絵の散歩道1

1.趣味で描く

 絵を描くことは、アマチュアにとってすばらしい趣味となります。 趣味の絵画に難しい芸術論は要りません。自分の好きな絵、面白いと思う絵、 奇抜な絵など、 なんでも自由に描けばよいのです。そして自分の家の好きな場所に飾って 、自画自賛するのです。絵は仕上 がった作品の出来もさることながら、制作の過程がすごく楽しいのです。世にある多くの絵画サークルはこういった人々 の集まりであり、絵画人口の大多数を占めています。
絵の具チューブ 趣味の絵画に抽象画は魅力一杯です。デッサンを無視し、思いっきり羽目を外した 絵も面白いと思います。写実画や人物画をきちんと描こうとすればデッサン力が必要です。これ等はよく写真と比較されますので、その際デッサンの狂が眼につきやすいからです。
 抽象画とか自由奔放に描いた絵は、そうした心配は無く、むしろ見る人にいろいろ勝手な解釈を許し、夢を持たせてくれます。 自分が第二のピカソかシャガールになった気分 をひそかに味わせてもくれます。初心者を一流気分にさせてくれるような芸術の世界は絵をおいて他にはありません。 とかく露骨な批評をしたがる人も、抽象画の前では静かになり、むしろ敬意を払って見てくれます。
 しかし私は趣味の絵画は自分用だけとし、自作を他人に譲るのは慎重にしています。他人の目は非常に厳しいからです。私がかつて所属していたチャーチル会帯広では年一回の作品発表会 がありました。その中では一部の作品のチャリテイー販売が行われました。チャリテイー用の作品はサムホール(はがき二枚分の大きさの小品)のサイズのものを 原価に近い価格で販売するので非常に高い人気でした、しかし小額なりとも他人にお金を払わせるわけだから、買う側の目による厳しい選択を受けます。だから 独善的な絵は許されません。チャリテイーと言えども、プロと同じ姿勢で確りした絵を描かなければ買って頂けません。この行事は私にとって非常によい刺激 になりました。  2005/9/20  
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2.構図について

 モチーフを風景に求めるのが風景画です。風景画は実景の模写ではありません。素晴らしい風景に出遭ったとき、その感動をキャン バスに表現するためには、必要とあれば画面を思うように再構成してよいのです。 電柱が邪魔なら消しても良いし、枝ぶりが寂しければ書き足しても良いのです 廃船
 ただし風景というからには、その構成要素のそれぞれに存在感があり、それらが実景らしく調和し、構成されていなければなりません。 例えば遠近法に則った配置も重要です。さもなければリヤルな風景として受け入れることができなくなります。
 さて構図を良い方向に再構成するポイントについて一考してみましよう。 よい構図にするための初歩的なレベルでの原理原則はいくつ かあります。 例えば、まず主題を明確にする。何を書きたいのか、何を見て欲しいのか、の主題が決まったなら、それが中央にくるよう に配置します。写真のレンズを向けるのと同じ考えです。 主題のほかに副主題が用意されることもあります。その場合は、親子二人連れをカメラに収めるときの様に、主と副のバランスを考えて レンズの中心を決めることになります。
 初心者が冒し易い過ちは、主題を曖昧にすることです。風景の視野に飛び込んでくる構成要素のどれもが捨てがたくて、いろいろと全部 を書き込むと主題がボケてしまいます。 主題が明確になったら、それを主役らしく丁寧に書き込むことです。
 しかしより複雑で高度な作品での構図のよしあしの判断には、初歩的な原則では答が出ません。高度な直感力が必要になります。この 能力は、制作経験や名画鑑賞などを積み重ねることによって身につけていく以外に道はないようですが、それが私にとっては、もどかしく 感じる点でもあります。高度で厳然たる原理原則があって、あとは自分の工夫と考える力で、よい構図にたどり着けるものであって欲しい ものです。    2006/7/20

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3:雪と老船へのこだわり

 首都圏でのサラリーマン生活の後、 30年振りにUターンしたとき、故郷十勝の情景は、全てが新鮮に目に映りました。中でも凍てついた冬のある朝、少年時代よく遊びに行っ た札内川の雪原を見て感動をおぼえました。感動が醒めないうちにと一気に書き下ろした60号 [氷雪の朝」を、はるばる郵送にて示現会展に始めて出品しましたところ、諸先生方の目に止まり、 いきなり入選しました。私と雪との付き合いはここから始まりました。
  示現会の二作目は雪の浜辺に引き上げられた古い中型の鉄船でした。この作品を本展のあと、地元のグループ展に再出品したところ、 作品の前にしばし佇む中年の婦人が居りました。私が作者と知り彼女は感想を言いました。「この船を見ていると、長い間北海の荒波の中 で働き、疲れと傷を癒しながら、次の出漁に気力を振り絞る老航海士の魂が感じられる」と。感動させられたのはむしろ私のほうでした。 それ以来私は老船をメインテーマに描くようになりました。
 老船はいまや私にとって、単なる構造物ではありません。老船には心があり魂を感じます。その形は荒波を蹴って船員の安全を守る船体 の機能的な設計があり構造があります。その船腹のラインの形には必然性があり、理想があります。機能上の完全さを追求した果てに究極 の美学があると思っています。   2006/7/20
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4. 素人っぽい絵からの脱皮 

 私は平成6年ごろに絵を始めましたので、画暦は十数年というところです。自分ではそれなりに進歩したと思っていますが、上を見れば経験豊で素晴らしい絵を描く先輩が大勢おられます。 まだまだ 修養が足りないと自覚することしきりです。 最近になって私が進歩したと実感できる点の一つは、素人っぽい絵がひと目で見分けられるようになっ たことです。傑作群の中で甲乙をつけたり、最高の絵を見抜 くことは至難ですが、素人っぽい絵を見抜くのは比較的簡単です。素人っぽさを避けただけで絵の水準が一段と飛躍したように感じます、以下にそ の要点の一部を紹介しますので、トライしては如何でしょうか。
1)固有色の多用 
 空は空色、水は水色、土は土色、肌は肌色というのが固有色です。私も子供のときのお絵書きで固有色を使い分けるよう教わりました。今なおそれ を忠実に守る方が居ります。とくに絵を独学で頑張っておられる方に多いようですが、それは大きな間違いです。
 例えば、水色の水は一般に存在しません。水は本来は殆ど無色透明なのです。但し水面に空の色が反射すれば空色に、夕日が反射すれば赤く、また 水藻などがあれば藻の色になど、周囲の様々な光を受けて七色に微妙に変化します。 
 森の緑は、葉緑素の緑ですから変化は少ないとはいえ、それでも千変万化します。濃い緑、薄い緑、黄ばんだ緑、青っぽい緑、周囲の関係で時には 濃紺や紫、赤、 さらには白く見える葉さえあります。
また初心者から肌色にはどんな絵の具を使えば良いのですかと、聞かれることがよくあります。肌色という単一の色は存在しません。肌の色も場所と 周囲の条件で微妙に変化します。だからその都度パレット上で必要な色を重ねて造っていくよりないのです。 ヨーロッパの古典の大作では、屡青色 すら使って皮膚に透けて見える静脈らしいものを書き込んでいる例がよくあります。
 また金製の器を描くための金色もありません。金粉を練って作った絵の具が時に利用されます。しかし皮肉にもこれでは金の輝きは表現できません。 金の表面の色は、強いて言うなら淡黄色なのです。表面に光沢があるからあのように輝くのです。泥も変じて金になるといいます。周囲の配色と光の 反射の仕方を旨く表現できれば、泥色を金の輝きに見せることだってできます。
 このように固有色をできるだけ避けて、光の変化で物を表現すように心がけますと、それだけで素人っぽさが大いに減ること請け合いです。

2)模範答案の風景画  
 山、水、空、さらに木立には枝振りの良い松ノ木、水には水鳥と、幕の内弁当のように、全 てのご馳走が揃う100点満点の絵も戴けません。それ なりにワンパターンだからです。その昔、銭湯の湯舟の背景には決まってそのような大きな風景画が使われました。いわゆる「銭湯の絵」と言われ、 安っぽい絵の代名詞にすらなりました。その多くは芸術家が書くのではなくて、看板屋さんや、ペンキ屋さんが書いたからでもありましょう。しかし 銭湯にやって来る人は心身を癒しに来るのですから、この絵はそれなりの目的は果たしています。銭湯に来てまで難しい 絵を見せつけられ、緊張し たのでは癒しになりません。
 さてアマチュア画家はそれなりの芸術作品を狙います。狙う以上は単に安ら ぎだけではなく、なにか緊張感の有る絵を求めたくなります。だから 幕の内弁当は止めにして、創作料理のような、野心的な構成を試すのがよいと思います。

3)主題が曖昧 
 一旦視野に入ったもののどれもが捨てがたく、何でも書き込んでしまう癖のある人もよく見かけ ます。その気持ちはよくわかりますが、その絵の 何を見て欲しいのか、何を訴えたいのかの主題がぼやけてしまいます。主題の無い手紙を書いているようなものです。
 また電信柱など、無いほうが良いものをわざわざ書き込んで絵を台無しに するケースもあります。このような律儀さや几帳面さを風景画に持ち込 む必要はありません。ある絵の先生がおっしゃいました。「絵を見る人はときに嘘に感動し、嘘を褒めてくれるものだ」と。これは嘘を描くことに 対して誰もが持つ強い抵抗感を取り払うための極言だったと思います。
 絵のデッサンが終わりかけたとき、絵の全ての構成様子が果たして本当に 必要だったのかどうか、見直してみるのは大事なことです。

 以上思いつくままに3点だけ書きました。他にもまだ書きたいことがあり ますが、少々込み入った説明になりますので、別の機会に譲ること にします。 2006/9/1
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5. 上手(うま)過ぎる絵

 現役時代に技術系や事務系の仕事にかかわり、定年になってから趣味の絵画の道に入る人が多いようです。 彼らの絵の特徴はデッサンや配色が正確で、全体的にキッチリと書かれており、遺漏がないことです。パースペクティブ(遠近法)にもめっぽう強く、 自信を持っています。でもなんとなく退屈で魅力に乏しい絵になることが多いのです。 そう言う私もその傾向の一人でした。その原因はどこにあるのかを ここで考えてみたいと思います。 
 彼らの絵は一般に説明がし尽くされており、曖昧なところがありません。現役時代の仕事振りをそのまま絵に 持ち込んでいるからでしょう。それは仕事をこなすにはとても良い習慣でした。しかしいま、それが妨げになっているかもしれません。良いと信じてきた習慣 を断ち切ることは容易ならぬ大仕事です。

写実の問題
 風景画は限られたキャンバスの上で、人に感動を伝える場面を演出する芸術です。しかし絵の描き方が、現場の 感動をいかに表現するかでなく、単に現場をいかに忠実に描写するか、つまり写真と同じことをしようとするから、几帳面さや正確さが表に出てくるので あって、そこに問題があるように思います。絵はイラストではありません。物を正確に説明するためのものでもありません。その意味ではデッサンの 厳密性は拘るべきでありません。
 風景を構成する要素の一つ一つについて考えてみましょう。例えば手前に一本の茂った木があるとします。 その形、輪郭、色合い、枝ぶりは特定されています。それらは、たまたまそうなっているだけなのですが、良い風景を演出する上で、果たしてその状態 がベストであり、必須であったかどうかは疑ってみる必要があります。より素敵な風景を模索するなら、そこをいろいろ変えてみる自由度がある筈です。 その自由度をフルに活用してあれこれ模索するのが絵画であり創作なのだと思います。
 いっぽう鑑賞する側は、現場を見ておりませんから、どれが正しい姿かを知るよしもなく、デフォルメがあ ろうが、はみ出しがあろうが気にもしません。単に芸術作品としての自由な発想で見ているのです。その絵が現場に忠実かどうかを確かめようとする 意地の悪い人などどこにもおりません。だから一生懸命に現場に忠実に描こうとする人は、観客ぬきの一人相撲をしていることになります。観客は何を 期待するのかを考え、むしろ見る側の目線で、彼らの期待に迫るような絵を再構成すべきなのです。

曖昧さの問題
 絵は感性の仕事です。感性には常に曖昧さが付きまといます。美も、情感も枡できっちりと量れるものでは ないからです。写実に長けた人の絵は、ある意味で絵ができすぎているから、欠陥がありません。しかし見る側は、曖昧なと ころや欠点を見つけてそれを自分の感性で補い、自分の絵にして楽しみたいと思っている節があります。例えば、澄み切った青空の色も、ペンキ職人の ように一様にべた塗したのでは面白くありません。逆に塗り斑のような欠陥があると、そこをいろいろと想像力で埋めていって自分の絵にできる面白味 があります。全てがきちんと整備されているのではなく、形や色その他どこかはみ出したところ、乱れた ところ、自然に委ねたところがあれば、人は緊張から解きほぐされ、そこに安らぎを見出します。
 絵は生活空間や会議室などを飾るインテリヤ・アート の一つです、こんにちの建築は直線、直角、真円などと、 幾何学的でキズも汚れもない完全な部品や材料で構成されています。一点の狂いも手直しの対象になります。そうした完璧さは時として過度の圧迫感や 緊張感をもたらします。インテリヤ・アートとしての絵画は、その空間の圧迫感を和らげ、安らぎを与える飾りの品です。だから、飾りそのものが完全 無欠で緊張感を撒き散らしたのでは意味がありません。むしろ羽目を外したり、はみ出したりなど、その空間の緊張を解きほぐす要素が絵に仕組まれていて良いのです。    2007/5/1
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6.二つの人物画

 絵画の腕を磨こうとする人達にとって、グループの写生会は大変人気があります。絵画教室の仲間達との、 あるいは地域の同好者達との写生会など です。描く対象は人物の着衣あるいは裸婦、さらには 花や静物などです。風景の場合は、適当な写生地まで出かける のに多少時間がかかることから、 人気はいまいちです。
 さて人物の写生会は、適当な部屋があって、あとはモデルさんを連れてくれば良いだけですから、非常に手軽に 開催できます。 指導する先生が居られる場合と、先生無しで自由参加の場合とがあります。展覧会にこうしてできた作品がそのまま出品されることも多い ようです。これらの作品について考えて見ましょう。
 風景画の作品を一点見ただけで作者の力量を推し量るのはかなり難しさがあります。現場の実際の状況は知る由もないし、 画風の違いや好みもいろいろ あるからです。しかし人物画の場合は、ひと目見ただけで描く人の力量が判ってしまいます。例えば風景画の中に、 脇役として小さく人物が配して あったとします。その人物が稚拙に書かれてあれば、それだけで風景画全体が素人っぽい印象になってしまいます。 だから優れた画家は、 このような 人物の描写にも決して手を抜きません。
 かように重要な人物画ですから、作品の水準を上げるためには、人物の描写能力を磨くことが重要です。人物を 主体とする写生会は、 こうした人物画の基本を学ぶための勉強会でもあります。 勉強会である以上は、モデルさんを正確なデッサンで、忠実に写実的に描くことが重要です。 描くほどに次第に腕が上がっていくことが実感 できるでしょう。特に裸婦については、顔だけでなく、体全体の描写力の練習になりますので、 描き甲斐があります。作品の展示会で習作を発表し、他人 に腕の上達の程を見てもらうのは、非常な刺激になり、励みとなります。
 しかし他方では人物をモチーフとして、部屋に飾って楽しむための絵があります。これらは前記の習作とは全く別物です。 人物の描写力を見て もらうため の絵ではありません。むしろ個性的な姿や表情なり、あるいは鮮やかな配色などでインテリヤアートとしての 魅力を売り物にします。 自由奔放なデフォルメがあっても良いのです。モデルに似ているいないはもはや関係ありません。またそれを問題にする 観客も 居りません。モジリアーニの女性像などはこの範疇の代表格と思っています。
 この種の絵は、人物画というよりは、人物から発想した一つの抽象画というべきかも知れません。少なくとも 前記の勉強会の作品 と並べて優劣を 云々すべきものではありません。 だから展覧会ではそれぞれ観点を変えて評価されるべきだと思います。  2007/8/1
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7. デジカメで永久保存 

 ごく最近、ダ・ビンチの描いた壁画「最後の晩餐」が超高解像度のデジカメで撮影されたことがニュースで報じられました。イタリヤのある 会社が壁画を160億画素のデジタル画像として収録し、インターネットで公開する計画だそうです。160億画素といえば、現代の市販最高級のデジカメ の1600倍の解像度に相当します。
 「最後の晩餐」は世界遺産となっておりますが、過去数百年の歴史の中で、戦争や改築その他諸々の環境変化により劣化や損傷がかなり 進行しています。従って今の段階でデジタル画像の形にしておけば、画像自体には劣化が起こり得ないので、永久保存することができます。
 日本でも今日、キトラ古墳の壁画の保存管理がいろいろ問題になっています。1000年を越える長い間土中に眠っていたものを、 突然開放して俗世界の外気に触れさせるのですから、カビなどが付着したりして急速に劣化や損傷が進むのは当然です。さらに管理に人が 関わるので、人的ミスによる損傷も起きます。現代の科学技術を駆使してこれからの保存管理に最善を尽くしたとしても、次の1000年先 まで品質を維持できるかどうかは保障できないでしょう。だからできるだけ早い時期に、デジタル技術で高解像度のコピーを収録しておくこと は大きな意味があります。
 さて私どもは趣味の絵画を楽しんでいます。苦心して描いた作品はどれも愛着があります。そのままの形でいつまでも保存しておきたく なります。しかしこの道に熱が入れば入るほどに作品の数が増えていきます。人によっては100点を超え、あるいは1000点を超える人だって おります。そうなると当然保存場所に困ってしまいます。また、油彩画などの作品は、時とともに損傷が進行します。適切な温湿度の維持など、 管理に余ほどの注意を払わなければ、変色、ひび割れ、カビの付着などに悩まされます。
 その解決策として、従来、作品を写真に撮り、DPEのプリント形で保存する人も居られたと思いますが、DPEは機械で自動処理されます ので、プリントの段階で色合いに狂いがあったり、また年月を経て色あせたりします。最近は個人でインクジェットプリンターを使ってプリント することが多くなりましたが、この場合は印刷時に色合いを個々に修正することはある程度可能です。しかしプリントされたインク自体の 経年変化は止める事はできません。
 従って、私どもの作品も冒頭で掲げた文化遺産に倣って、デジタルカメラでデジタル画像として保存するのが最良の方法と考えられます。 もちろん世界遺産ならぬ私どもの作品ですから、解像度で500万画素程度の、言わば中程度のデジカメであれば充分です。デジタル画像は デジタルな処理ですから、画像ファイルとしてとっておく分には、CDやDVDと同じように全く劣化がなく、経年変化が起こりません。ここが非常に 重要なところです。
 元の画像を再生するにはインクジェットプリンタで十分です。しかもそれは必要の都度、必要な数だけ行えば良いのです。プリンタの調子 によってはその折に色合いが変わる虞がありますが、プリンタの操作に慣れた人なら、全く問題なく忠実度の高い再生ができます。むしろ重要 なのは、 撮影の段階で原画に忠実な画像ファイルを作っておくことです。 デジタル画像は管理に経費も場所もとりません。例えば小銭入れに収まる程度の 小さなメモリースティック一本で、数百万画素の解像度 の画像を数百点も収録できます。自身が注いだ情熱の労作の数々をこのような簡便で安全な形で保存することができます。また次の世代の人達 への、至ってスマートなプレゼントにもなります。
2008/1/1
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