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1990年代前半
台湾一周
1990年9月20日〜25日
38名で台北、花連、高雄、台南、台中、台北と台湾を一周する。
9月20日 UA137便にて18時30分成田空港離陸。20時55分台北中正空港に到着。専用バスにて一路市内へ。出迎えのガイド陳さんは花蓮まで同行する。ホテルは、民権東路の美麗華大酒店(ミラーホテル)。夜更けのホテルに早速女ポン引き出現!さすが台湾。
9月21日 9時20分ホテル出発。市内の国内線空港へ。10時20分の「遠東航空」EF307便で花蓮へ10時50分着。台湾東部の最大都市花蓮は、太魯閣峡谷と阿美族の踊りでも有名。また、大理石の産地で舗道の敷石からレストランの灰皿まですべて大理石。昼食後、太魯閣峡谷観光、夜は阿美族踊り鑑賞。鮮やかな色彩と、手首、足首につけた鈴の音色がリズミカルだ。クライマックスには、踊り子たちに誘われて、観客も手をつないで一緒に踊ることとなる。宿は永興路の花蓮中信大酒店。
9月22日 今日も快晴。9時出発。花蓮といえば大理石で、早速大理石工場へ。40d、50dもの大理石のダイナミックなカッティング、仕上げ工程を見学。併設のショッピングセンターで買い物に大忙し。午後は高雄へ移動。12時20分発国内線EF926便で13時10分高雄着。昼食後、高雄市内観光へ。高雄は台北に次ぐ国際近代都市で、また世界十大港の一つに数えられている港町としても有名。ここもまたバイクラッシュで街の活気のバロメーターでもある。中国大陸の西湖八景を模した澄清湖や、観光ポスターでお馴染みの蓮池潭が有名。夕食はレストランで台湾料理。紹興酒の酔い覚ましは名物六合二路の夜市見物。ホテルはここも、高雄中信大酒店。
9月23日 ここからUターンして、今日は中部山中の日月潭へ向けて高速道を北上。車内ではガイドの鐘さんのカラオケサービス。約1時間で台南到着。孔子廟、延平郡王祠などを訪ね、昼食、ショッピングの後、長駆、日月潭へ、途中の車内は、台湾ビールの酔いも手伝ってのカラオケ競演(?)近くのバナナ園、湖畔のお寺へ寄り、午後6時、宿の日月潭大酒店に到着。どの部屋からも日月潭の夕陽が望めるとかで有名だ。
9月24日 台中経由で最後の宿泊地台北へ戻る。8時ホテル出発。台北まで4時間の長旅。台中で下車して市内観光。にっこり微笑の布袋様の宝覚寺、日本人墓地に手を合わせバスに乗車。11時過ぎ新竹で小休止。ここはかって、向田邦子さんが航空機事故死した所。心より彼女のご冥福を祈った。台北市街を見下ろす丘の上にある超デラックスホテル圓山大酒店を眺めながら市内へ。昼食後、国民革命忠烈祠、故宮博物院、中正記念館、総統府、議事堂などを見学。台北の宿は、最初に泊まった美麗華大酒店。あっというまの5日間が過ぎ今夜は市内のレストランでお別れパーティ。紹興酒と台湾ビールの飲み納め。
9月25日 UA828便にて一路帰国。台北離陸のUA便はガタ揺れのサービスつきだった。
花連・太魯閣渓谷 阿美族民族舞踊
高雄への機内から 高雄・蓮池漂
台南・赤嵌楼 途中のバナナ園で
台中・寶覚寺 台北・台湾故宮

台北で
上海〜無錫〜上海
1991年2月8日〜11日
有志8名で真冬の中国へ、この年から有志での冬の中国旅行が始まる。上海のホテル地下のカラオケバーで演歌で日中友好を行う。
2月8日 飛行時間3時間。免税店のウィスキーでとろんとしたと思ったら眼下に中国大陸が見えだして下降、旋回し着陸態勢に入った機の窓に、見覚えの上海の街並みがぐっとせり上がって来た。入国審査パス。8人の「日本老年組」は出迎えのガイドと対面。中国旅行社の若いガイド嬢秦さん北京外語大卒、22歳とは思えぬあどけない素顔が爽やか。老年組もまずは安心。空港から市内へ。上海訪問は3回、5回の一行と聞いて申し訳なさそうに差し出す「上海案内」を片手に、手持ち無沙汰の秦ガイドに、最近の物価・住宅事情など一応の経済的?質問。模範的回答にうなづきながら、窓外の街並みを観察する。夕方のラッシュが始まった市街は、通勤自転車の洪水と満員バス、車のクラクション、バス停に群がる人々や街路頭上に干された洗濯物の下を行き交う人々。無錫への列車待ち時間を駅前のレストランで夕食。先ずは老酒で乾杯。1本3元(約80円)也。春節(旧正月)を目前に、帰省客でごった返す上海駅の我ら外人客用待合室はがらんとして人けなし。天安門、湾岸戦争が陰を落として、日本をはじめ欧米の旅行者がた減りで、中国国鉄、旅行社は目下渋い表情だ。南京行の客快(急行)336列車は20時15分定刻発車。無錫までは128q、約2時間。15輌編成の1輌が軟座車(グリーン車)、他の硬座車(普通車)は満席だが、軟座車は我ら8人の老年組と、自称?香港旅行団のオバサン連中だけで車内はがらがら。座席の真ん中の小卓へ中国茶碗を無雑作に並べ、年配の女性車掌?が事務的に龍井茶サービス途中停車駅の蘇州までは1時間半。頃合いを見計らって、女性車掌?は車内販売員に変身、ちょっとは笑顔でお馴染みの「掛け軸」を仲間で8本購入、引き揚げたと思ったら次はスカーフの箱を抱えて販売。これも10数枚購入し中国の発展に寄与。今夜の宿は太湖畔の「湖濱飯店」。
2月9日 終日、無錫市内観光で前にも来ている錫恵公園、泥人形工場等の見学と太湖遊覧して18時36分の列車で上海に戻る。上海の宿は「上海賓館」明日も同じ。
2月10日 終日上海市内観光で、玉仏寺、豫園、ガーデンブリッジ、魯迅公園、上海動物園でパンダとご対面。無錫、上海で、昼も夜も紹興酒で乾杯。年代物の紹興酒はホテルで10元(250円)街の食堂では3元から5元、日本の十分の一以下の値段に驚嘆。本場老酒を堪能。上海最後の夜はホテルの地下のカラオケバーに繰り出した。広い客席はほぼ満員で、リクエストの順番待ちは1時間。上海ビールをラッパ飲み。3時間粘って一人3曲。台湾、香港あたりのギャルの得体の知れない歌にも友好的拍手。こちらは「湯の町エレジー」「愛染かつら」はては「チャンチキおけさ」の熱唱。国際カラオケ交流。熱烈友好的拍手交換。中国服の美人ホステスを侍らせて、日本老人組もご機嫌。
2月11日 朝のMU便で帰国。
上海駅軟臥車待合室 車中にて

無錫・太湖畔 無錫・錫恵公園
上海・玉仏寺 上海・豫園
上海・魯迅公園

上海動物園のパンダ
大連〜瀋陽〜北京
大連・瀋陽・北京の旅
1991年9月5日〜11日
本ツアー最高の56名参加。大連、瀋陽間の列車は私たち用に荷物車の後の最後尾に1車両増結されるが、座席が足らず10名ほどは他の車両へ離れる。
9月5日 18時0分、1時間遅れのCA952便で成田離陸。夕食は「機内食」メニューはまずまず。おりからの空腹に持参の気付け薬がほどよく利いて、民航独特の無愛想サービス(?)も気にならず、まずは「好吃(よろしく)}21時50分大連空港着陸。狭い空港での入国審査も順調完了。出迎えの中国国際旅行社の張さん、大連分社のガイド李さんらと「ニイハオ」。斯林路の大連国際酒店(ホテル)へ直行する。
9月6日 快晴の大連市内観光。先ずは大連港へ。昔は「青泥」という一漁村だった大連も今は人口500万、中国北端の不凍港を擁し対外貿易の拠点となっている。エレベーターで上がった展望台からは、港内の活気と「北海の真珠」の名のごとく美しい街並みが眼下に展開する。星海公園、老虎灘は黄海に面したリゾート地。大連きっての海水浴場や娯楽施設が並ぶ遊園地も今はシーズンオフで閑散としている。ガラス工芸とともに大連の名産の貝殻細工工場を見学。隣の国際展覧館で早速ショッピング。レストランの昼食は、期待の海鮮料理とまではいかず、さては料金のせいかなどの声あり。駆け足の大連観光を終えて、14時25分発の列車で瀋陽へ。「斎斎哈爾(チチハル)」行きの直快(急行)列車に分散乗車。窓も錆び付いたオンボロ軟臥車(寝台車)でなんと7時間のがまん汽車の旅。遼東半島から遼河平原へ。一望の高梁畑の果てに沈む夕日に大陸の旅情を満喫。不味い弁当をぱくついて、海城、鞍山、遼陽を経て21時20分に瀋陽到着。ホテルは駅近く THE ROSE HOTEL(中国語の漢字がでません)
9月7日 瀋陽は遼寧省の省都。北京遷都前の清朝の都で「盛京」ともいわれ、遷都後は「奉天」と改称。例の悪玉関東軍の根拠地。日本敗戦後また瀋陽に戻った。人口511万、中国の有数の重工業都市で東北地方の政治・経済・文化の中心とガイド氏が胸を張る。市内観光はさておき、と先ずは郊外の露天掘り「撫順炭坑」へ、3台のバスに分乗、折からの出勤ラッシュの市内を抜けて、ポプラ並木の高速道を50`、約1時間で石炭の街撫順に到着。中国最大の撫順炭坑は、東西6,6キロ南北の幅は2,2`採掘現場は地表からの坑深280b、将来は450bに掘るという。採掘現場には石炭を牽引する何台もの電気機関車が見えた。1万6千人の従業員が24時間3交代で掘る石炭は年間500万トンとか。折からの秋霞の中の露天地の広大さに息をのむ。このあたりの民家も石炭層の上ときいてまたびっくり。ホテルへ戻って昼食。午後は博物館、北陵公園など市内観光。
9月8日 今日も快晴。なんと5時起床のねぼけ眼で、朝食もそこそこに出発。高速道を110`の猛スピートで疾走。市外の東塔空港へ。8時50分、国内北方航空便にて北京へ向けてフライト。眼下に河北の山並みが現れるとまもなく「万里の長城」の上空にさしかかり、機内は騒然。秦の始皇帝がみたら目を剥くだろう。10時20分北京空港に着陸。「北京秋天」ながらやや暑し。さすがは首都北京。3日間の移動は大型バス2台。レストランで昼食後、宿泊するホテル前門飯店へ。小憩後の市内観光の皮切りは「天壇公園」。ここの「天壇」は明・清歴代皇帝の祭壇で、梁や釘を一本も使わぬ円形三層の祭壇「祈年殿」の豪華さに、感嘆の声があがる。次は前門近くの南新華街にある「瑠璃廠(ルリチャン)」。中国随一の骨董品街。街路の東西に、清代風に改装された「栄宝齋」「中国書店」など、書画骨董や古書の店がずらりと並ぶ。眼の保養をすませ腹も減ったところで、夕食は淮揚春飯店の北京料理。老酒で気力回復。夜は27劇場の「北京雑伎」を見物。有名な「上海雑伎」と違い、舞台で演ずる、いわゆる「舞台サーカス」だ。
9月9日 中国観光のメイン「万里の長城」へ。9時出発。今回は先ず「明の十三陵」への逆回りコース。十三陵は、北京市内から西北50`、天寿山の裾野に点在する明代皇帝13人の墳墓。
その一つの「定陵」は、13代皇帝の万暦帝とその二人の皇后の墓。墓造りに熱中した彼は、銀800万両と6年の年月、おびただしい人民を酷使してこれを完成した。地下20bの「地下宮殿」への長い階段を下りてゆく。皇帝の威厳と搾取を偲ぶ人々でお墓の中まで大混雑。様変わりの世の中に皇帝らもびっくり、苦笑いか。十三陵を後にして「長城」へ。八達嶺の山並みが迫り、「万里の長城」が眼前に姿を現す。12時40分到着。レストラン、土産物店や露店が並び、雑踏するあたりの光景に、ありきたりの観光地に変貌、俗化した周辺のたたずまいに幻滅。3回目の「長城」に13年前の新鮮な感動はなかった。入り口のレストラン(八達嶺外賓餐庁)で万里の長城を眺めつつ昼食。腹拵えを終え「長城」へ。人類最大の遺産の一つ、月から見える唯一の建造物「万里の長城」は遠く紀元前3・4世紀の戦国時代、燕、趙、秦などが北方遊牧民族の侵略を防ぐために造ったが、秦の始皇帝が、30万の軍兵と数百万人の農民を動員し、10年の歳月をかけて、それまでのちぎれちぎれの長城を繋いだ。その後、明の時代に改築。東は渤海湾の山海関から西はゴビ砂漠の嘉峡関まで、全長6,350`、中国の里程で1万2,700里となる所から万里の長城と呼ばれる。明代に焼かれた長城の煉瓦は堅く、あの落書きだらけの煉瓦は、新中国になって修復された部分のもので、明代のそれは、600年の風化に耐えてなお、果物ナイフなどの彫り込みの落書きを拒絶しているのだ、という話を聴いた。夕食は、名物「北京ダック」。紫金宮飯店2階の「大阪徐園」。その名のとおり、ここは日本人経営の店。店内装飾も日本風。専門店「全聚徳」仕込みの板前さんの手による本場のダックを堪能。
9月10日 長城の風が南風と思ったら、今日は曇り、北京3日目は市内観光。先ず「天安門」。あの事件も夢物語風に、広場は国内外の観光客で一杯。地下道になんとスリも出没。3度目の天安門に立つ。10月の国慶節を間近に、化粧直しの最中。広い「故宮」はかけ足参観、と思いきや、ガイドの国際旅行社「任」主任の熱弁ここでも大いに振るい、あわてて「簡潔に」と要望。(※「任」主任は後日、天皇陛下が万里の長城をご訪問された時のガイド)午後は「頤和園」。北京の西北にある、北京最大の公園。清代の西太后が贅沢の限りを尽くして晩年を過ごした所として有名。人造湖の昆明湖と湖を掘った土でできた万寿山が後ろにそびえる。アヘン戦争で破壊され、荒れ果てていたのを、政権を握った西太后が日清戦争の軍事費を流用して改修、頤和園と命名。優雅な日々を送ったが、おかげで戦争は惨敗、となったとか。全長728bという驚くべき長廊下の柱や天井に華麗な絵画や装飾がある。最後は、友誼商店でショッピング。外は雨。北京お別れの夕食は「満漢全席」。いわゆる北京名物「宮廷料理」。天壇路の北京市御膳飯店へ。宮廷衣装の美女のお出迎えと、15品目のメニュー。それにふさわしからぬ(?)老酒の酔いで、なにやら変な皇帝気分。その後、有志でカラオケへ。
9月11日 あっというまの7日間が過ぎて、5時半に起床。慌ただしく空港へ向けて出発。バスの中で、若手ガイドの張さんがお別れ挨拶。夕べのカラオケバーでは歌わなかったが、ここで一曲披露の歌は「我愛天安門」。幼児も歌う愛国のメロデーが懐かしい。「再見」張さん。CA925便で9時50分北京空港離陸。
大連市港湾局屋上にて 大連.北大橋で
車窓よりの紅い夕陽 撫順炭坑見学休憩所にて
露天掘りの撫順炭坑
瀋陽・北陵公園 北京・天壇公園祈年殿
北京・定陵 八達嶺万里の長城
北京・大阪徐園北京ダック 北京・天安門広場にて
北京・故宮 北京・頤和園
上海〜杭州〜紹興〜上海
1992年2月8日〜11日
伜同行、14名で紹興酒の本場と呉越同舟の旅。
2月8日 JL795便は成田空港を離陸し、長崎経由で上海紅橋空港に着陸。空港近くのレストランで遅い昼食。早速紹興酒で乾杯。腹ごしらえを済ませ、杭州へ行くための列車の時間待ちと、ほろ酔い気分の一行を乗せたバスは上海市街を巡回。ガーデンブリッジで、記念撮影をパチパチ。蘇州河の冷たい川風に酔いを覚まして、夕刻の列車に乗車。17時15分発重慶行き直快(急行)の軟座車(グリーン車)は、本土訪問の台湾ギャルなどでほぼ満席。車内は,
ときならぬ日台交歓の場となる。杭州のホテルは、西湖北側湖畔にある望湖飯店。
2月9日 中国国際旅行社杭州分社女性通訳(ガイド)の案内で、曇り日で底冷えの杭州市内遊覧。「天に天堂(天国)地に蘇・杭(蘇州・杭州)在り」といわれた地上の楽園も冬は形無し。シンボル「西湖」も人影まばら。寒い遊覧船に一行肩寄せ合い、ここらで熱燗欲しいやの声しきり。「あれが『白堤』こちらが『蘇堤』・・・・」陳さんのガイドもうわの空。「孤山」「湖心亭」「三潭印月」などの「西湖十景」も身につかず、ほうほうの態で船をあとにする。粉雪ちらつく「六和塔」で寒い記念撮影。ホテルに戻り昼食。冷めた体を紹興酒で温め、元気を取り戻して午後の市内遊覧を終え。18時03分発寧波行き快客(急行)列車で、今回のメイン訪問地、紹興市へ向けて勇躍?出発。19時10分、紹興着。出迎えのガイドは、紹興支社の謝さん。バスで駅から5分、寒くて薄暗い街を少し走って、ホテル紹興飯店へ到着。夕食は紹興の郷土料理を肴に、2400年の伝統を誇る本場紹興酒(老酒)を早速賞味。一同、中国銘酒のふるさとに、今たどりついたる思い入れよろしくの態でした。
2月10日 紹興は曇り、気温4度。かっての春秋戦国時代(紀元前770〜221年)越王の勾践が首都と定めた紹興は、風光明媚な水の都として人々に愛され、張りめぐらされた運河から「東洋のベニス」と呼ばれた。くすんだ黒瓦の屋根、古風な家並みや崩れかけた漆喰の白壁に、古都紹興の面影を見ることができる。紹興はまた、近代中国の作家であり、思想家であった「魯迅」生誕の地であり、魯迅ゆかりの名所が点在する。さらには、晋代(300年ごろ)の名書家「王義之」が晩年をここに過ごし、文人を招いての「曲水流觴の宴」を張った「蘭亭」は書道の聖地とされている。かくて紹興は、歴史と文化の薫り高い町でもあり、国内外の訪問客を集めている。紹興酒だけの町ではないのである。
とはいうものの、参観の手始めは、ホテルに近い酒造工場からとなり、訪れたのは「紹興市醸造総公司」(紹興市酒造工場)。広い構内は大小の老酒の甕で埋まり、鼻に覚え?の紹興酒の甘い香りが漂う。接待所で女性説明員から、紹興酒についての予備知識を拝聴「この紹興酒は、2400年前から製造。年間生産量は4万3000dで60%は海外へ輸出、40%が国内向け。加飯酒、元紅酒(げんこう酒)、香雪酒(こうせつ酒)、善醸酒(ぜんじょう酒)の4種類があり、日本に輸出されるのは主に酒質の安定度の高い加飯酒で、コクのある辛口である。原料の米はもち米。中国では、女の子が生まれると紹興酒の壺を庭に埋め、その子が嫁ぐ日に掘り出すという習慣がある。この酒を花彫酒(かちょう酒)といい、じっくりと寝かされてコクの増したもの、それが老酒である」などなど。「1915年のパナマ博覧会、1985年パリ・マドリードの博覧会、同年の北京食物展覧会などで金メタル獲得」と胸を張る。一同感嘆。葡萄酒めいたものを交えた試飲用の老酒をなめて、さて、その醸造過程の見学の申し出には、なんと企業秘密で不許可。しからば売店へ直行し、「国賓接待用」の特製「加飯酒」2本セット2個購入(成田空港で1本オーバーなので100円を税金で払う)。その他に一同本場老酒の瓶や甕を抱えてにっこり記念撮影。次は歴史と文化を訪ねてと、先ずは蘭渚山麓の「蘭亭」を見学。造園技術の枠を凝らした風雅な「曲水の庭」で記念撮影。「蘭亭碑」「鵝池碑」などの亭内を参観。一方念願の本場の紹興酒を飲むことは、魯迅先生には申し訳ないが「記念館」「三味書屋」パスして、なんと記念館の隣の居酒屋「咸享(かんきょう)酒店」へ直行。この酒場は魯迅の作品にもしばしば登場する有名な?店とか。最近復元された店は、あいにく婚礼祝いの酒を酌み交わす人々で店内は満員。ガイドの謝さんのはからいで遠路遙々きた私達に、庭前にテーブルと椅子も持ちだしての、にわか造りの青空酒場で乾杯。酒店特製の「臭豆腐」の鼻を突く臭気にも馴れてご機嫌。ホテルに戻って昼食。また紹興酒。午後は中国伝説上の夏王朝、禹王の墓のある「禹陵」へ。この地の治水に専念した禹王の徳を知る。紹興発16時30分発特快(特急)で22時8分上海着。ホテルは遠洋賓館。
2月11日 午前中は、お馴染みの黄浦公園付近の散策と上海友誼商店でのお土産購入。上海空港14時発JL796便にて長崎経由19時に成田に着く。
杭州・西湖 杭州・霊隠寺
杭州・六和塔 杭州・六和塔からの銭塘江
紹興・紹興酒製造工場
紹興・咸亨酒店
紹興・蘭亭
紹興・大禹陵 紹興・大禹陵の入り口
上海〜成都〜昆明〜上海
成昆鉄道の旅
1992年9月19日〜25日
48名の仲間で四川省、雲南省の省都へ、成都〜昆明は飛行機と列車組に分かれ、私は1,100キロ24時間列車の旅。雄大な3段式ループ鉄道を堪能。
9月19日 中国東方航空5772便で14時55分成田空港離陸。17時35分上海紅橋空港へ着陸。上海の銀座通り「南京路」を凄まじい雑踏を抜け、ホテル遠洋賓館へ。
9月20日 終日、おなじみの上海市内遊覧。夕方空港へ。18時5分成都行き西南航空4502便で上海離陸。市街の灯火が視界から消えて、暗黒の大陸を眼下に一路西南に飛ぶこと約2時間半、四川平原に灯りがちらついて、20時45分成都空港に安着。パンダが熱烈歓迎。市内の「四川賓館」で早速四川料理の夕食。「百種の料理があれば、必ず百種の風味あり」といわれる四川料理は、北京、上海、広東などと並ぶ中国料理の華だが、唐辛子、山椒などを多用した独特な風味も、その凄まじい辛さに、口中たちまち火のごとく燃え上がり、おなじみ麻婆さん考案の激辛「麻婆豆腐」も一口食べて飛び上がり、汗かいて・涙流して・鼻水垂らすの三拍子。一同お手上げ。
9月21日 成都は「三国志」ゆかりの地である。朝食もそこそこにホテル出発。成都観光の目玉、市の南部にある「武候祠」へ、ここは、三国志の蜀の知将諸葛孔明を祀った祠堂で、明代に隣接する劉備の墓昭烈廟と合体、君臣ともに祀る「君臣合廟」となった。「武候」は孔明の死後おくられた名前で、古来よりここが武候祠と呼ばれてきたのは、孔明が劉備よりいっそう深く慕われていたためといわれる。門内の「劉備殿」には黄金の劉備像、側棟には関羽、張飛をはじめ、28人の文官武将の像が遠来の日本旅人を出迎え。その奥に襟を正した諸葛像がある。天下統一に腐心し、五丈原で戦死した三国志の英雄に敬礼。次は市の西郊、浣花渓のほとりにある、詩人杜甫居住した「杜甫草堂」へ。この堂は李白、白楽天と並ぶ盛唐の三大詩人杜甫が浣花渓という小川のほとりに茅屋を建て、4年ほど住みここで247首の詩篇を書いた「おなじみの「国散れ
て山河在り、城春にして草木深・・・」杜甫のこれは有名な「春望」の一節だ。この詩聖杜甫を記念し、宋の時代に祠を創建。境内には、詩史堂、工部祠、「小陵墓堂」の石碑や文化財がいろいろある。その後、綿織の職人が仕上がった綿を洗ったという「綿江」のほとりにある望江楼公園へ。唐代女流詩人薛涛を記念し、清代初期に造られたもの。竹を好んだ薛涛にちなんで、園内には80数種におよぶ見事な竹が植えられている。園内には観光客をあてこみ。なんと駱駝も登場。仲間のおばさん達を乗せて外貨獲得に一役。土産店で目につくのが「風林火山」の文字。名だたる孫子の「疾きこと風の如く、静かなること林の如し、侵略は火の如く、動かざること山の如し」とか。ガイド市は「日本の武田信玄さんがこれを借用しました、こちらが本場」と胸を張る。
9月21日 刺繍工場、自由市場など市内観光後、飛行機組と別れた32名の列車組は、市内のレストランで夕食を終え、成都駅に向かう。今次訪中の旅のメイン?でもある「成昆鉄道苦難の旅」への挑戦である。中国南部、四川、雲南の山岳地帯を走る成昆鉄道は成都から昆明までの1,100q、沿線はすべて山の中。427ヶ所のトンネルと653ヶ所の鉄橋の全長は約400q、全線の4割を占める。1970年に完成したこの路線は、四川、雲南を結ぶ唯一の輸送路で、雲南からベトナム国境への物資輸送という重要路線であった。東風型ジーゼル機関車を先頭に、食堂車、郵便車、それの我ら外人用の軟臥車(寝台車)を増結。「成都ー昆明」の車両プレートを
感慨こめて眺めつつ一同乗車。93次特快(特急)は21時15分定時発車。昆明へは明日の20時56分に着く。コンパートメントは4人、缶ビール、老酒でまずは乾杯。それにしても、特急列車とは名のみで蒸し暑い車内に扇風機が一つ、窓は錆び付いて開かないし、湯茶も有料、秘境路線とはいえ、乗せてやるだけの中国国鉄。ぶつぶついいながら、老酒の酔いでうとうと。「西遊記」でおなじみの蛾眉山のある蛾眉に0時近くに停車。さりとは知らずうとうと。次の燕崗という小駅で11分停車。機関車をつけかえ、2両で牽引する「重連」となり、成昆鉄道ならではの急勾配にさしかかるわけだが、日程上とはいえ、このあたりからの数時間、明るい時に通れば、と悔やまれる。普雄駅を過ぎて夜が明けてくる。寝ぼけ眼を擦りながら窓外を眺めれば、長江支流の大渡河の両岸は険しい岩峰や絶壁が迫り、トンネル、鉄橋、ループ線の連続。このあたりが標高2,300b、成昆鉄道の最高地点とか。眼前に展開する素晴らしい景観に息を?み、山岳鉄道の醍醐味をしばらく満喫する。12時、金江駅着。一同食堂車へ。味付けも手頃で良好だが、なにしろ昨日からの激辛四川料理から車内の飲み過ぎ、食べ過ぎで腹具合不良気味、食欲皆無模様で、食堂車料理長心づくしの名菜も青息吐息で観賞?するのみ。なにやかやで、疲労こんぱいの中、長い24時間汽車旅に耐えて、15分遅れの21時過ぎに昆明駅に到着。駅名標をバックに記念撮影。ホテルの綿華大酒店でひとあし先に到着の飛行機組と合流。
9月23日 昆明は快晴。ミャンマー、ベトナム、ラオスと国境を接する雲南省の省都昆明は、海抜1,900bの高原都市で藤沢市の姉妹都市となっている。四季温暖で「春城」の別名を持ち、人口192万、21の少数民族が住む。今日は終日「石林」観光。市の東南126qカルスト地形の奇景「石林」は3億年も前に海底の石灰岩が地殻変動で陸地になり、数千万年にわたる雨水の浸食でできた石柱群。屹立する岩の柱を縫う遊歩道を汗だくで辿り、てっぺんの望峰亭からの素晴らしい遠望に、まさに天下の奇景絶景なりと一同感嘆の声をあげる。ホテルへ戻り小休止。元気回復。夕食は市内の金龍飯店のディナーショウ。民族衣装をまとった美女の踊りをたっぷり鑑賞。
9月24日 民族美女の夢も半ばに、早朝起床。雲南航空4541便でまた上海へ。着後、市内のシルク工場「雲花服装廠」へ。高温多湿の上海では、シルクの下着がおおもてとか。午後は市内参観組と自由行動組に別れ夕刻友誼商店で合流、お土産ショッピング。華僑飯店で特別料理のお別れ晩餐会。戻ったホテルでは、10名の仲間が往きのレストランで1テーブル10名が飾ってあった掛け軸30枚全部買い占めた?その掛け軸のアミダ分配で歓声があがる。
9月25日 あっというまの7日間が過ぎ、中国東方航空523便で再見中国。
上海・宿泊した遠洋賓館前で 成都・望江楼公園
成都・武候祠 成都。刺繍工場
ループ式成昆鉄道
24時間列車の旅後の昆明駅ホームにて 石林
昆明・民族舞踊
北京〜天津〜北京
1993年2月5日〜8日
11名で天津甘栗のルーツ探訪?北京では慕田峪万里の長城、蘆溝橋を視察。
2月5日 NH905便で10時30分成田空港離陸。現地時間13時50分に北京空港に着陸。中国国際旅行社天津分社の女性ガイド趙さんがにこやかにお出迎え。ニイハオもそこそこに専用バスで天津目指して出発。高速道路を東南へ約170q、快走する車内で趙さんの天津案内「渤海湾に面し首都北京の海の玄関と呼ばれる天津市は、北京、上海とともに中央直轄市で、行政、産業、交通上の重要な位置をしめている」などなど。天津の歴史・沿革からみどころまでの名ガイドが続くが、肝心の「天津甘栗」が登場しない。しびれを切らして質問に、怪訝な顔の趙さん答えて曰く「甘栗は天津名物ではありません。たぶん天津港から積み出したのでそう言われるでしょう」に一同がっくり。趙さんが「季節外れだがどこかにあります。探してみましょう」と慰める。さて夕食は和平区山東路の「狗不理」総店。天津名物はなんと甘栗ならぬ包子(饅頭)。犬も食わぬ意味の「狗不理」は百年前の初代店主の頑固さに親がつけた名をそのまま店名にしたとか。あたかも今夜は旧の十五夜とかで、団子なるぬ肉まん、餡まんなどの月見包子攻め。
2月6日 市内観光。2月の寒風に晒された水上公園内の動物園に人影なし。パンダの「寨々」君もごきげん斜め。次は隣の「天津廣播電視塔(テレビ塔)」へ。湖上に屹立する塔をエレベーターで昇り、14階の回転展望台から天津市内を眼下に一望する。午後は「南市食品街」へ執念の甘栗探し、3階建てのレストラン、喫茶店の店舗とおびただしい出店をくまなく探しても甘栗らしきものは皆無。ついでに横丁の露店を覗いたが万事休す。甘栗は日本で買うにしかず、と悟って一行は気を取り直して、天津が誇る絨毯の「天津地毯二廠」(天津第2絨毯工場)へ。ところがなんと土曜日で休業。日本並みの週休2日制?と肩を落とす面々に、それではと非番?の男女2名の工員さんがサービスの実演「謝々」と熱意に応えて売店でショッピング、絨毯はもっぱら目の保養。天津凧や年画などのお土産購入し、高速道路を北京に向けてUターン。
2月7日 北京は快晴。おなじみの「万里の長城」も今回は慕田峪へ。八達嶺に比べこちらは閑散。名物ロープウェイからの眺望も素晴らしいが、料金も25元から40元に大幅アップ。蒙古高原から吹き渡る冷風に首をすくめて退散。午後は「盧溝橋」参観。北京南西20q、永定河にかかる白い石橋はマルコ・ポーロが「東方見聞録」で世界で最も美しい橋と述べて有名。全長266,5b、アーチ型の孔11個、欄干140本、欄干に彫られた486個の獅子像が見事だ。日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件の起きた所。忌まわしい過去は別にして、今は由緒ある観光地。
2月8日 午前中、王府井街など散策後、北京空港15時30分発NH906便で帰途につく。
天津動物園
天津食品街前で 天津テレビタワー
北京・夜の故宮で 北京・京劇

慕田峪万里の長城
蘆溝橋
中国国際旅行社「任」さんと 王府井街
北京〜西安〜敦煌〜西安〜上海
駱駝の背にゆられて
1993年9月22日〜28日
34名で敦煌莫高窟参観と鳴沙山砂漠でラクダに乗り移動する。
9月22日 全日空905便は、定刻10時25分成田空港離陸。北京空港で西北航空2108便に乗り換え、18時50分、西安空港に定時?着陸。ホテルは市の南部、東雁引路の「唐華賓館」有名な大雁塔に隣接するこのホテルは4層の中国風建築。唐代の美女「楊貴妃」の夢など見て、先ずは古都西安の一夜を過ごす。
9月23日 敦煌行きの便が午後に変更。それではと、午前は「陝西省博物館」参観。故周恩来首相の生前の指示により、1991年に完成したいうこの博物館の収蔵品は11万7千点。中国の地方博物館では最大で、北京の故宮博物館に比に非らず、とか。古代から近代まで時代順の展示品の質量に圧倒される。昼食は市内のレストラン「唐楽宮」。唐代宮女の服装をした美女のお出迎えはよろしいが、なんと昼食もバイキング方式。空腹を抱え、お皿を持って長蛇の列。「中国開放政策即日本的合理化空腹暫時是我慢乞協力」といったところか。15時10分、西安空港を離陸した「西北航空」2212便は、傾く夕日を追って、黄河流域の黄土に続く砂漠地帯を眼下に西進。経由地「蘭州」は「乗客此皆無着陸即無駄」とばかり、着陸省略。敦煌めざし直進。17時40分、砂漠のど真ん中の敦煌空港に安着。タラップを降りる一行に乾いた砂漠の強風が熱烈歓迎。はるばる来た辺境の地の敦煌にしばし感無量。出迎えの女性ガイドは「王建華」さん。スラリとした敦煌美人だ。夕食もそこそこに、待機した駱駝に分乗。上空の十日月を眺め、砂漠をキャラバン気取りで「鳴沙山」「月牙泉」付近を一廻り。ホテルは市内一流の「敦煌賓館」。砂塵を流し、辺境の宿に夢を結ぶ。
9月24日 今日は、市内の東南25`にある、旅のメイン「莫高窟」参観。鳴沙山大砂丘東麓の断崖に開かれ、かって千仏洞と呼ばれた千を越す窟院も、今は492窟が残り、断崖にアパートのような三層、四層の石窟が並んでいる。「遠く前秦の建元2年に開さくされたこの石窟に、今、保存されているのは、北魏より元代までの壁画や彫像で・・・・・壁画は延べ4万5千余u、彩色像2千体、まさに、古来からの『シルクロードの珠玉・極楽』である」。莫高窟専属女性説明員の名調子がつづくなかで、暗い洞窟に持参の懐中電灯の光を交錯させ、一同しばし感嘆。「これこそまさに敦煌芸術の魅力」、との説明員女史もぐっと胸を張る。昼食を済ませ、午後は「陽関」へ。北の「玉門関」と並ぶ往時の沙州(敦煌)城防衛の拠点も、砦とは名のみで、小高い砂山の上に、崩れかかった当時の「烽台」が一つぽつんと残っているだけだった。帰途は、砂漠のどまん中の「映画村」を背景に記念写真を一枚、日中合作映画「敦煌」ロケのために造られた「敦煌城」が中国側の要請でそのまま残され、入場料を徴収して新たな観光名所?になっていた。オアシスのなかの葡萄園に立ち寄り、トイレ休憩を兼ねて葡萄狩り。料金は25元(500円)は安くはないが、もぎとり放題、食べ放題。緑色の細長い「トルファン葡萄」で渇いたのどを潤す。莫高窟の楼門を模して造られた三層の赤い屋根の門をくぐって敦煌市内に戻る。辺境の町敦煌も、観光の目玉の外資獲得と開放政策で、街並みもぐっと近代化。ビル建築のラッシュのなかで商店街も活気ついている。敦煌旅行会社直営の餐庁(レストラン)で敦煌お別れの晩餐会、オアシスで買った乾し葡萄をつまみ、名産「夜光杯」に老酒を充たして乾杯。
9月25日 砂漠の駱駝に別れを告げて、再び「西安」へ戻る。ホテルは1日目の「唐華賓館」、お帰りなさいと、大雁塔と預けた荷物がお出迎え。
9月26日 今日はシルクロードの起点「西安」観光。何はともあれ郊外の「兵馬俑博物館」へ。推定8千体といわれる秦始皇帝の地下軍団に圧倒される。帰途は始皇帝の陵墓を遠望。周辺はザクロの産地で、沿道にザクロ売りの声が交錯する。つぎは「華清池」、市の東北30`にある温泉保養地で、唐の玄宗皇帝がここに華清宮を造り、楊貴妃を寵愛したことから有名になったとか。8年前に覗いた?「楊貴妃の風呂場」は消えて、今は市民の浴場になっていた。市内に戻り、午後は「大雁塔」「西安碑林」を参観。「西門城壁」に登り小手をかざしたが、あいにくの小雨模様で、シルクロード原点の街並みは霞んでいた。
9月27日 訪中の旅もあと2日、「西北航空」2509便で今日は上海へ移動。明るい秋の日差しの「上海紅橋空港」着陸。中国最大の都市「上海」は、開放政策のもと、凄まじい建築ラッシュや、人、車、自転車の洪水。エネルギッシュな雰囲気につつまれていた。おなじみの上海。陳ガイドもマンネリ説明ぬきで、車窓に屹立するビル、ホテル群を指さして、近代化上海を誇示。昼食後は、「豫園」「玉仏寺」など観光メイン探訪組と自由行動組に分散。夜は「上海雑伎」参観。旅の終わりの一夜を堪能する。
9月28日 午後の「全日空」920便で18時に全員無事元気で成田に帰国。
西安・狭西省博物館
鳴沙山砂漠
敦煌莫高窟
陽関の烽火台 映画敦煌セット
西安・兵馬俑 西安・華清池
西安・食事の前菜 西安・碑林にて
西安・大雁塔 上海・黄浦公園にて
上海(淀山湖・長江河口)
1994年1月29日〜2月1日
11名で淀山湖の宿は上海市青浦財税培訓中心(上海市税務署保養所?)長江河口の昼食は寶銅集團寶山賓館(宝山製鉄所食堂?)で。そして和平飯店の老人ジャズバンドを聴く
大観園
淀山湖 松江・方塔
豫園にて 上海老人ジャズバンド
長江河口にて
北京〜フフホト〜大同〜北京
内蒙古の大草原と大同石窟をたずねて
1994年9月22日〜28日
伜同行、20名で内モンゴルの大草原、真っ青な空と大同の雲崗石窟参観。往きは飛行機、帰りは列車の旅
9月22日 全日空905便で成田を出発、北京到着。夜の国内便に乗り継ぐ。フフホト行きの西北航空1130便はなんと百人乗り程度の小型ジェット機だが、満席の客に気をよくしたか、夜の河北山岳地帯上空を快翔1時間、眼下に内蒙古の都市フフホトの灯りがきらめく。出迎えの現地女性ガイドは蒙古族の「満都拉(マンドラ)」さん。午前中の汗ばむ成田から、一気に初冬の内蒙古へ。満都拉ガイドのコート姿も納得。「フフホトは内蒙古自治区の区都。モンゴル語で『青い城』と言われ、人口は100万・・・」説明を聞きながら、ホテルの「昭君大酒店」へ、夜気が冷たい。
9月23日 快晴。市内の五塔寺、内蒙古博物館を参観し、メインの大草原へ出発。もっとも近い草原でも、市内から80`、2時間の行程だ。陰山山脈の峠を越えると眼前に果てしない大草原が展開する。蒙古秋天。抜けるような青い空と、地の果てまで広がるすがれた草原。枯れ草をはむ羊の群れ。時間が停まったような静寂の中に風の音だけが聞こえるようだ。希拉穆仁(シラムレン)の観光用「包(パオ)」に到着。蒙古衣裳の接待員が「今日(タサイヌ)は」とお出迎え。レストランの昼食は、歓迎の歌と強烈な白酒の回し飲みで始まる。斧で叩き割ったような丸煮の羊肉を小刀で削りとって噛みつく、豪快な蒙古料理だ。美声の主は「格日楽」さん。アンコールに応えて「北国の春」を披露。日蒙親善。蒙古の蠅も一緒に歓迎。市内に戻り、中国四大美人の一人、悲劇の王妃「王昭君」の墓を訪ね、夜は新城西路の繁華街を散策、夜店をひやかし、フフホトの夜を満喫する。
9月24日 列車で5時間の大同へ。到着後、市内の名刹「華厳寺」中国三面のうち最大の「九龍壁」や「シャブシャブ鍋工場」を参観。ホテルは「雲崗賓館」
9月25日 午前は北郊にある天下の奇観「懸空寺」へ、午後は大同観光のメイン「雲崗石窟」。敦煌の「莫高窟」、洛陽の「龍門石窟」と並ぶ中国の三大石窟の一つ。武周山山麓、東西1`のこの石窟は、53の洞窟に1500年前から彫られた、最大17bから最小2aまでなんと5万1千体ものおびただしい仏像が並ぶ、中国仏教芸術の宝庫。古代文化の壮観に、一同ただ息をのみ、ひとしく感嘆の声をあげる。美の呪縛から解放され、夜は大同の特別料理「羊肉のシャブシャブ」で現実に戻る。
9月26日〜27日 大同より9時間余の汽車の旅で北京に戻り、2日間にかけて、万里の長城、故宮、天安門などお馴染みの観光コースを消化。友誼商店でショッピングのしめくくりする。
9月28日 朝の便で北京空港より帰国。
北京・天壇公園祈年殿 北京空港フフホト行き搭乗
フフホト・五塔寺
フフホト郊外シラムレンパオで
シラムレンの大草原
シラムレンのレストランで蒙古衣裳で歌う店主 フフホト・中国4大美人一人「王昭君」の墓の前で
大同・九龍壁 大同郊外黄土高原の子供達
大同郊外黄土高原の住居
大同郊外懸空寺
大同の雲崗石窟
八達嶺万里の長城で 天安門広場で

中華人民共和国建国45周年を迎える天安門広場
故宮太和殿 旧満州皇帝弟の書の掛け軸を買った店
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