2008.4.2 | 桜とどぜう |
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今年の桜は、関東地方では3月21日に開花、更に気象庁は26日満開を知らせた。気象庁の開花予想は良く聴くが満開を知らせる事については、今年初めて気が付いた。これから、5月半ばまで桜前線の移りゆく様が日本の風物詩である。 桜を観ながらご馳走を食べお酒を酌み交わす風習は、日本独特の事と言われています。 古来「桜」は、穀霊が宿る花と信じられ、満開の桜は秋の収穫の豊かさを告げるものと考えられていたようです。桜は農事と深く関わり、桜の花が咲いて、田植えを行ったのです。桜花を合図に、豊作を願い神様にご馳走や御酒を捧げ、それを頂いた。それが、平安時代に貴族たちによって歌会や舞を舞う宴となり、やがて庶民の行事となったようです。 かく言う私も、この時期「花見酒」を春の行事としています。これがないと春が過ぎていかない気がするのです。ここ何年かは、隅田公園の桜を水上バスから仰ぎ観、その余韻を楽しみながら、駒形橋の袂にある「駒形どぜう」という老舗の店で「どじょう鍋」と「一の宮」という酒2合程頂いています。桜の花の下で、という事ではありませんが、こういう楽しみかたもあります。 私に「花見酒」が定着したのはどうしてか、考えてみました。その原体験は生まれ故郷にあったようです。私の故郷、新潟県柏崎市の水道水の源が、私の生まれた鯨波という村の山間にあります。通称「水源池(すいげんち)」と呼んでいます。この「水源池」の周りに桜の木が沢山あり、現在でも花見の名所として地元では知られています。雪国の春は遅く桜の花が咲いて農事が始まるのです。桜が満開になると村中が一緒に桜の下に集まり、それぞれ持ち寄ったご馳走を食べ、お酒を酌み交わします。私の家も田畑を持っており、一緒にこの宴(祭り)に加わっておりました。桜花とご馳走とお酒、これは私の中では、一つのくくりなのでしょう。 桜花と「どじょう鍋」の謂われは、「駒形どぜう」が私と妻との共有している場所だからです。妻が「昔、父に連れられて来たことがある」と言うことで、来た思い出があるからです。駒形橋から上流に行くと隅田公園があり、そこは八代将軍徳川吉宗が植えたとされるソメイヨシノが川土手にあり、見事です。更に、船から見上げる桜の景色もまた格別です。このような事から、ここ数年来、この行事を行い、春を過ごす、いや越しているのです。 |
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旅の出会い
目 次
2013.9.23 | スーパーこまち7号の旅 |
秋田行き「スーパーこまち」と新青森行き「はやぶさ」は、東京駅21番線ホームに連結されて発車を待っていた。流線型の機関車の先端部はアヒルの嘴のようにも見える。赤色の「こまち」と青色の「はやぶさ」がお互いに嘴をくっつけ合っているようだ。 8:56分東京駅を発車、一路秋田に向かう。上野で隣の席に子供連れの若い母親が乗車してきた。3,4歳くらいの男の子を連れ、軽く会釈をして子供を膝に乗せ席に着いた。笑みを含んだ挨拶は感じが良い。子供を抱きながらキャリーバッグの突堤を縮めその上に座席テーブルを下した。テーブルがちょうど子供の胸あたりの位置に固定された。秋田の実家に行くという。これから4時間この姿勢は大変だと思う一方、子供の動きが気がかりとなった。しかし、すぐに携帯のCDプレイヤーで子供の要求する映像を流しイヤホンで聞かせる行動をとった。なるほど、これなら静かだと安心するとともにこの母親の知恵に関心した。 大宮を出ると列車は秋晴れの関東平野を北に向かって新幹線らしいスピードで走る。車窓から見える黄金色の稲田が鮮やかである。視界の30%以上は黄金色だ。この実りの輝きは気分を高揚させる同時に懐かしさと、今年の豊作を告げているようで安心する。誠に気持ちが落ち着き、心穏やかにしてくれる。先日の台風(9/16の台風18号)の影響だろうか、稲穂が横倒しになっている田がいくつか見受けられた。福島のあたりから山間部入りトンネルも多くなる。ふと見上げると、電光盤から「TPP交渉官会合jは通関手続きの大半を大筋で合意した」というニュースが流れていた。この黄金色のおいしいお米がづっと生産されることを願う。 盛岡で「スーパーこまち」は「はやぶさ」と切り離され、秋田新幹線の線路を走る。盛岡から秋田は在来線を走る。極端にスピードが落ちた(275㎞から130㎞)。しかし、私はこの方が好きだ。奥羽山脈を貫く線は山や谷の美しい景色を車窓に届けてくれる。これまでの水平線の広がりの景色から、山々の秋田杉が空にむかって伸び、垂直線が主体の景色に変わった。ここで、隣の母子が眠りに入ったのをみて、昼食をとることにした。東京駅で買ったピノノワールを口に含むと、旅の味わいが体に沁みわたる。至福の時である。列車の楽しみはこれでなくちゃと思わず微笑む。 角館を通過したころ、母子は眠りから覚めた。名前はと問うと”リク(陸)”で3歳だという。おにぎりを食べジュースを飲むとにぎやかになってきた。しきりに車窓からの景色に反応するので、私の膝の上に押せると食い入るように外の景色を眺め、川が見えると大きな声で「かわだ」と叫ぶ、静かな車内がにぎやかになる。母親は恐縮しているが、こちらはすることもないので子供の相手を楽しんだ。陸は私をおじさんと呼んだが、年から行くとお爺さんである。子どもの元気な言動は活気をもたらす。これまでにない経験である。秋田新幹線はゆっくりとした旅をもたらしてくれる。 13時過ぎ秋田到着。盛岡・雫石間の徐行で少し遅れたが、楽しい旅であった。 |
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2011.6.22 | 車窓の雨粒 |
上野から日立へ向かうスーパー日立47号に乗り込む。今年初めて本土に上陸した台風は温帯低気圧になったと言うが時折雨が斜めに降りかかる。 電車が動き出すと、夕暮れの車窓は、まるでオタマジャクシが運動会をやっているように見えた。水滴がオタマジャクシのように体を揺らしながら競って窓の右上から右下後方に走り去って行く。大きな窓ガラスに、沢山のオタマジャクシが次から次へとキラキラ光りながら曲がりくねって後方に流れてゆく。ふと、学生の頃、物理実験でウィルソンの霧箱を使って放射線測定をしたことを思い出す。なぜ突然ウィルソンの霧箱が出てきたのか? 向かっている日立の先に福島の原発がある。脳裏には「放射線」という言葉があったのだろう。 電車がスピードを上げるにつれオタマジャクシは、真横に泳ぎ出す。牛久当たりに来ると雨は止み、電車は稲田の中を走る。直線上に整然と植えられた早苗を見るとホットする。日本の原風景だと思う。この風景を見ながら弁当を食べるのも、私の原風景だ。この頃弁当は終わり、上野の売店で求めた茨城の地酒もあと一杯になった。 友部を過ぎた頃、日はすっかり落ち、稲田に点在する屋敷森や家が黒っぽくその存在を示す。遠くに点在する家々の灯りが想像をかき立てる。今は丁度夕食時であろう。親父は、晩酌をやりながら今日の仕事を振り返る。子供たちは賑やかに食べる。母親は、お代わりのご飯をよそう。親父の会話は少ないが、存在感がある。私の子供の頃の風景がかぶさる。 日立駅に近づいてきた頃、また激しい風雨となる。沢山のオタマジャクシが飛び回る。電車がスピードを落とし駅のホームに入るとオタマジャクシが急角度で降下しはじめた。それを見ながらホームに降り立った。 ウィルソンの霧箱 放射線を測定するための最も古い装置で、1912年にイギリスの物理学者C.T.R.ウィルソンによって発明された。 |
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2011.3.1 | 車中の弁当 |
先日、仕事で「スーパーひたち」に乗る機会があった。上野から日立まで、約1時間半の旅である。 指定券に示された予約席に行くと、すでに隣の席に外人の男性が座っていた。年の頃は中年、私より若い。私が会釈すると相手も会釈を返し、席を立って私に道を空けてくれた。更に、私の鞄を網棚に載せるのを手伝ってくれた。私が「ありがとう」と言うと「どういたしまして」と流暢な日本語で答えてくれた。きっと日本に来て長いのだろうと想像する。また、私の勘からドイツ人ではないかとも想像する。 18:00に列車は動き出した。私の楽しみは、車中で景色を見ながら弁当を食べお酒を味わうことである。そろそろ弁当にしようかなと思っていると、外人さんが、サンドイッチと小瓶の赤ワインを出した。私もすかさず駅で買った弁当と日本酒の小瓶を出した。目が合い、お互いに笑った。話をするわけでもない、ただ景色を見ながら弁当を食べお酒を飲む。それだけのことなのだがいい雰囲気だ。車中の弁当は、隣の人が同じように飲食をしていないと、遠慮がちになる。今日は、心置きなく楽しむことが出来た。お隣さんも、列車で弁当を食べるのが楽しみなのかとも思う。 30分程で、2人同じように食事が終わった。丁度通過した駅は石岡だったと思う。外人さんは、PCを出して仕事を始めた。私は、読みかけの文庫本を出して読み始めた。ちらっと見える画面からエンジニアだと判断出来た。とすると、さては私と同様日立市にある同じ企業に向かっているのではと思った。この列車は、上野を出ると次は日立である。案の定駅が近づくと、外人さんは会釈をして席を立った。私もと言いたかったが、間合いが悪く少し時間をおいて席を立った。かなり多くの人が降りたので、その外人さんを見ることは出来なかった。 帰りは、2日後の夕刻、また気兼ねなく弁当とお酒が楽しめる雰囲気になるといいと思いながらホテルに向かった。 |
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2013.6.6 | 竹原の思い出 |
5月の下旬、縁あって広島県竹原市に行くことになった。電車の旅を楽しみにしている私にとって、竹原に行くことは呉線に乗るチャンスであった。品川から東海道新幹線「のぞみ37号」で福山に行き、「こだま」に乗り換え三原駅に着く。呉線は、三原駅から安芸郡海田町の海田市駅に至るJR西日本の全長87㎞の鉄道路線である。地図で見ると瀬戸内の海岸線を走っており、潮風と波の音が私の想像を描き立てる。 三原駅を18:48分発の電車は黄色の車体で3両編成だった。三原からの乗車率は30%程度であり、ほとんどが通勤客と高校生が占めていた。3つ目の忠海(ただのうみ)駅あたりから瀬戸内海を真横に見ながら電車は走る。私の生まれ育った日本海の鯨波から青海川海岸を走っている様な錯覚を覚える。しかし、日本海とは異なる光景を見た。それは、波が沖に向かって流れているのである。日本海では見ることができない光景である。まるで川が流れているように見える。干潮である。瀬戸内海の構造から干満の差は、この辺が一番大きく4mに達するという。竹原駅まで35分の呉線の旅は、潮流という新しい発見をもたらした。 翌朝、竹原の町並みを散策したが市街の街路樹は竹であった。平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えた歴史から「安芸の小京都」と呼ばれ、本川沿いにその町並みが保存されている。製塩業や酒造業で栄えた風格のある屋敷が続く。中でも竹鶴酒造の看板のある酒蔵に出会った時、「竹鶴」というウイスキーが連想された。まさにニッカウヰスキー創業者、竹鶴政孝氏の出身地であった。本川に架かる新港橋を渡り西に徒歩5~6分行くと「たけはら美術館」に着く。そこで二人の偉大な人物に出会った。戦後復興期に「所得倍増計画」を打ち出した元首相池田隼人氏と平山郁夫画伯である。しかも、お二人は旧制忠海中学校の出身である。 この土地で生まれ育った人は、瀬戸の潮流がその生き方に大きな影響を与えているように感じた。潮流は東シナ海を経て海外との繋がっている。その昔、遣唐使により多くの学問や知識が日本にもたらされた。そのゆかりの島、かっての海軍の本拠地としての呉、江田島もある。潮流は海外との懸け橋として人々を鼓舞してきたように思う。また、干満の差に刻々と光景を変える瀬戸内の島々と海は、人々の心に深くその美しさを刻み込んでいるのではないかと感じた。お二人を見るとそう思えるのである。 |
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2010.71 | とこしえに |
沖縄の方角を見据えた若い特攻隊員の像が、鹿児島県南九州市知覧町の「知覧特攻平和会館」の前にある。像には「とこしえに」という碑が添えられている。 昭和20年太平洋戦争の末期、米軍が沖縄諸島に上陸し沖縄決戦開始の3月26日から、沖縄の米軍戦艦撃破を目的に、ここ知覧(他に都の城など)基地から特攻機が飛び立った。6月23日沖縄戦終了まで、1036人の特攻隊員がその命を捧げた戦である。 この平和記念館には、1036人の顔写真と遺品、手紙が保存されている。16歳の若い特攻隊員もいる。私は、彼らが書いた手紙を読んでいくうちに、涙が出てきた。そして、時間を忘れて次から次へと読み進んだ。特攻を志願した彼らの心の内は、分からないが、死を覚悟して書いた手紙から共通して胸を打った言葉を見つけることが出来た。それは、勇敢な言葉ではない。育ててくれたご両親兄弟への感謝の言葉、先立つ親不孝へのお詫び、そして「お母さん、行きます。」の言葉である。「お母さん、行ってきます。」と言えない事情が悲しい。 私は、丁度その時期(5月17日)に新潟県の日本海に面した1寒村で生まれた。その頃、日本の南端でこのような出来事が有ったと言うことに、因縁を感じる。国を思い、家族を思い、特攻を志願させた何かが、日本のこの時期にあった事実を重く受け止めたい。碑の「とこしえに」は、この事実を忘れないための言葉として胸にしまっておきたい。 |
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2013.6.21 | スーパー日立47号の旅 |
18:00上野発特急スーパー日立47号、今年も縁あってこの列車で日立に向かう。弁当とワインを買ってホームに入ると、すでに列車の整備が終わり乗車のアナウンスがながれていた。発車まで15分ほどあったが、早速弁当を開きワインを飲み始めた。今日のワインは“LAPALMA”チリ産の辛口、適度な渋味が食欲を誘う。弁当は“特選おつまみ弁当”とあり、2段重ねで上に“おかず”下にご飯とお漬物がある。上段のおかずは、9つに区分けされ、酒を楽しみながら食べるにはすこぶる具合が良い。 列車が動き出すと、このささやかな宴は本格的な楽しみに入る。居ながらにして車窓の景色の変化と、心地よい振動に身を任せながら味わう酒の味は格別だ。5分ほどすると右手に東京スカイツリーが大きく迫る。どんよりとした梅雨空に展望デッキの周りを青色のネオンがぐるぐる回っているのが見える。18:24分、取手駅を通過した頃から田園風景の中を走る。水田の早苗が風に揺られて涼し気だ。整列した早苗の水に移した影も揺れている。誠に見事な日本の風景である。 18:35分、土浦駅を通過してしばらくすると稲田が少なくなり蓮田が目立つようになる。ここ土浦は蓮根の産地である。まだ花は見られないが、車窓に広がる蓮田にハスの花が咲いたら見事な光景ではないかと思う。友部駅を過ぎるとまた早苗が揺らぐ水田が多くなる。この風景を見ると心落ち着くのはなぜだろう。水田の一角にまるで刈入れ時を忘れた稲田のような光景が目に入る。麦秋である。子供の頃、夏になると母が大麦を焙じて麦茶を作っていたことを思い出す。 19:18分最初の停車駅水戸に着く。うっすらと夕暮れが迫り、帰りを急ぐ人々を乗せた普通列車が通り過ぎる。しばらく走ると、農家を取り囲む林の中に白い“かんざし”のように揺れるものが目に入るようになる。栗の花である。夕暮れの中に白い花をつけた栗林が続く。茨城は栗の名産地でもある。車窓から見える風景は夕暮れに包まれてきた。楽しかった列車の旅も終わりに近づく、ささやかな宴をお開きとする。 |
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2010.2.1 | 水琴窟 |
竹筒に耳を当てると、「ポチャン キーン 、ポチャン キーーン、・・・ 」という音が、規則正しく脳に広がる。ここは、名古屋市にある徳川園の中、庭の高台にある休み所。音は、地中につくられた水琴窟の音です。キーーンと澄んだ音は、とてつもなく広い宇宙に伝わってゆくように聞こえます。 水琴窟は、茶人「小堀遠州」がつくったとされています。その仕組みは、地中に逆さに埋めた瓶が作り出す空洞の中に水が溜まり、そこへ手水鉢の排水が水滴となって落ちて音を発し、その音が地上に聞こえるようにつくられているものです。音色は、空洞の中に溜まる水の量で決まり、その量を一定に保つための排出管が設けられているということです。水滴は、手水鉢の排水を瓶の底(空洞の頂上部)に開けられた穴に導き落とすのです。 それにしても、この澄んだ音の広がりは、これまで経験のしたことの無い音です。地中に宇宙空間を想像した、昔の人の発想に驚きを感じます。 |
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2008.11.16 | おもてなし |
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写真は、高松の栗林公園内にある菊月亭から見た風景である。東門から入り、かなり歩いた後、一服しようとこの数寄屋風の建物に入った。通された部屋からは、白砂利の向こうに南湖が見える。大きな松は五葉松である。 庭に面した、畳廊下に毛氈を敷いてくれた。なんと気の利いた、もてなしであろう。抹茶に、栗の入ったお菓子も喉を潤し、疲れを取ってくれた。しばらく、この景色の中にいた。 |
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