私は録音技師ではありませんし、実際にこれらの特許がどの程度それぞれの時代に適用されたかは知りません。ただ過去にどんな補正法が考えられたかを調べてみました。
Victor Talking Machine時代に考えられた方式。横記録の音溝を矯正標準化する試みでした。実際に応用されたかは定かではありませんが、スプーン型の録音針で音溝をカットした後、回転する丸針=リーマーで原盤を矯正して再生針によるピンチエフェクトをなくすという独創的なアイディアが示されています。松村喜八郎による特開昭55-14537ではカッタ針が信号によって左右に回転するアイデアが示されていますがカッター針には研削負荷が掛かるので回転まで加えると機械的に耐えられなく実現はしなかった模様。ちなみにOwen氏は恐らく世界初の楕円針(Elliptical tungusten stylus)も発明していました(1080924)。註:当時の一般的な再生針は溝の底をトレースする鉄針(溝と全周接触?)でサウンドボックスの針圧が80g以上あったり、ピンチエフェクトにより横記録は縦記録より劣ると考えられていた時代背景も考慮しないと技術的評価を誤ります(ベル研の技術史を概説したページhttp://www.bell-labs.com/about/history/innovations_in_sound.htmlの1931年の項"Vertical disc cutting"参照)。Western ElectricのAlbersheimによる米国特許2310049(1942)も横記録のピンチエフェクト問題の解決法を提案しています(他の特殊溝については別ページ)。LP時代になり開角90度V字の音溝と再生針(溝の横壁の一部に接触する丸針)が標準化されたIEC98(1958)ではトレーシング歪が大きい縦記録のTranscription Recordingを規定するのを止め、モノラル横記録(SP/LP/EP/Transcription Recordings)だけになりました。ピンチエフェクトもトレーシング歪の一種ですが縦記録のトレーシング歪に比べると歪が少ないことが判明したことと(Hunt氏らの研究"On Distortsion in Sound Reproduction from Phonograph Records" J.A.S.A 1938)、民間の録音再生機器で横記録が主流になっていたことがIEC98(1958)に反映されていると思います。SP時代のピックアップヘッドは縦方向の機械インピーダンスが高い(縦方向の感度がない)のでピンチエフェクトにより所定の針圧以上の圧力が加わり音溝を磨耗することが多かったようですー米国Philco社の特許文書2379782-1945 Phonograph Pickupにその問題が検討されています:The impedance of the stylus in opposition to the force resulting from pinch-effect will be referred to hereafter as "vertical stylus impedance"-which terminology is apropos because ordinarily the reaction in question is directed vertically through stylus. The vertical stylus reactance is composed of two factors, namely, the inertia of the stylus and parts actuated thereby, and the mechanical resistance or stiffness of the yieldable mounting structure which supports the stylus.


American Telephone and Telegraph Corporation(AT&T)のEspenschiedの米国特許”Phonograph Recording and Reproducing”ーその申請日はNov. 15, 1919で電気録音再生法が確立するよりも早い時期になされたのは驚きです。The methods of reducing noises (by pre-emphasis on recording) or distortions (by compensation with opposite distortion on recording or reproducing) are indicated.

RCAのUSP2320429: Signal Recording and Reproducing System [compensating the loss of high frequencies depending on groove radius]. もともと33.33回転の古いタイプは内周から録音されていたらしい(理由はいろいろ考えられる:1.内周で録音レベルを設定すれば、外周には問題なく刻める 2.切り屑は糸状になり内周側に引かれるから?)。此処ではコンデンサと抵抗からなるネットワークのタップを切り替える方法が示されていますが、1943年のRigbyとLeedyの発明(US patent 2326564)では連続可変インダクターと抵抗によるautomatic variable equalizerが示されていますーこれらの方法は両刃の剣で周波数特性は一見良くなるが歪は増える傾向にあります(高域のレベルを高くすればするほど再生ロスも増えるのでJVCの特許などでは録音レベルを制限する方向に向かった)。RCA特許の本文ではBarrett氏の英国特許GB443801について「However, the network proposed by Barrett and other similar networks of the prior art have the disadvantage of attenuating the overall response of the amplifier, which is an undesirable feature」と言及しています。同時期同じくRCAのHathawayも録音又は再生Networks(溝径に連動し外周で高域を制限し内周では絞らないattenuator)で補正する方法を米国特許2379707で提示しました。私註:溝径による高域の再生ロスはSP時代だけでなくLPにも存在するので、初期モノラルLPの針の曲率(r1mil)に合わせて同様な録音補正が行われた場合(?)、そのようなLPをステレオ用の丸針の曲率(r0.5mil)で再生すると最内周側で少しハイ上がりに聞こえることがある。現在の特殊形状針が必ずしも過去の盤に対してはHI−FIにならない恐れがあるーイコライザーの適否だけでなく忠実な過去の再生には針の曲率も問題にすべきだろうー33.33回転時で最内周半径6cmの溝をいろいろなチップでトレースした場合の高域再生損失をシミュレーションした結果はグラフを参照(1kHz以上の速度振幅を8cm/s一定とした場合)。2-3mil標準針を使った古いタイプ(coarce groove)の33回転レコードの音質が満足できるものではなかったことも理解できる。そこでIEC98-1958では33回転coarse groove Transcription Recordの最内周音溝は半径95mm以上にするよう推奨した。


内周と外周で線速度が大きく変わる事が高域再生ロスや歪の原因なので線速度一定の録音再生方式もGray社のAudograph (US特許2391784-1945など)で実現しましたが、特殊例に終わりました。音記録の歴史はPhonautogram (1857)/Phonograph cylinder (1877)/Gramophone record (1895)/Wire recording (1898)/Reel-to-reel tape (1940s)/SoundScriber (1945)/Gray Audograph (1945)/Dictabelt (1947)/LP record (1948)/45 rpm record (1949)と続きます。
RCAのKellogもTracing Simulatorの先駆者でした。2種類の発明をしています。2122207は主に溝の曲率を制限してトレーシング歪を減らす工夫で、2284744は(横記録と同じくpush-pullによって)hill-and-dale(垂直録音)の2次歪を減らす工夫でした。


RCA Dynagrooveは丸針のトレーシング歪を補正する本格的なtracing simulatorで60年代には他社も同様な補正録音法を採用したようですが70年代末になって楕円針など特殊針も現れたので再生針の曲率に依存するこの補正録音を止めた模様。次の文章がこの技術の背景を語っています。 "An analysis of tracing distortion shows that lateral cut records are superior to vertical cut records (hill-and-dale). In lateral cut records, the two groove walls, moving in the opposite directions relative to the reproducing stylus center, form a push-pull system which tends to eliminate the even order harmonic and intermodulation components of tracing distortion. In vertical cut records, vertical-lateral stereophonic records, or in 45-45 type stereophonic records the cancellation of even order harmonic and intermodulation distortion does not take place and the tracing distortion problem becomes significant." Fig.2は正弦波を垂直録音した溝上における丸針のトレース軌跡でFig.3は補正録音溝上での丸針のトレース軌跡です。一般的にステレオ録音においては水平トレーシング歪[主に3次]より垂直トレーシング歪[主に2次歪]の方が大きい(詳しくはdistortions.xlsやrecspecs.htmを参照ください)ので、丸針における垂直方向のトレーシング歪〔2次]の補正を目指したようです。Fig.8は従来の歪補正のない録音レコードを再生した時に生じる歪をアンプ側前段のネットワーク(Fig.5と同等)により補正し、歪補正による録音レコードを再生した時にはスイッチ120を閉じて歪補正のネットワークをバイパスするアイデアを示しています。


Dynagrooveのマークがあるレコード(1976年RVC国内盤)に以下のような記述を見つけました。これを見るとDynagrooveプロセスで前処理したテープをRCA本社が供給したので他国や他社でDynagrooveレコードを作る際に困らないようになっていたようです。

TELDECの補正法:ノイマンのホームページによると"During playback, this results in tracing distortion, which mainly contains the 2nd harmonic. In 1968, Neumann built the Tracing Simulator that solved this problem."とあり、ノイマンのカッターレースのプリアンプに実装されたという意味だろう(1964年申請1967年公開DE1232360ではvertical recordingの要素を持つステレオ溝のトレーシング歪を機械的に補正するカッターメカニズムを発表していました)。現在のノイマンはマイクロフォンのメーカーとして生き残りゼンハイザー傘下の一部門でしかない。TELDECの方は1988年WEA Internationalに買い取られ、その開発研究部門は閉鎖された由。ちなみにノイマンのページで<主に2次の歪>とありますが、TELDECの特許は<3次歪を補正する>ものです。補正する方法はTELDECのKlempとRedlichによって既にJAES(April 1965)にA New Method of Disc Recording for Reproduction with Reduced Distortion: The Tracing Simulatorの表題で発表されていて"By means of an analog-computer technique, geometric playback distortions are simulated during disc recording. Second- and third-order harmonics are recorded so that the vertical and lateral components are free of tracing distortion in playback and pinch-effect distortion is removed in lateral recording. The method also offers the possibility of correcting the vertical recording angle by electrical means. "とあります。
2次の垂直トレーシング歪は量的には3次の水平トレーシング歪より多いので従来は2次歪の補正を主眼としていたが、この特許では「2次歪を従来の方法で補正すると今度は3次歪が突出してしまう問題」に焦点を絞り従来の方法に加えてそれとは別に3次歪を抑える方法を提示したようです。補正信号の式(1)は3次(3ωt)のトレーシング歪の式を示しています。


東芝の補正法PTS(=Pinchless Tracing Simulator):主にピンチエフェクトの影響による縦方向の歪[水平方向の信号の2倍の高調波]を補正する工夫でした。正弦波の場合にはFIG.2のように変形(補正)した溝整形になり、それを丸針でトレースした時、水平記録モノラル溝上の針との接触点高さが一定になるわけです。RCAの垂直信号補正に対して東芝のこの方式は水平信号補正のように見えます。RCA Fig.3と東芝のFIG.2は相似形です。



JVCの特許は速度振幅を可変制限して内周の歪を減らす試みでした。1943年RCAのHasbrouckと比較すると録音レベルをコントロールすることで内周側の周波数特性を維持しているようにみえる。4chレコード製作に関連する別の特許(4010333-1977&4137430-1979)では従来のtracing simulatorと同様に再生時予想される歪波形を原波形に混ぜて録音する方法も別のビクターの技師たちによって提示されています[おそらくtracing simulatorとしては最後の文献]。再生針の曲率に依存する補正録音をいくら追求しても、いろんな形状の再生針が開発されてからは後の祭り。外国の他の特許の中には面白いアイディアとして:<内周側の録音レベルを落とし再生側で自動レベル調整>や<手を加えずそのままのレベルで録音し再生側で高域損失を補填する自動イコライザー可変>なども散見されますが、いずれも再生側機器への要件が厳しく実用化されなかったようですーコンピュータ時代の現在では難しいことではないのですが、余りにもアイディアが先行しすぎた。

補正録音は丸針の曲率半径に依存するので、0.7milの丸針を想定した録音補正がなされているレコードをHI-FIな特殊形状針で再生すると補正歪そのものを再生してしまうのではないかという疑問があります。「レコードとレコードプレーヤ」P.108では以下のように説明されていました。これはあくまでも理論上の弁明のように思われますー何故なら補正録音波形をひずみなく録音すること自体困難だからです。
その他考慮しなくてはならない問題は、再生針先半径をどの値に設定するかということですが、現在普及している2chステレオ・レコード用PUカートリッジの再生針先半径は0.7ミル(=17.8μ)のものが多いことから、その値にセットされるケースが多いのです。
しかし、仮にそのようなレコードを0.5ミル(=12.7μ)の再生針先半径のPUで再生する状態を考えると、図3・106のようになって、結果的には0.2ミル(5μ)相当の再生針先半径を持つPUでひずまない音溝をトレースしたのとおなじだけのひずみが残留することになります。
すなわち、実際のPUに取り付けられている再生針の半径をrとし、トレーシング・シミュレーションでセットされた補正針先半径をr0とすると、|r-r0|の大きさの再生針で再生したときとおなじひずみ量になり、|r-r0|<rなので、いずれにしてもトレーシング歪は減少するのです。

現在、レコードに適用される録音方法には上記のような型にはまった自動補正は一般には使われず、カッティング技師の職人的な裁量に任せた形になっているようです。その理由は、録音現場からのボイコットや職人としてのプライドだったのかもしれません。いろんなカッター機器を集めてデーターベース化しているページ[スイスの若い録音技師のページ]を見ると、<新技術による便利な装置が音質的には必ずしも良いことにならない>ことも報告されています。カッティングレベル(ダイナミックレンジ)と周波数特性のバランスが良い録音を音的には良いレコードとすれば、数々の名録音は録音技師+カッティング技師の努力の成果なのだと感じます。 余談:演奏音量は再生音量より一般に高いレベルなので、そのまま録音し歪みの無い低い音量で聴くと物足りなく感じることがあります。それを補正するためにフレッチャ・マンソンカーブと呼ばれるラウドネス曲線に基づいて周波数バランスをフラットではない方向(圧縮compression延長expansion)で録音することが多く試みられました(RCAのRichterによる米国特許3229038参照)。しかしながらそのようなレコード音源を大音量で再生したらバランスが崩れたものになってしまいます。レコードの器楽コンチェルト録音はピアノやバイオリン独奏部がオケに比べてオンマイク気味で強調されすぎて実演のバランスとはかけ離れていることが多い。最近のCDの素直な録音の方が実演のバランスに近いのですが、レコードを聴きなれたオーディオ耳には物足りなく聞こえたりする。再生音量によってそのアナログ盤の印象が変わる経験を持たないオーディオマニアは居ないでしょう。昔のアンプにはLoudnessポジションが付いていましたが、大音量で圧縮音源を再生する時には逆ラウドネス・カーブを持ったトーンコントロールが必要になりますね。再生音量にも正解なし、ただ個人の裁量によるのみ。マンションの遮音性能についての記事を読んだら面白いことが書いてありました。「遮音性は高すぎても低すぎてもよくないということがあります。静かな住宅地にあるマンションで、遮音性の極めて高いサッシを利用すると、通常は気にならない音にまで過剰に反応してしまうことがありますので注意が必要です。」
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