@ | A |
---|---|
B | C |
D | E |
・ 大正7年4月28日(日)・・・・日記より 「朝食をすませて草鞍をはいて弁当を携へて 稲田 池部 木下、海住と 朝熊山登山の旅路につく 漸く豆腐屋につき弁当を開く。 学校も良く見へた。 中山先生共に行った。 槌賀先生は小学校の先生を同伴でがんがんを下げて行った。 奥の院へ行った。 中山先生よりミルクキャラメルを賜はって 帰りは急の道なり学生もゐた。」 ・昭和8年 10月13日(火)・・・・・小津安二郎 全日記より 朝熊山→内宮→とうふや 参急で京都に立つ この日大久保泊 いつは自分の足で登りたかった山、浅熊山です。 今回、初めて挑戦しました、標高555メートル。 小津さんは、何度この山を訪れたのでしょうか、松阪の堀坂山、宮前村の局ケ岳とともに伊勢の山々の中で 忘れられない山ではなかったでしょうか。 この山は、大正14年から昭和19年まで、ケーブルカーが運行しており、昭和8年の小津さん日記に出てくる 浅熊山はおそらくケーブルカーで登ったのでしょう。 ABCが、小津さんの日記に出てくる豆腐屋跡と思われます。 江戸時代に開業したこの山唯一の旅館だったらしいです、最盛期は100畳の大広間もあったらしい。 昭和39年2月18日に火災で店舗を焼失し廃業しました。 Eは、浅熊山経塚群です、明治時代より複数の経塚が台風の倒木により発見されたそうです。 昭和35年の伊勢湾台風で発見された経筒などの出土品は1963年(昭和38年)に国宝に指定されました。 小津さんが登った頃の浅熊の経塚は、まだそれ程有名でもなかったでしょうから、小津さんは、この場所には来てない可能性もありますね。 浅熊山には幾つかの登山道があるのですが、今回鯨江堂は、現在一番一般的な浅熊岳道を登りました。 小津さんは中学校時代どの登山道で登ったのでしょうか、もう一つの有名な宇治岳道でしょうか・・・ |