備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十七年正月] 第十号

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行



仏教の話

『Nさんへの手紙』

「拝啓、初秋の候、Nさんにはその後入院なされて落ち着かない日々をお過ごしかと拝察いたします。その後、ご気分はいかがでございましょうか。

 先日は、病身を押して遙々当山までお詣り下さいまして、ご苦労さまで御座いました。
 母方の先祖をたどり、ご供養なさった功徳は、誠に甚大なものあり、そのご奇特な御心によって、あのとき体調がとてもよろしい状態にあったのだと存じます。

 その後、お電話で二十一日間のご祈祷をご依頼になり、それからお兄様がお越しになって写経とお布施をお預かり致しました。体調不良の中で、あれだけの写経をなされたことにただただ驚嘆いたします。ご苦労様でした。

 写経は、お経というこの世に遍く幸せをもたらす教えを永くとどめ伝えるための善行であり、その功徳は計り知れないものがあるとされています。
 Nさんの写経は、末永く当山本堂に蔵し保管させていただきたいと存じます。ありがとうございました。

 またその際、お兄様より最新の治療法を受けられるようになられたと伺いました。それも一番に。
 誠に得難いことであり、何とかその最新の治療法が功を奏し、またお薬師様への御祈願が通じ、全快なさることを念じたいと存じます。 

 さて、Nさんが当山にお詣りをされました際に、僭越ながら少し心についてお話いたしました。
 慈悲の心を保つことを申し上げたように思いますが、突然のことでよくお分かりにならなかったかもしれません。

 ガンという病におかされ、「どうして私が」「何かすべきことをしていなかったからか」「ご先祖のお墓が放置されたままだったからだろうか」などと様々な思いが湧いてくることと思います。
 「死にたくない」という思いを抱かれることも自然のことだと思います。もっと生きたいと思うのは誰でもがもっている気持ちです。

 ところで、私たちはみな人として生まれ、自分がどのような人生を歩むか、明日どうなるかということさえ、じつは誰一人として知らずに生きています。

 唯一確かなことは、生まれた以上いつかは死ぬということだけです。誰もが明日のことさえ分からないで生きているのに、一日一日死に向かって生きていることだけが確実なことだと言えるのです。

 つまり、健康な人は、そんなことを意識もせずに漫然と日々を過ごしていますが、実は、Nさんが感じているのと同じくらいに、誰もが本当は死と隣り合わせに暮らしているということなのです。

 それでは生きる意味、または目的とは何なのでしょうか。どうして私たちはこんなに悩み苦しみ多い、大変な人生を生きているのでしょうか。私たちは死ぬためにただ時間を浪費しているだけなのでしょうか。

 先日輪廻ということについても少しお話いたしました。人は死ぬと、その瞬間までに作り上げた心の次元に相応しい世界におもむいて転生し、心の修行を重ねるのです、ということをお話し申し上げました。

 何度も人としての生を与えられながら、その度に同じような心の次元を繰り返すならば、人として生まれた貴重な時間を無為に過ごしてしまったことになります。
 そこで仏教では、人は前世の心を引き継ぎ、様々な経験の中からその心の次元を高めていくべく学び、心の成長を遂げていくために生かされているのだと教えられているのです。

 お釈迦さまは、生老病死の苦しみについて思索し、生きること、老いること、病になること、そして死すことの悩み苦しみから解き放たれんがために修行され、そうしたすべての苦しみから解脱されたお方です。

 どこに生まれるかも分からず、その生まれたところで生きることを強いられるのも、老いたり病にかかり死すことと同じように苦しみなのだと言われています。
 生きることも、実は死と同じくらいに、つらいこと難しいこと苦しいことなのではないでしょうか。

 Nさんは、当山の位牌堂で、かつて幼少の頃に、死のイメージをとても怖いもの恐ろしいものだと心に刻まれたと言われました。

 何度も誕生と死を繰り返してきた私たちではありますが、過去世の記憶は失われ、今生に植え付けられたイメージで何もかも考えがちです。
 ですが、真面目に清らかに生きてきた人にとって、死は決して恐れるものではないと教えられています。

 死は今生の終わりではありますが、また四十九日後には新しい身体を与えられ、新たな誕生を迎えるのです。その新たな誕生を迎えるにあたり大切なのが、自分自身の今の心なのです。

 お釈迦さまは、「一夜賢者経」というお経に、過去を振り返ることなかれ、未来に思いはせることなかれ、ただ今をしっかりと生きよ、と次のようにおっしゃられています。

 「過去を追わざれ、
  未来を願わざれ、
  およそ過去のもの、
  それは既に過ぎ去れしもの。
  しかも、未来は未だ至らず。
  かの現在の事々を
  各々所々において、
  よく観察し揺らぐことなく、
  また動ずることなく、
  それを知りて修習せよ。
  ただ今日正に為すべきことを
  熱心に為せ。
  熱心に昼夜に懈怠なき、
  かくの如き人を
  一夜賢者と人は言う」

 生きたい、もっと長く生きたいと思うことは、誰の心にもあることだと申し上げました。
 ですが、あらためて強くそのことにだけ心が向かうのならば、それは、それまでの人生に多くのやり残したこと、ないしは納得していないことが多くあること、自分の人生を肯定していないことを表しているように思えます。
 Nさんがそうだと申し上げている訳ではありません。そう言えるだけ私はNさんの心の中が見える訳ではありません。

 ですが、もしも、一瞬でもそんな思いが強くこみ上げてくるようなことがおありならば、どうか、これまでの人生を振り返り、ご家族や周りの人々、また多くの人たちから受けた、たくさんの喜び、幸せな気持ちを思い出してみて欲しいと思うのです。

 皆さんの顔を思い出され、それらの多くの人たちのお陰でこれまで幸せに暮らしてこられたことを思い出して欲しいと思います。そして、ご主人様、ご家族、ご兄弟、それら縁のあった方々、さらにはその皆さんを支えてくれている生きとし生けるものたちに感謝の気持ちとともに、その幸せを願ってあげて欲しいと思うのです。

 お釈迦さまに「今日正に為すべきことを熱心に為せ」と言われても、病院のベッドの上に居られて何をしたらよいのかとお思いになられることでしょう。
 ですが、正にこうした慈悲の心に住することこそが何にもまして、私たちに必要な善行となるものなのです。実際に身体をもってなされる功徳ある行為は正にこうした心を得んが為になされるものなのですから。

 まずは、
『私は幸せでありますように、
 私の悩み苦しみが
     なくなりますように、 
 私の願い事が
     かなえられますように、
 私にさとりの光が
     あらわれますように』

と自分自身の幸せを心から念じ、それから、

『身近な人たちは、幸せで
     ありますように、
 身近な人たちの悩み苦しみが
     なくなりますように、
 身近な人たちの願い事が
     かなえられますように、
 身近な人たちにもさとりの光が
     あらわれますように』

と身近な人一人ひとりの顔を思い浮かべながら念じます。そして、

『生きとし生けるものたちが
     幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちの
   悩み苦しみが
     なくなりますように、
 生きとし生けるものたちの
   願い事が
     かなえられますように、
 生きとし生けるものたちにも
   さとりの光が
     あらわれますように、
生きとし生けるものたちが
   幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちが
   幸せでありますように、
 生きとし生けるものたちが
   幸せでありますように』

とすべての生き物たちの幸せを念じます。

 どうか、目を閉じ心落ち着かせ、ゆっくりと一つ一つ心の中で唱え、時間をかけて念じてみて下さい。必ずや自然と心の中にあたたかいものがこみ上げ、心安らかになり、何も恐れるものがなくなっていることと思います。

 この慈悲の心は、お薬師様の心そのものでもございます。どんな人でも温かく迎え、悩み苦しみを癒して下さるお薬師様の温かい心そのものです。
 同封いたしましたお薬師様の二十一座ご祈祷の札とともに、お薬師様の心と一つになられ、心の安らぎとともにお身体も回復なされますことを、切にお祈り申し上げます。
                                           合掌」

(文中の慈悲の瞑想は在日スリランカ長老スマナサーラ師より伝授いただいた内容を簡略化させたものであることをお断り申し上げます)


般若心経からの
メッセージ3



 とらわれていることに気付くべし

つづいて、「舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ちこれ空にして、空は即ちこれ色なり」とある。舎利子とは、実在の人物サーリプッタ長老のこと。お釈迦様のおられるところでも代わって弟子たちに教えを説いたほどの智慧第一のお方である。

 「色」とは、瞑想時には身体のことであり、外にある物すべてをも指す。「空」とは前回述べたように、何もかもが原因とある条件の下に、他の助けをもって存在している不確かなものだということ。
 二度繰り返し、「色」と「空」が全く一つであることを述べている。この部分の表現法はインド語で良く用いられる強調表現に過ぎないというから取り立てて解釈を述べない。

 ところで、誰しも我が家はいつ帰ってもそこにあると思っている。塀を隔て我が家の庭をきれいに飾る。勿論悪いことではないが、阪神大震災や最近では新潟中越地震でも、建物や道路でさえ、もろくも壊れてしまうものだということを目の当たりにした。何でも新品であっても、一日一日、一刻一刻傷つき壊れつつあると言った方が正しいのかもしれない。

 私たちの身体にしてもそうである。風呂に入ってきれいになったと思ってもすぐ汗をかいたり、怪我をしてみたり。運動やスポーツに親しみその体力を誇ってみても、やがてその衰えを誰しもが感じる。
 そうした形あるものに対する、こだわり、とらわれ、慢心を抱く私たちに対して、そんなものは「空」なんだよ、そんなものにかかずらって妄想している自分に気付きなさいと、ここでは言われているようである。
 
 思いもまた空なり

 次に「受想行識もまたかくのごとし」とある。五蘊は、五つの集まりという意味で、その内容は色受想行識となる。色は既に述べた。残りの四つは、「色」が身体や物として形あるものを指すのに対し、心の働きを指す。

 「受」は感覚、「想」は知覚、「行」は反応、「識」は識別を意味する。
 目を閉じ瞑想するとき、身体のどこかに蚊のようなものがとまったとしよう。普通私たちはそれを一瞬のうちに蚊だと判断して手が動く。それを細かくこの受想行識の働きに分けて見ていくと、「受」は皮膚の感覚としてそれを捉え、「想」は何かが触れたとを知覚し、「識」はそれが蚊ではないかと識別し、「行」は蚊をはらおうと反応する。たとえそれが蚊でなかったとしても。

 何でも私たちがとらわれを起こす過程をこうして分析して細かく観察することをお釈迦様は教えられた。無意識にしていることでも、これら四種の心の動きをともなう。そしてそれらも「空」であると。

 こうした四種の心によって生じるところの私たちの思いも、考えも、こうあるべきものという思いこみも、みな「空」だということ。そんなものに、いつまでもかかずらっているなということか。      ・・・つづく


ネパール巡礼・四

 一九九五年十月十六日(カトマンドゥー・アーナンダクティ・ビハール)、朝六時頃呼ばれて一階の食堂で朝食。ここでも変わらずカレーにチャパティ。最後にバター茶だろうか、チベット人が好むお茶をご馳走になる。総勢六人、薄暗い床に座っていた。老僧二人に学生のような若い坊さんが四人。本当に気のよさそうな人ばかり。

 歩いて街に向かう。お寺を出て東に進むとスワヤンブナートという大きなチベット寺の山門に出る。チベット仏教のエンジの僧服を着た僧やら沢山の人だかりをすり抜けて、さらに東へ。
 お寺や学校の前を通り、大きな河に出た。河ではちょうど染色した布を洗っているのか、大きな色鮮やかな布を広げている。その近くで食器を洗う人、衣類を洗う人、様々な人の営みを見下ろしながら橋を渡る。

 その河を渡ってすぐ右側にある四階建ての新しいお寺、サンガーラーマ・ビハールを訪ねた。ここの住職アシュワゴーシュ長老は、政府の要人とも親しいとのことで、まず初めに訪問するようにと言われていた方だ。

 訪問の要旨を出てきた坊さんに告げると、そのまま四階の長老の部屋に案内された。きれいに整理された部屋で、太った小柄な長老が大きなクッションに座っていた。床に額を着け三礼してから、カルカッタの弟子であること、この度のルンビニーのお寺の件でLDT(ルンビニー開発トラスト)の事務所に用事のあることを告げる。すると、もう政府が変わってしまって、自分もLDTの副議長職を離れたことなどを手短かに話された。

 すぐに一人の坊さんを電話で呼び、「この人に案内させるから行きなさい、帰ってきたらここで一緒に食事をしていって下さい」と、お昼の心配までして下さった。時間を無駄にしない、用件だけを手早く片づける。それでいてそこに温かさが感じられる。

 自分の力でこの寺を作り上げ、その時十人もの坊さんを住まわせ、比丘(びく)トレーニングセンターも運営されているということだったが、それだけの手腕があるのだろう。いかにも仕事が出来る人だな、と思わせる人だった。

 電話で呼ばれて来てくれたサキャプトラ比丘とお寺を出て、タメル地区というリキシャなどの中継地区からオートリキシャに乗り込みディリ・バザールに向かう。サキャプトラ比丘は、途中何やら盛んにヒンディ語でまくし立ててくる。「おまえは不浄観をやったか」とか、「人を見るときどう見ているか」とか。とにかく真面目なのだ。

 迷いながらもバザールから民家の並ぶ小道へ入り、「Lumbini.Development Trust.Kathmandu」と大きく書いてある木造二階建ての建物に入る。
 「理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏に会う為にカルカッタのベンガル仏教会から来たのですが」と申し出ると、二階に通された。昔の小学校のような細い板を貼り合わせた床にワックスという懐かしさを感じさせる部屋。その壁は、この二十年間作り続けてきたLDTのポスターが飾っていた。

 黒いソファに身を沈めて、今にもお出ましかと思って様々言うべき事を反芻していると、しばらくしてから「今日は来ない」と言う。仕方なく明日出直すことを伝え、退散することにした。

 また来た道をサキャプトラ比丘と引き返す。随分待たされたからだろうか、もう十一時を回っている。サンガーラーマ・ビハールでは数人のウパーサカ、ウパーシカと呼ばれる在家の男女の信者さんたちが腰巻きを膝まで上げて、忙しく比丘たちの昼食の準備をしていた。
 私はしばらく比丘のたむろする部屋に案内され、カルカッタの様子などいくつかの質問を受けた。だが、彼らは私が何人なのかを問わなかった。だからこちらも日本人だとも言わず、自然にただカルカッタに暮らす一人の比丘として自然な応対をしてくれた。お陰で、日本はどんな国か、航空チケットはいくらか、招待してくれないかと言った余計なことに答えずに済んだ。

 年長の比丘が何やらネパール語で話をしている間に時間となり食堂に案内された。有り難いことに何の縁故もなかったこのお寺でまるで自然にいつもここにいる人間に対するように給仕を受けた。

 午後はバザールを覗く目的で、一人お寺を出て歩く途中、旅行社に立ち寄る。バラナシ行きの飛行機の料金を聞くだけのつもりが、店のお兄さんお姉さんが愛想良く受け答えをするので、ついつい四日後のフライトに予約を入れさせられてしまった。七一ドル。現地人価格だというが確かに安い。

 ついでにそこから国際電話をカルカッタのバンテー(尊者の意、ここでは師匠のダルマパル総長のこと)に入れた。ここまでの簡単な報告のためだ。ルンビニーでのこと、ここカトマンドゥーでのことなど。結局バンテーは「アッチャー(よい、よろしい)」を連呼するだけで何も言われなかった。電話代が勿体ないと思われたのかもしれない。

 古いバザールを通り、四キロほどの道のりを歩いてアーナンダ・クティ・ビハールに向かう。二三階建てのレンガ造りの店が建ち並ぶバザールは、日本のどこにでもかつてあった大きな寺院の参道にできた仲店といった風情。四つ角の広場には、三間四方程度のお堂があってヒンドゥー教の神様が祀られている。その前には移動式の棚の上に沢山の果物や乾物、お茶などを乗せて所狭しと、いくつもの店が出ていた。

 昼間だというのに、そこに大勢の人がぶつかり合うように行き交うので、落ち着いて品物を手に取り思案することも出来ない。結局何も買わずにただ様子を見て歩くだけでお寺の近くまで戻ってきてしまった。大部人通りの少なくなった辺りで、線香と、下着を買った。
 線香は部屋に染みついた、すえた臭いを消すためであり、下着は朝晩の冷え込みに体調を壊してはいけないと思われたからだ。本来比丘は中に着る物であっても袈裟の色である黄色から茶色系統の衣類しか認められていない。が、このときだけは染めるわけにもいかず、白いものを着込むことになった。

 十月十七日、この日もLDTに行かねばならなかったのだが、午後の約束だったため、朝から歩いてタメル地区に出て、リキシャでバグ・バザールまで行ってもらった。そこにスマンガラ長老という日本の大正大学に留学していた方がおられると聞いていたのでお訪ねした。

 バク・バザールを南側に路地を入る。しばらく行くとガラス張りのショーウインドウの中に仏さまを祀ったようなきれいな装飾を施した小さなお寺があった。門にはダルマ・チャクラ・ビハールとある。ダルマは法、チャクラとは車輪、ビハールは精舎という意味で、訳せば法輪精舎となる。私がかつてサールナートで世話になっていたお寺と同じ名だ。

 親しみを憶え中に入り、ブッダ・ビハールはどちらかとお尋ねした。すると縁のないネパール帽をかぶってジャケットを着た初老の紳士が出てきて道案内をしてくれた。プレム・バードゥル・タンドゥカール氏という。スルスルと細い道を進み、路地の一番奥にブッダ・ビハールはあった。四階建ての大きな建物。ひと昔前の日本の高等学校を思わせる鉄筋の建物だ。

 玄関を入って正面から階段を上がると、二階にスマンガラ長老はおられた。さすがにきれいな日本語で応対して下さった。もう七十才になろうかというお年。立正佼成会と孝道教団から今も寄附をもらっていると言う。学校と老人ホームを経営しているが、「お陰様でとても忙しいです」と言われた。

 建物の様子もだが雰囲気が日本のようで、ネパールやインド特有のまったりした空気が希薄だ。瞑想センターもあるが活発とは言えない、毎朝数人が来る程度だと言う。
 このときも忙しい合間に話しかけてしまったようで、階段ホールでの立ち話程度で仕事に向かわれてしまった。厚い眼鏡を掛けて表情は日本人と変わらない。気ぜわしく仕事をするスタイルも日本で学んで来られたのだろうか、などと考えつつお寺を後にした。

 すると門の所で、先ほどのプレムさんが待っていてくれた。「どうぞ私の家にお越し下さい」と言う。バザールに面した縦に細長い家へと案内された。そして、三階だっただろうか、若いときの写真を飾った部屋に通された。
 しばらくするとネパールの紅茶にビスケットが運ばれてきた。ニコニコと嬉しそうに合掌して、「お越し下さって有り難い、どうぞゆっくりくつろいで下さい、私は昼食の準備をして来ます」と言うと居なくなってしまった。お茶をすすりながら窓の景色を見た。

 実はカトマンドゥーに来たら、一つレストランにでも入ってやろう、と考えていた。チベット料理や中国料理も手頃な値段で美味しいところがあると聞いていたからだ。だが、この日も含め結局カトマンドゥーにいた四日間すべて供養を受けることになり、レストランに入ることは叶わずカトマンドゥーを後にすることになった。夕方になって比丘がレストランになど入れるはずもなく。

 それだけネパールの人たちに坊さんを見たら昼飯を食べさせるものだという観念が徹底しているとしか思えない。それが何よりも自分たちの喜びなのだという。この日がそのことをしっかりと思い知らされた日でもあった。

 ただ道を聞いただけなのに、自分の家に見ず知らずの、それもネパール語も出来ない坊さんを連れ込んで、ゆっくりしろだのご飯を食べてくれと言うのだから。まったくもって無防備というか底抜けの人の良さにかけては徹底している。それも飛び切り上等のご馳走だ。勿体ない。

 普通、ご馳走の後にはパーリ語のお経を唱え、大きめのお盆と水差しを用意して、その水を盆にゆっくりとかえしてもらいながら功徳随喜の偈文を読む。このときまでお恥ずかしながら一人で供養を受ける経験もなかったので、偈文がとっさに出てこず、メッタスッタ(慈経)だけで我慢してもらった。
 最後に聞けば、このプレムさんはインドの有名な瞑想所の一つであるイガトプリで比丘として修行した経験もあるという。袈裟の中に冷や汗をかきながら階段を下り振り返ると、プレムさんはニコニコと合掌して送りだして下さった。

 そこから歩いてLDTに向かった。二階の執務室で、すでに待ちかまえていた理事のビマル・バハドゥール・サキャ氏と会う。いかにもネパールの貴族然とした威風堂々とした人物だ。

 簡単な挨拶の後、「全体の計画が大きく道路工事なども進まず大変な計画ですね」と水を向けると、わが方がインド寺院の建設になかなか着手できないでいることを催促するかのように、「いやいや、インドは大きな国だ。ハルドワール(デリーから北にバスで六七時間のガンジス河沿いの聖地)にあるお寺は賽銭だけで二十四カロール(二億四千万ルピー)ものお金を貯めて、とてつもないお寺を造った。ネパールは小さな国だが、インドならルンビニーのお寺のためにお金を集めるのも簡単でしょう」などと曰った。

 そこで、「とんでもない、その殆どがヒンドゥー教徒ではないですか。仏教徒はごく僅か。ベンガル仏教徒はその一部なのだから、大変なのだ」と応戦した。日本や台湾などに支援を要請しているがなかなかうまくいかないことを告げると、ルールでは調印後六ヶ月で建設に着手し三年で完成する事が謳われている、などと追い込みを掛けてきた。

 実は韓国のお寺で一件キャンセルが出ていたりと、なかなか他のどの国も建設が予定通りに進んでいないことに焦りがあったのであろう。

 その後、ベンガル仏教会が借り受けている土地の地代一年分五千ルピーを払い、レシートを書いてもらい退室した。

 階段の所で、「近々カルカッタに行く用事があるのでお寺に泊まらせてもらいます。その時は宜しく。バンテーにも」とお愛想を言ってきた。「どうぞどうぞお越し下さい。お待ちしています」と私も返事をした。
 が、彼らのような上流意識のある特権階級が施設の調わないお寺になど泊まるはずがない。それはどこの国でも同じことだろう。

 何か後味の悪い思いを引きづりながら、来た道を引き返した。セントラルバススタンドまで行き、そこからバスンダラという地区までバスに乗った。そこで小さなお寺を造った、かつてカルカッタのバンテーの所にいたというスガタムニ師を訪ねた。

 バスを降りて道を斜めに入ると小さなストゥーパ(塔)が見えた。小太りで日焼けした坊さんが黄色い腰巻き一つで出てきた。初めてお会いしたのに、以前からの知り合いのように親しみを感じさせる四十くらいの人だ。カルカッタの寺の写真を見せると喜んでくれて、自分がカルカッタにいたときはこの辺りがまだ平地だったというような話をしてくれた。

 傍らに年老いた比丘が居た。九十五才になるという。あわてて礼拝しようとすると、待てと言う。年老いて行くところも身寄りもなく、お寺で比丘にさせて置いて上げている、だから自分の弟子で、まだ出家して五年なのだ
からと。そんなことをこともなげに言われる。

 それでいてお寺にホールを造るのだといって、自分でセメントをこねてレンガを重ねていくような工事をしている最中でもあった。決して裕福なお寺などではないのだ。その彼らのひたむきな姿を思い出し、こう書き進めつつ我が身を振り返ると、誠に申し訳ないような気持ちにつつまれ、涙が溢れて仕方がない。


 その日は泊まれと言われたが、用意もなく結局帰ることになった。帰り際、明日、市内のスィーガ・ストゥーパでカティナ・ダーナ(安居開けの袈裟供養のお祭り)があるから来るようにと言われた。      ・・つづく


(右の写真。カトマンドゥーのカティナ・ダーナに参加した後で記念撮影 右から九五才の比丘、スガタムニ師、そして私)



(寄稿)
第三回中国薬師霊場巡拝

 去る九月十三・十四の二日間、神辺薬師巡礼会による中国四十九薬師霊場の巡拝に参加させていただいた。初回から連れにしていただき今年で三回目。今回の巡礼は広島県安芸地方と山口県下の第二十番から第三十三番までの十四霊場。巡拝団は、寺方を含め総勢二十六人である。

 中国四十九薬師霊場は、平成九年、薬師信仰で知られる中国五県の四十九ヶ寺が平成の霊場として開創された。

 西へ行くにつれて、過日の台風十六号、十八号の爪痕が生々しく目に映る。トタン葺きの屋根がはがれている本堂。塩害で枯れている庭の樹々。ことに、二十二番大願寺のある厳島神社の惨状は目を覆うばかりである。

 今年はことのほか残暑が厳しく、駐車場からの長い坂道や石段を登ると汗ばむ。

 霊場は名刹の大寺もあれば、檀家がゼロという小寺もある。構えも赤瓦の輝く大伽藍もあれば、苔むした茅葺きの古刹もある。それぞれ周囲の風景と調和して趣がある。

 本堂に昇殿して勤行の後、御詠歌をお供えすると、不思議に心が落ち着き疲れも癒される。たいていのお寺で住職から法話をいただく。それぞれ個性的で印象深いお話である。そしてお茶のお接待。中国薬師ならではの素朴な暖かいもてなしに頭が下がる。

 山口県下の寺々は、当然のことながらほとんどの寺が、大なり小なり大内氏とかかわり、大内氏とともに栄枯盛衰を繰り返してきた寺の歴史の深さを感じる。

 ご本尊も古色蒼然とした木像から、金ピカのお姿までいろいろであるが、いずれの仏様も、数百年もの間それぞれに確かに護持されてきたことを思い深い感動をおぼえる。

 近頃は、行楽を兼ねての気楽な巡礼も増えているが、本来、霊場巡拝は自分を見つめ、自分自身を浄化し高めていく修行である。今回もそうしたひたすらな巡拝であった。  

 来年で一応結願する。どうか来年もご縁がありますようにと祈る次第である。 (写真は二六番札所興隆寺にて)
 (B生)


茶山先生の生きた時代 
  −詩碑建立に寄せて

 九月十七日、國分寺の仁王門前に前檀家総代でもあり菅茶山遺芳顕彰会副会長の岩川千年氏の寄進により詩碑が建立され、佐藤神辺町長、榊原副議長はじめ大勢の来賓出席のもと盛大な除幕式が挙行された。

 詩碑に刻まれた詩は、茶山が三十代半ばに西山拙斎氏と共に國分寺に遊ばれた際に詠んだ聯句「上人好事」である。時の國分寺住職如實上人の花好きで珍しい花を求めるためにはお布施を乞うのに、普段は金銭に頓着しない清貧さをおもしろおかしく風刺した詩となっている。

 茶山にとって殊の外思い出深い詩であったのか、その四十年後上人の十七回忌に当たる年に、この詩を半切に書いて國分寺に寄贈した。その直筆を写して、この度碑に刻んだ。特に今年が上人の二百回忌に当たり、命日の十日前に除幕できたことも併せ、誠に感慨深いものがある。

 紀州に生まれ高野山から國分寺に転住された上人の消息は、茶山の書き残したものから窺い知る他に資料はない。当時高野山では、寺院諸法度の制定に端を発して学侶と行人の対立があり、すぐれた学僧は地方に活躍の場を求めたと言われている。また法度には由緒ある寺院には学問ある僧侶が住持すべきとの規程もあった。おそらく神辺の真言寺院から高野山に登山する学僧の縁もあって、國分寺に招聘されたものと推量される。

 堂々川の氾濫で荒廃した國分寺を中興した快範上人から四代目となる如實上人は、ほぼ今日あるような立派な伽藍を継承され、その舞台に相応しい装いとは何か、何を為すべきかと、しばし黙想に耽られたのではないかと思う。花の奇種を求めたのも、その熟考の一端ではなかったか。

 そこへ新進気鋭の儒学者茶山との邂逅があった。親しく土地の成り立ちや文化について、また方々で見聞した知識をも茶山は惜しむことなく披瀝したはずである。その後度々詩会を國分寺で催している。上人は風雅を好み、詩を詠む才も持ちあわせていたのであろう。

 そこに、当時最高の知識人たちの出会いがあったと、私は思いたい。その為の詩会ではなかったかと。持てる叡智を詩に込め、その合間には様々な広範囲の知識が飛び交っていたであろう。

 抑もの國分寺がそうであったように、情報文化交流の拠点として國分寺を位置づけることを上人は自らの使命とされたのではないか。この度建立された詩碑は、茶山顕彰はもとより、そうした國分寺を舞台とした交流の軌跡を伝えるものである。

 余談ではあるが、茶山(一七四八ー一八二六)の生きた時代、目を世界に転ずれば、それは現代に繋がる誠に重要な革命の時代であったことに気付かされる。

 茶山が那波魯堂に朱子学を学び多くの知友を得た頃、一七七〇年代にはイギリスに産業革命が進行し、一七七六年にアメリカが合衆国として独立。さらには茶山が國分寺の詩会に赴く一七八九年にはフランス革命が起き、福山藩の御用で江戸に行く一八〇四年は、ナポレオンが皇帝として帝政を布いた。

 正に時代が動いたその時、ここ神辺にも世界の激震を伝える飛脚の声が聞こえて来ていたのではないか。時の中枢近くに仕えた茶山の耳には達していて然るべきかと思う。そうした諸外国の事情まで詩会で囁かれたとするのは穿ちすぎであろうか。茶山の没後二十六年で黒船が浦賀にやってくる。


 明治になって日本の地に足を踏み入れた欧米人たちが、こぞって楽園と絶賛した美しき日本の風景そのままの神辺にあって、その風景を詩歌に残した茶山の時代に思いを馳せ、この度の詩碑建立の意義をしっかりと後世に伝えたいと思う。

(本稿は茶山顕彰会会報に寄稿するために書き下ろしたものである)




読者からのおたより

『國分寺の廻国供養塔』

 國分寺の山門をくぐるとすぐ右側に、花崗岩の自然石の石塔が立っている。いわゆる「六十六部廻国供養塔」である。風化が進んで刻字が読みにく
いがどうにか判読できる。

│   国家安穏   願主当村岡本増治郎│
│奉納大乗妙典日本廻国高山修行供養塔│
│  万民快楽  明治二十二年四月吉日│
│            行者京都信光│

 「六十六部」とは、正しくは「日 本廻国大乗妙典六十六部経聖」と言い通称「六部廻国行者」とも言う。室町時代に既に存在していたという。今では往時の姿を見かけることは出来ないが、当時の石造物や道中図会などにその姿を認めることが出来る。 

 それらによると、行者は手甲に脚絆がけで、大きな負い厨子を背負っている。厨子の上部に観音菩薩など仏像を安置し、下部は引き出しになっており、胸に鉦鼓、腰に鈴を携えている。

 行者は家々の門に立って読経し、報謝を乞うて歩きながら、書写した法華経(大乗妙典)を日本六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻るために、諸国の寺社を遍歴する。

 廻国の目的は、滅罪、信仰などそれぞれ個々に異なるが、「廻国成就記念として」「行き倒れ廻国行者の供養として」「地元とのご縁の印に」などの目的で、村人に勧進して建てたのが「廻国供養塔」である。

 このような廻国供養塔は、お寺の境内や辻堂の傍らでよく見かけるが、藤井秀樹氏の調査では、神辺町内に二五基、うち御野地区では國分寺の他、上御領横路の大師堂脇に一基、平野観音寺に二基が確認されている。

 刻字は、正面に「奉納大乗妙典日本廻国六十六部供養塔」と刻字され、「天下太平」「五穀成就」などの祈願文や、「願主」「助力」「施主」などが付加されているのが一般的である。仏像や梵字が刻まれているものもある。

 造立年代は一八〇〇年代が多く、明治四年の太政官布告により門付けが禁止されてからは、明治以降のものは少ないと言われている。

 廻国の場所については決まったものはなく、国々の神社、寺院が主であるが、それぞれの国の一の宮、國分寺、八幡宮などへの巡拝・納経も一般的であったようである。

 因みに行者丹下某の廻国日記の中には、「正徳二年(一七一二)三月二五日、安那郡御領國分寺に詣で帰宅」という記述があり、また、九州の野田某の文政元年(一八一八)の日記には「・・備中の国境有り。備後福山よりの番所有り。それより國分寺へ詣で納経す。本堂薬師、南向き小堂、寺一家寺有り。それより一の宮に詣でる」という記述もある。

 こうして全国からやってくる廻国行者のもたらす情報は、村々で話題になったことであろうし、日常生活に関わる知識や技術も行者たちによって伝播していったことであろう。

 廻国行者や廻国供養塔については多くの謎を秘めていると言うが、それにしても江戸時代に自分の足で日本中を行脚するという壮大な宗教活動は正に驚異である。


(廻国碑研究者藤井秀樹氏ー福山市蔵王町ーから貴重な資料をご提供いただきました)
   (M生)


国分寺ホームページ掲示板
「住職のひとりごと」より
無記と輪廻ということ

投稿日十月二十八日

『・・・・ところで、先祖の供養や回向ということについては、お釈迦様は直接何も言われていないと思います。

ですが、釈迦族が滅ぼされた時の話に、コーサラ王マハーナーマが釈迦族の女五百人の手足を切り深い坑に投げ込んで、命終わろうとするそのとき、その場に駆けつけたお釈迦様は、彼女らに、

「全てのものは離散する。会うものには別離あり。この身体は苦痛と悩みを受けるべく、地獄餓鬼などの五つの生まれの中に落ちる。このことを知らば、則ちまた生まれ変わらず、生まれ変わらざれば生老病死なし」と諭し、

それから、有名な「施論、戒論、生天論」(國分寺だより第9号「仏教とは何だろう」に解説あり)を説かれると、彼女らの心はひらけ、迷い尽きて法眼を得て、命尽きたと言い、みな天上に生じたということです。

この話は、人が亡くなってからのことではありませんが、本来仏教の坊さんは亡くなられそうな方の所へ行き、お経を唱えたり、法話をしたり、最後の布施をさせたりということは、他の仏教国、特に南方の仏教国ではよくなされることです。

ですが、たとえ亡くなった人、ないしご先祖様方に対しても同じような考え方をしたらよいのではないかと思います。つまり、その方々がより善い来世を得られるように、または来世での幸せを願って法を説く、それはお経を聞くことであるかもしれませんし、自ら唱えることかもしれませんし、法話を聞くことになるかもしれません。

何れにしましても、何かしらの功徳ある教えを糧に、故人が来世で幸せになられるように、もしくは幸せであっていただくように願って為される行いが、先祖供養であり、回向ということだと思います。・・・』


 お釈迦様の言葉−九

『あたかも母がおのが一人子を
命をかけて愛し護るように
すべての生きとし生けるものに
無量の慈しみの心を起こすべし』
(経集第一四九)


 私たちは根本的に自分を愛し、自分一人が良くあればいいと思ってしまいがちです。そんなことはない私はいつもみんなの幸せを願っていると思う人は、そのみんなの幸せが結局は自分の幸せに結びつくからだという潜在意識まで深く自らの心を探ってみて下さい。

 戦争の世の中です。いくらハイテクの時代と科学文明を誇ってみたところで、縄張り争いをして殺し合った古代から続けてきた人類の歴史そのままです。

 誰の心もその大元で、そうした身内と外の分け隔てをつけて生きています。その心を深く反省して初めて、だからこそ私たちの心に強く慈しみの心を育てる必然性があるのだということが知られるのです。

 慈しみの心、インドの言葉ではメッタMettaと言います。これは友情の心。誰に対しても親友に対するのと同じような身内としての心情を育てる心です。

 その最も強烈な思いこそ母親の子に対する感情です。我が子が自分の肉体の一部であるかのような親近感。それを他人に対しても持ちあわせるというのはとても難しいことです。ですが、だからこそお釈迦様はそのことを強く願われ、教えられたのだと思います。


 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
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□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。
國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より

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