ロケ地訪問

・清洲橋 (秋日和)

佐分利 中村 北 のお馴染み三人の馴染みの料亭から程なく見える、夜景にうつる美しいシルエット。

この美しきシルエットの正体 清洲橋は小津さんの旧宅から程無い所にあります。

「秋日和」を初めて見たのはいつだったでしょう、余り記憶にありません。
小津作品を見始めた20代当時の管理人にとって、小津の一連のカラー作品群は、「秋刀魚の味」などいくつかの例外を除けば、非常に印象の薄い、軽いものでした。
いわゆる”紀子三部作” 「晩春」麦秋」「東京物語」などが小津映画の最高作であって、晩年のカラー作品は既出作品のカラーバージョン・リメイクの様な意味合いで、特に見るべき作品では無いと言う思い込みがあった様に思います。

晩年の熟成しきった本作品「秋日和」は興行的にはともかく評論家からは黙殺された作品です。
やれ「社会」が画かれていないの この時代の一片の苦悩や混乱も画かれていないのと、安保闘争など激しく揺れ動いたこの時代に、いつもながらの美しい家族と友情しか画かれないこの作品を反動とまで呼んだと言います。

実は20代当時、管理人もそう思っていました、一連の小津作品の入門書と言うべき書物を読むうちに自然と巷の映画評論家に感化されていったのかもしれません。
しかし、歳を重ねる度に、この何の破綻も無い平和な物語をもつ、本作品がとてつもなく貴重で大切に思えて来ました。

小津さんは常々言っていました「映画のストーリーなんて言うものは、所詮大衆小説にも及ばねぇんだ」

小津さんは最初から映画と言う表現にある種の見切りをつけていたようです、勿論あきらめている分けではないのですが、それが かの黒澤 明との違いと言えるかも知れません。
黒澤と言う人は、映画と言う表現を徹底的に信じきり、それに無限の可能性を見出そうとしていた人です。
しかし小津さんは、あれ程映画の好きだった人でありながら映画を見つめる目はいつも冷めていました。

映画の限界を良く知りつつ映画と言う表現を、その枠の中で極限まで高める事に情熱をかたむけたのです。

若い頃と言うのは、どうしても目先の変った新しい価値観や声高な主張に感動したり目を奪われたりします、管理人もそうでした。
映画だろうが、音楽だろうが、そう言ったものが表現されて無い作品と言うものは価値の無い、語るに値しないものだと考えてしまうのです。

しかし、映画にしろ音楽にしろ作品をいくら理屈で並べたてて表現しても、時代が変ればまた違う理屈も出てくるし、その価値も変って行きます。
そして、大袈裟な表現方法が次第に白々しくも感じられ、二度と見たり聞いたりしたく無いと感じる様になります。
結局その様な作品を後世に見ても、時代に迎合してるだけと言う印象しか残らないでしょう。
主張や理屈だらけの作品は結局時代が変れば色褪せ忘れられていく運命にあるのです。

本作品について小津さんは「一つのドラマを感情で現わすのはやさしい。泣いたり笑ったり、そうすれば悲しい気持ち、うれしい気持ちを観客に伝えることができる。しかし、これでは単に説明であって、いくら感情に訴えても、その人の性格や風格は現せないのではないか。劇的なものを全部取り去り、泣かさないで悲しみの風格を出す。劇的な起状を描かないで、人生を感じさせる。こういう演出を全面的にやってみた」と語っています。

小津さんは理屈を言わずに毎度毎度御馴染みのたわいも無いホームドラマを極限の美しさにまで昇華させる事によって、人生を感じさせようとしたのです。



清洲橋は関東大震災の復興の際にドイツのライン川に架かる世界一美しいと言われるケルンの大吊り橋をモデルに完成されました。
昭和3年(1927年)だそうです。
曲線的で優雅で女性的な橋と言われ、画家などにも愛されているそうですが、優しくて美しいこの作品「秋日和」にぴったりと言えます。

カメラ番こと厚田雄春が夜の清洲橋をそれは美しく捉えます、ところでこの清洲橋の色なんですが45年前は何色だったのでしょう、映画の中では夜景の為よく分かりません。
初めて見る清洲橋の色ははご覧の通り結構ハデでした、女性に例えるなら、結構アイシャドーは濃いかなみたいな(笑) 。
しかし、この女性なかなか体格にも優れていて(当たり前ですが橋ですから・・・・笑)、映画の中のシルエットは細身で繊細な女性のイメージ ですが間近に見る彼女は結構イケイケで目鼻立ちのハッキリした濃いオネェチャンと言ったところでしょうか。
ようは見栄えがイイと・・・・・・・・・ま、遠くからでもすぐ確認出来るベッピンサンである事は間違いないでしょう。(小津好み?)



1960年 10月2日 全日記 小津 安二郎より ロケ記録

「中州の三田の座敷から清洲橋をとる」