒で氏の敗となつた柔道の手でなくてレスリングは駄目である「ロンダスは亂暴の仕方故首の痛みのある同人を虐めんとしたが徳義を重じて止めた」と同氏は述べて居た

 

 

4月17日サンフランシスコでのレスリング試合、三宅はロンドスに二本取られてストレート負け。一本目は、三宅の口と鼻を塞ぐロンドスの手を三宅が叩いた所、タップしたと見なされて三宅の負けとされたようです。三宅は誤審を主張するも認められず。ただし二本目も短時間で取られており、三宅がレスリング試合で分が悪かったのは否めない所でしょうか。

 

 

 

新世界 Shin Sekai, 1917.04.19 Page 2

https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=tnw19170419-01.1.2&e=01-02-1917-30-06-1917--en-10-tnw-11-----------

 

●柔術取は

   ▽三宅太郎の米國流角力

試合を観るの記………

「柔術取(やわらと)りは柔術(やわら)」三宅太郎君は一昨夜のレツスリングでは意氣地の無い負け方をした、記者が試合前に控所で逢つて「如何か」と云ふと「否(い)や今度は駄目です、リングに行くのが恥かしい様ですよ、柔道ならば誰とやつても嘗てエキサイトした事が無いが、昨夕は心配で三時間しか眠れませんでした、敗けてもお手柔かに願ひます」と戰かはずして既に

▲落騰(がつか)りして ゐた、午後十時廿分リングに上つた時には流石に落付を見せてゐたが戰は始めから防禦一方、柔道の手でニ三回は花々しく投げるだらうと思つた豫想も悉く外づれた、結局第一回の勝負は既報した如く廿一分廿一秒で敗けた手はヘツドホールドと云ふのでロンドスが三宅の口と鼻とを平手で押へたと云ふので

▲呼吸を止る 事は無法だと云つて物争ひも起つたが勝負の數は既に明白であつた、第二回目は三宅は多少攻撃的に出たが夫れも直ちに喰ひ止められて僅か三分四十八秒で足を吊られ首をマツトに押へられて降服の意を示した、英字新聞などは大分惡口を書いてゐたが公平な批評は三宅は柔道家でレツスラーでは無い、レツスリングの手は全く知らないと云ふにあつた、見物人の内には日本人が約三分の一は居つたらう(一記者)

 

 

 「新世界」は「日米新聞」に比べていささか辛口の書き振りです。

 

 この後、三宅はやはり柔術試合に活路を見出そうとします。

 ステッカー戦以降人気も下がり、忍従の時期を送っていたサンテルとも、その点では思惑が一致したようです。決着がついていなかった二人の再戦が、またもや模索されることになります。

 

 

 

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