・音楽について

昔々イギリスに10CCと言う大変な手間とアイディアをかけて、さりげなく凝ったセンス抜群の音を作ると言う粋なバンドがありました。
小津映画を見ていると昔聞いていたブリティッシュ・ロックの原風景が浮かんで来る事がたびたびあります。

それは評論家がカーテンショットと呼ぶシークェンスとシークェンスの間のほんの一瞬の間におこります。
小津独特の煙突や電柱 洗濯物・・・・・さまざまな風景をカーテンショットは捉えます。
優れた音楽表現の背景に風景が透けて見えるように、優れた映像作品とは一瞬音楽を奏でる事が出来るのかもしれません。

ところで、小津映画の音楽と言えば勿論、斉藤 高順が有名ですが、「晩春」「麦秋」の伊藤 宣二も捨てがたい。
逆に一連の黛 敏郎の音楽こそが素晴らしいと言う輩もいて、人の感性と言うものはさまざまの様です。

感性と言えば、他の名画と呼ばれる日本映画の中で小津映画は音楽がいまいちと言った感想を持つ人もいます。
ドナルド・リチーが書いた有名な書「小津安二郎の美学」の中から抜粋します。

「音響効果のように、小津作品の背景音楽は規定された一定の方法で使われている。
   この音楽の質は、たしかに西欧人にとって耳障りのものである。それはいつもお定まりの、味わいのない、甘ったるいもので
   私たちには古臭いサロン音楽とオルガン演奏の賛美歌のひどい組み合わせのように聞こえるそれは日本人にも聞こえる
   のだが、日本人には、期待にそった満足と安定した情緒を与えるのである。」

「東京物語の希望のない結末で、心のこもっていない甘ったるい音楽の幕がゆるやかに場面を覆っていくという皮肉さは”異化効果”だと言うこともできるだろう」 



「小津はそれがどんな音楽であるか、あるいは良い音楽なのかどうなのか、ということをあまり気にしなかったのである。
   小津にとっての音楽とは、基準寸法で作られる自分の作品の、もう一つの単位にすぎなかった。そして、その使い方は一定不変である」


 
最後の結論には納得が行くのですが、小津映画の音楽は安っぽいだけなんでしょうか?

確かに、邦画で素晴らしいと言い切れる映画音楽は数少ないように思えます。
ぱっと浮かぶのは黒澤映画の早坂文雄・・・・後は?・・・・・。
洋楽を聞いて育った管理人には、邦画の音楽と言うものが洋画に較べると問題にならない程貧弱だとは感じています。
でも、その例外の一つが小津の一連の映画音楽だと思っているのですが・・。


小津映画と言えば斉藤高順(DVD.BOX小津の風景より)



小津映画の物語のほとんどが日本間で語られます。
そして、そこにはいかにも小津らしい節度のあるさまざまな音が聞こえきます。

それは、ピアノの音だったりオルゴールの音だったり、はたまた小学校唱歌だったり 盆踊りの笛や太鼓だったりします。
はっきりと隣近所あたりから聞こえて来る様で、ただの挿入曲・効果音の様で実に摩訶不思議な空間を作り出します。
それは、とても長閑でどことなく哀愁もあり、そこでの時間の流れは余りに優しい。

このゆったりとした空間が小津映画の音楽的側面から見た特長であると思います。 
特に晩年の作品にそれは顕著で、この空間に浸りたいが為に管理人はDVDをデッキに放り込む事が良くあります。

また、小津さんは凡庸な映画監督がよくやる、悲しい場面だからと言ってとびきりセンチメンタルな音楽を流したりはしません。
むしろ逆で、暗い悲しい場面こそ明るく躍動感のある音楽を奏でたりします。

「ぼくは、登場人物の感情や役者の表現を助けるための音楽を、決して希望しないのです。」

「東京暮色」「早春」における斉藤 高順の”サセレシア”の使い方はその典型的な例です。
そこには、小津さんの完璧なまでの計算があり、悲しい場面にこそ明るい音楽を流す事により、見るものをより無常の世界へと導きます。

それは、小津さんの演出の基本でもあります。
「・・・・人間は、悲しい時にだけ泣くんじゃない 嬉しい時にも泣くんじゃないか
また 人間は、嬉しい時ばかりに笑うんじゃない 悲しい時にこそ笑うんだ・・・・・。」

「悲しい時に笑うからこそ より悲しみが伝わるんじゃないのか・・・・・。」