・旧小津宅へ向かう

円覚寺・好好亭を訪問し、次に目指したのは、旧小津邸です。
やはりここは外せないでしょう

正面に見えるのが浄智寺、旧宅へはこの脇道の緩やかな坂道を行きます。


1952年2月11日 全日記 小津安二郎 より
「北鎌倉に売家ある由 森と清水毎日記者 差配津島と家を見にゆく 道わるし 好々亭で昼めしをくひ・・・・・」

当時は道が悪かった様ですが今はご覧の通りです。

大船までこの道を小津は10年間通いました。




蝉がミンミン鳴いている中この通りを歩いていると、向こう側から原が笠が杉村がこちらへ向かって歩いて来るような気がします・・・・・。

まさに「晩春」「麦秋」の世界ですね。
タイトルに斉藤 高順の音楽が流れ、厚田 雄春のカーテンショツトに続き、いつもの物語が始まります。

そこでは、失われた懐かしい日本の家族の日常があり、やがて崩壊へと向かいます。
無常の世界に身をゆだね、互いをいたわり、礼儀正しく 微笑みながら さよならを言う。
そして家族は離れ離れになり、老人が一人残される。・・・・・・・

う〜ん、ついに管理人は妄想の世界へ突入か。

蝉の鳴声が悲しいぜ。

・小津旧宅へのトンネル

今年もやって来ました、終の棲家となった小津旧宅へと続くトンネルです。

ここのトンネルの前に立つと小津さんの死後に発表された色々な日記や追悼文を思い出されますが、中でも佐田 啓二と里見 クのものが管理人は一番印象的です。

父親の様に小津さんを慕い支えた佐田啓二の小津さんの闘病生活を書いた看護日誌が残されています。

1963年10月12日小津さんは闘病生活の末 東京御茶ノ水にある東京医科歯科大学附属病院に再入院します。
その日の佐田の看護日誌です。

「私は、おやじは二度と再び、生きてこの道をもどることはあるまい、と思った。この小さなトンネルも、きょうが最後だろう。私たちはできるだけゆっくりとタンカをかついで行った。」



津さんが亡くなった1963年12月12日の佐田の看護日誌より

「午後8時、柩に入って、おやじさんは鎌倉に帰ってきた。もみじが散り敷く山道を柩をかついでくると、純白のかけ布の上に、おやじさんの好きだった赤い色をしたもみじが、二ひら、三ひら、散りかかった。」


佐田啓二は小津さんが死んだ翌年に確か交通事故で亡くなっています、小津さんが寂しいので連れて行ったとも言われていますが、それ程までに深い情愛に満ちた付き合いだったのでしょう。








作家の里見クは「小津君と鎌倉と私」と言う追悼文を残しています。


「・・・・浄智寺境内なるトンネルを抜けて、可成り急になる坂道は、大酔して帰る君を送ったり、君の家で酔ってしまった私について来たりするたびに腕をからみあい、二人ともひょろけながら、幾度あがったり、おりたりしたか知れない。
君が棺の中の人となって帰って来た晩、私は門前で待ちうけ、棺のあとに従って、あの坂を登った・・・・・・あのでこぼこだらけの坂道に足をはこぶや否や、潸然たる落涙を禁めかねた。」


この後でしょうか、あの原節子が訪れ、小津さんの亡骸の前で号泣したのは・・・・・余りにも有名な話ですが、なんか想像するだけで胸が痛くなります。