備後國分寺だより


備後國分寺寺報 [
平成十七年土砂加持号] 第11号
(平成17年3月27日発行)

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


真言安心小鏡を読む1
『土砂加持のご利益』

 江戸時代中期の阿波三傑と謳われた真言僧の一人、天廬懐圓師は、無欲恬淡、大慈悲の心に富み、学徳兼備の高僧であったという。その懐圓師が僧俗の為に平易に真言教学に基づく安心を説いた名著『真言安心小鏡』が現代語訳になって蘇った。江戸期の著作によって現代を生きる私たちが日頃忘れがちな信仰のあり方を学ばせてもくれる。

 「正宗中巻・土砂加持のご利益」と題する章では

 光明真言は、ひとたび耳にするだけで西方極楽浄土に赴いて阿弥陀様の前に生まれ変わることができる。またその光明真言によって百八返加持された土砂を、どんなに逆悪非道に生きた人であったとしても死後その屍や墓に散ずれば、地獄修羅畜生の中にあったとしても、その罪報を除き西方浄土に化生し悟りにいたる。

 そして「これは実に大悲の心が誠に深い仏様の本願で、他力という仏様のお力にすがる教えの中でも最もすぐれたものである」と懐圓師は説く。

 こうした表現の中に当時の浄土教の勢いを感じる次第であるが、もともと真言宗は他力でも自力でもないことを考えると、些か違和感を覚える。真言宗は三力門と言い、自ら修する功徳力と如来の加持力と、法界力という周りの宇宙全体の力をもって修行が成立するとしている。

 さらに懐圓師は、この先で「修行をつんだ僧が加持した土砂なら墓にひとたびかけるだけで亡者は地獄を出ることができる。修行の足りない行者の加持による土砂ならば、たびたび土砂をかけることで亡者は罪業が消えて地獄から出ることができる。また、そうした修行の足りない行者の加持であっても、病気がなく元気な頃から行者をあがめ頼りにしているならば、その願いが行者の加持を助けて素晴らしい御利益を得ることができる」と説いている。

 別に懐圓師が自己を卑下して述べたくだりではないが、この一文を読むと、いつの時代にあっても、僧侶には前の時代に比べて劣っているという思いがあることを感じる。正像末の思想(注参照)は元々の仏教になかったとはいえ、それを伝えた根本には、釈迦の時代を最高とする、その時代を慕う僧侶の思いがあったのではないか。

 その思いを人一倍強く持ち続けた高僧に鎌倉時代の明恵上人がいる。明恵は、『土砂勧信記』の中で、「時、末世におよんで余の法の霊験はかくるとも土砂の利益は益々あらたなり」と記しているという。そうした時代だからこそ土砂の利益を頼みにする気持ちを真摯に証している。     つづく

(注)仏滅後五百年とも千年とも言われる正法時には、教・行・証がそなわっているが、その後の像法時には証(仏果)がなく、末法時には行も証もないとする。


般若心経からの
メッセージ4


 心の重荷を脱せよ
 そして、「舎利子よ、この諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり」と続く。

 仏教で「法」というと、様々な意味に用いるが、主に「法則・規範」という意味と、仏法と言うように「教え・教理」という意味合い、それから、法によって支えられた一般に存在する「もの」を意味する。

 この場合の「諸法」とは、この三つの中では二つ目の教理に当たる。具体的には、心経のこの前の部分で考察してきた五蘊と、この後「無・無・」と否定していく内容を指している。静かに目を閉じて瞑想する中で現れてくるもの、心の働きなどを意味する。

 五蘊について考えてみると、前回述べたように、心がとらわれを起こす過程を説明する、色・受・想・行・識のそれぞれについてよく観察し、よく知らねばならない。

 普段私たちは、無意識のうちに何かを見て心喜ばし、その移り変わりに困惑し、とらわれ、心縛られて、苦しみ悩むことになる。

 目を閉じ静かに瞑想し、ものや心のありさまをよく観察し、何事もそれ自身だけで存在するものなどないとさとるならば、とらわれを起こす五蘊のそれぞれについて生滅・垢浄・増減が無いことが知られる。

 地位があるとか無いとか、偉いとかつまらぬとか、きれいだとか汚いとか、所得が多いとか少ないとか、そんなことどもが、とにかく大いに気になるのが私たちの常である。そうして世間の尺度でものを考えるが故に、心を汚し、周りの人たちをも巻き込んでしまう。

 たかが七、八十年。この日本の狭い地域で生きるだけの、ちっぽけな私たちであることを思えば、すべてが取るに足りないことだと分かる。

 地球は四十六億年。人類が誕生して一五〇万年。絶え間ない変化のお陰で進化を続け今がある。そして、そのすべてが一瞬の出来事の積み重ねに過ぎない。

 古い経典に、
「五蘊は重き荷物にして、
 これを担うものは人である
 重きを担うは苦しくして、
 これを捨つれば安楽なり
 すでに重荷を捨てたらば、
 さらに重荷を取るなかれ
 かの渇愛を滅すれば、
 欲なく自由となりぬべし」
とある。

 つまりここでは、すべては空なのだから、好き好んでかついでいる心の重荷を捨ててしまえ。そうすれば、何にも動じない清々した心になれると教えている。

 外からの刺激にとらわれるな
 次に「この故に空の中には、色無く、受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く、色声香味触法無く、眼界無く、ないし意識界無く」とある。

 この故にとは、つまり正に、この空を悟ったからにはということで、色受想行識の五蘊は既に心に生じ、とらわれを起こすことはもはや無いということ。

 このあとの「眼耳鼻舌身意」とは、外界から私たちが五感などとして刺激を受け入れる感覚器官のこと。六つ目の「意」は心。心の中に思いが生じる際の受け皿となる心の作用とでも言えようか。これらを仏教用語で六根という。

 そして、「色声香味触法」とはそれらの感覚器官がそれぞれ取り入れる対象のことで、「色」とは形あるもの、「声」は音、「香」は匂いあるもの、「味」は舌で味わうもの、「触」は肌に触れるもの、ここでの「法」は心に浮かぶ考えや思い。これらを六境といい、六根と六境をあわせて十二処という。

 そして感覚器官である「眼耳鼻舌身意」がその対象である「色声香味触法」をそれぞれとらえる心、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を六識といい、対象が感覚器官に捉えられてきちんとそれを認識する心のこと。

 六根六境六識をあわせて十八界といい、それぞれのうしろに界をつける。この後半部分の「眼界無く、ないし意識界無く」とは、その十八界すべても空を悟ってしまえば、それらによって心とらわれ悩み苦しむことも無いということ。

 この十二処十八界は、私たちが常日頃無意識にしていることによって、とらわれを起こし悩み苦しんでいる様子を説明するためにお釈迦様が用いられたもの。この十二処十八界によって知られる世界によって私たちが認識する全てなのだともお釈迦様は言われている。

 きれいなものを見たい、心地よい音楽を聴きたい、いい香りを嗅ぎたい、美味しいものを食べたい、肌触りのよいものを身につけたい、心楽しいことを考えていたい。誰でもがそう思っているし自然なことだと言える。

 しかしながら、正に、そういう思いによって、心とらわれ、その思いが叶うときには欲の心が生じ、叶わないときには怒りの心が生じる。愚かしい限りだが、それが私たち人間のもって生まれた心の習慣なのだという。

 そうして、幻想の中で、怒ったり、笑ったり、魅せられたり。それらの刺激に反応して私たちは暮らしている。その連続が私たちの一生なのだとお釈迦様は言うのである。

 そして、その私たちの日常為していることを六つの感覚器官とその対象とを分けて、そこに介在する心によってそれが引き起こされている様子を自ら観察しなさいと教えられた。

 「眼」という感覚器官や「色」というその対象となるものは、無常なるものであり、苦である。そのようなものが、私であろうか、私のものであろうか、私自身であろうかと問いつつ、如実に知るとき、それら感覚器官もその対象もそこにある心をも厭い離れ、貪りを離れ解脱すると言われた。

 ここでは、十二処十八界として説明される、刺激に翻弄される私たちの習性を、本来私たちの習いとすべき事ではないと教えてくれている。
                                              ・・・・つづく


ネパール巡礼・五

 一九九五年十月十八日、九時頃歩いて街に向かう。カトマンドゥー中心部のチェットラパティとアサンの間に位置するスィーガーストゥーパを目指す。そこでカティナ・ダーナという仏教行事が行われるという。歩いていると大きなスピーカーの声が聞こえてきた。何やら演説でもしているようだ。

 この一年前のことではあるが、インドのサールナートにいたとき、通っていたベナレスの大学でお釈迦様のお祭りがあるから来いと教授に言われ、行ったことがあった。その頃には既に日常会話程度ではあるが、だいぶヒンディ語が分かるようになっていた頃だった。ところがそのお祭りで話す講演の内容が、まったくと言っていいほど聞き取れなかったことを思い出す。壇に立ち、マイクに向かってがなり立てるように、また抑揚をつけて勢いよく早口でしゃべる演説口調には、ほとほと困り果てたものだった。

 このときも、ブッダ、プンニャ、ダーナー、シーラー、そんな聞き慣れたパーリ語の仏教用語が飛び交っていた。だが勿論そのときは、ネパール語でのお説教であったから内容が分からないのは当然のことだった。声の方向に白い大きな塔が見えた。

 上の方は日本で言えば法輪、それは鮮やかな金色に塗られ、それから下の塔部分は白い。塔部分は上が四角でその下は半円状に太くなっているだけだ。その塔の前に大きなテントが何枚も張られ二、三百人の信者が敷物を敷いてじかに座っている。

 みんな白い衣装を身につけている。男の人たちは白いシャツに白いズボン、それに毛のベスト。女性陣はみんな白いサリーだ。日本では仏事にはどういう訳か黒を身につける。僧侶も法会では紫など色衣を用いるが、平素は黒の改良衣を多用する。インドなどへ黒の法衣で来てしまう日本僧侶を目にして、現地の人がイスラム教の人たちかと間違えたという笑えない話も聞く。やはり在家信者は白。僧侶は黄色から茶系の袈裟というのが世界の仏教徒の常識だ。

 そのテントの最前部には十人ばかりの老僧方が椅子に座り、その中の一人が先ほどから法話をしていたようだ。近くに来てみると、一昨日お会いしたアシュワゴーシュ長老だった。よどみなく話す言葉には迫力があった。

 そこは塔を中心にして七、八十メートル四方の広場になっていて、周りの三方の三、四階建ての建物の壁下に設えられた窪みに比丘(南方仏教の僧侶)たちが座っていた。私もその中に加えてもらい座る。

 カティナ・ダーナは、安居開けの比丘たちに一年一度新しい袈裟を施すとても大事な行事だ。南方の仏教では今でも、雨期の三ヶ月間、およそ七月の満月の次の日から十月の満月の日まで僧院の中で外泊せず勉学修行に励む雨安居を行う。カティナ・ダーナは、五月の満月に行われるブッダ・ジャヤンティというお釈迦様のお祭りと対をなす仏教徒にとっての一大イベントでもある。

 因みにブッダ・ジャヤンティは、生誕祭と成道祭と入滅祭をあわせ行うお釈迦様の日。私たちはお釈迦様のお生まれになったのは四月八日、悟られたのは十二月の八日、そして亡くなられたのは二月十五日と思っているが、南方の仏教では、お釈迦様はこの同じ日に生まれ悟り亡くなったと信じられている。

 いつ終わるとも知れない説法は結局その後一時間半ほど続いた。勿論他の長老方の説法の他、在家信者らの話もあった。その間にぞろぞろと比丘衆が勢揃いして広場の周りの壁には隙間が無くなっていた。途中で昨日お訪ねしたバスンダラ寺の住職スガタムニ師と九十五才になる比丘も来られて私の隣に座られた。
 総勢百五、六十人はいただろうか。その中には女性の出家者であるアナガリカと言われる人たちもいて、ピンク色の布をまとって参加していた。

 法話が終わるとおもむろにそれまで静かに座っていた信者たちが立ち上がり、周りの建物にそって座る比丘衆一人一人に施しをして歩いた。静かにぬかずいて両手でお金や食べ物を差し出す。信者の列は止めどもなく続いた。その光景を初めて見た私は、それはとても信じられないような荘厳なものであった。  

 ネパールの仏教会に属している訳でもない。インド比丘とは言え、ただの旅行者の私がこのような場にいて良いのだろうかとも思えた。スガタムニ師に「私がここにいてもいいものだろうか」と問いかけると、「いいんだ、座れ座れ」と言って笑っている。「おまえはそうやって彼らに功徳をあげるんだから、いいんだよ」と言う。

 そんなものだろうかとも思えたが、何か悪い気がして居心地の悪さを感じていた。それほどまでに、布施する信者たちの気持ちが誠に純真なものに思えた。

 みんな小銭ではあるけれども二十五パイサから二十ルピーもの布施をされる。その上お米や飴玉などを入れていく。ネパールルピーだから、通貨換算すれば五十銭から三十円といったところなのだが、一人一人には少額かも知れないが、それを全員に施す側にとったら結構な出費になるのではないか。

 日本のタクシーとこちらのオートバイの後ろに座席を付けたようなリキシャとを簡単に比較は出来ないが、タクシーが千円以上もかかりそうな距離をこちらでは三十円で行けてしまう。単純に計算すれば三十分の一の物価水準ということだろうか。つまりは、生活感覚で言えば、差し出した額の三十倍程の価値がある。

 私たちの感覚だと、一人当たり十五円から千円程度の布施を百五十人もの坊さんにささげたということになるのだろうか。一人一人に千円もの布施をした人は、それだけで十五万円もの布施を一度にしたことになる。一年一度の大切な法会だとはいえ大変なことに思えた。
 そんなことを考えながら無言で布施を受けた。

 比丘たちは誰一人として布施を受けるときに頭を下げる者はいない。自然に私もそのままの姿勢で頂戴していた。僧侶が托鉢して頭を下げるのは日本くらいのものだろう。どの国でも托鉢する僧侶が頭を下げたりしない。布施を頂戴する代わりに功徳を授けている。そう考えるからとも言われるが、それよりもやはり立場の違いを厳然とわきまえているからとも思われる。

 日本では、僧が在家者に対して合掌することは日常でも見かけられるが、南方の仏教国ではそのような光景を目にすることはない。インドのサールナートにある日本寺の本尊様は合掌した仏陀像なのだが、そうと分かると、せっかく来たのに礼拝もせずに帰ってしまう外国の仏教徒がいると聞いたことがある。

 それなども、インド人の「ナマステ」と言いつつ合掌してなされる挨拶の意味するところが、その人の足もとにひざまずき御足を頂いてご機嫌をたずね、教えを乞うとの意味があるからであろう。お釈迦様は最高の悟りを得られた聖者であり、お釈迦様が合掌して教えを乞う人など無かったのであるから当然のことだと言える。

 そして、南方仏教の比丘は、私たち在家の側からではなく、お釈迦様の側から私たちに対していることをこうしたことからも窺い知ることができる。だからお経を唱えるときも、仏像を前に在家者と同じ向きでお経を上げることはない。必ず仏像を背にして在家者に向かってお経を唱える。

 お釈迦様の側にあるということはそれだけ大変な心構えが常に求められている。日常を戒律で規定され、お釈迦様の教えに生きている気概が問われる。

 そして、とにかく大勢の信者たちの布施をいただき持ちきれなくなったお金や菓子類を頭陀袋に入れた。最後の信者から布施を頂戴した比丘から順に立ち上がりちょうど向かい側にある食堂の方向に向かい歩き出す。
 私たちもその列に加わるが、まだ食事には時間があるようで、「マンディル(お堂)に行こう」とスガタムニ師に誘われ、食堂斜め前に建つ建物の二階に案内された。二十畳ほどの部屋の正面にお釈迦様が祀られていた。

 三人で揃って床に額を着け礼拝する。それから三人で記念撮影。壁には沢山の額に入れられた長老比丘の写真が飾られていた。

 するとその横の部屋でアシュワゴーシュ長老が法話を終えて休まれていた。迷わず入らせてもらい、一昨日からのお礼と用件が済んだことを申し述べた。すると「(ルンビニーに建てるインドのお寺の件だが)やはり四カロールは難しいんじゃないだろうか。一カロールで建てねば。まずゲストハウスを作って、それから少しずつ本堂を造るようにしたらいい」そんなアドバイスをいただいた。

 長老が言われた一カロールとはインドルピー建てで一千万ルピーということだから、約三千万円。そうなのだ、この程度なら何とかなるかも知れないと思える。しかし計画では、四カロールとなっていた。四カロールとは一億二千万円。やはり途方もない金額だ。そう思えた。

 そんな話をしていたら食事時間になり、呼ばれて食事会場に向かう。比丘全員がホールで食事をする。みんな言葉を発することなく黙々と料理を口に運ぶ。「たくさん食べて上げることが施す側への功徳となる」そう前に聞いたことがある。

 また、「比丘は美味しそうに食事を腹一杯食べることが仕事だ。施してくれる在家信者たちにとってそれが功徳になる。だから腹を大きくしろ」そんなことを言われたことがある。

 カルカッタでウパサンパダーという得度の儀式を経て晴れて南方仏教の比丘になったとき、その儀礼後の食事会場で、私と一緒にその日比丘になったボーディパーラという比丘が言った言葉だ。彼は今ではインドのブッダガヤの象徴である大塔を所有する寺院マハーボーディ寺の管長になっている。英語に堪能な秀才で、確かベンガル仏教会の創始者の家系であった。

 そんなことを考えつつ、たくさんの在家信者たちがここでも忙しそうに給仕をしている姿を眺めた。そして、そのころに比べ、少しは大きくなった腹に右手ですくった料理を流し込んだ。

 食後スガタムニ師らと重いお腹を抱えるように、ゆさゆさと街を歩きながらバススタンドに向かう。そして、バスンダラ行きのバスに乗った。

 カトマンドゥーの環状道路を循環するバスに乗り合わせたため、途中白い雪をいただくヒマラヤを遠望することが出来た。カトマンドゥーからヒマラヤを見られるというのは旅行者にとったらそうそうあることではなく、何度来ても見られない人もあるらしい。

 お寺に着いてから、私の頭陀袋の中にあったお布施をすべてスガタムニ師のお寺の建築費用に充ててもらうために寄附させていただいた。つづく

(平成五年六月カルカッタフーグリー河船上にて 中央の私の右にボーディパーラ比丘)


小説バランス

 海野には恩師がいた。ただ最近十年ばかり音信不通であった。住まいも移転し周囲の環境が変わって、以来知らぬ間に連絡を取り合わなくなっていた。
 その恩師神山が亡くなったとの訃報を知ったのは、この正月に友人からもらった年賀葉書でだった。海野は、かつて子供のいない神山から我が子のように良くしてもらった思い出が蘇って数日眠れない晩を過ごした。

 医大の受験を失敗し将来の進路に行き詰まっていた海野は、校内で時間つぶしによく寄っていた美術講師の神山の元を訪れた。
「親にお金をださせて予備校にまで通ってたのにすべっちゃいました」
「あなた美大にでも行ってみたら、あなたはおもしろいものを持っているから。でもちゃんと両親に相談してね、美大もお金がかかるから」
 そんなやり取りが海野を絵の道に進ませた。そして、その後の人生をあゆませてきた。短大から四大に編入して日本画を描いた。日展にも入選し、都美術館に毎年のように展示されるようにもなった。

 大学時代は足繁く恩師の元に通った。と言うよりも美大に入るに当たっての手ほどきも神山がかってでてくれたのだ。そのお陰で専門的に絵のことを知らなかった海野はデッサンぐらいはできるようになって美大に進んだ。その美大には神山の同級生が教授にいた。
 美大から神山の住まいが近いこともあり、自分ではちっとも食べない洋菓子を手土産に、恩師のもとを訪ねた。神山は結婚していなかった。だが一人住まいでもなかった。同じ美術の道を歩む同年代の男性と内縁関係にあった。

 海野がおじさんと呼んだその男性は、他の美大の教授をしながら舞台芸術の世界でも名を馳せたことがあったらしい。が、それがたたって自宅療養中の身であった。舞台芸術にはシンナーやら身体に有害なものを随分と扱うらしい。
 小柄な神山に比べ、頭一つ大きなおじさんは、いつも背筋を伸ばして実際よりも背丈が大きく見えた。狭い家の中では隠れてもすぐにどこにいるのか分かってしまう。海野が行けば、いつでもそのおじさんが迎えてくれた。

 一緒に三人で展示会を見に行ったことも何度もあった。そうしたときには必ず知る人ぞ知る珍しいレストランや料亭に連れて行ったくれた。時にはナイトクラブにまでお供したこともあり、海野の知らない世界を垣間見させてくれた。
今でこそ様々な店を紹介する雑誌が出回っているが、当時はその手の本は皆無に近かった。都内にかかわらず美術館帰りの道すがら、二人はとにかく飲食店に限らず輸入雑貨や甘味処など様々なお店に若いうちから出掛けていたのだ。同世代の男女が子育てに追われる時間をそうして気儘に費やしたことをうかがわせていた。

 神山にはかつて息子のように面倒を見ていた青年がいる。知り合いのツテを頼ってある美大の講師に推薦し、今では教授になっている。その青年とはよく神山の所で一緒になった。普段神山の向かいに座る海野もその時ばかりは座所を変えねばならなかった。

 ある時、コタツを囲み猫をあやす神山が、
「あなたが養子になってくれたらいいのに・・・」一緒にお茶を飲みながらそう呟くのを聞いた。一瞬海野は何のことか分からなかったが、まだ二十歳そこそこの海野にはその一言が重く心にのしかかった。
 それ以来それまでのように気安く出掛けて行くことができなくなった。そして徐々に足が遠のいた。誰にも相談できずに悶々と時が過ぎていった。

 母親にそのことを言ったらなんと言うだろう。三人兄弟だから良いというものだろうか。これまで共働きで本意ではなかった美大の学費も出してくれた親に向かってそんなこと言っていいものだろうか。
 一人になるとそのことばかりが心に浮かんだ。一人の胸の中にしまっておくのが苦しくなって、最初に神山から絵の道を誘われたとき一緒にいた友達に相談した。
「少し距離を置いたら」と言われた。

 それから暫くして、美大の推薦するヨーロッパツアーに参加することを神山に告げに行ったことがあった。神山は「そう良かったじゃない」と言うだけだったが、一緒に聞いていたおじさんは、
「そんな外国のものを見たってダメだ。もっと国内のいいところが沢山あるじゃないか」そんなことを無碍に言った。
 旅費を前払いしていた海野は結局そのツアーに参加した。そして海野はそれを最後に神山のもとを訪ねることをしなくなった。

 風の便りに神山が住まいしていた土地争いで親族と裁判沙汰になっていることを海野は知った。神山の住まいは神山の父が神山のために建ててくれたものだった。かなり古い建物だったが神山の住まいとアトリエがあり、二階をアパートにした当時としたらハイカラな構造だった。
 それから暫くして、内縁関係にあったおじさんが亡くなった。海野はその時ばかりは駆けつけて神山のために働いた。家族の無かったおじさんの位牌と遺骨は神山が引き取って家に置いた。
 それから裁判に負けたのか海野が近くを通ったときに寄ると、既に新しいビルに様変わりしていた。海野は胸につっかえていたものが消えていくのを感じた。

 数年してきた年賀状には別の住所がしたためてあった。海野がその時連絡していれば、もう少し恩師の死を楽な気持ちで受け取れたはずであった。だが、かつて神山が世話をした生徒を恩知らずだと非難する言葉が思い出されてやめた。それがために電話も手紙も出さずじまいになった。もしも海野がその言葉を聞くことがなかったら、電話で近況を知らせ合うことぐらいのことはしていただろう。
 
 その後海野はアジアに旅して知り合った女性と結婚し子供をもうけ東京から離れてしまう。音信不通の間に何があったかは定かでない。そして、今年受け取った年賀状によって、神山が亡くなったことを海野は知った。年賀状の送り主から享年七十、胃ガンだったと聞いた。二、三年前に金沢の知人宅に間借りし始めたばかりでもあった。
 遺骨は親族が預かって行った。生前実家の墓には入りたくないと言っていたと聞く。裁判になって親の財産を取り合い罵り合った弟の世話にはなりたくなかったのであろう。

 しかし子供もなく、頼りにしていた内縁の夫も先立っていた。息子のように可愛がっていた教授も何度かは金沢まで訪ねたことだろうが、長く続く死後の供養まで責任をかぶることも家族の手前できなかったのだ。
 葬式も恩義を感じて仮住まいをさせた知人が施主を勤めた。残された遺品、特に多くの絵画はその知人が引き取り、遺骨だけが親族と共に里帰りして檀那寺に納骨される手はずになった。

 海野の脳裏には晩年の神山の声がこだまするようであった。
「実家の墓には入りたくない」
 しかし嫁ぐことなく、子供を育てることなく、老親の世話をすることもなかった。それと引き替えに神山は気楽気儘に美術の世界に生き、多くの作品を残した。

 結婚し子供を育てながら、何もかも人並みのことを為し終えた上で、人のできない偉業を為す女性もあろう。しかしそうした人であっても、何かしらに大きく負担を強いる、バランスを欠いた人生を送っているのではないだろうか。
 一人の人間のできることはしれている。ほとんど何も残せずに死んでいくと言ったら言いすぎだろうか。何もかにもに満足し納得して亡くなっていけるものでもない。そう思うと神山は多くの作品を残せただけでもいい人生だったのかもしれない。

 いま私たちの回りには、家庭を築かずに生きる若者が多い。当たり前のように結婚する時代ではなくなった。誰もがある年になれば親に言われるままに結婚し子供を作り二世代三世代共に生きる時代ではなくなってしまった。目の前のハードルに尻込みしているようにも見受けられる。そういう時代である。

 そう考えると、神山は時代の最先端を走った、今の若者たちの先駆けだったのかもしれない。
 そうであるならば、今の若者たちが後追いしようとしている人生をあの世に足をかけた状態にある神山がいまどう思っているのか聞いてみたいと思う。「若者たちがあなたのような人生を送ることをどう思われますか」と。
 海野が心配するように、自分の骨が実家の人たちにいやいや引き取られていくことに納得できず成仏すらできないのか。それとも、

「そんなことはどうでもいいの、私はもうそんなところにいないのよ、それより次の世でやりたいことが沢山あるの」とでも言うであろうか。・・・・


読者からのおたより

『國分寺の茶堂』

 國分寺大師堂の南側に、通称「休み堂」と言われている建物がある。
 昔の國分寺全景図には「茶所」と記されている。間口三間、奥行き一間の瓦葺き吹きさらし構造で、壁には格子がはまり、コの字型に縁台が取り付けてある。

 いつ頃建てられてどのように利用されていたかは知らないが、他所の寺ではあまり見かけない國分寺特有の建物である。平素は見慣れているせいか、ほとんど意識することのない建物であるが、かつて、神辺の観光案内パンフの表紙に使われていたこともあり、町内の文化財としても価値の高い建物である。

 四国霊場を巡っていると、札所境内でこれに類した建物を見かけることがある。江戸末期に書かれたものの本によると、この建物は「茶堂」と言われ、札所四十三カ所でその存在を書き留めている。

 ところがこの「茶堂」という語は、辞書で調べてみると、「茶屋」「茶亭」「茶店」「茶坊」などはあるが、なぜか「茶堂」は出てこない。

 しかし、はっきりしているのは、こうした「茶堂」は、
・寺内の建物である
・参詣者にお茶を接待するところで、営業を目的とせず、村人の信仰的心情も込められている
・建物の特徴として、遍路などが出入りしやすいように戸を立てないで、縁台に気安く腰掛けることが出来るようになっており、お茶を沸かす設備がある(場合によっては一夜の露をしのぐ場所ともなる) 
ということが言える。

 國分寺に現存しているこの建物も、これら「茶堂」に類するものであろう。あらためてその歴史的、民俗的価値を見直した次第である。
    (2004/6 M生)


 お釈迦様の言葉−十

『もし愚者にして愚なりと知らば、
すなわち賢者なるのみ。
愚者にして賢者と思える者こそ、
愚者と名づくべけれ』
(法句経六三)

 人は誰でも賢者でありたいと願う。ならば己の愚かさを知れと、お釈迦様は言われる。

 二人のスリがいた。お釈迦様の説法を聞きに来た信者に紛れ込み、一人は説法の合間にスリをはたらき、一人は説法に聞き入ってしまった。その後二人で食事をしていたときに、何も盗まなかったスリがもう一人のスリの女房に馬鹿にされた。その彼が「俺は確かに馬鹿だ。賢いとは思わない。しかし、・・・」と自問してお釈迦様を訪ねた。その話を聞いたお釈迦様が言われたのが、この偈文だという。

 自分を馬鹿だと思っても、本心はそうとは限らない。本当に悔いる痛い目に遭ってみないと、自らの愚かさを自覚することは出来ないのではないか。

 最近ニートと言われる若者が増えているという。何もする意欲がなくなり、働く意欲も無い。外界との壁に囲まれて、ひきこもりを起こす。鬱病との関連もあるが、思考力はあるという。

 そんな人たちには何よりも自らの過去を振り返り自分自身と向き合うことを勧めたい。そして自分の存在を素直に自覚することから始めて欲しい。

┌─────────────────────────┐
│ 平成十七年度國分寺年中行事                  │
│ 月例御影供並びに護摩供      毎月新暦二十一日   │
│ 土砂加持法会           三月二十七日   │
│ 正御影供並びに四国お砂踏み   四月二十一日 │
│ 四国巡礼(徳島一拍二日)  五月十一・十二日 │
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日 │
│ 中国四九薬師霊場巡拝(島根)    九月十五・十六日 │
│ 高野山参拝         十月十四日 │
│ 四国巡礼(徳島高知一泊二日) 十月二五・二六日│
└─────────────────────────┘
 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX 〇八四ー九六五ー〇六五二
□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。

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