絵の散歩道2

8.自然の描写  

 東洋古来の水墨画は、一般に簡潔な筆さばきで書かれているので、一見写実的ではないように見えます。しかし大家の作品をよく見ると、木々の描写では 樹種が概ね想像できるし、岩についてもその種類や生い立ちがある程度判るような描き方しており、その芸の深さには敬服させられます。
 油彩画で、 ごつごつした岩肌を描いている作品をよく見かけます。しかしそのごつごつの仕方がときに問題です。岩にも岩の種類があり、生い立ちがあります。生成、 侵食 風化の歴史があって、岩肌はそれらを年輪のように刻んでいます。 岩に変化をつけてキャンバス上に取り込むのは自由です。しかしそれは あくまでも単なるごつごつではなく、 自然環境の下で納得のいく岩肌であり、単に色をつけた絵の具やプラスチックの固まりであってはならないのです。 岩を岩らしく書くには、いろいろと研究が必要です。研究をすればするほどに、いい加減な岩を書くことはできなくなります。
 木々の枝ぶりにも同じこと が言えます。私は故郷に在住していた時代に、とある版画作家とお付き合いしておりました。彼は現役時代、営林関係の事業所に所属し、山歩きが仕事でした。 彼は山の森林の枝ぶりにとても詳しく、例えばシルエットを見ただけで、何の樹種の森か当てることができるのです。だからこの人の前では、適当に枝葉を つけたいい加減な樹木は描けないと思いました。樹種に関心もなく、枝ぶりのことを深く研究することもとなく、キャンバスの上に安易に描いた木立は、 明らかに不自然で、美しさどころか 違和感が残ります。
 自然の環境の中で時を経た金属の錆びや朽木も、それぞれ美しさがあります。 個々の錆び方、 朽ち方は、それぞれ環境の違いにより千変万化ですが、何でもありではなくて、おのずと傾向や法則があり、 それがきっちりと守られているところが美しい のです。
 描いた作品は、何時何処で、誰に見られるかも判りません。だから絵にごまかしは禁物です。もち論絵画はイラストではありませんので、木々、岩々、その他なんでも、あるがまま、見たとおりの形を 忠実に描く必要はありません。絵画流に大いに変化をつけてよいのです。しかし変化とごまかしとは違います。 対象の本質なり特徴を吟味した上で、それに叶った変化をキャンバス上に演出して絵を創作するのです。そこまで掘り下げて描くと、風景画の味わいが一層 深いものになりましょう。    2008/12/1

TOPに戻る

9.想像力を誘う絵  

 幻想の花を思わせるような絵に屡お目にかかります。右図はこの文の参考用に、とある著名作家の作品を うわべだけ真似て私が描いたものです。 その原画は現実の花にしてはデッサンも曖昧で、配色もひどく揺れていました。子供ですらもっとまともな花が描けそうです。でもとても素敵で モダンな感じがしたのです。 何故なのでしょうか。
 本当に美しいもの、神秘的なもの、感動的なものへの感性は人間共通であっても、それを具体化した形(モデル)は人によってそれぞれ違うかも しれません。だから絵を描くに当たっては、きっちりと 最後まで仕上げずに、その少し手前で止めておいて、あとは見る人の想像力に任せる。 そのほうが多くの人の共感を呼び、つまりはより美しい絵になるということが言えそうです。
 たとえば美人画の場合は、特定の美人を具体的に描き上げるのでなく、自分好みの美しい女性を勝手に想像させるような曖昧さを残した絵 であった方が面白いのです。「後ろ美人」という言葉が思い出されます。
 また花を美しいと感じたそのとき、人はその時の花の種類や色、本数、向きその他、説明的な要素にはあまりこだわっていません。 だからそれらがいちいち確定していないほうが想像力を誘発しやすく、 そうした狙いが絵のなかに秘められていて良いと思います。 冒頭の例は、そのような狙いを持った絵画作品と思われます。曖昧さを表に出すことにより、見る者の想像力を誘発しているのです。
 ここで言う曖昧さは、それを補った先に、人それぞれがお気に入りの素晴らしい絵を予感させる、そのような曖昧さでなければなりません。 たとえば、輪郭線にゆがみや切れ目、はみ出しがあったりしますが、 しかしそれらは単なる欠陥ではありません。それらを仮想線でつないでいけば、 自分の好みに合った素晴らしいフォルムが頭に描ける、そうした欠陥なのです。そうした含みを持った絵は、相当な力量を持つ人だけに できる高度な業ではありますが、またそこが多くの人に素敵に感じさせる魅力の源泉であると信じられます。
 こうした曖昧さは、未熟な作品に見られる欠陥とはまったく違います。後者は想像力の誘発という意味では、ほとんど役に立ちません。 効果が計算されて描き込まれた曖昧さではないからです。また逆は真ならず で,、単に曖昧だからと言って、すべてが想像力を誘発させる わけではありません。訳のわからない絵、意味不明な絵も今どき多く見かけます。例外はどこにでもあるということです。
 さて夢に出てくる風景だとか人物、花などのイメージをそのまま絵にすることを考えてみます。形の線については、記憶が怪しいぶん、 曖昧になったり、途切れや、崩れ、ゆがみがあったりします。また色 と色の境界も曖昧で、そこはボカしたりします。脳裏に現れる夢の イメージは、一般にそのようなものかと思われます。冒頭に掲げた作品は。まさに夢に出てくる花を描いたとも言えます。夢の世界と想像の世界は もともと隣り合わせのようです。     2009/1/1

TOPに戻る

10.明暗の奥行き  

 シンフォニー交響楽団の演奏は、囁くように奏でたバイオリンの演奏から、ドラムの大たたきの音に至るまで、 その強弱には極端な変化があります。耳で聞いただけでは数十倍程度の差のよう感じますが、音のエネルギーを実際に測定してみますと、その変化は百万倍にも達すると言います。そこがシンフォニーの迫力なのです。
 さて話題をイメージの世界に移しましょう。よく晴れた日の風景を電子的な受光体で捉えますと、最も明るい点たとえば青空や直射日光を受ける白い壁などと、最も暗い部分、たとえば日陰にある黒ずんだ物体 などとの明るさの比較でも、ときに数千倍あるいはそれ以上の差があるようです。しかし写真の印画紙の場合は、それほどの広がりのある明暗の表現はできません。中間的な明るさの部分の濃淡は比較的鮮明に映し出し ますが、明るさの強いところは露出過度の写真のように一様に白っぽくなり、また暗い影の部分は逆に露出不足の写真のように一様に黒く塗りつぶされてしまいます。
 よくスナップ写真を真似て絵を描く人が居ます。現場にスケッチに行く労を省いたわけです。しかしこのような絵はかなり旨く描けたと思っても、目の肥えた絵の先生にすぐ見破られてしまいます。全体的な色 の鮮やかさとか明暗の奥行きが無く、前述の写真の欠点がそのまま画面に表れているからです。
 しかし肉眼で見る実際の風景はそのようなことが無く、非常に明るい部分も非常に暗い部分もかなり明瞭に認識できます。網膜の受光素子は学説によると、比較的明るい被写体用と、暗い被写体用の二種類用意 されており、それらを無意識のうちにも使い分けているから可能だと言われます。こうして数千倍にも及ぶ強弱の広がりでイメージ信号が脳に伝えられているのです。だから、実景で見る感動は、そうした大きな広がりか ら得られる感動なのです。極端に明るい部分や暗い部分がつぶされて表現力が乏しくなった写真などからは、同じ感動が得られないのは当然なのです。
 油彩画はこの点の解決に工夫をこらします。実際の光の強弱に比例して絵具を配したのでは、印画紙がキャンバスに変っただけで、写真と同じ結果しか得られません。ここでは網膜の受光素子が2種類ある事に 倣います。比較的明るいところと暗いところとで明るさの尺度を切り替えることにより、視神経の実感に近い表現を可能にするのです。たとえば写真では通常白く塗りつぶされてしまいそうなところは、やや暗めにして 濃淡を再現させ、また黒く塗りつぶされてしまいそうなところは、やや明るくして濃淡を表に出すのです。
 モチーフの形の上の特徴を強調するために、屡デフォルメという手段が使われます。それは形の一部を意図的に歪めるやり方で、似顔絵などに良くこの手が使われます。前項に述べたことはまさに光の強弱についてのデフォルメと言えるかもしれません。それは絵画ならではの裏わざなのです。そうすることにより絵画は画面全体にわたって、写真では得られない輝きと精彩を放つのです。      2009/3/1

TOPに戻る

11.スケッチの効用 

  遠く深山幽谷を尋ねるまでもなく、われわれの日常の生活圏にも、素晴らしい、絵にしたくなる風景が沢山あります。しかしそれをカメラに収めてあとでプリントを眺めてみると、そのときの感動がなかなか蘇って来ないし、また絵にするに値しなかったという経験をよくします。想像しますに、現場のシーンは固定されたものではなく、日差しと気候の変化や人の関わりにより、微妙に変化し常に動いていること。また現場での感動は、その変化の中でシーンをある程度理想化し、美化して見ているからだと思います。 
 また身近で親しみのある風景、とくにおらが山やおらが故郷なら、無意識のうちにも理想化や美化をしたくなるものだと思います。  だからキャンバスの上で現場の感動を再現するには、実景に対して、それなりの手入れをする必要があります。そして油彩画はそのような手入れを可能にしてくれるのです。
 たとえば、現場をまず素描で、感性の赴くままにスケッチしてみましょう。つまり、できるだけ短時間で書き下ろしてみることです。こうした素描はある意味で、現場の感動を正直に伝えるものです。デッサンの正確さはこの際あまり問題としません。次にこれを同じ現場の写真と比べます。そこでいろいろな違いがきっと目に付きます。まず素描で強調された部分があると思います。しかしこれは現場の感動を支える要の部分かもしれません。だからそれなりに重視すべきだと思います。
 逆に写真との比較で、素描では描き足りていない部分もいろいろ目に付きます。しかしこれらは多くの場合、写真が描き過ぎ、あるいは説明のし過ぎだと思わなければなりません。説明のし過ぎは絵を充実させるどころか、画面全体を騒々しいものにし、屡絵の焦点をそらしてしまうマイナスの効果があります。
 前記はほんの一例ですが、本制作の前の一枚の素描が屡油彩画ならではの良い作品を造る際の水先案内人になってくれるのです。素描(スケッチ)が重要だとよく言われる理由がここにあります。      2009/12

TOPに戻る

12. 趣味と芸術 

 趣味と芸術との違いをひと言で言うと、「共感性の有無」であると聞いたことがあります。万人とは言わないまでも、 大多数の人に 同じ感動を与えるものが芸術です。例えば音楽などは概ねそうなっております。一つの曲を聴いて10人が10人とも、 ジャンルを超えた同じ感動に 酔いしれます。やれクラシックだ フォークソングだ、流行歌だと、多少の好き嫌いはありますが、総じて共感に誘われると言って良い ように思います。音楽を素直に感じるためには特別の解説も勉強も要りません。音楽はそういう点が誠に素晴らしく、うらやましくも感じます。
 しかし絵画となると事情は少し異なってきます。難しい絵があります。詳しい解説や、かなり予備知識をもってしてもわかりにくい どころか、退屈してし まったりします。また羽目を外したような描き方で、観客を戸惑わせる絵もあります。受け取る人によって大きく評価が分 かれることは屡です。ある人には非常に高い評価を受けるが、他の人には全く評価されないばかりか、嫌悪感を抱かせることすらあります。盾喰う 虫も好き好きと言いますが、芸術というよりは趣味の世界の作品も横行しているようです。
 私は趣味の絵を否定する積もりは毛頭ありません。たとえ芸術との評価は受けなくとも、趣味の絵画として個人が楽しむ分には誰 にもはばかることはあ りません。また怪しげな作品が作者を特異才能の芸術家の気分にさせてくれるのも絵ならではです。それも世間は暖かく 容認してくれます。ただしそれに甘えて、世間の素朴な芸術愛好家を混乱させることさえなければよいのです。絵はもともと趣味的要素が多く 含まれている芸術ですし、またそこが絵の良いところでもあります。
 ともあれ、芸術と趣味との間にはっきりとした線を引くのは難しいようです。時代を超えて不朽の評価を受けるような作品が ありますがそれはまさしく 芸術と言えましょう。しかし他方では、いまは評価が高くとも、世が変わり、人が変わると忘れられてしまいそうな絵、 あるいはそれを予感させるような絵も 沢山あります。粗大ゴミと化し、次の世代の者の困らせるようなものはまさしく趣味的な作品と言えるでしょう。
 最近日経新聞の新聞小説で、たまたま以下のような一節にお目にかかりました。
「日経 小説「薄暮」篠田節子 より ーー(美術館の)学芸員は説明し始めた。「趣味としては絵画ほどポピュラーなものはありません。 絵を買う方 は少ないけれど、プロアマ含めて、描く方は圧倒的に多い。しかし売れる絵を描く方は、ほとんどいないわけですから、描いたものは 溜まりますよね。生きて いる間はいいとして、困るのは亡くなった後です。アトリエや押入れ一杯にキャンバスが入っているけど、亡くなった お爺ちゃんがせっかく描いたものを捨て るのは忍びない。あるいは生前、もらってしまったけれど、邪魔なだけ。しかしゴミで出すのは気が引ける。 それで地域の美術館なら引き取ってくれるだろう とうちに持ち込んでくるんですよ。どこの地方美術館も、そんな始末に困った絵画の集積場になって いるんです。」
 私もこうはならないように気をつけたいと思います。    2007/12/1

TOPに戻る

13.贋作と真作  

  先日「贋作の迷宮」というタイトルのNHKのテレビ番組を観ました。20世紀最大の贋作画家と言われるジョン・マイアットの物語です。
 彼は田舎の学校の美術教師でした。41歳のとき、突然妻に蒸発されました。残された幼子の面倒を見るために、美術教師の仕事を捨てざるを得なくなり、プロ画家としての実績も収入もなかった彼は途方に暮れました。詮方なく有名画家のタッチを真似た絵を描いて好事家に売り、細々と生計を立てることにしました。もとより人を欺く積もりはなく、サインには自分の名前を入れ、正直な贋作として安い値で売っていました。
 ところがある日そうして描いた作品がある詐欺ブローカの手に移り、本物としてオークションに出品され、500万円の値がついたのです。味を占めたブローカは次から次へと、贋作を依頼してきました。彼はブローカの強引さと高収入の誘惑に負けて、悪いこととは知りながら仕事を受けてしまいました。
 彼は絵の才能があるだけでなく、とても器用でした。モネ、マチス、ピカソ、シャガール、モジリアーニ、ゴッホなど、15人以上の画家の贋作を見事に描き分けることができたのです。しかも相当の腕前で、何れも専門家が見抜けないほどの出来栄えだったのです。こうして彼は200枚の贋作を描き、それらは累計で3億円にも達しました。
 しかし悪事は長続きしません。彼はついに警察に捕らえられ、一年の実刑に服しました。 一見まことに正直で人のよさそうな風貌の彼は、自分の天職として大事にしていた絵の道を愚かにも自ら汚してしまったことを後悔しました。彼はもう二度と絵を描くまいと決意して出所しました。
 しかしその彼を待っていたのは以前にも勝る「正直な贋作」の注文でした。有名画家のタッチで家族の肖像画を書いてもらいたいなどの注文が殺到しました。彼は世紀の天才贋作画家として、確固たる評価を受けたのです。ロンドン郊外のギャラリーで開いた彼の「正直な贋作展」も大人気でした。ちなみに今日では、画家ジョンマイアットの作品に対する「正直な贋作」も市場に出回っているそうです。つまり贋作の贋作すら商売になっているのです。
 他方ではまたこれとは逆の話がありました。オーストリアの田舎の小さな修道院の一室に、長い間誰も顧みることなく飾られていた古びた一枚の絵がありました。ある日これが何かの都合で売りに出されました。
 オークションの関係者の一人が、ルーベンスのタッチに似ていると言い出して騒ぎとなりました。科学鑑定の結果は本物だとの判定が出ました。結局それは90億円の高額で落札されたことがごく最近世界の話題になりました。
  しかし以上の事実は、笑って済まされない問題を宿しています。芸術とは何ぞや、名作とは何ぞやが問われており、その本質と信頼にかかわる問題がそこにあります。一攫千金を企む人たちの野心によって、純粋な芸術の世界は常に振り回されているのです。
 ジョン・マイアットのような巧みな贋作者は、有名画家に対する盲目的な人気に水を差すことで、絵画の世界に適度に緊張感を醸し出しています。皮肉にも絵画の健全な進歩に役立っているかもしれません。
 ヨーロッパでは模写も絵の一つの修養法なようで、名作の前で若い画学生が模写をしている風景が有名美術館でよく見られます。贋作画家の養成所にならぬよう、くれぐれもご注意です。      2010/4

TOPに戻る

14.高額作品と評価眼 

  アメリカの雑誌「ライフ」が“世界で最も重要な功績を遺した100傑”として紹介した中に北斎の名がありました。北斎の絵はもはやモナリザと並び評されるほどの存在となっているのです。だが北斎の絵は 昔は日本国内での評価が非常に低く、その結果、かなりの作品が破格の安値で海外に流出しました。一昨年に北斎の100年振り里帰りの絵の展覧会が話題になりましたが、北斎のすごさを最初に見出したのは 海外の絵画愛好家の目でした。北斎はGreat Waveと評された波の表現に生涯をかけ、自然の美をとことんまで追求しました。一時期の日本人は彼の偉大さに気つかず、むしろヨーロッパの油彩画に盲目的に憧れて いたようです。
 ときに過去の有名画家の絵画作品の取引に億単位の超高額の値段がつき、マスコミの話題をさらいます。絵を業とする者にとっては羨望の限りです。現存の画家ですら、権威の頂点にある画家の絵は驚くほどの値段 がつきます。ところで絵の市場価格は即、絵の芸術的価値を示す物差なのでしょうか。他方では芸術的価値が疑わしい古切手や骨董の類にもときに超高額の値段がつきます。これらは芸術性云々ではなく、 単にその時代の大衆の人気度の反映でしかありません。
 絵画評論家や絵好きの著名人などがたまたま有名絵画作品に触れた時の評論が、新聞の芸術欄に時々まみえます。その多くは判で押したようにその作品の芸術性の理由をあれこれ並べ立て、最高の賛辞でコラムを埋め 尽くしています。あの“モナリザの微笑“を論じた解説ですら、恐れながらそんな感じがぬぐえませんでした。つまり市場価格とか大衆の人気度になぞって芸術的価値があるかのように唱えているのです。わたくし はいつも納得がいかないものを感じてきました。しかしだからと言って自己の信念を貫き、世間の大勢に逆らうようなネガティブな批評をすると、業界からの顰蹙に遭い、彼は批評家の仕事を永久に失うかも知れません。 彼にも生活が懸かっているのです。
 つまるところ重要なのは、背後で世の大勢を動かしている一般大衆のセンスの問題かも知れません。戦後日本が経済的に豊かになったある時期、日本人がヨーロッパの有名作家の作品を、内容も見極めずに手当たり 次第に買いあさって世界の顰蹙を買ったという話が思い出されます。北斎の時代も絵画評論家を含めて、一般大衆がしっかりした鑑賞眼をもっておれば、作品の大量の海外流出はなかったのであり、現代の画人達も確り しないと第二の北斎があり得ることだと思います。    2016/8

TOPに戻る