備後國分寺だより


備後國分寺寺報 [
平成十七年盆月号] 第12号
(平成17年8月15日発行)

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


「キリスト教は邪教です!」を読んで
[ニーチェの仏教観]

 十九世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳です。これまで哲学書と言えば難しい哲学用語のオンパレードで、なかなか最後まで読破するのに骨が折れたものですが、この本はとっても分かりやすく、ほんの三時間もあればじっくりと読めてしまう作品。

 「名著、現代に復活、世界を滅ぼす一神教の恐怖」と帯にある。アメリカ大統領の演説などにさりげなく神という言葉が使われるように、他を認めない唯一の神への信仰が国際間の紛争に利用されていることを意識した復刻なのであろう。

 題名も目を引くが、帯の背表紙には「仏教のすばらしさを発見」とある。読んでみるとニーチェは仏教を絶賛している。仏教ほど理知的で現実に正面から向き合っている宗教はない。真に幸福のための具体的な道しるべを示し、実行しているという。

 ニーチェはこの著作の中で、仏教の素晴らしいところをこう記している。『仏教はキリスト教に比べれば、百倍くらい現実的です。仏教のよいところは「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。』

 そして仏教が注意していることを二つあげています。『一つは感受性をあまりに敏感にすること』『もう一つは、何でもかんでも精神的なものと考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること』

 仏教は様々なことに気づくことを教えてはいるが、そこで終わり、その先にあれこれ考えない、つまりそこから怨み、ねたみ、おごり、怒り、欲を高じさせないことを大事にしている。また、あまりに頭だけで考えることも推奨していない。修行実践が大切だと教えられている。この辺りのことをニーチェは指摘しているのだと思われる。

 また『重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。普段の状態が、宗教的にも完全なのです』

 『ところがキリスト教の場合は、負けた者やおさえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。・・・キリスト教では最高の目標に達することは絶対に出来ない仕組みになっているのです』

 『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的処方箋なのです』

 まだまだ引用したい部分が沢山あるがこの辺りに留めておきたい。あまりに的確な指摘をされているのではないかと思う。世界にもたらされている現代の様々な紛争の原因がどのあたりに隠されているのかもこの著作から伺われる。実に示唆に富んだ名著である。ぜひ読んでみられることをお勧めする。

 ところで、私は何もここでキリスト教を断罪する気は毛頭無い。それよりも実は、現実には私たちの仏教がキリスト教化してはいないかと懸念しているのだ。信仰ばかりを語ってはいまいか。読経、写経もよいがニーチェの唱える仏教の本来あるべき姿勢、論理的に冷静にものを考える伝統をおろそかにしてはいないか。

 教えの何たるかも知らせずに、ただ手を合わすことばかりを強要してはいないかと問いたい。ニーチェは、ものを信じ込む人は価値を判断することが出来ず、外のことも自分のことも分からず牢屋に入っているのと同じだとも指摘する。

 ニーチェの時代にはヨーロッパに仏教は浸透していなかったであろう。しかし現代のヨーロッパには、沢山の仏教信奉者がいて僧団を供養し真剣に学び修養に励む人々が少なからず居る。

 私たち日本人は仏教徒という意識も希薄で、この本の訳者(適菜収氏)も指摘しているが、誰もが知らず知らずのうちにキリスト教的考え方、行動パターンの中に巻き込まれているのではないかとも危惧する。

 自分の価値観を他に押しつけて恩をきせ、他の不幸を顧みることもなく利益を貪るという愚かな行為を、ただ称賛したり黙認するのではなく、「やはりそれはいかんだろ、そんなことしてたら後生が悪い」という因果応報を当然のこととして受け入れていた古き良き時代の素朴な感情、正論を取り戻したい。

 ニーチェも指摘するように、仏教は万民の肉体的精神的健康を目指す教えなのだから。        (全)


【転載】妻を亡くした友人の
        お別れ会挨拶文より
放下著ほうげじゃく 

 妻はもともと胃腸が弱く、とくにここ三、四年前から胃潰瘍気味で西洋・東洋医学の両面で治療を受けていました。また毎年人間ドックにて健康診断をしていたのですが、一昨年末の人間ドックで内視鏡による再検査を勧告されました。自宅近くの総合病院で検査したところ、かなりの大きさの胃ガンが発見され手術が必要との診断が出ました。慎重を期すため国立がんセンターで再検査とセカンドオピニオンを受けたのですが、やはり結果は同じで出来るだけ早く手術をするようにと勧められました。

 その結果、昨年二月二十六日に国立がんセンターで手術を受けました。六時間に及ぶ長時間の手術でしたが大変優れた手術をしていただき、また彼女も良く耐え、手術自体は成功しました。が、発見が遅れたため、残念というか悔しいことに手術中の検査で大動脈リンパ節への転移が発見され、再発の可能性が高いとのジャッジが出てしまいました。 
 その後隔週毎にがんセンターに通い術後フォローと定期検査をしていたのですが、七月の検査時に再発した可能性が高いという診断が出、余命数ヶ月から長くて一、二年との告知を受けました。

 妻は以前より何かあったら全ての情報を開示・告知して欲しい、そして治療など全て自分が納得をした上で自己決定したい、と強く私に言っていましたので、がんセンターの医師の説明も、全て本人と一緒に聞きかつ今後の対策を話し合いました。この残酷な告知を、妻は気丈にかつ冷静に受けとめていました。情けないことに私の方がうろたえる、といった状況でした。

 当初術後の対策として抗ガン剤治療の検討が進められたのですが、白血球が少なく治療に耐えられないということで治療を見送らざるをえませんでした。しかし、八月の検査で腫瘍マーカー数値がさらに高くなり九月初旬より抗ガン剤治療に踏み切りました。
 もともと胃ガンには有効な抗ガン剤がない、ということは医学書などで承知はしていたのですが、妻は自分の体調と相談し、かつ冷静に判断した上で抗ガン剤治療にチャレンジすることを自己決定しました。

 私は副作用が心配で慎重になっていたのですが、藁にもすがる思いで賛成しました。また、国立がんセンターの担当医師には本人の体調や体力を考え、通常より薬の量や頻度を控えめにして調合する配慮をしていただきました。
 それでも抗ガン剤の副作用は強く、服用後妻の体調が急激に悪くなりました。妻は「完治する可能性があるのなら続けるけれどこんなに苦しい思いをしても数ヶ月の延命でしかないのであれば中断したい。生に執着しない。自暴自棄で言っているのではないのよ、五十才まで生きられて十分。後は残る月日を充実して楽しく生きたい」と言い、医師とも相談のうえ二人の判断で抗ガン剤の服用を中断しました。
 中断後は現代西洋医学ではこれといった有効な治療方法がなく、やむなく二人で様々な情報を収集し、また友人から紹介いただいた貴重な情報も手がかりにして話し合い、本人が納得できる代替療法のいくつかを試していきました。

 このような状況の中で、昨年の秋は体力も少し回復し、比較的平穏な時期が続きました。以前より大幅に活動量を減らしながらではありましたが、妻は自分の身体と相談しつつ箏・三味線そして茶道の教室を自宅で継続し、また、小中学校や養護施設から依頼のあるボランティアの授業や演奏を続けていました。箏・三味線・茶の湯は彼女の生きがい=ライフワークなので、やはりこの時ばかりは自然と生気が沸くらしく、ガンはどこかに消えるようでした。こうした妻を見ていると、どのようなときでも人間は生きがいや使命感を持つことが重要だと思いましたし、また人間の持つ自然治癒力(プラシーボ)というのが本当にあるのだな、素晴らしいものだなとつくづく思ったことでした。

 しかし、平穏な時期も長くは続きませんでした。十一月中旬頃よりガンの進行とともに腸閉塞などで入退院を繰り返すようになってきました。くわえてガン特有の痛みもかなり強く出始め、モルヒネ等の鎮痛剤で対応することが必要な状況になり、身体の自由がだんだんと制約されるようになっていきました。

 こうした中でも、妻は変わらず気丈かつ自律的で、周りに迷惑をかけまいと懸命の毎日を過ごしていました。自分のつらい事や痛み不安などをさておいて、自活している子供たちの健康や食生活のことをいつも気にかけていました。また、苦しかったと思うのですが、精神的にも乱れることなく、達観しているというか、凜として平常心を保っていました。茶の湯の「一期一会」の心を日常生活のうちに体現するかのように一日一日を大切に過ごしていました。「淡々と生きたい」「美しく生きたい」と言い続け微笑みも忘れませんでした。このような妻の態度に子供たちや私はどれほど救われたかわかりません。今思い返せば、私が言うのも何ですが、妻のこうした態度は見事としか言いようがありません。
 入退院を繰り返しつつも、妻は自宅での静養・介護を強く希望していました。私たち家族も妻の希望にそえるよう、さらには妻との残された限りある時間を家族で共有しながら、実りある時間にすべく体制を整えました。また、総合病院と自宅近くの開業医・看護ステーション間で連携してもらい自宅への往診・看護のバックアップ体制も組んでいただきました。
 
 こうして本年の正月は家族四人水入らずの元旦を自宅で迎えることが出来ました。家族で囲む食卓でお節料理を食べながら(といってもこの時期には栄養は点滴で補っており、固形物はほとんど食べることが出来ず味わうため口に含むという状態でしたが)、妻は「こうして今年も家族四人で一緒に食事が出来て幸せ・・・。本当に幸せだわ・・」と何度も何度も口にし、実に楽しそうにしていました。家族の絆がいちだんと強まり、穏やかで心暖まるひと時が過ぎていきました。

 ところが二日の夜から容態が急激に悪化し始め、やむを得ず本人とも了解の上で自宅から最も近い総合病院付設の緩和ケアセンターに緊急入院しました。ケアセンターでは実に懸命・献身的で行き届いた治療と介護をしていただき、妻も大層喜んで感謝をしておりました。その結果、容態は一時期安定したのですが、八日に遺言の一部を書きかつ述べたのを最後に意識が遠のき、実に無念なことに一月十日(月)午後二時五十六分家族に見守られ静かに息を引き取りました。享年五十二歳でした。

 現在日本の平均寿命からみれば、まことに短い人生でした。
 あと十年も二十年も元気に活躍し人生を楽しんで欲しかったと思います。しかし、短かったとはいえ妻には悔いがなかったと思います。

 零からスタートした我が家の基礎をともに築き、和やかで情緒ある家庭風土を創造してくれました。また、母を一昨年見送り、二人の子供を社会に巣立たせ、自分の志とライフワークを追い求めてひたすら駆け抜けていきました。さらには自分の志や技をお弟子の皆さんや子供たちに伝授し、コンサートやお茶会、ボランティア活動を通じて多くの方々にメッセージを伝えていきました。充実した、満ち足りた人生であったろうと思います。
 こうした豊かで濃密で恵み多い人生を送れましたのも、多くの方々のお導き、ご支援、そして友情のお陰だと思います。ありがとうございました。
             (K・H)
放下著(五家正宗賛)とは、禅の言葉で、捨ててしまえとの意。故人が好んで茶掛に掛けていたことから、お別れ会冊子の表紙に用いられた。

(故人が闘病中に書き残された詩の一部です) 

「生きる」
生ききる
瀬戸際まで
病に臥せる事をせずに
自分の世界を 生ききる
諦めない
間際まで
自分の世界で
生ききる 

「一日一生」
あなたが静かに言った
一日一生だよ
重い言葉
でも そう思うことで 気持ちは楽に
一日一日 生きていけば良いのだから
私 あなたの事
友人に こんな風に話したわ
とても上質なボーイフレンド

「普通に」
自分で
買い物をして
料理をして
美味しく食べる
その 普通の毎日が
どんなに 幸せか
自分で 出来る
普通に 出来る
それが 幸せ 


般若心経からの
メッセージ5


 空に徹せよ
さらに「無明無く、無明の尽きること無く、ないし老死無く、また老死の尽きること無く」とある。老死とは、生老病死のことで、人生の苦しみ全般を意味する言葉であり、お釈迦様の出家に際して抱えていた課題である。

 そしてその根本原因となるものが無明。無明とは世の中のあり方、成り立ちに対する無知のこと。その無明の中にあるが故に私たちは、渇えた欲望をもち、執着し、苦しむ。つまり老死に至る。逆に無明が尽きたならば、欲望は尽き、執着は尽きて、苦しみも尽きて老死の苦しみには至らないことになる。

 この原因と結果による関係性を仏教では縁起の法といい、お釈迦様が悟られてからその歓喜の中、この瞑想に耽られたと言われている。

 この縁起の法は、後に十二の階梯をもって語られるようになった。すなわち、「無明があるがゆえに行あり、行によりて識あり、識によりて名色あり、名色によりて六処あり、六処によりて触あり、触によりて受あり、受によりて愛あり、愛によりて取あり、取によりて有あり、有によりて生あり、生によりて老死あり」と、実際に私たち自身が感じる苦しみに至る過程を分析して示している。
 つまり、無知(無明)の故に、行為(行)あり、それによって意識(識)を生じ、形あるもの(名色)として受け取り、感覚器官(六処)との接触(触)により、感覚(受)として受け入れ、欲求(愛)を生じ、執着(取)し、生命(有)を形作り、誕生(生)し、生老病死の苦(老死)に至るということ。

 そしてこの過程を否定する、苦しみからの解放に至る方法論として提示したものが、「無明の尽きることによりて行は尽きる、行の尽きることによりて識は尽きる、・・・生の尽つきることによりて老死は尽きる」ということになる。
 仏教は縁起を説くものと言われる。すべての仏教思想の根底に、この縁起がある。だからこそ苦しみを乗り越えられるのであり、そこに悟りがある。そして縁起するものであるが故に、空が導かれる。

 心経のこの部分、分かりやすく入れ替えをすると、「無明無く、ないし老死無く」「また、無明の尽きること無く、ないし老死の尽きること無く」となる。
 つまり、ここで説明した苦しみに至る縁起と、苦しみから解放される縁起とをともに無と否定している。すべてのものは空であるという立場からすれば、これら縁起に登場する各項目もみな空、縁起するものなのだから、そのものだけで存在する実体のあるものでは無いとしているのである。

 私たちは思い悩むとき、ついあれこれ考えなくても良いことを考え、眠れない夜を過ごす。因果関係を考えることも時には必要なことではあるが、すべてのことを俯瞰する大局的な見方によって悩みを払拭することも必要なのかもしれない。
 お釈迦様が悟り、様々に工夫を重ねて説いた縁起の法さえもここでは、頓着せずに空に徹せよと言われている。
 
 マニュアルも捨てよ
 次に「苦集滅道も無し」とある。苦集滅道とは、縁起の法とならび初期仏教の根本教説の一つ四聖諦のこと。お釈迦様が悟られてから初めての説法をベナレス近郊の鹿野園サールナートで成功させたときに説かれた教えだと言われている。

 四聖諦とは、四つの聖なる真理。
 苦とは、苦聖諦、この世の中のものはすべて移り変わり、不確かなものであり、完全なもの満足できるものではなく、思い通りにならない、それ故に常に苦しみがついて回る真実。
 集とは、集聖諦、集まり起こることで、その苦をもたらす原因、それは私たちがこの世の因果法則を知らずに、今ないものを求め、あるものに満足できない欲の心にあるという真実。
 滅とは、滅聖諦、そうした苦しみを生み出す欲、貪り、怒り、妬み、おごり、怨み、もの惜しみなどすべての心の汚れを滅したところに静寂があるという真実。
 道とは、道聖諦、そうした清らかな心に至る八正道という、心身を修める生き方の真実。八正道とは因みに、
 正見=世の中の因果法則を正しく知ること、
 正思=欲や怒りの心を離れて考えること、
 正語=嘘、偽り、汚い言葉を用いずに話すこと、
 正業=殺生、盗み、邪淫、博打など悪行を捨て、なすべき事をすること、
 正命=正しい仕事により生計を立てること、
 正精進=悪い習慣をやめ良い習慣を行うように努めること、
 正念=そのときそのときの行い思いに気づいていること、
 正定=心の落ち着き、やすらぎ、集中のこと、をその内容としている。
 八正道は、日常私たちが過ちを犯すことなく心清らかに過ごすための指針となるもの。特に正思、正語、正業は、仏前勤行次第の中にもある十善戒として教えられているものでもある。
 正思は、不慳貪不瞋恚不邪見に。正語は、不妄語不綺語不悪口不両舌。正業は、不殺生不偸盗不邪淫に該当している。

 仏教のシンボル法輪は、この八正道を象徴したものだという。軸から出た八つの棒が車輪を支えている姿は、この八正道のそれぞれが各々独立して、その人に必要な修行として提示され、それらが合わさって完成された悟りへと導くことを表している。

 私たちは、すすむべき道に迷い惑うとき、様々な指針、マニュアル、模範となるものを参考にする。しかし本当に窮地に立たされたとき、それらの殆どが本当は役に立たないものばかりであることに気づく。全てを否定して、その場面の自分の深から沸き立つ声に聞き入らねばならないこともある。

 心経では既に述べたとおり、空の中にあって一切の苦しみから離れているので、こうした四諦八正道も、もはや超えていることから、無いと、ここに記されている。・・つづく   (全)


ネパール巡礼・六
(1995.10.11~10.26)


十月十九日、この日もカティナ・チーバラ・ダーン(功徳衣の供養会)に出かけた。昨日はカトマンドゥーの町中での供養だったが、今日は、パタンというカトマンドゥーからバスに乗って南に出た町。三世紀ごろから続く仏教徒の町で、仏像制作など工芸の町としても知られている。

 アーナンダ・クティ・ビハールの数人の比丘たちとともに小一時間ほどバスに揺られた。パタン中心部に着き、そこから歩いてスマンガラ・ビハールというお寺に入った。もう既に三十人ほどの比丘たちが屋外のステージを囲むように作られた座席に腰掛けていた。私たちもその列に入り込む。長老方は正面のステージに用意された座席に向かわれた。在家の信者さんたちもぞろぞろと集まり、ステージ前に敷かれた敷物にじかに座っていく。

 十時頃からここでもやはり長々と法話があった。有名なヴィシュワシャンティ・ビハールのニャーナプニカ長老の法話であった。気がつくと近くの席にスガタムニ師の姿もある。法話が終わって、カティナ衣の儀礼が済むと、食堂に案内され、スガタムニ師の隣で食事をいただいた。スガタムニ師はここでも七年ほど暮らしていたことがあると言っていた。この日は、昨日のように何人もの信者さん方から直接お布施をいただくのではなく、会場の関係からか、食事の後に小さな封筒に入れて一人一人に手渡された。
 その後、アーナンダ・クティの比丘たちといったんお寺に戻り、午後休息をとってから、明日にはベナレスに飛ばねばならないため、カルカッタや日本の人たち向けにお土産を買うためバザールに向かった。

 スワヤンブナートからアサンに向かう。何度も歩いて通った道なので、随分昔から居るような錯覚さえ憶える。バザールには、白い外国人に混じってアジアからの旅行者も多かった。二階建て程度の間口の狭い店が建ち並び、日本で言えば上野のアメ横商店街のような雰囲気。毛の敷物と綿のバック、それにろうけつ染めの仏陀像、お茶、それと現地のタバコなどを買い込む。

 翌十月二十日、朝の軽食の後それぞれの比丘と別れを告げる。六日ばかりしか居なかったのに、みんな私との別れを惜しんで、紙に自分の名前と住所、大学名などをデーヴァナーガリー文字で書いてくれた。最後に住職のマハーナーマ大長老のところで三百ルピーのドネーション(寄附)をさせていただき、先代アニルッダ大長老にも挨拶に行った。ネパール語の自著とヒンディ語の仏教書を頂戴した。「また来なさい」と皆さんに言われ、「はい」と調子よく答えたものの、結局これまでに手紙一つ出しただけである。
 十時にお寺を出る。スワヤンブナートから、乗り合いタクシーで町の中心部まで出て、そこからリキシャで空港へ向かう。やはりカトマンドゥ空港の記憶が欠落しているのだが、とにかく十一時五十五分発ベナレス行きインディアン・エアラインズに乗りこんだ。

 小一時間でベナレスへ。インドへ戻ったという安堵の気持ちと何にも変わらないという気抜けした感覚を覚えた。それだけインドとネパールというのは文化的に同化しているとも言えるのかもしれない。
 鉄道の駅よりもこぢんまりした、全体を黄色く塗られた空港からバスで街に向かう。裁判所が近くにあり、裁判という意味のムカドマと言われている地区まで出て、そこからオートリキシャでサールナートに向かった。

 サールナートのチベット研究所隣の法輪精舎前でリキシャを降りる。正式名は、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎。ここの住職をつとめる後藤恵照師は、テラスで椅子に座り日本茶をすすっていた。

 後藤師との出会いは、この時より三年前にさかのぼる。二度目のインド巡礼の折に立ち寄った際、十三世紀に仏教が消滅したとされていたインドに細々とその後も仏教徒が生き続けていたことを教えてくださった。その話は、現代インドには見るべき仏教はないと思っていた私には衝撃的だった。それは、私にとってのインドに対する思いが沸騰した瞬間でもあった。この後藤師との出会いがなかったなら、私はインドで坊さんにはなっていなかっただろうし、留学もしていなかった。

 このときも後藤師は、相変わらず昼間はサールナートで寄附の勧募と無料中学校の運営、それに夕方からはサンスクリット大学の日本語教官として孤軍奮闘していた。
 バブルの崩壊からインド仏蹟巡拝ツアーの熱も冷め、日本人旅行者が激減し、寄附が滞っていることを懸念されていた。しかしその分とまではいかないものの台湾や韓国の仏教徒から定期的に寄附をいただくようになったり、日本のそれまで一つだった支援者の集まりが何カ所か増えて、ありがたいことだと言われていた。

 そしてこの頃やっと新たに購入した土地に、校舎を建設するべく起工式を計画するまでこぎつけていた。この時既に在印十五年、一度も日本に帰らずインド国籍を申請していた。私がいた頃から申請していたのだが、その都度、間に入った人たちにリベートを騙し取られたと嘆いていた。この地で学校を作り骨を埋めるつもりでいる。
 一年前まで一年あまり過ごした同じ部屋に、私は宿泊した。私が来ていることを聞きつけたアショカ王の子孫・モウリア族の若者たちが毎日のように顔をのぞかせる。細い高校生だった子供たちがみんな私よりも遙かに背も高く体格も立派になって口の上には髭まで蓄えている。

 通りで店を経営していたサンジャイはここの学校の理事長として町の若者たちのとりまとめ役になっていた。バラナシサリーの絹糸を製造し、日本語を勉強に来ていたクリシュナさんは、ホンダのバイクでやってきて、私を自宅まで連れて行き夕食をご馳走してくれた。育ちの良い本当に優しいモウリアの人たちだ。
 またお寺ではこの頃、モウリアの人たちがチューションスクールといわれる予備校を開校し境内を仮校舎として使用していたり、学校の生徒の制服を作っていたテイラーが門番兼寺男として常駐していたり、丸一年ぶりで来たので、お寺の様子もそれぞれに変化しているようだった。

 後藤師は、私が行くと、自分の後のことをよく口にされた。何もかもこの寺につぎ込んできて学校まで作ったものの、そのあとが続かなくなっては元も子もない。本来お寺の檀那であるべき、ベナレスに住むベンガル仏教徒数家族たちとは余り良い関係にはなかった。私がいる頃も何度かたまにお詣りに来ていたが、お詣りするというよりは様子をうかがいに来たという感じで、少し話をして帰って行った。

 その代わりに、実際毎日後藤師の昼食にと、金属製の段重ねになった弁当箱を持ってくるのはモウリアの子供たちだった。だから思いの違う人たちに乗っ取られ建学の趣旨を変えられてしまうよりは、自分が育てた子供たちモウリアの人たちに後を引き継ぎたい。出来ればお寺も仏教大学併設ということで学校に寄附してしまうか、もしくは、学校は他の大学の姉妹校ということにしておけば、何とかそのまま残るだろうか、などと思案されていた。 

 それから十年。音信不通の間に後藤師は在印二十五年ほどにしてやっとの事インド国籍を取得し、今年三月来日された。昭和八年生まれだから七十二才になる。が、真っ黒に日焼けした健康そうなお姿からその年齢をうかがい知ることはできなかった。今では中学高校の上に、念願かなって文科系大学を併設するまでになった。
 サールナートには、この時結局一週間お世話になった。サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパ(塔)前の木陰でゆっくり瞑想したり、野生司香雪画伯の壁画で有名なムルガンダクティ・ビハールへお詣りした。また、昔を思い出して遺跡公園で旅行者に声を掛けたりして日が過ぎていった。

 カルカッタへ戻る日が近づいてきて、一日ゆっくりベナレスの町まで出掛け、街の中心部ラフラビルから旧市街チョーク地区を歩く。飲食店があったり、病院があったりする中に書店が何店舗かある。目指すはモティラル・バナーラシダースという出版社。
 そこで、ロンドンのパーリ・テキスト・ソサエティが一九二〇年代に出版した仏教語パーリ語の今でも最も権威のあるパ英辞典を買った。もっともその再版である。一九九三年にこのインドの出版社が再版権を取得し四百五十ルピーで販売している。A4版で七八三ページもあって重い。

 ここで、ロンドンで仏教語辞書の出版?と思われる方もあるかもしれない。しかし実は日本の近代における仏教研究はヨーロッパから入ってきた。明治の学僧がロンドンやパリに行って学び持ち帰ったものだ。
 それに先立つ西洋人による仏教研究は、インド、セイロンなどへ十七世紀以降交易から入植し植民地経営をする中で官吏や宣教師が現地の宗教、風俗、習慣、法律を知るために史書などを研究翻訳することから始まった。英国人、フランス人らによってパーリ語の史書や仏典が研究され、辞書などが出版されていったのだった。

 サールナートを去る前日、サンジャイの店で、線香やカレー料理に欠かせないマサラ(調合された香辛料)を沢山買い込んで数冊の本や辞書などと共に、ベナレスの郵便局から日本に発送した。 つづく       (全)


山川草木悉有仏性
ということ


日本の仏教ではよくこんなことを言う。山も川も草も木もみんな仏なんだ。悟っているんだと。分かったような分からないような。それでもこの言葉は一人歩きして自然は仏なのだから大切にしようということになって、環境問題の会合で突然この言葉が飛び出してきたりしているようだ。

 悟るのはものを考える能力のある人や神々のような存在であって、本来仏教では植物や自然環境は輪廻の中に含めないのだから、悟るということはないし、解脱もない。それでも我が国の仏教ではよくこの言葉が使われる。

 円空仏という独特の荒削りの木像仏がある。江戸中期の臨済宗の円空という坊さんが、自らの修行と教化のために、十二万体の仏像を彫る大願を起こして、木の中に仏を見てそこに仏を掘り魂を入れた。また大きな石や岩にそのまま仏を刻んだ磨崖仏というのも全国各地にある。これらは何れも自然の中に仏を見出した例と言えよう。

 しかし、私はこの言葉、山川草木悉有仏性とは、自然に仏性があるとか、もともと悟っているということではなく、その自然の中にお釈迦様が教えられた悟りへ至る教え、真理、法則がそのまま見いだし得る、私たちが悟るために学ぶべきものがある、あたかも仏が説法しているかの如くそこから教えが聞こえてくる、ということではないかと考えている。

 だからこそ自然は仏なのだ。なぜならば、仏とは私たちを悟りへ至らせるために教え導く存在であるのだから。何気なく見る草や木々の生態に、自然界の法則がそのまま窺い知られる。川の流れ、大地の転変にこの世の真理を見いだすことが出来る。

 だからこそ、そこに仏陀の本性を見てとることができるのであり、仏と言われるに匹敵する智慧が隠されている。ということは、本来、あらゆるすべてのものから私たちは教えを得ることが出来るということになり、やはり必要なのは私たち自身のそれを受け取る能力、感性、探求心が求められているということなのだと思う。 (全)
(これは月例護摩供後の法話に加筆したものです)


國分寺仏教懇話会特別企画
五月十三日開催
タイの僧侶と語る会3

 タイ比丘藤川清弘師をお招きしての「タイの僧侶と語る会3」は、前々日に地元紙に案内が掲載されたこともあり、檀信徒はじめ遠方からも大勢お越しになり、熱のこもった講演に続き、この度は質疑応答も活発であった。

 はじめに、藤川師から、「アジアの各国を訪問し、様々な戦争の傷跡を目にし、また慰霊をする中でやはり慈悲の大切さを痛感する。慈悲は日本では、他人に利益のある行いをしたり、苦しみを取り除いてあげることといった教え方がなされるが、本当の慈悲とは、慈・悲・喜・捨という四つの心を言うものだ。

 慈とは、誰をも友と思う心であり、悲とは、その友が、つまり誰もが苦しんでいるときに助けてあげようとする心、喜とは、その友が喜んでいれば自分も我が事のようにうれしく思う心であり、捨とは、あるがままに物事を見て動揺しない心のこと。
 私たちは自分だけのことを考えがちであり、ともすれば他を押しのけてまで幸せになりたいと思う。これでは何も変わらない。これら慈悲の心を強引にでも心にたたき込むために慈悲の瞑想をする必要がある。毎日慈悲の瞑想をするなら、平安な日々が送れ、老いてもぼけないと言われる。是非実践して欲しい」

 それから質疑応答に移り、日本の仏教では信ということを大切にするが、どう思われるかとの質問に対し、「やはり大切なのではないか、自分も坊さんになってから勉強して勉強してお釈迦様の教えに対する信が確立してから本当に気持ちが楽になった。やはり信がなくてはいけない」

 また、日本の仏教の将来についてどう思うかとの質問に対し、「一番の問題点は、仏教というと日本では葬儀法事となることではないか。その辺の役割を決めつけてしまっている皆さんの考えもいかがかと思う。お釈迦様は弟子たちに墓地で人の身体が埋葬され変化していく様を観察し瞑想しろと命じられた。無常、全てのものは変化していく、美しいものもあえなく汚れていくさまを見よと言われた。

 その辺から坊さんと死が結びついていったのではないかと考えている。昔ネパールに行ったとき、行列について行くと川原で死者を火葬にした。その後、何を思われたのかその参列者が自分の所に来てお布施を一人一人置いて行かれた。そんなことが仏教と死者儀礼との出発点だったのではないか。つまり僧侶が葬式に参加するのは本来自らの修行のためであって、葬儀のために僧侶が居るわけではない」

 後半では、仏教の瞑想に話し及び、「仏教の瞑想は坐禅と一緒と思われるかもしれないが、随分違う。ヴィパッサナーと言って、よく観ること、観察することだ。何を観察するかと言えば、自分の身体、特に呼吸と心。腹が立っても、そのことに自分が気づけば冷静になれる。

 まず呼吸を見る。鼻から出入りする息の温度や勢いなどを観察する。すぐに心に雑念が湧く。そんなことを一つ一つ細かく知っていく。私たちは何に対しても過去の様々な経験から物事を判断しているが、その判断もせずにものを見るように心がける。
 そうするとただ変化していくのが分かる。つまり無常ということが分かってくる。人に対しても初対面でも見てくれで何か判断している。だが、みんな変化していくのだから、その人の真実などない。呼吸が乱れたときは心が動揺している。気づいたら、すぐに呼吸を整えるようにすれば心が落ち着く。

 こうした瞑想の前には、必ず慈悲の瞑想をする。上座仏教では、自分が幸せでなかったら人も幸せに出来ないと考える。自分が病気で伏せっているときに人に優しい心で人に接することは難しい。やはりまずは自分が幸せでありますようにと念じ、それから親しい人たちが幸せであるように。そして生きとし生けるものが幸せであるようにと願う。

 それから大事なのは、自分が嫌いな人も自分を嫌っている人も幸せでありますようにと念じられてはじめて本当に安らかな気持ちになれるものだ。なぜなら、自分に対して向かってくる敵をも幸せにしてしまうことで自分が無事になるのだから」

 最後に参加者一同で慈悲の瞑想を実習してこの度の講演を終えられた。この後、ミャンマーのメッティーラから同行された敬虔な仏教徒マンゲさんから、日本の仏教徒に向けて、輪廻についてお話があった。

「私たちは、死んで終わりではない。死んでも次に行く来世がある。来世は生きてきた違いによって、地獄や餓鬼、畜生の世界に行くかもしれないし、修羅の世界に行くかもしれない。人間に生まれても様々な違いがある。だから私たちは良いことをして沢山の功徳を積まなければいけない。お坊さんに施しをしたり、困っている人たちの手助けをして功徳を積み、瞑想したりして心を清らかにする生活こそ私たち仏教徒の勤めなのだと思う」

 藤川師はこの後、長野での瞑想会に向け十四日早朝に國分寺を出発された。来年も新たなご経験お話をもって来山されることと思う。乞うご期待。
               (全)


読者からのおたより 
 『老いを生きる』

 五月十一日から十二日、神辺結衆の皆様とお四国の巡拝に行ってまいりました。一番霊山寺からめぐる一泊の旅。毎年ご一緒させていただきその都度新しい発見があり、本当に有り難い思いで毎度お詣りをさせていただいています。

 ですが、今回は特に帰りのバスの中で拝見したビデオには、帰ってからもその有り難さが、おまいりの有り難さとはまた別に、心に残りました。
 そのビデオは、京都の西陣で長年往診を中心に地域に根ざした医療に情熱を捧げ、多くのお年寄りを診てこられた早川一光先生の講演ビデオでした。みんな笑ったり聞き入ったりのアッという間の二時間でした。

 簡単に申しますと、老いて豊かに死を迎えるための心の持ち方を語る講演です。
『人生には竹のように二十年毎に節があって、それを昔の人は厄と言った。八十を越えても厄がある。厄介の厄。だから人の厄介にならないように豊かに老いなければダメ。

 食べ物でも、どんなに腕の良い名調理師の作った料理でも満腹ならまずいもの。ですが、戦時中お隣から頂いた芋がゆは涙の出るほどうまかった。腹が減っていたら何でもうまい。あー、ありがたいと思って食べたらなんでもうまいのです。それが「なんやこんなもん」そう思った途端まずくなる。「これうまいよ、どうぞ」と分け合っていただくものはうまい。何を食べたと思いますか? 食べ物ではなく、どうぞと言ってくれた人の心を頂いたのです。

 人間は所詮一人。ですが、一人では生きていけない。たとえ身体は寝たきりになってもかまいません、働けるのです。働くとは、他人(ハタ)の人を楽にすることだからハタ・ラクと言う。だから、「ありがとう、すみませんね」と言うだけで、お世話している人は心が楽になる。これがハタラクということ。感性豊かな心です。豊かに老いるということです。

 人生を生老病死と言うが、私は、生老病呆死と言っている。人間みんな老いボケていく。老いるのは赤ちゃんに返っていくのであり、失禁したり耳も目も衰えてくる。これは正常なことであって、老いて身体の悪くならない人は居ない。それを周りの人たちは暖かく見守り安心させてあげるとボケは抑えられる。誰もがその時を迎える。歳を重ねて、生かされてきたありがたさをしみじみ感じて、決して自分のお陰で今があるというような驕った見方をすることなく、今あることに感謝して一日一日を送って欲しい。

 そして息を引き取るときは病院ではなく、住み慣れた家の畳の上で子や孫たちに囲まれ死なせてあげて欲しい。特に小さな子供たちに死にゆく人の姿を見せてあげて欲しいと思う。死は直線ではなく螺旋状にめぐって死がまた生を生んでいく。絶えることのない螺旋の延長線上に私たちの人生もまたあると気づいて欲しい。・・・』

 こんな内容の講演だったのですが、私には意外と仏教と医学は共通しているのだと思えました。そのときの感動の何分の一かでもお裾分けしたいと思い筆を執った次第です。(R)

『下御領の犬地蔵さん』

 下御領の旧道から、宮池、八幡様、國分寺へと通じる参道の入り口に、昭和十七年、参道構築記念に建てられた注連柱が立っている。
 その注連柱の根元に一対の石塊が座っている。右側は「是より西國分寺」と刻した道標である。左の石塊は石仏である。おそらく参道が構築される以前からこの位置に立っていたものと思われる。

 この道は平素良く通る道であるが、実を言うと、過日國分寺さんから教えられるまで、この石仏は、地元で「犬地蔵」といわれている石仏であるとは知らなかった。
 石の表面がかなり風化しているが、浮き彫りされたお地蔵さんの立像の下に犬らしい像容が見て取れる。銘文がないので、いつ頃、誰が、何のために建てたのか分からない。万人講の石仏などで牛馬の像容はよく見かけるが、これはそれとも少し違う。犬の像容石仏を見たのは初めてである。

 なぜ犬像なのか。誰かの愛犬の供養なのだろうか。猟犬がお大師さんを高野の地に案内したという故事による道の護りなのか。いろいろ想像してみた。

 石仏といえば石地蔵と思われるほど、最も多いのが地蔵菩薩像で、「○○地蔵さん」と俗称で呼ばれているお地蔵さんは、全国に二百四十八種もあるといわれる。この石仏もその一種であろうか。多岐にわたる現世利益への願望が民間信仰と合致して、多様な地蔵信仰を生み出したのであろうから当然であろう。

 お地蔵さんに限らず、路傍やお寺の境内、墓地など、身近なところで思いがけない石仏と出会うことがある。

 これら野の仏たちは、本堂の奥深くまつられているご本尊と違って、いつも私たちと同じ空間にいて、触っても撫でても何のこだわりもなく受け入れてくださる親しさがある。

 平素はほとんど気にもとめず素通りしてしまう野の仏たちを立ち止まって眺めながら、この仏さんを、だれが、いつ、どんな願いでおまつりしたのだろうか、あれこれ想像してみるのも楽しいものである。

 これが野仏の魅力である。

 どなたか「犬地蔵さん」についてご存知の方、お教えいただければありがたい。                                    (一七・五 M)


 お釈迦様の言葉十一

『われ罵られたり、われ害されたり、
われ敗れたり、われ強奪されたり、
という思いをいだける人には、
怨みしずまることなし』
(法句経三)

 ある時、お釈迦様の叔母の子であるティッサ長老が、未熟な修行過程にもかかわらず横柄な態度で居ることを、若い比丘たちに非難された。そのことに腹を立て、お釈迦様に訴えたときに、お釈迦様は静かに話を聞かれ、それから言われたのがこの偈文だと伝えられている。

 何か言われたり、されたりしたときに、そのことがみんな自分に対して攻撃されたものと思ってしまうことは良くあることです。ですが、何事も因縁によるところの一つの現象に過ぎず、何事も流れ行き、過ぎ去っていくものです。

 自分、私、私のもの、という意識はそう簡単にはなくなるものではありません。ですが、自分も常に変化していっている存在に過ぎないことを考えれば、私という確かな存在などなく、何を言われても、されても、それはただの音や行為に過ぎないということに気づかされます。

 釈迦族の王家に生まれ、お釈迦様の従兄弟であることが彼に強固な自意識をもたらし、それが知らず知らずのうちに態度に現れていたことを戒めた言葉とも言えましょう。

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│ 平成十七年度國分寺年中行事                  
│ 月例御影供並びに護摩供     毎月新暦二十一日     
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日          
│ 中国四九薬師霊場巡拝(島根)    九月十五・十六日    
│ 高野山参拝         十月十四日              
│ 四国巡礼(徳島高知一泊二日) 十月二五・二六日     
│ 除夜の鐘            十二月三十一日         
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 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX 〇八四ー九六五ー〇六五二
□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。

◎より参加しやすくなりました、結衆の皆さんと行く
お四国巡礼バスの旅、是非ご参加下さい!

國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より


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