・相生橋 (風の中の牝鶏)

小津さんの戦後の映画史を振り返る時、必ずと言っていいほど「長屋紳士録」「風の中の牝鶏」で低調だった小津作品が「晩春」によって立ち直ったと言う評価があります。
そんな評論家先生の話しは兎も角として、小津さんにしては珍しく直接的な表現で荒廃した戦後日本を画いた「風の中の牝鶏」が、一般的には人気の無い映画として認知はされている事は確かでしょう。
興行的にも大失敗のだったとの話しを聞きます。
まぁ、小津映画自体が常に興行的には不成績で、当時の城戸所長からは「まぁ、小津君の写真は芸術だからね」と嫌味を言われ、「小津の写真は評論家の評価が高くてしようが無い、評価より売れる写真を作って欲しいもんだ」と陰口をたたかれていた事実がありますから、この作品が興行的に云々と言っても、そもそも仕方の無い話かもしれませんが・・・・。

戦後まもなくの頃、復員してこない夫を待つ妻を演じる田中 絹代が病に冒された子供の治療費の為、一度きり月島のいかがわしい場所で不義を行います。
その後、復員したその旦那を演じる佐野周二がそれを確かめるべく月島へ向かう時に渡るのがこの橋です。

作品の中では、佐野周二が相生橋の端っこを深川方面から東京駅方面へ歩いて行きます。真ん中を路面電車が通って行きますが、橋全体のショットが無い為、作品を見ただけではいったいどんな橋なのかイメージがわきません。

管理人一行も本日の夜のイベント、ワールドカップ最終予選に向かうべく深川方面から月島方面へこの橋を渡りました。
が、しかしどうも佐野周二の気分には成れません・・・・イメージが違う・・・・・。


現在の相生橋は大正15年(1926年)に関東大震災で復興した橋を、交通事情 等によりその後、架け替えられたと言う事ですのですが、その後と言うのはいったいいつの事か・・・・? 

現地の解説文を読むと・・・・・「なになに・・・相生橋は・・・トラスト橋で、細長い部材を三角形に組み立てられた橋桁で・・・・・・平成10年12月19日に全線開通しました・・・・・??????」

平成10年・・・・・と言う事は、この橋は・・・・・・・・佐野周二の渡った、あの橋では無い?

名古屋9時47分発 のぞみに飛び乗り、はや5時間近くも過ぎ、本日のエネルギー源は朝に食した昨日の食べ残しの菓子パン一片のみ。
深川 小津生誕の地近くで昼食をとも思っては見たが・・・・とりあえず これを見てから、これを見てから、と・・・・・気がつくと隅田川の
河川敷をひたすら三大橋を目指して歩いていた。

真夏の炎天下の中、空腹の末やっとたどりついた本日最後の訪問地であるこの相生橋は・・・・・・・・

なんかこの橋にたどり着いた時から怪しいとは思っていたんだよなぁ〜。




ところ・・・・・・・で、「風の中の牝鶏」ってどうなんでしょう。


この作品、興行的には失敗したと先程述べましたが、評論家先生たちの評価も今ひとつと言うものでした。
小津映画の特長である「見終わった後の清涼感」みたいなものはこの作品にはありません。

映画評論家に限らず戦後日本の知識人、有識者という人達はまるで判を押したように 革新 絶対平和主義 と言う思想の方が多い様ですが、小津作品の中にあってこの作品はその手の人達に一番興味をそそりそうなストーリをもちながらも、なぜか支持はされませんでした。
この時期に持てはやされた巷の戦後民主主義の啓蒙的映画の中にあって、なんとも中途半端な印象しか残さなかった様です。

戦後、映画界は手のひらを返した様に戦後民主主義的な作品(傾向作品)を連発していた時期です。
「風の中の牝鶏」程度の踏み込み方では進歩的思想を自負する評論家先生方には納得がいかなかったのでしょう。

「風の中の牝鶏」は、あくまで一兵卒として中国戦線にも赴いた小津さんの戦争に対する(若しくは尊敬する志賀直哉に対する)総括的な
作品だったのでしょう。

評論家は「風の中の牝鶏」が失敗したのでブルジョワ的な「晩春」「麦秋」へ路線を変更したと言います

しかし、戦前戦中の「一人息子」「戸田家の兄妹」「父ありき」と言った作品を考えると、評論家の言う「晩春」で路線を変更したと言う解釈
には無理があるのでは無いでしょうか。
むしろ、元へ戻ったと・・。
志賀直哉の「暗夜行路」を模したと言われる「風の中の牝鶏」と言う作品が異質なだけと思えるのですが・・・。

本作品で管理人が一番印象に残っているのは田中絹代親子の住んでいると思われる家の傍にある工業用のタンクです、それも作りかけで鉄筋が剥きだしにされていますが、円形に曲がったその美しい曲線がとても印象的です。あれはガスタンクでしょうか・・・・・。

この手の物は「東京の宿」に出てきますし「晩春」にも列車から見える風景として少し出てきます。
そう言えばタンクでは無いですが「東京物語」にも工事中で鉄骨だらけのビルが映し出されます。
原節子が義母の危篤の知らせを聞いた後のシーンです。とても印象に残ります。

一部の映画評論家は、これらのシーンを意図的・作為的と言うのですが、管理人にはさっぱり理解が出来ません。
なんだか、評論家得意の後からつけた理屈の様な気もしますが・・・・。

ところで、これらのシーンに共通する冷たい、幾何学的な無機質な感覚が管理人はとても好きです。
関係の無い話ですが、20代の頃よく夜中に車を走らせ、四日市の化学工場の夜景を見に行っていた時期がありました
無機質で冷たく輝くコンビナートの煙突群はそれは美しく、良く見とれていたものです。
小津さんの映像エッセンスにもこの感覚を管理人は感じる事が良くあるのです・・・そう言えば今書いてて思い出しましたが「秋刀魚の味」ではオープニングにコンビナートの煙突そのものが得意の相似形で登場しますね。

しかし、この隅田川界隈はすごいですね、高僧マンションが立ち並んじゃって、現代はよくテレビのトレンディードラマのロケ地になっていますが、成る程未来的で無機質な美しさがある。 

「小津さんがもし生きていたら必ずカーテンショットとしてこの高僧マンションを相似形に並べたりして撮影したりするだろうな・・・・・・・」と、一人思い浮かべました。

まぁ、そんなこんなで隅田川に架かる小津さんゆかりの三大橋 清洲・永大・相生を後にしました。
で、その感想はと問われれば・・・・・・・。

やはり小津安二郎と言う人は知ってる場所しか撮らない人なのだなと言うものでした
(なんと言う平凡な・・・笑)

この日管理人がようやく食事にありつけたのは、ワールドカップ最終予選の地横浜でした・・・・あれは夕方近い何時頃だったでしょう。
小津にとりつかれた男は飯を食うタイミングも失うようです。