備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十六年正月] 第七号

 備後國分寺だより  

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


新連載紀行
ネパール巡礼・一


 一九九五年、この年は、阪神大震災のあった年である。この頃私はまだインド僧のひとりとして、四六時中黄色い袈裟をまとってインドと日本を往来していた。

 一月十七日、阪神地方に地震が襲い、丁度ペスト騒ぎでインドに戻りそびれた私は、その一週間後には被災地入りし、東灘区の本山南中学で避難民と共にひと月を過ごした。それから何度か再訪し、落ち着きを取り戻した神戸の町を後にして、七月中旬カルカッタのベンガル仏教会本部僧院で雨安居に入った。

 このときの安居の様子については既に、仏教の話(P105)「インドの僧院にて」に記した。

 そして、その安居開けを待つようにして私はある使命を帯びてお釈迦様生誕の地ルンビニーに巡礼することになった。

 十月十一日、お寺のアンバッサダー(インドの代表的国産車)に乗り込み、カルカッタの雑踏を縫うようにしてハウラー駅へ向かう。お祭りが終わったばかりでごった返す人、車、牛の群れ。結局途中渋滞して車では先に進めず、駅対岸のフェリーポートからフーグリー河を揺られ駅にたどり着く。

 黄色の布を身体に巻いた人々の波をかき分けつつホームへ。午後二時半発の列車に乗り込む。乗ってしまえば、明日の昼には目指すゴーラクプールに到着してしまう。

 インドで求めた物だけを所持し、南方仏教の袈裟をまとっているので、誰も日本人とは思わない。ホームで待っていても好奇な目で見る人もなく、物売りも物乞いも寄ってこない。以前のことを思えば拍子抜けするくらい。

 さりげなく、「タイ人かい?」などと聞かれる程度。拙いヒンディ語で受け答えしておけば、勝手にむこうがネパール人かブータン人と勘違いしてくれる。

 インドでの一人旅も慣れたものだ。初めてインドにやってきたときは、何も分からず、列車に乗って口にした物はバナナだけ。大きなナップザックを担いで自分の乗り込む列車と寝台を探すのに疲れ切り、二階の荷物棚のような寝台に横になって身をすくめていたものだった。

 翌朝、窓から前年まで一年間過ごしたベナレスの町を懐かしく眺めつつ、昼前には北にルンビニー、北東にはクシナガラへの巡礼ルートの基点となるゴーラクプール駅に到着。インドの列車にしては珍しくほぼ定刻に到着した。

 クシナガラはお釈迦様入滅の地。大般涅槃経にあるように、ヴェーサーリーからルンビニー方面に最後の旅を続け、息絶えた所。荼毘された塚が今も残されているという。が、残念ながら私はまだ行く機会に恵まれていない。

 駅前の簡易食堂で腹ごしらえ。二十九ルピーで、野菜のカレーとチャパティを数枚食べる。

 ところで、カルカッタからここゴーラクプールまで、約一千キロ、それで寝台席が二百八ルピー。一ルピーは当時約三円だったから、六百二十円ほど。エアコンの入った車両ではない庶民の乗る所ならこんな安上がりに旅が出来てしまう。新幹線などという高価な列車でしか不便で長距離の旅が出来ないというどこかの国とは大違いなのだ。

 ここからルンビニーには、中型の路線バスを使う。スノウリというネパール国境の町まで二時間程度の距離。沢山客待ちをしているバスの一つに乗り込む。調子よく乗客を座席に案内するもののなかなか走りださない。

 走ったかと思うと駅前からぐるりと元の所に戻ってきてさらに客を中に招き入れる。そんなことを小一時間繰り返しやっとゴーラクプール駅前を発車。田園風景を駆け抜けて国境の町スノウリへ。物々しく警官がたむろする通りでバスを降りる。二十五ルピー。

 そこからまっすぐ遮断機が下ろされたインドとネパール国境のゲートへ徒歩で向かう。手前インド側でパスポートを出し、手渡す。無言で指さされ、横の人一人が通れるくらいの扉から国境を越える。

 ネパール側に入ると小さな建物があり、窓口で、パスポートと十五ドルを差し出す。十五ドルはヴィザ代。係官らしき男が持ち物の検査。しきりにノック式のボールペンを欲しがるので進呈した。

 そこからまもなくの所にルンビニーへの入り口の町バイラワ行きのバスが待っていたので、乗り込む。気が付くともう既に夕刻。バスの窓から眺める国境の町は、二階建ての建物が数軒建ち並ぶ程度だが所狭しと人と物が行き交う交易の町。インド側の閑散とした風景とは好対照であった。

 バイラワに着くと辺りは暗くなりかけていた。下車したバス停の前に、窓に飛行機の写真が貼られた旅行社があった。ルンビニーの後カトマンドゥに行く予定のため立ち寄る。バスで行くと一昼夜かかる。山道のため体調を壊すことも考えられるし、出来れば飛行機に乗ってヒマラヤを拝みたいなどと考えて訪ねる。

 ヒンディ語はネパールでも通用する。ヒンディ語で話す私を留学生かと思ったらしい。ところがパスポートを見せると、年齢制限で外国人値段になってしまうと言う。そこでその時まだベナレスのサンスクリット大学の学生証を懐中していたことを思い出し見せると、所長と掛け合ってくれて、何とか学生値段五十四ドルで三日後のカトマンドゥ行きの航空券が買えた。

 その日はそこで紹介された宿シティゲストハウスへ。ネパールルピーで三百二十五ルピー。ネパールルピーはインドルピーの約半分の価値しかない。

 十月十三日早朝、小型バスとオートリキシャ(オートバイに座席を取り付けた三輪車)を乗り継ぎルンビニーへ。大きな荷物を抱えた人でバスもリキシャもすし詰めの状態。途中でタイヤがパンクしたり。やっとの思いでルンビニーに入る。

 ルンビニーには、お釈迦様がお生まれになる前にマヤ夫人が沐浴されたという池があり、お堂があると案内書にはある。が私が行ったときには、確かに池はあるが、そのお堂は全日本仏教会の手によって発掘調査が行われていて、黄色いシートで覆われて何も見ることが出来なかった。

 その池の前にはアショカ王がかつてお参りされたときの記念の石柱があり、その近くにネパールのお寺とチベットのお寺がある。私はカルカッタのバンテー(尊者という意味だがここでは私の師匠ダルマパル師のこと)の紹介により、ヴィマラナンダ長老を訪ねてネパール寺に向かった。

 お寺は石積みで床も大理石。内部にはお釈迦様の一代記が描かれている。ヴィマラナンダ長老は、六十歳くらいの方。床に額を着けて三礼し、カルカッタから来たこと、ルンビニープロジェクトの下見に来たことなどを告げると、別棟の巡礼宿に案内された。

 ルンビニープロジェクトとは、当時荒廃していたお釈迦様生誕の地を復興開発することを目的に、遺跡の保存と地域の開発を計る国際的プロジェクトである。

 このプロジェクト推進の為、一九七〇年ニューヨーク国連本部に、国際ルンビニー開発委員会がネパールを議長国としてインド、日本、アフガニスタン、タイ、ミャンマー、スリランカなど十三の国の代表により組織された。

 一九七八年には日本の建築家丹下健三氏による全体のマスタープランが合意され、マヤーデヴィ寺院を中心とした聖域の発掘整備、また、近隣に宿泊施設、僧院、研究所、博物館、文化センターを順次建設することが計画された。

 そして、この計画の中心となる僧院地区は、一九九三年より各仏教国が建設用地を取得。世界的にはその存在を忘れられがちなインド仏教徒の念願として、我がベンガル仏教会がインド仏教を代表して用地取得を申請した。

 そして、一九九四年三月カトマンドゥに於いて中国、スリランカ、インドのカトマンドゥ駐在大使立ち会いのもと、インターナショナル・モナスティック・ゾーンEC−九区(八〇メートル四方)の九十九年間の借地使用が正式に認可されたのであった。

 そして、私のその時の任務というのは、この肝心のルンビニープロジェクトがその後どの程度進展しているのかを現地に赴いてレポートし、その後カトマンドゥのルンビニー開発トラストのオフィスを訪ね、理事に面会し、初年度の借地料を払い、インドの僧院建設の予定を申し述べることであった。

 因みにこのときベンガル仏教会が計画した僧院は、その名をバーラティア・サンガーラーマ(インド僧院)と称し、インドを代表する仏塔であるサンチーのストゥーパを模した本堂を中心に、その周囲をアジャンター石窟寺院をモチーフした僧院が囲み、入り口ではインドの国章であるアショカ王柱が来訪者を迎えるという壮大なもの。建設予算も日本円で一億を超す破天荒な大事業であった。
                                             つづく


仏教の話
「供養ということ」

 仏様との関わりの中心となるものがこの供養ということではないでしょうか。ご先祖様の供養、身近に亡くなられた故人の供養。また、お寺にお参りして、ご本尊様を拝み、教えに触れるのも供養。お経を唱えたり、写経や坐禅もみな本来供養と言えるものなのです。

 私たちが仏壇などに花を手向け、灯明を灯して、線香を差し上げる。また仏飯とお茶湯を供え、塗香などを手に塗って身を清め手を合わせる。日常なしているこれらの行為は、六種の供養と言いまして供養の基本とされています。

 そもそも供養という言葉は、インドではプージャーといい、この言葉を中国で供養と訳したのです。

 プージャーと言いますと、インドでは神様仏様の前にお供えをし、お経やご真言を唱え祈ることをいいます。と同時にこの言葉には尊崇するというもう一つの大事な意味があり、心から敬い礼拝する、信じる、おまかせする、そういう気持ちを込めて供えられる行為が供養ということです。

 尊敬する気持ちがあるから沢山の品物を差し上げよう、自分もその方のようになりたいと思い教えを承ろう、お経をお唱えしようという気持ちになります。つまり供養とは、尊い方のみ心により近くありたいという思いを実現していく行為と言えるのかもしれません。

 昔カルカッタの僧院におりました頃、毎日のようにベンガル人仏教徒の家に昼食に招かれました。近年亡くなった方の命日に招かれたり、特に初七日の法事には五人以上のお坊さんを供養しなければいけないというきまりがあり、その中の一人として参加させてもらったことも度々ありました。

 そこでは、遺族はまずお坊さん方を礼拝し、長老から三帰五戒を授かり仏道に精進することを誓い、お経を聞いて教えに触れ、長老からの法話によって仏教を学び、それら儀礼が終わると朝早くから仕込んだ料理や布施を施して徳を積む。それら全ての功徳を亡くなった故人に手向け回向することによって、故人はより善い来世に転生すると信じられています。

 お坊さん方を供養することが先祖や故人を供養することになり、と同時に供養する人自身の功徳にもなると考えられています。

 私たちが今日先祖供養として行う仏壇やお墓にお供えをし、お経をあげたり、年忌法要をするのも、インドでなされる供養も同じ仏教徒の行いとして、当然のこと乍ら同じ意味合いがあると思われます。

 すなわち仏壇やお墓は、仏法僧に帰依した仏教徒の象徴として家の中心にあり、そこへお供えをして尊敬感謝の気持ちを表し、お経をあげて教えを学び、年忌法要は施しをする功徳とお経を聞いたり自らも唱えて仏教の教えに触れる善行の功徳を当該精霊に回向することに他なりません。

 つまり遺族がたくさんの善行を施し功徳ある行為を行って、その追善の功徳を、私たちの今ある命を頂戴したご先祖様をはじめとする諸精霊に、感謝の気持ちを込めて差し上げる、回向することがご先祖への供養ということになります。

 ところで、今年の夏も盆参りの助法に倉敷のお寺にまいりました。朝七時から夕方まで、一日に四十軒近いお宅をお参りしましたが、その中のある家でのこと。それは、数年前に奥さんを交通事故で亡くし独りわび住まいをしている六十五過ぎの男性の家でした。独り住まいとは思えない程きれいに片づき、四国の札所のお御影を額に飾っている部屋でお経を唱えました。

 お経が済むとご主人がお茶と菓子を運ばれ、いきさつをお話下さいました。奥さんは横断歩道ではない所を渡っていて制限時速の倍のスピードで走ってきたバイクにはねられたこと。そのバイクを運転していたのは二十歳の医大生で、事故の後大学を辞め慰謝料を払うために働くと言い出した。

 だが、ご主人が押しとどめ、「あなたが勉学を続け、社会の役に立ってくれることが家内の何よりの供養になる」と話されたとのことでした。その後その学生さんは勉強を続け医者の道に進み、毎年命日と盆暮れには必ず仏壇に線香を手向け、近況を報告に来てくれるのだと話されました。

 訥々と話すこのご主人の口にされた「何よりの供養」とは、奥さんを死に至らしめた事故によって、たとえその学生さんに大きな過失はあったにせよ、将来多くの人に幸せをもたらしてくれるであろう医大生の人生を狂わせてしまうことよりも、逆に、そうして多くの人が善くあるようにと導いてあげること、仏教的に言えば慈悲を実践することは、正に奥さんの死を無駄にすることなく、それは仏様を供養することになると思われたのでありましょう。

 供養とは何か。冒頭に述べた六種の供養に代表される物品を供え尊敬や帰依、感謝や報恩などの念を表す供養の先に、お経を聞いたり唱えたり書写したり。さらには自ら教えを学び実践する功徳をお供えする供養があるということなのです。

 私たちが日頃お唱えする勤行次第にあるように懺悔帰依の心を起こし、十善の教えに基づいて、心落ち着いた生活を送ること。そして善いことをしたらその功徳によってみんなが幸せでありますようにと願うことこそが大切なことです。

 私たちにとって、この供養ということを最高のレベルにおいてなされたお方は言うまでもなくお釈迦様であり、お大師様ではないでしょうか。私たちに出来ることはそれら大先達の生き様を慕い、その教えを生きることに他なりません。

 日々、お釈迦様やお大師様のさとりの心に一歩でも近づけるように教えを学び、その実践として生きとし生けるものの幸せを願い助けてあげることが私たちに出来る最高の供養なのではないかと思います。
(これはお盆の結衆行事万灯会において各寺にて法話した内容に加筆したものです)


読者からのおたより  
『菅茶山と國分寺お上人』
   

 十一月一日、神辺小学校で行われた「ふれあい集会」に参加しました。
今回は、この度同校で創作されたミュージカルを鑑賞しました。

 このミュージカルは、「菅茶山ポエム・花と蝶のファンタジー」と題して、郷土の誇り菅茶山の詩をテーマにしたもので、全校児童が出演する熱のこもったすばらしいミュージカルでした。

 驚いたことに、このミュージカルには、菅茶山と國分寺の上人が登場し、上人が花の種を求めるために喜捨を求めて歩く場面や、茶山とともに蝶を追い、花を愛で、酒を酌み交わし、詩を語り合う二人の心の交流を軸に筋立てされていました。

 ところで、國分寺の山門前に、菅茶山の歌碑が建てられています。昭和六十一年秋、故北川勇氏の揮毫により建立されたもので、碑の裏面には、

「如実上人を訪ひ侍りし日庭の草花盛りなりしかば」とあり、表に

「訪ひ寄れば袖も色濃くなりにけり 籬の露の萩の花摺り」 晋帥

の和歌が刻まれています。

 如実上人は、元禄再建より四代目の住職で、菅茶山や西山拙斎らと特に親交があり、文人墨客らとともに國分寺で歌会を度々催していました。

 次のような詩も残されています。

 上人好事花の為に顛す
 唯名花を愛して銭を愛せず
 是れ年々奇種を購はんが為に
 山を下って時に乞う衆生の縁

(上人は好事家で花ときたら真っ逆さまになる。唯立派な花を愛して金銭にはとんと愛着がない。だから、毎年花の奇種を購うために、山門から下りてきて衆生に時々銭を乞われる)
注=拙斎と茶山のふたりによる聯句
     〜「茶山詩五百首」より

 このミュージカルは、このあたりを下敷きにして創作されたものと思われます。
 それにしても、子供たちのミュージカルに、このようなエピソードが登場するのはうれしいことです。
(B)


お釈迦様の言葉-六

真実を語り、怒らず
わずかなるものにても請わるれば与う。
この三事によりて天界に赴かん。
(法句経第二二四)

 お釈迦様のお生まれになった釈迦族の人々は、決して嘘をつかなかったと言われています。その為ふつう出家する際には見習い僧として半年は僧院で暮らす必要がありましたが、釈迦族出身の志願者はすぐに正式な僧としての儀礼を受けられたということです。

 真実を語るということは仏教では誠に重要視されていまして、不妄語戒として戒律にあるばかりではなくて、真実を受け入れないということはその人の修行の妨げになると考えられているのです。

 戒を守り、他に施しをするなど徳を積むことで来世には天界に生まれるとおっしゃられたお釈迦様ですが、この偈文は、その戒の中でも特に真実を語ること、怒らないことを重視しておられた、ないしはこの二つこそ守るのが難しいものだと教えて下さっているのかもしれません。

 天界は、つまり極楽は喜びに充ちた世界。快いこと楽しいことが生きる糧となります。ですが、そのままそこにとどまることは出来ません。また人間界に戻り、さらに修行を重ね仏界に行かねばならないと教えられています。

 
=お話会の日にちが変わりました=
 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
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□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集文責横山全雄
□お葬式・法事はまず檀那寺へ連絡を、葬儀社等はその後。
□境内の奉納のぼりは傷みが激しいため、二年を経過した
ものから順次取り替えさせていただきます。
國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より
 

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