納得の絵画論
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まえがき
人類は有史以前から洞穴の壁などに姿かたちを書き綴る強いモチベーションを持ち合わせていました。その傾向は現代にも生きています。絵を鑑賞することは画くことにもつながり、
その逆もあります。ここではこうした人達、とりわけ趣味の画人ほかすべての絵画フアンに対してお役立ちの情報をお伝えしたいと思います。
現代は映像の時代といわれます。テレビに、インターネットに、街の広告に、新聞雑誌に、オフィスに動画や静止画が氾濫しています。にもかかわらず古今の大家の絵画展
となると列をなして熱烈なファンが押しかけます。最近インターネットで高額絵画の世界の記録を調べて驚きました。なんと一点で200億円から300億円という作品があります。
大会社の売上高なみの数字です。庶民の生活から遠く離れた存在とは言え、一本の絵筆でこれほどの高額作品が創造され、われわれもその裾野に居合わせる。こんな素晴らしい世界が
ほかの何処にありましょうか。
いっぽうこれとは対照的にデパートのギャラリーや銀座の画廊街はひっそり閑です。とくに古典的な油彩画の居場所がめっぽう少なくなりました。目に付くのは油彩専門の伝統的な
公募展か、あるいは地域の趣味の絵画展だけです。とにかくこの世界は解らないことがいろいろあります。しかしながら絵画フアンは確実に増えています。こうした中にあって、
我々画人は絵に対して今後どうつきあっていくべきか。そのスタンなどを考えてみたいと思います。
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写真の出現と絵画革命
中世から近世紀にかけてのヨーロッパでは、権力者や高貴な人物がその姿をとどめ置く肖像画とか、あるいは信仰の神々の偉大な姿かたちを描いた壁画などに国家社的な強い
ニーズがあり、それを託される画家の能力が非常に高く評価されてきました。それは画家の特権であり、その身分や処遇に大いに反映もされました。それらは写実の粋を尽くしたような
タイプの絵画でした。ところがそれが20世紀初頭のある日、忽然と現れた写真技術により、根こそぎ取って代わられる危機を迎えることになりました。写真は、瞬間のシャッターで
姿かたちをありのままに記録する。しかもその正確性、簡便性、そしてコストなどを総合すると、圧倒的な強味があります。
画家達は明日から何を求め、何をすれば良いのかで、大いに悩んだようです。ピカソもその一人です。彼は「今にして画家は国家的な責務から解放され、自由になったのだ」と言い放ち、そして写真を超える新しい絵の世界だとして“ピカソ流”を編み出したのです。当時のほかの多くの画家達もそれぞれ悩み、苦しみ、独自の新しい道を模索しました。そうした動きが現代もなお続いており、絵画芸術の主導的立場の人達の姿勢でもあるようです。
風景画や人物画に代表される具象画は、その影響を最も強く受ける分野です。ピカソのように時代の変化を知り、いち早く具象画を捨て、写真の影響の無い世界に去っていった
画家はほかにも多数居たようです。
さて科学技術の進歩は他方では社会全体の進歩向上をもたらしました。 材料、技術、境域環境、その他の向上と相俟って、同じ時期に絵画の大衆化がおこり、絵画人口の爆発
をもたらしました。絵画ビジネスの全体の規模はむしろ格段に大きくなりました。そして特権に生きた一握りの画家達が動揺するなか、一般大衆の趣味の画人による絵画同好会、スケッチ
の同好会、デッサン勉強会、その他無数の絵画グループが無数に生まれ、社会の大きな存在となりました。現代の画壇はかつての宮廷画家や一握りの職業画家による画風改革の流れではなく、
画壇の大衆化の余波として生まれた近代化の波の上にあります。
絵画を含めた画像文化はいまや大衆スポーツのように現代人の生活に密着しています。スポーツは見て楽しむことが出来る上に参加の楽しみもあります。絵も同じです。優れた作品
を鑑賞する喜びがあると同時に誰もが趣味の素人画家としても楽しめる時代となりました。しかもCGやITなど進化した科学技術などの影響もあって、内容も大幅に拡大しています。
大衆はいろいろと何でも試せる時代となりました。
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具象で始まる大衆絵画
“写実的な具象”はヨーロッパ中世の絵画の伝統を引き継ぐジャンルです。絵画を志す人が、趣味として、あるいは腕を競うステップとして、写真と見間違われるような描き方
を試す世界でもあります。絵は美術と言うからには、素直に美しいと感じるものを美しく画く、その意味では非常に居心地の良い場所です。作品を額に治めれば、居間、会議室、
ロビーなど殺莫とした雰囲気に潤いを与える素敵な装飾品となります。芸術論云々は一切気にすることはありません。
たとえば私の故郷は北海道です。北海道の雄大な美しさに魅せられて本土からはるばるスケッチに訪れる高名な画家がいました。相原求一郎、関口雄揮などなどです。美瑛地区に
もそうして地元に住み込んだ画家の話をよく聞きます。私自身もかつて北海道帯広の六花亭本社のギャラリーで個展を開きました。内地からの観光客の人が大勢訪れました。私の作品の中
で最も人気だったのは十勝の風景画でした。彼らは北海道の空にあこがれて訪れた。今ここで十勝の空に出会えたと素朴な感想を残していきました。住んでいる人、訪れる人、すべてが
この地の風景に魅せられ、絵をかき、交友を深めていきました。
さて写真の出現により被害意識が募った具象画ですが、初心者は別として、ある程度その道を究めた人には、写真が及ばない絵画ならではの道が色々残されていることに気がつ
きます。例えば
1:趣味の絵の世界では絵画ならではのモチーフ、つまり堀残しの金脈が沢山残されています。
2:絵は構図を自由に創作できます。例えば目前に展開する風景を目にしながら、不要な要素をカットしたり、不足なものを追加したり、色調を部分的に変えたり、やり直したりなど、
じっくりと手を加える、つまり“モチーフを目前にした絵画の創作”ができるのです。しかし写真はカメラの“ボタン操作を介しての”修正以上のことは何も出来ません。かつ写真が焼き
上がった後では既に目前に風景は無く、手を加えるすべもない、写真は便利そうで何かと不自由なのです。
3:光の変化を広く捉えることができる。 写真の感光剤はその材料が限られており、表現力の点で物理的限界があります。しかも多くの場合、仕上がりの色はプリンターを扱う
専門の業者任せです。それに比べ、絵具の顔料は表現の幅が遥かに広いだけでなく、画家が究極の色合いを思う存分追求することが出来ます。絵ならではの鮮やかな色彩が可能だし、
しかも筆の力でさらにダイナミックな効果を演出することができます。まさに芸術であり、絵の絵たるところです。
4:デフォルメも絵の特権です。 実景が完全な姿であるとは限りません。くつろぐ婦人の絵を描くのに、見たみたままの線が表現の意図に叶い、常にベストとは言えません。大胆な
デフォルメの輪郭で実感に迫ることがしばしばです。これらもカメラが及ばない世界です。
絵に描いたような美しさという言葉があります。絵が実景であっては不満なのです。絵である以上は実景以上のものを無意識のうちにも期待しています。風景画は写真であっては
いけないどころか、実景そのものであってもいけないのです。そこに具象画の醍醐味があります。限られた額縁の中に観客が期待する風景美のすべてを凝縮しようとするとき、筆を持つ手先
の柔軟性が威力を発揮してきます。ある程度の腕前の人なら、絵のような美しさは絵にしか実現できないし、また写真で無理して結果を出そうとすれば、余計に手間暇がかかることも知って
います。具象画に未来はなく、これからは抽象画だ」と言い切った権威者がいたと聞きますが、私は「具象画を軽く見るべからず]と返したいと思います。
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印象派絵画のすすめ
セザンヌとかモネで知られる印象派の画風も、写真ショックの時代に生まれた数ある試行錯誤の中の一つであったかと思います。しかし印象派の手法は他の革新的な流派とは一線を画し、
新しい時代の正統派の位置づけを窺っているように見えます。これには納得できる理由があります。
ここで人の視覚のメカニズムを調べてみましょう。人の眼球はカメラと似たような構造になっています。感光板に相当するのが網膜です。網膜細胞が眼球の奥の内面に沿った
お椀型の構造に配列して光を受けます。ただしその配列は一様では無く、中央部分に黄斑という場所があって、その部分だけ配列が特別に高密度になっている。つまり視野の中心(視点)
の感度が高く、そこから離れるにしたがって感度が低くなっています。 数に限りのある網膜細胞を効率よく配置して総合的感度を向上させる狙いがそこにあります。人がものを観察する
ときは、視野の全体に一様ではなく、常に要所に焦点を絞って観察しているのです。
印象派の絵も全く同じ流儀を採用しています。絵画は一般にポイントになる部分がいくつか限られています。印象派は、ポイントの付近に限っては精密に書き込みますが、
それ以外の部分は意図的にあいまいさを残すことで、人の目にやさしく受け止められるようにしています。だから画家がねらう感情表現がそのまま見る側に自然に伝えられるのです。
ある意味では究極の画風とも言えるでしょう。またこの手法は、書く側の労力も節約になっているので、趣味の画人にとっては願ってもない画法とも言えます。
ただし印象派の絵にも2種類あります。印象派草分けの大家の作品は、その価格は天文学的数字です。だが同じ手法で書き上げた趣味の作品は余程上手くかけたとしても
その千分の一にもなりません。しかしそれは仕方がないことです。草分け画家の作品には、創始者に与えられる巨額の骨董的意味のプレミアムがついています。プレミアムを除いた正味の
実力の比較では、現代の素人画家もかなり対抗できる筈なので、大いに自信をもって励むことができます。その一つの証が、このホームページ「絵の散歩道」のセクションの
(13:贋作と真作)のページで紹介しているジョン・マイアットの物語です。彼は15人以上の有名画家の贋作を手掛け、200枚の贋作をヨーロッパ中に売りさばいて人気があったと
言われます。
これは伝説的な名画家15人の絵の出来が、贋作画家によって簡単に真似される程度に過ぎなかったからなのです。
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自由奔放を試す
皮肉な話ですが、美術の世界は必ずしも整った美しさだけが狙いではないようです。人は不思議な生き物です。時にはなんとなく乱れたり、破目を外してみたくなるようです。
例えばジーパンがあります。
アイロンがけもせず、破れた穴は繕うことなく、おしゃれポイントにしてお出かけします。あるいは、きれいな活字がびっしり並んだ書類の山のを抱えて、仕事で明け暮れるなかで、
手書きで癖のある走り
書きを見つけると、むしろ憩いを感じます。人はしばしば画一を嫌い、変化と個性を求めるようです。
美とか好みの観点も時により、所により揺れ動きます。人が個性を主張したい時、絵画は格好の場を提供してくれます。今日では絵の材料も道具も自由に手に入ります。何でも手軽に
試せる時代になりました。 モチーフや画法は、差し当たりは大家の画法の真似でも良い。ゴッホ、コーギャン、マチス、ルオー、シャガール、ダリ、北斎、棟方志功、パウル・クレー、
またはどこかでお目にかかった無名画家の作品でもよし。 あるいは誰の真似でもない独自なもの等、何でも試せます。過去の画家が手を付けていない堀残しの金脈が沢山残っていると
思います
公募展によっては、そうした傾向の大量の作品群にお目にかかれますし、趣味の画家たちに挑戦の勇気を与えてくれます。時にはグロテスクで、奇形で、不快な感じすら抱かせるものも
ありますが、書いた本人
は大まじめです。これ等は一流先進と自認する画家達が写真以後の新しい道を求めて、色々と試してきた同じ道を試そうとしているのだと思います。
ところで趣味として描く絵には難しい芸術論はいりませんし、基本的には何をどう画いても良いのです。だからここでは何をどう書くかではなく、 あまりに自由すぎて行き過ぎないた
めの歯止めを、この章の締めくくりにいくつか並べて見ましょう。
1,ごみの山などを超リヤルに書く絵も時に見かけます。この種の絵の狙いは何でしょうか。ゴミの山が美しいとは思えません。見たくもないゴミの山を絵にして奥座敷に飾りたい人も
居ないだろうと思います。
これは人間社会の灰色の未来に対する警鐘だと作者は言います。そういう哲学的意味を持たせるのを“お説教画”と言うらしいですが、この種の作品を趣味の絵画同好会の展示場に
持ち込むのは場違い感が
あります。書くのは勝手ですが、展示は人の迷惑にならない場所を選ぶべきでしょう。
2:極端に走る抽象画の世界を風刺する小話がありました。外国のある権威ある公募展で一枚の抽象画がグランプリをとりました。実はその作品は作者がペットを絵の具まみれにして
キャンバスの上を遊ば
せた結果できた余興の作品だったのです。この告白を聞いた審査員は権威を愚弄するものだと大いに怒り、その者を会から追放したそうです。これは単なる造り話だとは思いますが、
しかし抽象画は
こういうことも起こり得る世界のような気がします。だからこそこのような結果をあてにするような不純な動機の作品はもってのほかでしょう。
3:私はある地方公募展で面白い光景に出合いました。絵を勉強中のある主婦が、ある抽象画の大作の前に佇み、その場にいた先生格の幹部の人に素朴な質問をしました。キャンバスの上に
盛り上がった
絵の具の大きな塊を見て、どうしてそれほどの厚塗りの必要があるのかと。先生即座に答えていわく。この塊の底のほうから凄いエネルギーが発散されており、私はそれを感じる。
それがこの絵の迫力なのだと。
私は開いた口がふさがりませんでした。絵画の世界は作品の自由度が高いゆえに、いろいろな思想、信条、そして信仰の人が集まります。いろいろな人と付き合いの幅を広めることは、
よいことですが、あくまでも自分を見失わないことも重要でしょう。
4:「絵画は筆と絵具で手書き」という基本的ルールはしっかり守りましょう。絵画は大衆化し、スポーツのような身近な存在になっています。ルールを無視したスポーツはあり得ません。
絵画も同じなのです。
キャンバスの上でコピー、定規、コンパス、切り貼りは止しましょう。 TOPに戻る
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