「先生、校門で男の人が待ってるよ?」

少し前、帰りの挨拶をして教室から出ていったはずの栗山君が言った。




                                      -------『Five Years After』




「・・・・・・男の人?」
帰りのホームルームが終わった教室で、数人の女子生徒と話していた私はドアの方に振り向き
ながら答えた。
「あれって、鷹村じゃん?ボクシングの。もしかして先生の彼氏?」
「・・・は?」
栗山君が興味津々というように口にした予期せぬ名前に戸惑う。

話をしていた生徒に断ってから、なんで鷹村君が?とか、なんでここに?とか、なんでわざわざ?
とか、生徒にからかわれてんのかな(栗山君ゴメン)、いやいや私が鷹村君と知り合いだなんて
この子達は知らないか、なんて一人考えながらとりあえず校門へ向かった。

「鷹村って誰だよ?」
「お前知らねぇの?日本チャンピオンだよ」
「うっそ!何、チャンってボクサーと付き合ってんの?」
「え〜、意外!先生ってもっと真面目だと思ってた〜」
「何だよ、ボクサーと付き合ったら悪りぃのかよ。チャンは十分真面目だろ〜」
生徒達の声を後に教室を出た。

・・・・・・そういえばさっきの質問に答えるの忘れてた・・・。
うわぁ〜、なんかとんでもない噂が流れそう。明日が休日で良かった・・・。

下校途中の生徒達があふれる中、急いで職員玄関から校門へ向かうと、本当に鷹村君が腕を
組みながら少し不機嫌そうに校門にもたれていた。
かなり注目を浴びている。(そりゃそうだろう、デカくて人相の悪い男がこんなところにいたらね)
女子高生の短いスカートとナマ足が目の前を通り過ぎているのに、鼻の下伸ばしてないなんて
めずらしいな〜。
トレーニングウェアを着ているところを見ると、どうやらロードワークの途中らしい。

「・・・鷹村君?」
一体何でこんなところに、と訝しがりながら、その大男に訊ねる。
私の言葉に一瞬ピクリと反応して、鷹村君がこちらを向いた。
「・・・・・・・・・・・・・」
不機嫌そう、ではなくてまさに不機嫌な顔だ。(というよりも、睨んでいる)

「どうしたの?こんなところで──」
「今夜8時半、ジムに来い」
「・・・え?」
「・・・・・・なんで勝手に辞めた。」
「・・・・・・・・・なんでって・・・。」
「オレに一言も断らねぇで」
「・・・・・・・別に鷹村君に許可もらうことでもないじゃない?」

私の答えが相当気に入らなかったようで、彼は不機嫌さに輪をかけて私を見据える。
そのあまりの鋭い視線にたじろいでしまった。初めて私に向ける怒りの表情。

高校時代、彼はいつも全身トゲだらけのように突っ張っていたから、彼が他の誰かを睨みつけるのは
数え切れないくらい見た。
でもまさか、その矛先が自分に向かってくるなんて。
あの頃、女の子だけでなく男の子でさえも彼を怖がっていたけど、私はそんなふうに思ったことは
一度も無かった。
私にはいつも優しかったから。5年経った今でもそれは変わらないハズだった。
だから、理由はともかく彼を怒らせてしまった事に気づいて、
一瞬頭の中が真っ白になってしまった。


先週、私は鴨川ジムのボクササイズのスクールを辞めた。
辞めたといっても、鴨川ジムが試験的にスクールを始めるということで、仮入会したばかり
だったから、実質的にはまだほとんど何もしてなかったのだけど。
私が辞めたからって鷹村君が気にするなんて思わなかったし、ましてや、こんなに怒るなんて
信じられなかった。
これで気が散ることもなくなったと、かえって安心するかもとさえ思っていたのに。


「まあ、いい。とにかく、8時半だ。忘れんなよ。」
呆然としている私は鷹村君の言葉にハッとする。そのまま踵を返し走り出そうとするのを、裾を
掴んで引き止めた。
「ちょ、ちょっと、待ってよ、鷹村君。8時半って──」
「あぁ〜?いいから、来りゃいいんだよ。」
訳が分からず聞いた言葉はめんどくさそうに遮られた。
まるで、オレ様の言うことには誰も逆らえないってくらいの言い方。
私がまた黙ってしまったのをおいて走り出しかけた鷹村君は、不意に立ち止まって振り返った。
「オレから逃げんなよ」
そしてそのままフードを被ってダッシュしていった。



職員会議を終えて、顧問をしているE.S.Sに顔を出し、いつもと同じように過ごす。
ただ一つ違うのは、時計を気にしながらということ。
鷹村君がどんなつもりであんな事を言ったのかわからないけれど、今日ジムに行かなければ
私が行くまで、彼は毎日だって校門に来るだろう。さらなる不機嫌とともに。

ため息をつきながら、そろそろ学校を出れば、家に帰って着替えても8時半にはジムに行けるかな、と
帰り支度を始めた時だった。
すごい勢いで職員室のドアが開いて生徒が飛び込んできた。
「先生!先生!大変なんです!矢野君がっ!」




階段から落ちて骨折してしまった矢野君を、保健医と一緒に病院まで連れて行き、
家まで送って行ったときにはすでに8時を過ぎていた。
約束の時間には到底間に合わない。それはわかっているけれど、それでもジムに向かう。
最寄り駅に着いたときには9時をまわっていた。

ジムに近づくにつれて足取りが重くなる。
今朝の彼の剣幕を思い出しながら、今日幾度目かのため息をついた。

たぶん鷹村君はもう帰ってしまっただろう。
病院から電話しておけば良かったと、今更ながら気がついた。
ジムなら幕ノ内君や木村君達がいつもいるから鷹村君に伝えてもらえたはずだ。
明日はきっと今日よりも更に不機嫌な彼と会うことになる。
それなのに、どうして私はジムに向かっているのだろう?
あの短気な彼が待っているわけないのに。


目的の建物を遠くに見つけながら、その一階に明かりがついてないことがわかる。
二階は会長室だし、一階の電気が全て消えているということは地下のリングにも人は
いないのだろう。

入り口のまえでしばらく立ち止まる。
もうここに来ることもない。
短い間だったけど、楽しかった。
ジムの人たちと知り合って、鷹村君が大切にしている世界に少し触れられたような気がした。
ほんの少しだけど、鷹村君にまた少し近づけたような気がした。
だからたとえこのまま鷹村君との距離が離れたとしても、応援できればそれだけでいい。
テレビや新聞で彼の活躍はわかるから、それで十分・・・。
目がかすんでくる。下を向いていたから涙が零れそうになるのを、なんとかこらえる。
さよなら、それからがんばって、とつぶやきながら踵を返しジムを後にした。




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