備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十六年盆月] 第九号

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


仏教の話
四月十五日大坊福盛寺様での法話

仏教とは何だろう

 今日は、福盛寺様のお涅槃法会そして土砂加持法会にあたり、皆様の前でお話をさせていただくご縁を頂戴し誠に有り難いことだと感謝いたしております。

 こうして沢山の人にお話が出来ますこと、正に坊主冥利に尽きるものでもありますし、それが本来の私たちの仕事ではないかと考えておるところでありまして、それに見合うお話をしなければならない、大変な重責を担っているとも言うことができるのではないかと思っています。

 ところで、私は、今ご紹介に預かりましたように、この備後には五年前に来たところでありますが、元々皆さんと同じように普通の家に生まれまして、つまりお寺の生まれでもなく、大学も経済学部を卒業しましたが、その間に仏教書に出会いまして、縁あって高野山に行き坊さんになってしまったという訳なのです。

 それで多分そうした私の坊さんになった経緯も関係していると思いますが、仏教とは何だろう、という問いをずっと引きずっております。

 その後インドに行って聖地を歩いてみたり、向こうの坊さんにもなってみたり、またまた四国を歩いてみたりしまして、こうして備後の国にやってきて国分寺の住職にさせていただきましても、なお未だに、その仏教とは何か、という疑問をいつも自分の中で持っています。

 それで今日は、その私の問いを皆さんにも少しお分けしてみたい、つまり皆さんにも少しそのことを考えていただいたらどうかと思っている訳なのです。

 ところで今日は、涅槃会と土砂加持法会をなさるわけですが、それは何の為なのでしょうか。何をこの坊さんほざいているんだい、ご先祖のため、過去精霊の供養の為に決まっているじゃないか、と皆さん思っておられるかと思います。その通りなのだと思います。

 つまり仏教とは死後の救済を司る宗教であるということ、世界の三大宗教の中にあるわけですから当然かもしれませんが。仏教とは宗教である。これは確かなことであるよう
ですね。

 ですが、ご先祖様皆さん亡くなられたときにお葬儀をしているわけですが、それではそのお葬儀とはどのような意味があるのでしょうか。

 俗に引導を渡すと言われるように、引導作法という儀礼をその中で行うのですが、皆さんどなたも亡くなれば立派な戒名をいただかれるわけですよね。戒名とはつまり戒律を受けた証としての名前のことですから、その儀礼では戒律を授けられる。そしてその前に三帰依をするのですが、この三帰依とは仏教徒としての資格となるものです。

 つまり仏教徒として戒を守ってしっかり来世でも生きて下さい。そしてさらに心の修行をしてお釈迦様のような悟りを目指して精進して下さいと引導するのがお葬儀の眼目ということになります。そうですよね。

 そう言いますと、死ねば成仏するのじゃなかったの、とお思いの方もあるかもしれません。真宗じゃ極楽に行けるというのにどうしたことかとお考えの方もあるかもしれません。誰でもが死んで成仏する、ないし極楽に行けるという考えは理想論と言えるかもしれません。

 どんな生き方をしてきても、関係なく死ねば成仏するという考えは、勉強もしないのに受験すれば誰でも東大に入れるというのに等しいのではないかと思うんですね。立候補すれば誰でも総理大臣になれるというのと同じです。
      (大坊福盛寺山門)
                                        
 やはりその人の努力、立派な生き方をされた方は良いところに生まれ変わる。人を害するような生き方ばかりしてきた人にはその報いがあるという自業自得というのが仏教の基本にあります。

 つまり残された遺族親族には身近な人の死によって、生きるということ、いかに生きなければいけないのかということを考えさせられる意味合いというのが葬儀にはあると思うのです。

 仏教とは人生の哲学、ないし倫理道徳であると言うことも出来るのではないか、ということです。

 「仏前勤行次第」にも十善戒というのがありますが、これは本来の名前を十善業道と言って、決して何かをしなければ良いという意味合いのものではありません。つまり、善い生き方とはこういう事ですと教え、奨励する教えです。

 たとえば不殺生戒、生き物を殺すべからずということですが、これは殺さなければいいということではなくて、殺生の正反対にあたる慈悲の心、生き物を慈しみ育むことを教えるものです。

 不偸盗戒は、盗みをしなければ良いというのではなくて、自分のものを分かち与えることを教えている教えです。

 また不邪淫戒は、余所の人といい仲にならなければ良いというものではなくて、生きる上で必要な欲ではありますが、満足することを知らねばならないということ、つまり小欲知足の教えですね。

 不妄語戒は嘘を言わなければいいということではなしに、真実を必要なときに語るべきことを教えています。

 このように仏教とは、倫理道徳哲学でもあるということなのです。

 それから、私この土地にまいりましてからテレビを見ておりましたら、今アメリカの方では医学の最前線で、具体的にはガンの末期治療になんと仏教の瞑想が取り入れられまして既に処方され効果を上げているのだということを紹介しておりましてびっくりしたんですね。

 何にびっくりしたかと申しますと、アメリカという国の貪欲さと言いますか、キリスト教の国なのにしっかり仏教の核心の部分を吸収してしまっているということにです。

 私たち日本人は仏教の国のはずなのにその核心の部分を認識せずにいる、お経を唱えてはいるけれども本当の一番美味しいところを味わっているのかと言われると怪しいところがある。

 それなのに既にアメリカの方ではそれを学問としても確立し医学にまで応用してしまっている。これはすさまじいことだと言っても過言ではない。

 遅ればせながら、私たちの身近にも直にアメリカ経由でその恩恵に浴せるときが来る。それまで待つことになりそうなのが誠に口惜しいという気持ちで一杯です。

 それはどんなことかと言えば、心経の中にも「苦集滅道」とあり、これはお釈迦様が初めてサールナートというところで説法されたときの教えで、四聖諦ということですよね。

 その中の道の中身は八正道といって八つの中道の教え。その八つとは、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定であり、その中の正念というところが重要なのです。

 正念というのは正しく気づくということで、今ここにある自分の行い心、その一つ一つに意識がきちんとあるということを意味しています。 どういう事かと言いますと、私たちは今というこの瞬間瞬間にどれだけ集中しているかということ。

心が散漫にならずに、私の話を聞きながら、たとえば帰ったら何しようかとか、早く終わらないかなとかという余計な雑念の中へ無意識のうちに心が浮遊してはいないか、今その時にその場にきちんと意識があるかどうかということなのです。

 なぜこんな事が大切かと言えば、私たちは何か心に深く引っかかること、後悔すること、何であんなことしてしまったのか、何であんなこと言われなきゃいけないのというようなことがあると、いつまでも心に引っかかって昔の嫌なことまで思い出して、この嫌なことばかりが思い出されて心がふさがってしまう。心ばかりか食欲もなくなり、夜も眠れないということになってしまう。

 それでも楽天的な人は三日もすればそんな思いもどこかに行ってしまいますが、いつまでもその思いを引きずってしまう人、皆さんの周りにもおられるのではないですか。 そういう人がさらにさらにストレスを抱えて身体が思うように動かない、何でもないのに家からも出たくないというようになってしまう。そのはてはガンを患うということにもなっていきます。

 そこで、仏教の瞑想法であるこの正念をしっかりやっていますと、たとえば歩く瞑想というのがありますが、いま今の現実だけに意識があるわけですから、過ぎ去った過去の嫌なことなんかに心が惑わされることが無くなる。

 学校行くのもイヤだな、会社に行ってあの人の顔を見るのも嫌でしょうがないというような未来の不安や恐れに心が囚われることもなくなってしまう。今だけが大事になってくるのですから。

 ですから、仏教では過ぎ去った過去を追うなかれ、未だ来たらぬ未来を思うなかれと教えられています。

 そうしていると自分というものがしっかり見えてくる、自分が分かれば周りのことも分かってくる。そして坦々と生きる、心がしっかりしてくれば身体も癒されていくということになります、さらに幸せを実感できる。

 仏教というのはそういう教えです。

 ですから仏教というのは医療でもあると言うことが出来ますし、さらには、人生の総合学であるということも言えるのではないかと思うんですね。

 そこで、それではお釈迦様は私たち在家の人たちにはどんなことを教えられたのかということを最後にお話しますと、先ほども述べましたようにお釈迦様は初めての説法をサールナートというところでしました。

 そこは、ベナレスという大都市の郊外にある修行者の集まる所で、五人の修行者を悟らせてから、一人お釈迦様が木陰で瞑想しておりますと、その近くをベナレスの良家の子息ヤサという青年が歩いてくる。

 そのヤサは、乾季と雨季と冬季の三季に別々の家を与えられるほどの誠に恵まれた贅を尽くした生活に空しさを感じて郊外を彷徨って来てお釈迦様に出会う、そのときお釈迦様が教えられたのが施論・戒論・生天論という有名な教えです。

 当時のインドで贅沢な生活に空しさを感じ、また人生の目標も失ってしまっていたこのヤサという青年は、正に今の日本の若者たちと同じような悩みを抱えていたと言うことも出来ると思うのです。

 それで、この施論戒論生天論ですが、自分のことばかりでなく周りの人や困っているものたちに施しをしなさい、これが施論で、自分の周りのことに目を向けてみなさいと云うことでしょうか。

 そうして五戒にあるような正しい生活習慣を身につけなさい、これが戒論で、何事も自分の行い如何が大切なのだということでしょうか。  そうして功徳を積めば来世で必ず天界に生まれ変わることが出来ますよというのが生天論です。

 つまり善いことをすればよい報いがある、悪いことをすれば苦しみがつきまとうということ。

 これは業論と言うことも出来ますが、何事にも因縁があり業となり結果する、その結果がまた因となり縁を伴って業となり果を生じるということ。

 簡単に言えば、些細なことでも行いに責任を持たねばならないし、その責任は自分が引き受けなければならないということを教えられているのだと思います。

 逆に言えば、きちんと道徳的な生活をし、徳を積んでいれば安心して死を迎えることが出来るということになります。

 こういう事をお釈迦様は教えられたのです。

 それでは本当に最後に最も簡単に仏教とは何か。

 漢文では、諸悪莫作・衆善奉行・自淨其意・是諸仏教といいます。

 インドの方の言葉では、サッバパーパッサアカラナン、クサラッサウパサンパダー、サチッタパリヨーダパナン、エータンブッダーナサーサナン。法句経という短いお経の中にあります。

 諸々の悪をなさず、善い行いを為すこと、そして自らの心を浄めること、これこそが諸々の仏陀の教えであるという意味です。

 私たち衆生のことをインドの言葉ではサッタと言いまして、サッタとは執着する者という意味です。そして執着せる私たちが住む世界は娑婆などと言いますが、娑婆はサハーと言いまして、サハーとは忍耐を強いられるところのこと。

 つまり私たちはもって生まれてその初めから生きることに執着し忍耐を強いられている、その中で何とか善いことをして悪いことはせずに徳を積んで、心を浄めていくことを教えているのが仏教である、ということになりましょうか。

 仏教とは何か、私にとりましてはまだまだ問い続けていくことになりますが、今日のところは取り敢えず、仏教とは人生の全般にかかわる教えであり、善いことをして心を浄めること、そうすれば安心して死を迎えられる、そう教えられている、とだけ申しまして、今日のお話を終えたいと存じます。

 皆さん仏教というのはとても素晴らしい教えです。どうか単に儀礼としてだけでなく、興味をもって学んで欲しい、残りの人生何をしようかという人がもしあるなら仏教を学ぶことを是非お勧めしたいと思います。

 長々とくどい話にお付き合いをいただきまして誠に有り難う御座いました。この法話に幾ばくかの功徳があり、それを皆様が聞いて下さり、私自身がわずかでも徳を積むことが出来ましたならば幸いで御座います。 ありがとうございました。

(当日は、快晴に恵まれ百人を超える檀信徒を前に本堂の高座に座り、予定の四〇分を遙かに超えて一時間ほどお話をさせていただきました。この機会を賜りました福盛寺ご住職様に感謝申し上げます)


ネパール巡礼・三

 十月十五日、今日はカトマンドゥに飛ぶ日だ。荷物をまとめて外に出ると、朝靄の中、エンジ色の袈裟を身につけた端整な顔立ちのお坊さんに出会った。まるで、時代劇の役者がカツラをかぶらずに登場したような風貌。

 英字の名刺を差し出された。「Bhikkhu Rewata」(比丘レーワタ)、住所はミャンマーのヤンゴンとある。私と同年配だろうが、法蝋を聞くと既に十年を過ぎていると言うので、その場で礼拝し話し出す。

 カトマンドゥから、ジョンというタスマニアで瞑想センターを主宰している中年のオーストラリア人と一緒に巡礼をしてきて、今朝到着したとのこと。

 そのジョンも三週間前まではヤンゴンの瞑想所で比丘として三ヶ月間瞑想していたという。インドの仏教聖地を回った後には日本にも招待されているということもあり、是非今日はミャンマー寺の建築現場で昼食を招待したいと言うので、十一時過ぎに再会を約した。

 ミャンマー寺へ着くと、既に布を敷いた台の上に先ほどのレーワタ比丘が座っている。隣に座らせてもらい、建設中の塔の地鎮祭の写真を拝見する。

 沢山のお坊さんたちが招かれ、その前で派手な民族衣装を着た人たちが踊りを披露している写真や、ストゥーパの基礎の中心に経本を置き、周りに緑、クリーム、赤、金、銀といった八色のレンガを丸く敷いて儀礼を行っている様子、太い鉄骨の櫓が組まれ、その周りにレンガを巻いてコンクリートを塗っているストゥーパの内部の様子などが写されていた。

 その写真に写っている工夫だけでも百人を遙かに超えて二百人を数えようかという凄まじさ。柴田氏によれば、ミャンマー寺では一律で工夫を雇うのではなく、職能に応じて四十、五十、六十ルピーという具合に賃金を設定し雇い入れているのだということであった。

 その後私たちの前には置ききれないくらい沢山の小皿に盛りつけた料理が運ばれてきた。野菜の炒めたものや野菜と魚の煮物など、ミャンマー料理を堪能した。

 食事の後、建築途中の足組を登り、ストゥーパの上部で空洞になった内部をバックにしてレーワタ比丘と私、それにジョンで写真を撮った。

 
 その日カトマンドゥに飛ばねばならない私は、そのあとお寺に戻り、二百ルピーをドネーション(寄附)として払い、リキシャとバスを乗り継いでバイラワに向かった。

 バイラワの空港は、平屋の小さな建物の前に小学校の校庭ほどのコンクリートが広がっていた。ロビーにはカウンターがあるだけ。出発時刻の二時間も前に到着していることもありロビーには誰もいない。

 インドで列車に乗るときも私はこの調子で、二時間前には駅に着くように出る習慣がある。その余った時間、周りの人たちの様子や動きを見ているだけで飽きないし、すぐに二時間くらい過ぎてしまった。

 しかしこのときばかりは時間をもてあました。なにせ人が居ないのだから。仕方なく、ルンビニでの出来事や見聞したことをメモしたり、これから向かうカトマンドゥの様子をガイドブックで確認したり。

 そうこうしていると、にわかに一人二人カウンターを出入りし出した。そして五、六人の旅客と共に田舎の駅の改札なみのゲートを通り抜けると、ぽつんと一機。私たち乗客を待つ飛行機は、その目の前にある、なんとも小さなプロペラ機なのであった。新しい飛行機ではあったが、こんな小さなプロペラ機で乗客を乗せて首都カトマンドゥに向かうとは。

 まるでトヨタのタウンエースを縦に二つ並べたほどの大きさしかない。いやそれよりも天井は低く狭苦しい。しっかりシートベルトを締めて揺れる機体に運命を預けた。十五時四十五分定刻発。

 下の景色がわかるほど天候も良くなかったが、それでも雲を眺めている間に一時間ほどで、カトマンドゥーの空港に無事着陸した。

 実は、カトマンドゥーの空港はこのときと、この五日ばかり後にインドのバラナシに飛ぶときの二回使用したはずなのだが、まるで記憶にない。自分でもなぜだか分からないが、紀行文を書く身としてはただ申し訳ないと言うより仕方がない。

 そのかわりと言っては何だが、空港から出てオートリキシャに乗った所の光景は良く覚えていて、金網を張ったカーブした所を走るときの何ともなま暖かい風を浴びたことを記憶している。途中信号で止まる車の間をスルスルと前に進みつつ、思ったよりも早く、スワヤンブナートという有名なチベット寺院の下あたりまで到着していた。

 小高い丘の上に四方に目を描いた仏塔が位置する、東京の浅草寺のような賑わいの大寺の仲店入り口でリキシャを降りた。道の両側には食品やら衣料品やらの小さなお店や屋台がひしめいていた。

 夕方で暗くなる前に着かなくてはと、誰彼となく目指すお寺の名前を言っては道を尋ね、チベットの色とりどりの小旗のはためく小高い丘を越えて、何とかカトマンドゥでの宿と勝手に決めていたアーナンダ・クティ・ビハールに到着した。

 坂を下りると幼稚園の庭程度のところに人の背丈より少し大きな仏塔があり、そこから下の方に多くの人が大きな荷物をもって行き交う街道が見渡せた。二階建て二棟の小さなネパール上座仏教の僧院であった。

 カルカッタのバンテーより、マハーナーマという名の長老を訪ねよ、と言われていた。マハーナーマ長老はその時この寺の住職さんで、用件を告げると、疲れていると思われたのか、すぐに二階の隅の大きな部屋に案内された。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない部屋であったが、マットのあるベッドが一つあり、何とか静かに寝れそうであった。

 温水のシャワーが出るとのことだったので早速汗を流しに行く。大理石の床に広いシャワールーム。三人四人が一緒に浴びれるくらいの広さがある。蛇口をひねる。しかし、水がちょろちょろ出てくるだけで、いつまで経っても温水にならない。

 物寂しい思いにとらわれながら、結局タオルに水を浸して身体を拭くだけで出てきてしまった。標高千四百メートルのこのあたりでも、昼間は三十度近くなるはずだが、夕方には急に冷え込んでとても寒く感じる。冷たい水を身体にかける気にはなれなかった。

 部屋に戻るとノックがして、小さな子供をおぶったせむしの女がミルクティを運んできてくれた。部屋に女性とだけ居ることを禁じている比丘の戒を気遣ってのことだろう。

 するとそこへ黄色い袈裟をまとった十代の沙弥(見習僧)がやって来て、私の荷物から覗いている文房具やカメラを触っては質問し、聞きもしないのに自分の名前を紙に書いたり、何しに来たのかとしつこく聞いて出て行った。おそらく年長の比丘たちから言われて偵察にでも来たのだろう。

 ネパールは、国民の八割以上がヒンドゥー教徒で、残りの数パーセントを仏教、キリスト教などが分け合っている。仏教も、チベット仏教を継承するネワール仏教と言われる人たちと一九三〇年頃からは上座仏教も存在する。

 日本のように様々な宗教施設が街に混在し、ヒンドゥー教徒も仏教徒も双方の寺にお参りしても何の違和感も感じないという。ネパールの人たちは、顔や気性ばかりか、そうしたところも私たちに似ているようだ。 つづく・・。


般若心経からの
メッセージ2


 菩薩は私たちとともにある

 ここから経文にはいる。はじめに「観自在菩薩」とある。

 普通お経のはじまりには如是我聞と有り、「かくの如く我聞く」として、かつて釈迦入滅後の雨期に五百人の阿羅漢(完全に悟った人)が集まり、経と律の結集を行ったことに因み、経を誦出したアーナンダ長老の言葉として如是我聞をお経の出だしとしている。

 また続いて経を聞いた場所や説き手、聞き手などを特定するのだが、心経ではそれらが省略されている。そしてこの経の説き手として唐突に観自在菩薩が登場している。

 観自在菩薩と観世音菩薩は単に訳し方の違いに過ぎない。因みに観世音と訳したのはクマーラジーヴァという西域出身の有名な訳僧で、観自在と訳したのは西遊記でおなじみの玄奘三蔵。

 いずれにしてもこの二つの訳のお陰で、この菩薩の性格がより良く知れることになった。

 世の中の音、つまり様子有様を観察することが自在にお出来になるお方だということ。観察できるということはそれらの現場におられるのと同じことになる。

 もっと簡単に言えば、すべての者たちと共にあり、理解し助けて下さるということになる。どんな境遇にある人にでもその人を理解し救済する人、観音様のような人が必ずいるものだということか。

 いまに生きよ

 そして「深く般若波羅蜜多を行ぜしとき」と続く。「般若」とは前回述べたように分別を乗り越えた智慧のこと。「般若波羅蜜多」で智慧の完成の意。全体では、智慧の完成という行を深く修したとき、ということになる。

 ところで、説き手である観音様の「観」とは仏教では智慧の修行を指す。観は、仏教の瞑想である止観の観のこと。

 今をそのままに分別解釈無しにつぶさに見ること。ふつう解釈とは過去の自分の記憶からあれこれ分析し判断することであるが、その解釈無しに、今の自分に意識を据えるのが観ということになる。

 過去の出来事に心を動揺させ、これから起こることに心躍らせたり憂いることなく今だけに生きることの大切さを教えている。

 みんないずれは消えて無くなるものと観念すべし

 そしてその時、「五蘊が皆空であると照見して一切の苦厄を度した」という。

 五蘊とは、五つの集まりとの意で、色・受・想・行・識という私を取り巻く物と心の世界を指す。それは、目を閉じて静かに座るとき、体と心のうごきとして現れる。

 空とは、お釈迦様の言われた無我ということ。すべてのものが因と縁によって起こり移り変わる。何ごとも他の助けにより一時的に成り立っている、確かな私と言えるようなものは何もないということ。

 私たち一人一人もこの地球環境の中で、様々な人たちものたちの助けのもとに存在している。今の思いもこれまでの沢山の過去の織りなした一時の感情に過ぎない。

 苦しみとは、思い通りにならない心の葛藤。すべてのものは移ろい変わりやすいものだから。なにごとも、これでいい、完璧と思っていても、気が付くと満足いかないことばかり。

 心落ち着けようと静かに座っても、心は様々に妄想し、考え、わずらうもの。けっして思い通りになどならない。

 身体も何も問題ないと思っていても、かぜをひいたり、足腰を痛めたり。新しい品物もすべてその日から痛みが出て、いずれ失われる。私、私のものと言えるものではない。

 物も心もみな移ろいゆく不確かなものだと知るならば、どんな苦しみも私のものではないしいずれ流れ去っていってしまうと知られる。 

 思い煩うことの多い私たちではあるけれども、それもこれもみんな、いっときのものだということか。
 つづく・・・。


國分寺仏教懇話会特別企画
六月十一日開催
「タイの僧侶と語る会2」

 十二年前にタイで出家され、いまもタイの僧院に暮らす藤川清弘師を迎えて、「人生と老いについて」お話をうかがった。

 中国新聞に告知されたこともあり、檀徒外の参加者もあり、当日は雨にもかかわらず多くの檀信徒が熱のこもった話に聞き入った。

(講演抜粋)
「昨年九月にタイで精密検査の結果内臓すべて異常なしとの診断を受けた。しかしかえってそのことが長生きの原因になり、足腰が弱りボケて寝たきりになるのではと心配する。

 金や財産、地位や身分に関係なく誰にでも死はやってくる。人間五十を過ぎたら、生きることよりいかに死んでいくかに力を注ぐように配分を変えていくべきではないか。

 タイでは、人の死は不浄なものでも忌み嫌うものでもなく、来世への新たな旅立ちだと思われている。

 私はこの世に何の未練も残さず、この世の全てに心から感謝し、楽しい人生を過ごさせてもらって有り難うと笑って死んでいきたい。その為にはいつ死ぬか分からないのだから日々を明るく生きなければならない。

 だが自分がいくらそう願っていても、周りの人たちが暗かったら決して明るく死ねるわけがない。

 だから一人でも多くの人達が幸せに明るく生きられるよう、真の仏教の教えを知ってもらうことに自分の力を注ぎたい。

 ミャンマーのメッティーラという所に、先の大戦の激戦地だが、そこに日本語学校を建てたときに、何人かの日本の知り合いがお金を出して現地の人たちのためによいことをしたと思った。


 しかし今では、そこへ日本人の心を病んだ若者たちが行っては、底抜けに明るくきれいな心で迎えてくれるミャンマーの人たちに癒され、社会復帰し、毎年そこへ行くことが生きがいにもなっている。

 善いことをしたことは結局自分のためになる。回り回って自分に返ってくるということではないか。

 皆さん、まずは自分の本当にしたいこと、自分のためになることをしようじゃありませんか」

 藤川清弘師著書「タイでオモロイ坊主になってもうた」「オモロイ坊主のアジア托鉢行」現代書館刊


読者からのおたより

 『遍路今昔』

 過日、「井原市史」全六巻の一冊「近世史料編」が発刊されたので購入した。この史料編は市内の旧家に残る江戸時代の古文書を解読し収録したものである。

 何分大部のものだが、ざっと目次を見ていたら「旅と巡礼」の項目が目にとまった。いずれも四国遍路にかかわる天保年間の古文書(五点)である。

 その一つは、平野村(神辺・平野)の百姓が、遍路の途中、病に倒れた岡山の女遍路を、頼まれてカゴで矢掛まで送っていく途中、出部あたりで亡くなってしまった。処置に困った百姓は、遺体を下出部村の薬師堂に放置して帰った。後でこのことが発覚し、平野村は一橋役所へ詫び状を差し出した。これはその詫び状である。

 その二は、井原村の百姓母子三人が遍路に出て、その途中、土佐の吉良川村で母親が病死した。吉良川村では母親をその土地に葬り、子供二人は村で預かっているので迎えに来るようにという書状である。

 その三、四は、逆に、伯耆の夫婦遍路が帰路の途中、夫の方が井原の辻堂で病死したので、夫を当地に埋葬して欲しいと願い出た妻の口上書である。

 その五は、井原村の十五の娘が、眼病を治すために単身で遍路の旅に出ることの許状を願い出た書状である。

 このような話は聞いたことがあるが、身近な所であった出来事となると、いっそう切ないものがある。

 天保年間といえば、巡礼ブームと呼ばれた時代である。井原でたまたま見つかった古文書でも五点あるのだから、このような事例は、どこにでもよくあったことであろう。

 いずれも、遍路の慣習や民情を知る上で興味ある事例である。昔の遍路旅の厳しさや行路人への相互扶助の仕組み、遍路装束の意味なども理解できる。


 今また、四国遍路をはじめ巡礼はちょっとしたブームである。定年直後、自分探しの旅にするシニアや、若者の歩き遍路などが多く見られるようになったが、一時期あった暗く悲壮感の漂う巡礼のイメージは一掃され、明るく生き生きとした巡礼を続けている。

 これからも新たな魅力を求めて、廃れることなく未来へと受け継がれていくことであろう。
(B生)

   
                                潟Vンメディア「へんろみち点描」より


お釈迦様の言葉−八

ただ非難のみされる人も
ただ称讃のみされる人も、
過去現在未来にあること無し。

(法句経第二二八)

 周りから非難ばかりされているように見える人であっても、中には必ずその人を褒め称えるような人があるものです。逆に誰からも好かれ、頼られる人であっても、必ずその人のことを悪く思う人が出てくる。それは、世の常なることのようです。

 その昔お釈迦様も良家の若い子弟を教え諭して、弟子にしていった段階で、沢山の批判がありました。せっかく跡取りとして大きく育てた矢先に、子息に頭を丸め出家されてしまったことに腹を立てた親たちからの非難です。

 また当時の主流であったバラモンの僧侶たちからは疎まれて、遊女をお釈迦様の僧坊に忍ばせて悪評をたてようと奸計をめぐらされもしました。

 しかしお釈迦様はそれらに動じることなく、そのままそれまでと同じようにお過ごしになりました。何を言われようが、人々の幸せのために必要な真理を教え諭すことに何の動揺も躊躇もなかったからです。

 ですが、お釈迦様とは違い私たち凡夫にとっては、自己を主張し過ぎて頑固ならぬ頑迷に陥らないように自らを振り返ることも必要なことなのでしょう。

 また、周りからの非難中傷ばかりが気になる人にとっては、あのお釈迦様でさえ非難する人があったことを知って、称讃されることばかりを求めないことも必要なのかもしれません。


 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX 〇八四ー九六五ー〇六五二
□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集文責横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。
國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より

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