私の人生物語その4

4. 私の人生物語・その4
就職と企業内教育の恩恵

 高校三年生になると、就職活動が活発になった。一部の生徒は進学を目指した。私は次第に学問への興味を増していたが、 家計が許さない。ある大手通信機メーカーを推奨する人がいた。母が寮母をする会社に勤務する新進気鋭のエリート社員であった。 その通信機メーカーは研究費の比率が日本の企業でトップ、工業系高校の新入社員に対しても研究活動は大学卒業生や修士課程や 博士課程の人達と同様に扱ってくれるという。さらに、工業系高校の卒業生には、社内教育が充実しており、 一定期間の勤務実績を経て、企業内専門学校に受験できる資格が与えられ、大学卒業と同等の教育が受けられるという。 私には夢のような話であった。通信機メーカーを推奨した人は就職時に多くの日本企業の内部事情を徹底的に調査したのだという。 知名度は低いが高度な技術レベルを持ち、企業の将来性があるという。但し、給料面では低いという。 確かに、募集広告上の初任給は相対的に低い。給料は生活ができれば良く、福澤諭吉の心訓に基づき、 一生涯の仕事ができることを優先した。

 半信半疑で大手通信機メーカーへの入社試験を申し込んだ。 受験に当り、他社へ就職申請はすべて認めないという。多くの人は数社に就職申請していた。 もしかしたら望む就職ができないというリスクはあったが、挑戦する価値があると考えた。幸いにして内定通知を得た。 面接時に柔道の話に引き込まれ、そのことが内定に結び付いたのかもしれない。平塚で運送業を営む伯父の希望は、 自動車修理工となり、将来に平塚で自営業を開業して欲しいという。サラリーマンの世界で生き抜くことは難しいとも言われた。 親類を見回すと、自営業で身を立てている人が多く、サラリーマンへは私が最初の挑戦であった。私は大企業への内定通知を受け、 人の世話にならずに、独立した生活基盤を確保し、大きな人生の夢に向って挑戦できることに闘志を燃やしていた。 伯父の暖かい支援に感謝しながら、伯父の希望を丁寧に断った。それでも伯父は暖かく私を送り出してくれた。 入社式で着用した新しい背広は伯父の家からの就職祝いであった。

 希望に燃えて通信機メーカーへ入社した。寮母の母を離れ、会社の社内寮に入り、新しい生活を開始した。 同期の多くは高学歴の新入社員であった。話をすると、温厚な人が多く、会話の内容のレベルが違っていた。 果たして、この企業内社会の人間関係の中で戦い続けていけるのか、不安になった。しかし、当時の企業のトップの講話を何度も聞くと、 その人間性とバイタリティに感銘した。そして、この企業で必死に食付いて行こうと決心した。約3ケ月の新入社員教育を終え、 職場に配属されると、最初に与えられた仕事は、英文の文献の翻訳、文献の内容と同じようなことを実現せよという。 英語は大の苦手、中学生の頃、平塚の伯父が遠縁の外語大学生を英語の家庭教師にして手解きをしてくれたことがあったが、 その成果はなかった。就職の直前には、通信機メーカーへの入社を推奨してくれた人が、 これからは英語が大切と勤務後に丁寧な指導してくれた。それでも英語への馴染みは薄かった。 英文の文献、辞書と首っ引き、必死になってたどたどしい翻訳に挑戦した。しかし、その大半の単語は専門用語、 辞書に載っていない言葉が多かった。一つ一つの単語からパズルを解くように、日本語を組み立てていった。 4〜5日間を費やして、文献の内容の概略が見えてきた。指導員にも手伝って貰いながら、翻訳ではなく、 意訳としての日本語訳を完成させた。次にその内容に基づき、現状の技術を改良して、さらに新たな文献の内容を組合せ、 少しでも新規性があり効果的な技術基盤を確立する。仕事に面白みを感じた。この頃、通信衛星による日米テレビ中継が成功した。 最初に飛び込んできた画像はケネディ大統領の暗殺事件であった。 当時、日本企業の技術水準は欧米の技術に追い付け追い越せと必死になっていた。また、職場環境に冷暖房はなく、 夏場になると、午前十時と午後三時に氷が配給され、上半身はランニングシャツ一枚になり、設計図や技術資料を作成していた。

 一方、企業内での自分は、余りに実力が無く、情けなくなった。それでも会社は同期の工業系高校の新入社員を集め、 大学の教養課程の数学や英語を中心に、超一流の大学教授を招き、社内教育を積極的に実施した。 この頃、私生活では再び大きな変化が待ち受けていた。山形の祖母は高校を卒業する前年に亡くなっていたが、 最大のスポンサーであった八王子の伯母は私が入社して間もなくして病死した。母は私が就職すると直ちに寮母を辞め、 一人で小さな借家を見付け、開業医の家政婦の仕事に就いていた。寮母の仕事は重労働、寮生の食事を巨大な鍋や釜で煮炊きし、 その扱いには大病を患っていた母に厳しすぎたようだ。また、その会社は事業の拡大で寮生も増え始め、 新たな外部業者が寮の仕事に関与するようになり、母はここが潮時と考えたようだ。三年間の無理が身体に堪えたのだろうか、 その母が私の入社した翌年の暮れに脳溢血で倒れたのである。東京オリンピックの直後だった。母一人子一人の家族、 僅かな有給休暇をすべて使い切り、必死の看病をした。しかし、母の病は重く半身不随で朦朧状態のまま、 さらに約三ケ月近く欠勤した。この間、周囲から退職を勧められ、会社からも入院先へ様子を見に来て頂いた。 当然、収入は無くなり、家計は完全に底を着いていた。それでも会社を退職する意思はなく、会社に在籍の確保を願った。 看護生活が三ケ月を過ぎた頃に、母の意識が戻り、病状が快方に向った。そこで母の看護を一時的に専門の家政婦にお願いして、 再び会社勤務に従事した。看護の疲れからの解放により、今後の生活の建て直しを考える時間的余裕が生まれた。 この間、当時の上司は私が会社の籍を剥奪されないように頑張ってくれたようだ。この対応がなければ、今の自分は存在していない。 この時の感謝と感激に余りあるものがある。それでも家計は火の車、病院の院長に直談判し、 看護の家政婦が不要で医療費の少ない病院を探して頂き、転院の手続きをしてもらった。その後、母の病状は急速に良くなり、 リハビリの成果があり、一人で歩行できるまでに回復していった。

 入社して二年目が過ぎていた。企業内専門学校に受験できる資格が生まれ、入学試験に挑んだが、母の看護の真っ只中、 見事に落ちてしまった。翌年、母の病状を確認しながら再び入学試験に挑戦した。今度は偶然にも機械工学課程に合格した。 入社時は寮生活であったが、母の看護のために、退寮して母の借家に住まいを移していた。通勤は平塚から勤務先まで片道二時間近く、 それでも夜学の専門学校に挑んでいった。昼間は通常勤務の仕事に従事、退社後に夜九時半頃まで高度な専門教育を学び、 帰宅すると毎日が夜中の十二時近くになっていた。その後、近くの銭湯へ駆け込み、一日の疲れを癒した。 少しでも遅くなると銭湯は閉められたが、次第に番台のおばさん、私を最後の客として待ってくれるようになっていた。 休日には母の入院している病院へ、一週間分の洗濯物を持ち帰り、新たな着替えや必要な日用品を調達する。 母とは日常会話もできるようになっていた。体力は柔道の稽古のお陰で持ち堪えられた。

 企業内教育の一貫として、三年間の夜間の工業専門学校は、少なくとも工業大学卒業程度の学力と知識の習得を目的としていた。 その背景には、戦後の日本が欧米に比較して劣る技術レベルを底辺から引上げ、世界の最先端の技術を容易に吸収し、 世界に通用する技術や知識を持つ多くの人材を育成する必要があった。そして、このことが企業の競争力を確保する上で急務であった。 近辺の一流大学の著名な教授を講師に招き、かなりレベルの高い内容の授業が行われた。この頃、大学紛争の絶頂期、 大学の教授は学内で教えることもできなければ研究することもできなかった。 優秀な研究者や教授達は企業内教育に真剣に取り組んでくれた。 企業内教育の場が大学の教室や研究室に代わる生き甲斐の場であったようだ。

 私は夜学の専門学校で学ぶ目的として、幾つかの課題を抱いていた。 それは各種の数式と自然現象との対応関係を正しく理解できるようになること、 高度な数学の意味を正しく把握することなどであった。それまで高校で学んだ考え方は、 与えられた数式や関係式に具体的な数値を代入して解を求めるというものであった。 この複雑な数式や関係式がどのような経緯で求められたのかを理解することはできなかった。 さらに、数学のような学問は教えられたように式を展開すればその解に到達するが、 数式の正しい意味やその奥にある物事の考え方を習得することができなかったのである。 学問は究める程にその奥があり、特に材料力学や熱工学や流体工学に興味を持ち、自然科学の美しさに引き込まれた。 一流の大学教授の教え方はこれらの疑問に見事に答えてくれた。 覚えることや記憶することは、物事の道理や方法を理解することは異なるようだ。私の記憶力はずば抜けて人よりも優れているとは思われない。 しかし、理解力は何か特別な素質が備わっているように思った。言葉に表現でないものまで見えてくるように思った。 目標を持ったことで、不思議に勉学にも自信が持てるようになった。

コラム:企業内教育(工業専門学校)のカリキュラムと授業内容

 人は逆風や逆境に身を置くと力を発揮するのかもしれない。職場と私生活と勉学との間を夢中で過ごしていた。 朝夕の通勤時間は通勤電車内での貴重な勉学の予習と復習に費やした。人生の中で最も充実した一時期であったようだ。 家計の収支も落ち着き、二十歳を過ぎて、将来の生活設計を考えることが出来るようになった。 母の小さな借家は家主の大家が自宅を新築するということで立ち退きを迫られていた。幸いに会社の人事から、 再び社内寮への入寮を勧められた。会社は私の毎日の行動パターンを把握していたようだ。 本来ならば、社内寮を一度でも退寮すると再度の寮生活には戻れないという規則があった。身体を無理するなと忠告され、 専門学校に通学している期間だけという限定で、その規則を特別に無視した特例の扱いであった。母の病も順調に回復しており、 再び寮生活に戻る決意をした。毎週の休日には母の入院する病院通いが続いた。しかし、母一人子一人の家族といえども、 生活のための家財は増えていた。一時的には我が家の家財を平塚の伯母の家に預けたが、将来のことを考えて、 平塚の郊外に6畳1間の小さなバラック小屋を建てる決意をした。その資金は平塚に住む母の姉妹が貸付けてくれた。 初めての借財であったが、母の病状が安定すれば、専門学校を卒業する時期に合せ、退院後に引き取らなければならない。 その準備でもあった。

 人生は十代後半から二十代前半が青春の真っ只中、高校を卒業する頃、従姉の紹介でガールフレンドはいた。 しかし、お互いがそれぞれ就職すると、疎遠になっていった。勤務先では、運動会や園遊会など、多くのイベントが企画されていた。 課内旅行や親睦ハイキングなども盛んに行われた。いつの日か一人の女性に恋心を抱くようになった。 ある日、意を決して恋心を打ち明け、身のほど知らずの交際を申し込んだ。結果は見事に断られた。 当然である。母一人子一人の家庭、その親が入院中で看護が必要、デートの時間もなければ、その費用すら捻出できない。 青春の夢も将来の夢もあったものではない。この失恋のショックは大きかった。ゲーテの著書に「若きウェルテルの悩み」がある。 この文庫本を読み、その内容は真に私の為に書かれたのではないかと思った。若き心の葛藤に悩みながら、現実の生活は存在する。 入院中の母にも青春の心の悩みを相談してみた。多分に男親なら別の解決策を考えたかもしれない。 母は知人を介して何人かの女性を紹介してくれた。しかし、心の思いは別の所にあり、他の女性は目に入らない。 母も子を思って悩んだのではないかと思う。

 母は自分の死を覚悟していたようだが、バラック小屋が半ば完成して、 一度は試しに外出許可を得て外泊してみようということになった。その直前に母は脳溢血を再発したのである。 最初に倒れてから3年目のことであった。一晩の必死の看護も空しく、今度は助からなかった。その時の様子、今でも忘れられない。 職場で勤務中のこと、無数の電話が飛び交う中、目の前の電話器ではなく、遠くの電話器が鳴った。 その瞬間、その電話は自分にかかってきたものであり、その内容は母の病状の急変を知らせる病院からのものだということを 事前に認識していたのである。この現象は信じられないが、果たしてその通りの内容であった。科学的な根拠のない予知現象について、 身を持って体験した。不思議な現象に驚いた。科学だけでは説明できない何かがあることを知った。病室では母の死を目前にしながら、 かなりの長時間を一人で泣き続けた。葬儀は未完成のバラック小屋で実施した。葬儀への参列者は比較的に多く、 母の生前の人徳が招いたのか、かなり多数の方々に見送って頂いたような記憶がある。母を失って、 自分はいかに母の大きな愛情の中にいたかを知った。母の死と失恋に打ちのめされたが、数ヶ月は気持ちが張り詰めていた。 しかし、次第に緊張感が緩み、兄弟姉妹が無く、相談相手もいない天涯孤独の身になった現実の寂しさに、空虚な心が荒んでいった。 残された専門学校の修業期間にも身が入らなくなり、成績も低下の一途、それでも辛うじて卒業することはできた。 約一年後の私生活は夜の都会をあてもなく彷徨うこともあった。

(文責:yut)

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