備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十六年四月] 第八号

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


仏教の話
帰依礼拝について

 法事でお経を唱えます前と後に、どこのお宅に参りましても、必ず十三仏の掛け軸を前に、座布団に額をつけ投地礼をいたします。その日の回忌に当たるご本尊さまに法事をさせていただくご挨拶であり、仏さまを敬い、法要の功徳を賜りますようにとお願いをいたします。

 それから着座して真言宗の常用経典である理趣経を読誦し、法事の後半ではご一緒に「仏前勤行次第」をお唱えいたします。勤行次第のはじめには、合掌礼拝、懺悔、三帰、三境と続きますが、みなさんはどのような思いを込めてお唱えされているでしょうか。

 合掌礼拝を「うやうやしくみほとけを礼拝したてまつる」と唱えるとき、自然に頭が下がり、また「深く三宝に帰依したてまつらん」と唱えるとき、心から三宝を敬う気持ちが生じているでしょうか。
 
 三宝はブッダ(仏)という名の宝・ダンマ(法)という名の宝・サンガ(僧)という名の宝のことです。ですが、あまり身近に感じられていないかもしれません。しかし、檀那寺を大切に思い供養をささげるみなさんは、本当は意識するしないにかかわらず三宝に帰依し敬っていることになるのです。

 なぜならば、お寺は仏さまを祀り、その教えである経を唱え、僧侶がその教えにしたがって住まうところですから、本来三宝そのものなのだと言っても過言ではないからです。

 それではそのブッダ・ダンマ・サンガとは、私たちにとってどのような意味のあることなのでしょうか。

 まずブッダとは、簡単に言ってしまえば、私たちの生きる目標のことです。

 ご存知の通り二千五百年前にこの地上にあって最も崇高な生き方を示されたお釈迦様のことなのですが、お釈迦様は私たち誰もが求める最高の幸せを自ら勝ち取った人とも言うことができます。「帰依仏」とは、そのお釈迦様・ブッダを自分の生きる最高の目標として敬い、より所とすることです。

 お釈迦様はすべての悩み苦しみを打ち負かし、六道に輪廻する苦の連続から解き放たれた人です。世の中のあらゆることに精通され、多くのものたちを教え諭し、私たちに最上の幸せとは何かを指し示してくれました。私たちと同じ人として生まれ、私たちに可能性を示されたとも言うことができます。

 次に、ダンマとは、その幸せに向かって生きていくための教えのことです。

 つまり私たちを最高の幸せに導くマニュアルのようなもの。「帰依法」とは、その教えを自分の人生の大事な手引きといたしますということです。

 その教えは、時代を経ても古くなるものでなく、盲信するのではなく自ら学びその正しさを確かめられるもの。二千五百年も経過して込み入った感も否めませんが、本来はとってもスッキリした教えです。

 そして、サンガとは、最高の幸せに向かって生きる人たちの集まりのことです。

 お釈迦様のさとりの教えに励み伝える仲間たち。「帰依僧」とは、そうした聖なる生き方を選択した人たちを大切にすることです。自分の心を支えてくれる仲間であり、ともに励み、支えあう関係でもあります。 


 ところで、その昔お釈迦様に教えを乞う人また弟子たちは右回りに三周し正面に向かい投地礼を三度して、それから話し始めたと言われています。

 インドのサールナートという仏教発祥の聖地にダメークストゥーパという高さ33メートル、外周が55メートルもある大きな塔がありますが、今日でもその塔をお釈迦様のように慕い、右回りにぐるぐる回りお経や真言を唱える多くの巡礼者の姿を見ることが出来ます。

 また、以前チベット亡命政府のあるインド北部のダラムサーラというところへ行って、チベットのお寺の法要に参加したことがあります。本堂内ではお坊さんたちの読経が続く中、外の後ろの方では数人の信者たちがその間中何度も何度も五体投地を繰り返していました。

 法要中の本堂に、正に仏さまが示現している様が見えているかのように一心不乱に礼拝を繰り返す迫力に感動させられたものです。

 このように帰依する心を形に表すものが礼拝であり、仏教の儀礼に礼拝は欠かせないものです。

 ですが、儀礼だけ形だけのものとしてしまわないためには、その最高の幸せのこと、お釈迦様とはどんな人でどれだけ大変な意味のあることを成し遂げたのかということを少しは知ってほしいのです。そうでなければ、心から帰依します、という気持ちにはなれないのではないでしょうか。

 そして、それを自分の人生に意味あるものとするためには、本当は自分にとって何が一番大切なのかをたずねることこそが求められているのかもしれません。

 とはいえ、法事の席では、礼拝する姿の後ろで、ただ眺めているだけではなく、やはり合掌しともに仏さまを礼する姿勢は欲しいと思います。


新連載紀行
ネパール巡礼・二

 ゲストハウスに荷物を置いて、トイレバスの位置を確認していると子供に呼ばれた。ついて行くと、お寺の裏でヴィマラナンダ長老が座って食事をしている。知らぬ間に十一時を過ぎていたのだ。私の座るところを指さすので、座りご馳走になる。

 野菜のカレーにチャパティ。チャパティは日本のインド料理屋で定番のナンよりも庶民的なインドパンで、精白していない小麦粉をこねて丸い鉄板で薄く焼いたもの。それを右手で小さく切ってカレーにつけて食べる。目の前で焼いてくれるので焼きたてのおいしいチャパティを沢山いただいた。

 正午を過ぎると固形物を口にしない南方の僧侶にとって、一日の一番大切な行事を終えて、しばし部屋で横になり、二時過ぎにルンビニーの広大な平原へ向かった。

 ルンビニーはサールナートなどの遺跡と違いまだ未整備の為、柵やゲートなどもなく出入りが自由なのは結構だが、ガイドなしで一人行くときは何の手がかりもなく心許ない。カルカッタを出る前にバンテーから手渡された一枚の絵はがきをたよりに歩く。

 ゲストハウスを北に出て少し行くと道の左側に沢山の看板があった。僧院地区に用地を取得して建設中のお寺の方角を示す看板だった。韓国やミャンマー、ベトナムのお寺の看板に混じって、薄いブルーに茶色の文字で、「BHARATIA SANGHAーRAMA The Bengal Buddhist Association」という看板があった。

 両側に草原が広がるだけの、ひと気のないその道を北にまっすぐ行くと、蓮の形をした皿に灯された燈火が揺れていた。そこが僧院地区の入り口で、西側が大乗仏教のお寺、東が南方上座仏教のお寺に割り当てられ、その中央には水の干上がった水路が延びていた。

 マスタープランが出来てから、その時すでに二十年は経過しているはずであったが、未だに草ボウボウの原野の中にレンガが点在しているようなものに思われた。

 私はそれから数人の人夫が立ち働く姿の見える西側の僧院地区へ向かった。そこはベトナムのお寺の建設現場であった。中に入っていくと、すぐに青いポロシャツに長靴を履いたベトナム人僧ウィンギュさんが出迎えてくれた。

 百二十メートル四方の大きな土地にゲストハウスを建築中で、その後本堂と塔、寺務所などを作る予定だという。建設途中の仮寺務所に案内され、ベトナムのお茶とビスケットをご馳走してくれた。

 ベトナムの仏教は、中国経由の禅仏教が主流で、他の東南アジアの仏教とは異なる。紀元前から一千年程中国領であったため道教儒教の要素も混淆している。

 共産党支配下で衰退したが、一九八六年以降改革開放路線がスタートしてからは仏僧も増加して今では、一万八千人の大乗僧に加え七千人もの上座仏教僧もいるという。

 ベトナム戦争当時から積極的に平和活動をしてノーベル平和賞の候補になる世界的にも有名な「行動する僧侶」もあり、社会的な地位も高いようだ。

 次に向かったのは總教という日本の新興宗教が造っているお寺だった。柴田さんという日本人の方が七ヶ月前から駐在しており、何もない原野に一からお寺を建てる苦労話をひとしきりうかがうことになった。

 總教は茨城県に本部があるということで、それまで聞いたこともなく日本でこの方とお会いしても話すことはないだろうと思えたが、このときはお互いに久しぶりに会う日本人でもあり、すぐにうち解けて話が弾んだ。

 三ヶ月前に電気が来て電話は一月前に入ったばかりとのこと。敷地の柵を作り出して二年半。一つ一つ建物を造り、寺務所が二棟出来たところで、そのときはお寺の本堂を建設中だった。夜が特に物騒なので寺務所の周りには別に三メートル程の柵をめぐらしていた。

 職人には一日百ルピー(約一五〇円)、人夫には五十ルピーとのことだったが、韓国のお寺が来てからは何もかにも値上がりしてしまったので困っているとこぼしていた。雨期が過ぎてスッポンが出たといって、水たまりに囲って入れたスッポンを見せてくれた。他の地区だがミカサホテルの現場では蛇に噛まれて死者も出たという。

 この後日本からノータックスで運んだというトヨタに乗せてもらい日本山妙法寺に案内してもらう。途中韓国のお寺の前を通る。かなり大勢の人夫を使い建設を急いでいる様子。二人の韓国人僧が居るとのことだった。

 僧院地区を抜けて、研究所やホテルの建つあたりに来ると、草の間に煉瓦造りの大きな土管を重ねたような建物が見えた。日本の新興宗教「霊友会」が出資して建てたルンビニー国際研究所兼ホテルだそうだ。

 柴田氏曰く、はじめに霊友会から一億もの寄附があったが何もしない間にルンビニ開発トラストの幹部がその大半を食べてしまったことがわかり、完成後直ちに寄附する予定だったが十年間は霊友会が管理することになったらしい、各部屋には高価な電気製品もあり、それらを持ち出されるのを恐れてとのことだ。

 またその先には法華ホテルがひっそりと煉瓦の塀で覆われていた。すでに開業しているはずだが、聖地地区で発掘をしている全日本仏教会の関係者や日本の研究者が来たときくらいしか宿泊者もなく閑散としている。

 日本人発掘団の一人がドラックを鞄に入れられて警察に捕まりひどい目に遭う事件があって、その後地元警官と現地人の金目当てのトリックと判明し、日本人技術者もしばらくは来ないという。

 日本山妙法寺は、熊本県出身の藤井日達師が大正七年に中国の遼陽に造ったお寺を先駆けに日本国内外に七十程の白い仏舎利塔を造り世界平和を訴える日蓮宗系のお寺の総称。

 インドではあのガンジーさんと出会い、ともに非暴力主義を語り確認し合ったと言われ、それがためにインドではかなり優遇されている組織と以前から聞いていた。ラージギールやヴァイシャーリー、ダージリンなどに大きな世界平和パゴタという仏舎利塔を建立している。

 マスタープラン外の土地で建設を進める妙法寺では、ここへ来て三年、その前にはラージギールに六年いたという生天目豊師が迎えてくれた。白い上下の服を着てニコニコと話をされる。

 既に本堂と宿泊施設ができあがり塔の建設に入っている。二百メートル四方の土地だからかなり広く感じる。本堂に中国の化粧瓦を用いたが土地に合わないせいか、もう既に風化してきていると嘆いていた。

 その時も何人かの人夫が働いていたが、彼らに仕事をさせる大変さを話していた。仕事をするとはどういう事か、そこから教えなければいい仕事は出来ないなどと。

 勤行は朝夕五時から団扇太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」と一時間半程唱えるとのこと、厳しい気候の中、生半可なことで真似の出来ることではない。今ではインド国内には十人しか坊さんがおらず、みんな快適なアメリカやヨーロッパに移り住んでいるとのことだった。

 その後ベトナムのウィンギュさんもオートバイに乗ってやってきて、英語とヒンディ語混じりでひとしきり話をしていると、早くも日が傾きかけてきた。そのとき外に出てみんなで撮った写真が残っている。

 一人合掌し艶のいい笑顔で真ん中に写っている生天目師だが、実はこの一年後に賊に入られ殺されてしまったのを、ちょうど滞在していたカルカッタの新聞で知った。寺務所を二重に柵で囲った柴田氏はお元気にその後日本に戻り活躍されているようなのだが、気の毒なことである。

 その晩はむしろを敷き詰めた床にスポンジだけの布団を敷いて、持参したシーツを身体に巻いて眠りについた。
 
 十月十四日。この日も一日歩いて各お寺を回る。八十メートル四方と百六十メートル四方の隣接する土地を取得しているミャンマー寺では、坊さんがおらず全てを政府の役人が指揮を執っていた。簡易寺務所を作り、ミャンマー様式の細く上に伸びた円錐形の大きな塔を建設中であった。

 そして、その隣の水路側に肝心のベンガル仏教会が取得した土地があった。看板一つ。何ともさびしそうに立っていた。短い草に覆われて、いつになったら人で賑わうことになるのか。インド国内でさえ他の地方に住みたがらないベンガルのお坊さんがこの地に住まうことさえ無理なのに、お寺を造ることなど出来るのかと人ごとのように感じていた。

 加えて、その日の朝、ヴィマラナンダ長老に会ったとき、「仏教徒の居ないこの地にそんなに沢山のお寺を建ててどうなるのだ」と言われた言葉も私の脳裏に重くのしかかってきた。          つづく


般若心経からの
メッセージ


 般若心経は、私たちに何を語りかけようとしているのか。お釈迦様が亡くなり四〇〇年も経って心経は著された。その後インドは勿論のこと伝えられた国々で多くの解説者によって様々に解釈されてきた。

 しかし、心経が作られた当時、はたしてどのような意図をもってこの絶妙なる経が生み出されたのか。心経が誕生した正にその時代の人々の仏教理解から出発して経文を解釈すべきではないか。そう考え、浅学の身ながら私なりに解説した一文、「般若心経私見」が既にある。

 そこで、ここでは単に心経が現代に生きる私たちに投げかけているメッセージを一語一語から読み取っていきたいと思う。

仏教は私たちの生活の中に生きている

 経題は、「摩訶般若波羅蜜多心経」という。「摩訶」とはインドの言葉でマハーの音訳。「まか不思議」の摩訶であり、日本語にもなっている。辞書には大きなこと優れたことを言うとある。

 これと同じように日本語にもなっている仏教語は数多い。地獄を意味する奈落、娑婆、摩尼など。漢訳の仏教語にいたっては、縁起、方便、有頂天、退屈、自愛と枚挙にいとまがない。

 仏教は誰かが死んだときだけのものではない。私たちの生活の中に既に入り込みそれと分からないうちに私たちの物の見方考え方のバックボーンになっていることを教えてくれている。 

分別を断ちきる智慧を身につけるべし

 次の「般若」も同様で、パンニャの音訳語。般若の面などと言うが、面打ち般若房がはじめた悲しみと怒りの両面を表現した角のある能面の名前となって使われるようになった。般若ずらなどと使われ、嫉妬心をたたえた女の顔を喩えて言うとある。

 ところで、一般に、分別は一人前の人間として身につけるべき思慮判断と思われがちだが、仏教の世界ではこの分別があるから大小、美醜、優劣、善悪を取り違えたり、他と比較しより良くありたい、思われたいという欲の心が生じると考える。

 この分別を断ちきる智慧こそ智慧の代表者ともいえる文殊菩薩の智慧。すぐ他人が秀でていたり得をすれば嫉妬していると般若のような面になってしまうよ、ということか。

めざすは究極のさとり

 「波羅蜜多」とはパーラミター。パーラとは向こう岸、彼岸とも訳す。春秋の彼岸会もこの言葉から生まれている。彼岸の中日には真東から日が昇り真西に沈む。日の沈む方角に向かい西方浄土におられる阿弥陀さまに手を合わせ、極楽へ迎えてくれることを願ったのが始まりか。

 パーラミターとなると彼岸に到達せることを言う。彼岸とはこちらの娑婆世界に対してあちらの世界。ただし死んで身体の束縛が無くなれば簡単に行けるというわけではない。仏教で言うあちらとはさとりの世界。極楽浄土はほんの一里塚に過ぎないことを肝に銘じておくべきか。

陀羅尼なり

 そして「心経」とは心臓そのものを指す。なぜならばインドの原典には経の文字は見あたらず、本来の題名は般若波羅蜜多心までというのが今日の仏教学の常識となっている。

 それは心髄であり神髄のこと。心は心髄万境転と言うが如く様々な境遇で転変する。その心を智慧によって手なずけ彼岸に導く奥義そのものということか。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』には、心経とは「諸経を含藏せる陀羅尼なり」とある。陀羅尼とは誦すれば諸々の障害を除いて種々の功徳を受ける秘密呪のこと。だからこそ心経は多くの人々に愛され読誦され続けているのかもしれない。 つづく


若い世代の人たちへ   
宗教とはなんだろう

 私たち現代に暮らす日本人の多くが、「自分は無宗教です」と言ってもいいくらいに、宗教など自分に必要ないと思っているのではないだろうか。

 子供の頃から十二月になればクリスマス、少し大きくなればバレンタインデー。そして結婚式を教会で行い、正月には神社に行き、誰か亡くなれば坊さんを呼んで葬式をする。

 こんな節操のない国民はそう他にないと言っても良いのではないかと私は思っている。高校あたりで修学旅行に京都に行ってお寺を参観することに対して信仰の自由をたてに取り止めさせる人たちがあるのに、保育園でクリスマスをしても誰も何も言わないというのもおかしな事だと思える。

 明治の神道国教化政策によるねじ曲げられた信仰形態を諾々として甘んじて受け入れてきたつけは大きい。また戦後のマスメディア等によるアメリカンナイズされた生活スタイルや文化の宣布により、その延長線上にある宗教的お祭りに対する抵抗感など全く感じることなく受け入れてしまっている。

 それに加えて様々な宗教団体による事件、強引な勧誘により宗教というものに対するアレルギー、誤ったイメージ、認識を余儀なくされているのが現代の私たちではないだろうか。

 仏教といえば、博物館にあるものと思ってはいまいか。本来あるべき宗教を自分のものとせずに、通過儀礼としてのみ受け入れ、宗教は弱い人間のするもの、ぐらいに考える現代日本人に矯正されてきたということではないかと思う。しかし、それは、他の多くの国の人々のもつ宗教観とはかなりの食い違いがあることを知らねばならない。

 比較思想を専門とする保坂俊司氏の文章を引用しよう。氏は、日本人が一般に用いる宗教という言葉でイメージする意味と他の諸国で用いられ日本語に翻訳するとき『宗教』という記号に置き換えられる言葉の意味するところには大きな不一致があると指摘する。そして、本来の意味において次のように述べている。

「宗教こそは人間個人はもとより社会全体に至るまでの全てに深く関係し、個人から社会全体まで、トータルに精神的・肉体的救済を導き出す社会システムである、ということがいえるのである」「そして宗教行為とは日常的な価値観を超える普遍的な目標の獲得を目指して、日常的に行う不断の行為ということになろうか。それゆえに宗教、特に健全な宗教は人間生活に不可欠であるということがいえよう」「それは個々人がいかに生きるか、しかもよく生きるかというレベルの問題から、社会全体がいかにあるべきかまでをトータルに意義つけるもののことである」(北樹出版刊『インド仏教はなぜ亡んだか』より)と。

 宗教は特定の日だけのものでもなく、一部の人だけのものでもない。私たち一人一人が生きていく上に当然なくてはならないものであり、生活ないし生きること、そのものということではないだろうか。

 しかし、だからといって宗教は誰からも強制されるものではないし、無理矢理信じなければならないものでもない。またどこかの団体に属しているから宗教を行じているとも言えない。

 もう一つ引用しよう。この方は一九世紀末にインドに生まれ、若くして人類の教師として仰がれ指導者としての道を歩むが、特定の教義にとらわれず全ての人が等しく恐怖と煩悩から逃れる道を宣言して自らその教団を解散する。そして、一人聴衆に向かって自由への道を語る講演活動を世界各地を周り四十年も続けて人生を終えた孤高の哲人である。

 彼クリシュナムルティは、
「まじめな宗教とは、人が生きるということ全体と取り組み自由を求めていくことです。そして教義を受け入れて盲信するのではなく、問いを持ち続けていくことなのです。人は自由を得て、実在というものがあるのか、永遠にして時空を超越したものが存在するのかどうかを探求するのです」(霞ヶ関書房刊『自由への道』より)と語っている。

 仏教とは本来このクリシュナムルティの言われるようなものではなかったかと、私は思う。

 宗教とは、人それぞれにその人に必要な教えをそこから見つけ出し、自分で正しさを確認していくものなのではないだろうか。決して押しつけられ信じ込むものではない。自らを探求し心の自由を獲得すること、そのことなのではないかと思う。 


読者からのおたより

 『懇話会に寄せて』
 毎日めまぐるしく過ぎていく中で、月に一度の懇話会が開かれるようになり、日頃何気なく接していた事柄など、折に触れ説明をして下さいます。なるほど、そうだったのかと納得がいき、一つ賢くなったようで嬉しく思っています。

 さて、人間一生のうちで何事もなく最期を迎えられる人はまれで、大なり小なり、困り事を抱えていると思います。ことに直面して自分のとるべき道を迫られたときに、正しい選択をしたいものです。

 宗教が自分に深く根ざしていると、その選択は、宗教心のない人が現実的、損得によって判断したものとは違ってくるでしょう。とはいえ、欲界の一つである人間世界で欲得を抜きにすることはなかなか難しいでしょう。
 ー中略ー

 多くの人達は、宝が自分の手の届くところにあっても、それを役立てることができません。懇話会に出ている私たちは、素晴らしい宝を自分のものとして敬うことを知りました。
 私たちが実践して仏法の精神を全うし次代を担う若い人達に継承し、日本の社会だけでなしに、グローバルにも強調できる平和な社会実現を目指してもらいたいと思います。
  (匿名)

 『法華寺へ参拝して』
 奈良佐保路三か寺寺宝拝観の機会に恵まれ法華滅罪寺へ参りました。

 法華寺は、天正十三年、國分寺国分尼寺創建の詔により尼寺として造営されたと聞く。ご本尊十一面観世音菩薩を法主様が拝しておられた。

 慈光殿に国宝阿弥陀三尊および童子像・絹本着色掛幅装三幅を拝観。五重の小塔は海龍王寺の国宝と同じに本堂廃材を利用して作られた。瓦、土器など保存されている。
海龍王寺は遣唐使が渡唐に際し航海の安全を祈願した由緒がある。

 ふじはらの おほき きさきを  うつしみに あひみるごとく 
 あかき くちびる
美しい十一面観世音菩薩を歌った会津八一の歌  (福山市 河野孜郎)


お釈迦様の言葉−七

王の麗しき乗用車は朽ち、
肉体もまた老ゆれど、
善き人の法は老いず。
善き人は善き人に法を告げる。
(法句経第一五一)


 どんなに権勢を誇り他の者たちを従わせていたとしても、いずれは栄枯盛衰、何事も衰えるときが来る。けれども、唯一、善き人たちの教えだけは時間が経過したとしても衰えることはないということ。

 王様は、どの時代でも力を持ってその地位にあるわけですが、その力をどんなに誇ってみても、陰りが見えれば他の人に変わられる存在に過ぎません。

 ですが、お釈迦様のように何も持たず、食も人々の施しにたよって生きていたような人が、今の時代、アジアばかりか世界中で尊敬され、その価値が見直されています。

 また、お釈迦様から百年後のアショカ王は、沢山の人々を惨殺した凶暴な大王でしたが、仏教に帰依して、私たちの建てる塔婆の原型となるたくさんの仏塔を国内に造り、他国へ仏教使節を派遣するなどして、その善い行いによって未だに尊敬されている珍しい王様です。

 そのアショカ王の子孫モーリヤ族の人々は、今もインドでアショカ王の徳を偲び布教と慈善活動に奉仕しています。善き人の教えは善き人々に理解され、語り継がれていくものだということを教えてくれています。


 
◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX 〇八四ー九六五ー〇六五二
□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集文責横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。
國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より

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