私の人生物語その5
サラリーマン技術者への道

5. 私の人生物語・その5
サラリーマン技術者への道

 職場では仕事の内容も変化した。物づくりの技術者から企画や理論面を構築する部門へ配属されたのである。 見方を変えれば、第一線の現場の技術者から後方支援の技術者へ配置換えされ、会社は精神的な建て直しの機会を与えてくれたようだ。 気力を取り戻すために、柔道の道を再び求める決意をした。本来、入社時は柔道の話で合格したように思う。 柔道で会社に何か寄与しなければならないのではないかという気持ちもあった。柔道部に入部すると、 そこの師範は柴山謙治七段・寝技のプロ、嘉納治五郎師範の直弟子の一人、東京オリンピックの柔道選手を直接指導したという。 柴山師範は、毎日の昼休み、指導のために必ず柔道場へ来ていた。私は寝技で赤子のように弄ばれた。 立技では私よりも体力が劣る小さな体で簡単に私を投げる人がいる。柔道の世界ではまだまだ修行が足りない未熟者であった。 毎日の昼休みは、会社内にある柔道場で稽古をすることになった。学生時代とは異なり、かなり慌しい稽古であった。 毎日正味三十分程度の稽古が限界であったが、柔道を続けることで気力と体力が次第に増していったようだ。 夏季休暇中には軽井沢などでの強化合宿にも参加した。その内、実業団の試合に選手として出場できる機会を与えて頂いた。 試合に参加すると、知らない人に挨拶されることがある。どこかで出会った記憶はある。良く考えてみると、 学生時代の試合で私が勝った相手のようだ。負けた相手の人のことは悔しさが残り、後々まで良く覚えているものだが、 勝った相手の人のことをほとんど覚えていない。しかし、相手は良く覚えていたのであった。柔道の世界でも多くの出会いがあった。 仕事で陰ながら助けられたことも多いようだ。試合に勝った時でも、相手を思う感謝の心の大切さも学んだ。

 新しい職場では、コンビュータと出会って、その操作とプログラミングに従事するようになった。 テーマは機械系の技術計算を合理化すること、海外で発表された文献を取り寄せ、材料力学や構造設計の手法に基づき、 解析方法を整理して、システム的にプログラム化する。それを大型コンピュータで処理して合理的な構造物の形状を提示する。 ある日、東京大学の生産技術研究所を訪問する機会が与えられた。そこでは構造物の振動実験やその解析結果と比較し、 新しい理論体系の再構築の研究などが進められていた。 特に、実験結果と理論解析との見事なまでの一致と科学技術の美しさに目を見張った。懇切丁寧に解説して頂いた大学院生には、 その理論的な背景と関連する多くの資料を紹介された。後日、この分野で著名な研究者になる方であった。 数学的なマトリックスをベースにしたマトリックス構造解析法(有限要素法)との最初の出会いでもあった。 職場に戻り、関連する文献や資料を必死に調達した。当時、大半の文献や資料は日本にほとんどなく、海外から入手した。 次第に有限要素法は日本国内でも普及したが、大型コンピュータを使わなくてはその成果を期待することができない。 大規模な連立方程式を解くことのできるアルゴリズムが必須であった。

 あらゆる構造物の強度設計は内部応力をどのようにして緩和するかにある。構造物に外力や歪(変形)を与えると、 内部の各部分に耐えようとする応力が生ずる。この応力は構造物の形状や材質の違いによって、部分的に応力集中が生ずる。 この応力を構造物全体で吸収し、部分的な応力集中を緩和する形状を見出すのがポイントになる。 構造物に亀裂や欠陥が存在すると、内部応力はその部分に集中して破損・破壊に至ることになる。材質固有の耐力にも問題はあるが、 熱応力や振動などによって、構造物が破損や破壊に至る現象に興味があった。 最初のテーマは、真空容器を構成するセラミックと金属との封着部に働く応力の乱れに気付き、その応力を緩和することであった。 海底中継器などの圧力容器の設計においても構造物の形状に起因する応力集中の問題が存在することを指摘したこともある。

 伝熱工学の分野でも技術計算の合理化が必要であった。特に、製品の大電力化により、その冷却方式として、 空冷や水冷や蒸発冷却など、多様な伝熱機構を解析することが求められた。蒸発冷却とは、水が沸騰して蒸発する時、 潜熱(気化熱)によって、大量の熱移動を可能にする。その時、蒸発冷却の構造物の形状を工夫することで、 単位面積当りの放熱を飛躍的に増大できる。この基本特許は海外のメーカーが握っていたのである。そこでその基本特許を逃げるべく、 より理想的な構造物の形状を提示することが求められた。その手法はシミュレーションと呼ばれる方法で設計を選択するのである。 また、強制空冷方式は砂漠地帯や高地の山岳地帯など、水の少ない地域での冷却方式として欠かせない。この場合、気圧や湿度など、 気体の性質により、冷却特性に大きな変化を与える。構造物の形状や風速などによっても放熱効果は大きく異なる。 従来、これらの違いは現地試験や実施テストで確認していたが、物性値や自然法則に基づく関係式を正しく把握することで、 模擬的な数値シミュレーションで評価することが可能になる。

 この頃、私生活面でも変化が生じた。平塚の母の姉妹(伯母と叔母)が私の荒んだ行動を見て心配していたのである。 ある日、叔母は私を呼び付け、遠縁の親戚の家へ連れて行った。見合いを勧めたのである。縁とは不思議なものである。 家内との初めての出会いであった。第一印象は素直で明るい人、大きな農家の4女、兄弟姉妹が9人の大家族、交際が始まった。 何度となくデートを重ねると、気は強いようだが、何となく亡き母に近い雰囲気がある。兄弟姉妹がなく寂しい思いをした経験から、 大家族への魅力にも惹かれた。ゼロからのスタート、新しい家庭を築く覚悟があるようだ。しかし、伯母は、結婚するとなると、 そんなに甘いものではないという。叔母はかなり強引に結婚話を進めていた。数ヶ月後には結納と結婚式を挙げていた。 ほとんど無計画な新婚旅行を終えて、新居は借財で建てたバラック小屋、夫婦共稼ぎでスタートした。 最初のボーナス日に借金返済の話を持ち出すと、家内はそんな話は聞いていないという。それでも結果的に協力してくれた。 新婚生活はゼロからのスタートではなく、マイナスからのスタートだったという。それ以来、家内には頭が上がらなくなってしまった。 やがて長女と長男に恵まれ、家内の実家には大変な世話になった。夢中でその日その日を過ごした。 家内との性格の違いも認識し始めたが、私の性格の欠点を補ってくれるように感じた。 家内は私に無い人間的な魅力を多く持っていたようだ。

 仕事面と私生活の歯車が少しずつではあるが噛み合い始めた。環境と時代は確実に変化していた。 衛星通信やUHFテレビジョン放送などが普及していった。米国のアポロ11号が人類初の月面着陸に成功した。 日本万博博覧会が大阪で開催された。新しい製品の開発をサポートするために、職場は技術部門へ異動になっていた。 開発を伴う物づくりの第一線に従事することになった。技術提携していた海外メーカーの製品を単純に真似るのではなく、 独自の技術力を確立し、それに基づく新製品を揃えようという。職場には優秀な技術者が多く、実力の無い自分に自信を失ったが、 周囲の人達から学ぶべきことが多いと考えた。最初は主に機械系の強度設計や伝熱設計を担当した。 やがて、電気的および物性的な知識が必要不可欠となり、あらゆる専門書や参考書および関連文献などを必死になって読破した。 しかしながら、勤務中は物づくりや実験に追われ、そんな余裕はない。通勤時間と帰宅後の朝晩が知識吸収の場になった。 睡眠時間は四〜五時間、時には夢の中でアイデアや数式が頭の中を駆け巡った。 この背景にある精神面を支えたのは家庭であり家族であった。特に、家内の存在は大きかった。

 ある製品群の開発設計を担当することになった。製品設計に自分の独自のアイデアを取り入れることができるようになった。 製品には、高機能や高性能だけでなく、高品質と高信頼性が求められた。幾つかの科学技術系の学会にも加入し、 製品紹介や技術的成果を発表する機会も与えられた。 首都圏だけでなく、大阪や福岡など、地方の大都市で開催される発表会でも講演した。各種の展示会にも駆り出された。 質の良い製品は、社会的にも認められ、評価されて採用される。製品の納入や調整に日本全国を駆け巡る機会も多くなった。 技術による社会への貢献ができたような気持ちになった。しかし、技術の世界、僅かな油断も許されない。 小さな設計ミスがお客様に多大な迷惑をかけてしまったことがあった。上司を伴って必死の謝罪に出掛けたが、 あるお得意さんは当方の謝罪の言葉を全く聞いてくれなかった。問題の商品を修理するため、日本中を駆けずり回った。 徹夜の連続、その時に必要な資材が必要な時刻に必要な場所に届いた。後方支援の重要性、兵站(ロジスティクス)の凄さを知った。 この頃、企業の上層部には戦争経験者が健在で、そのことを知り尽くしていた人達がいたのである。 誠心誠意で迅速に設計ミスの対応をした。そして、このことが将来の信頼と信用を勝ち取る原動力になった。 大企業の世界では、一時の成功である程度は評価をされるが、失敗したとしても給料が大幅に減額されることはなかった。 多くの社員はそれぞれの会社内のルールに基づき、相互に助け合って、企業という一つの会社の仕組みの中で、 厳しい競争社会に晒されながら、その存続と関係者の生活を必死に守っているようだ。

 効率的な製品開発には技術的な枠組みに基づく数値計算とシミュレーションが欠かせない。 この場合、事象や現象と数学的モデルとの対応関係が適切でなければ、いかなる数値計算やシミュレーションを行ったとしても、 得られた数値は正しくなく使用できない。ここでは技術的なセンスが問われるのである。 また、コンピュータによる数値計算やシミュレーションには、 丸めの誤差や離散化誤差と呼ばれる計算過程に内在する計算誤差を無視することができない。 したがって、その誤差の範囲を適切に推測し、解析結果の妥当性を評価しなければならない。 ある時、初期値の極めて微小な数値の違いが天文学的な演算を繰り返すことで計算結果に大きな変化を与えることに気付いた。 計算誤差を推測してみても、その変化は誤差範囲以上になった。連続的な変化を追跡していく中で、 ある局面からその変化が急変するのである。この不思議な解析結果に疑問を持った。 やがて、与えられた数式に内在する本質的なものということに気付いた。今までは膨大な数値計算を処理することが少なかったが、 大型コンビュータが発達し、大規模な計算処理が容易に可能になったことから見出されたのである。 その後、この現象は複雑系と呼ばれる一連の学問体系の一部に関係するようだと考えられた。 当時は予備知識が何も無く、ただより正しい実用的な数値計算やシミュレーションの処理結果を得ることに夢中になっていた。

コラム:構造解析プログラムNASTRAN

 技術者としての自覚に目覚めた頃、上司から一つの命題が与えられた。この時期、日本は中東戦争などの影響を受け石油危機が叫ばれ、 有限な資源と将来のエネルギー問題が表面化していた。私達の手持ちの技術力を酷使して、 これからのエネルギー市場に対応する製品開発が求められた。着目した技術分野は核融合、 電離気体のプラズマ中の核融合反応によって起こる質量欠損が質量とエネルギーの等価性により、 エネルギーに変化するという。当時、核分裂による原子力発電と異なり、究極的にクリーンなエネルギー源として、 核融合はかなり有望視されていた。問題は核融合反応を起こすためのプラズマの人為的な制御、 一定時間を高温高圧に維持する技術開発などであり、多くの研究機関で大規模な実験が進められていた。 特に、プラズマを高温に維持するための追加熱として、大電力の電磁波が求められた。 そこで電磁波の合成に関する研究やより高出力のミリ波帯電磁波を得る装置の開発が命題になった。 早速、関連する多くの文献を収集した。その結果、この分野の一部の研究は、 米国よりも冷戦の相手国であったソ連が一歩先んじていることを知った。多くの文献に基づき、独自の理論展開を試みた。 最初は数学的モデルによる仮想装置の提案、論文による理論的な成果の発表、設計図の作成などを進めた。

 この研究成果を広く世に評価して貰いたく、その一部を社外発表に投稿した。ところが、当時、上司の一部は、競争相手(敵)に塩を送るような論文は公表するなと言う。 企業秘密の壁を突き付けられた。しかし、知識も、技術も、経験も、惜しみなく吐き出し、多くの人の目に晒されてこそ、本物になる。 例え利用されたとしても、評価されて、社会に喜ばれ、自分自身の進歩向上に結び付く。技術的な企業秘密は、その製品が世に出れば、すぐに真似られる。 独自の技術など、その一瞬の思い込みに過ぎない。むしろ、真似をされたら、次の新たな技術、その先の技術を生み出せばよい。それが切磋琢磨の競争になる。 必死に上司を説得して、あまり目立たないようにしながら、論文を社外に公表した。

 この分野、全く何もない状態からの技術基盤の確立が求められていた。試作品を作ってみたが、評価する実験装置がない。 研究費の調達も儘ならない。試作品を通路に展示して、評価する実験装置の予算を獲得するためのデモンストレーションも試みた。 暗中模索の中で、試験装置を調達し、最小限の実験ができるまでになった。しかし、その結果は思うように得られない。 ある日の夜、一人で実験を続けていた。すると理論に基づく実験結果の兆候が見られた。急いで測定系を組み直し、 慎重に実験を進めると、ほぼ期待した結果が得られた。夢のような出来事であった。 その開発した製品の動作原理はアインシュタインの相対性原理に基づくものであった。 電子の相対論効果で動作するデバイスの開発に成功した瞬間であった。 相対論効果が存在しなければ起こり得ない現象を製品化したのである。 後日、研究開発の仲間と丁寧な追試験を行ってその成果を公表した。この反応は意外に早かった。 実験結果の概要を一部の特定の研究者のみに伝えたのに、僅か数時間後には関連する研究者からの問合せ電話が集中した。 数日後には米国の一部の研究者からも興味を持って問合せがきた。技術情報には国境がないということを知った。 約1ケ月後には米国から数名の研究者が押し寄せてきた。私は英語が苦手、満足な英会話ができない。 上司にフォローして頂いた。政治的に厳しい会話も存在したが、純粋技術の話になると、 米国の専門家との間で数式と数字だけの会話で話の内容が通じた。数学が万国共通語であることに感動した。 この実験の成果は会社のトップにも持ち上がったようである。 しかし、会社の最終方針はエネルギー分野の市場拡大に消極的であった。

 技術者としては自己満足に浸っていた。しかしながら、商品化は実験用に僅かに出荷したのみ、 研究費を回収するまでにはならない。企業化は失敗したと判断されたようであった。業務担当の変更があった。 今後の市場が拡大すると予測される分野の製品群の担当を命じられた。しかし、私にはそんなに幅広い専門知識がない。 次々と新しい最先端の技術が求められた。今度は会社内の技術研修所なる社内教育システムを受けることにした。 技術研修所は総合技術研修と基幹技術研修に区別されている。ここで挑戦したのは総合技術研修であり、技術者の研修を通じて、 創造的な思考力、合理的な認識力、積極的な行動力を養って、幅広くより深い基礎技術力の獲得を目的としていた。 研修生はそれぞれの技術分野で大学卒業程度の基礎学力があることを前提としていた。 そして、技術の体系、理論と現実との関係、関連技術との境界領域、技術の進展方向、世界の技術水準、技術の問題点等について、 理解を深めることが求められた。少なくとも、毎週丸1日を約1年間、朝から晩まで、選択性の必須講座を受講することになった。 最後の卒業試験は、朝8時にテスト開始、翌日の朝方までに答案を提出することを前提に、選択的な課題に対して悪戦苦闘した。 この時、この世のあらゆる参考書や資料は持ち込みが可能であり、豊富な専門書を所蔵している図書室はすべて開放され、 研修生間のディスカッションはかなり自由に認められた。但し、答案の内容は、論理的な思考や問題解決の手順などに対して、 個性的かつ独創性が求められた。

(文責:yut)

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