小津安二郎の母親 中条あさゑは、ここ津の出身です。

旧町名”宿屋町”、現”寿町”に母方の実家はありました。
津の中心部にあり、大門町と呼ばれる津一番の繁華街に隣接しています。

兄の新一は中学時代、この母方の実家に下宿し津中学に通っていました。
弟の安二郎は伊勢へ兄は津へ、松阪を挟んで逆方向の学校へ通っていたわけです。

小津さんの松阪在住時代の日記に、母方の実家に行ったと言う記述はありませんが、当たり前ですが小学校時代、中学校時代には何度か足を運んでいるでしょう。

現代の交通事情から行きますと小津さんの自宅から母方の実家まで電車と徒歩で40〜50分位でしょうか?昔の交通事情ではどうか?と考えてみましたが当時は久居から軽便鉄道が津の中心部まで延びており時間的にも今と変わらないか、若しくは逆に早い可能性さえあります。


旧友への手紙より
「・・・・震災前から会わない僕のおばあさんが津の宿屋町に住んでいる 暫く会はない裡におばあさんもめつきり年が寄られた・・・おばあさんののせきが隣から聞こえてくる・・・・・行ってまいります。おばあさんは笑いながら また おいなはれ、僕はなんだか悲しくなった。それから三十分後僕は津から久居に通じる軽便の窓に倚って今度の日曜には又おばあさんの所に行こうと思った。窓の外には、線路の両脇にはすくすくと彼岸草が赤い花を咲かせていた。僕はAwfully Sentimentalになった。軽便は二条の線路の上をゴトゴトと 窓の外の彼岸草を右から左へとたぐりながら おいなはれ 又このつぎ 彼岸草・・・・・・・・」
この手紙は久居の33連隊へ 一回目の召集である昭和2年9月25日の前日に母の実家である津へ一泊した時の事を書き綴っていると思われます。
小津さんの祖母を思う優しさやナイーブな所がよく出ている手紙です。 

6年後再び小津さんは久居33連隊へ軍人として召集されます。

昭和8年9月18日(金)日記より

つばめで津にたつ 色々とお見送りあり

五時少しまわって津は入江町の大観亭に 道中の垢を落として 悪くすると当分はお目にかかれないビールをいただいて 葭戸越しに弱い西日の当たつた苔のある庭を見て味気なく蝉を聞いて 侘しく一人で酔ふ


日記には書かれていませんが、この後小津さんは母方の実家で一泊し、翌日久居の33連隊へ向かったと思われます。

昭和8年9月16日(土)日記より

九時 33 Star Hotelに投宿 十五日あまりの味気ない長の逗留

そして、23日の日記に津の母方の叔母についての記述があります。

昭和8年9月23日(土)日記より

津のおばさんの告別式 宿屋町にありたる由

翌日曜日小津さんは津へ告別式に向かいます。

昭和8年9月24日(日)日記より

昼から外出 宿屋町に行つて仏様をおがんで 天然寺のお墓に行つた おばさんもとうとうなくなつた 南医院の三階の暑い病室をなんだかとほい昔の様に一寸思ひ出す

次に日記に登場するのは翌年、昭和9年父親の分骨の際に松阪へ寄った時の記述です。

昭和9年5月22日(火)日記より

たんぽぽま穂が風にのつて汽車の中に入つてくる 伊勢路の長閑さ 燕にて伊勢へ向ふ松阪の古宅離れにて泊 青葉どきで雨催ひで蛙の声しきり 南風のピッツビールを想ひ出す
昭和9年5月23日(水)日記より

養泉寺にて法事 松阪泊

昭和9年5月24日(木)

津に行く 天然寺参詣 母の知人をまわる間 信三と聴湖館にて昼寝す 松阪泊