備後國分寺だより


備後國分寺寺報 [
平成十八年正月号] 第13号
(平成18年1月1日発行)

 
備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


     平成十七年十月七日開催
   歩こう会の皆様への法話と実践

 本日は、数あるお寺の中から特にこの國分寺にお参り下さいまして、誠に有り難う御座います。國分寺については先祖代々この國分寺を護持して下さっているB先生から懇ろなお話があったことと思いますので、私からは何も申し上げません。

 私は六年ほど前にこちらに来たばかりでありまして、お寺に生まれたわけでもありませんから、至ってもの知らずですが、幸いなことにこの二十五年ばかりお釈迦様一筋に生きて参りましたので、今日は、その辺のお話を少しさせていただこうかと思っています。

 こちらの本尊様は、お薬師さまです。本堂の外には「医王閣」と扁額にありまして、医王とはお薬師さまのことですが、元々医王と言いますとお釈迦様を意味していました。お釈迦様の教えは、当時の医者の診断処方の仕方と同じであった、またどんな人が行ってもたちどころにその病んだ心が癒えてしまう。そんなところから医王と、医者の中の医者であると言われたわけです。

 それで、そのお釈迦様のお徳のその部分だけを取りだして、お姿に薬壺を乗せた仏が薬師如来ということになっています。ですから、仏教辞書などには、薬師如来は釈迦如来の別名とあります。まあ、そんなことはどうでもいいことですが、お薬師さまはお釈迦様と同体であるということで、こんな私にもご縁があったのではないかと思ったりしています。

 ところで、このご本尊様はお厨子に入ったままで、秘仏ということになっています。日本では特に美しい仏像を見るためにお寺にお参りしたり、わざわざ博物館にまで行ったりします。それなのに、結構多くのお寺が秘仏として扉を閉めています。なぜ秘仏なので
しょうか。

 それは、仏様というのは形じゃないよ、ということだそうです。お釈迦様が亡くなって五百年間は仏像はなかったのですし、それまでは、彫刻などに菩提樹や仏足跡、法輪などを刻んでお釈迦様を表現していました。本来形に表すのはとても不遜なこと、とうてい表現できるようなものではないはずのものだからです。

 大切なのは仏さんの心だよ、ということなのでしょう。皆さん長年学校の先生を為されていれば、もう随分前から「心の時代」と叫ばれてきたことをご存知のはずです。ですが、いかがでしょうか。いまだに私たちは物や情報に振り回され、心よりも物や身体に重きを置いてはいないでしょうか。最新式の電気製品、携帯、また健康志向とでも言うのでしょうか、エステやスパとかよく分からないものが流行って、人々を虜にしています。

 ところで皆さんの家には仏壇があると思うのですが、仏壇があるということは、皆さんは仏教徒ということになると思うのですが、仏教徒という意識がありますか? おそらくしっかりとしたそういう気持ちを持ちあわせていないのではないかと思います。仏教徒の条件といいますか、資格というのは三宝帰依ということなのですが、勤行次第などでは「帰依仏帰依法帰依僧」と読んでいるわけですけれど、心から帰依しているかと問われれば、それも確かではない。そんなものですよね。本当は帰依するためには、それら三宝について少しは知っていなければ帰依する気持ちにもなれないはずなのです。

 つまり私たちはまったく仏教といいますか、宗教について関心が無くなっている、そう言えるのではないでしょうか。それはなぜか。皆さんのせいではありません。

 それは江戸時代、信仰するしないにかかわらず、誰もが強制的にどこかのお寺の檀家にならねばならなかった。そうしなければ死んだ時葬式もあげられなかったんです。檀那寺の住職が「この人はうちの檀徒です。間違いなくキリシタンなんかじゃありません」と、証明してくれなければ引導も渡してもらえなかった、そういう時代がありました。

 それから、明治時代になれば、今度は神道が国の教えになってしまって、みんな神様に手を合わさねばならなくなった。そして戦後はと言えば、今度はクリスマスにバレンタインで、みんな頭がおかしなことになってしまった。宗教観なんか無くなってもしかたない時代と言えるのではないでしょうか。

 ですが、それでもみんな戒名をいただかれてあの世に行く。そうですよね。戒名って何ですか?どうして戒名を付けるんですか? と問われても、はっきりしたことを誰もご存じない。戒名をつけるのは、死後みんなあらためて戒律を授けてもらって出家して、覚りという最高の幸せを求めて来世に旅立ってもらうということだと私は考えています。ですが、来世にどこに行って修行するかはやっぱり亡くなるときの心が大切になるんです。

 やはり形ではなく、心が大切なんです。法句経という古い経典があります。皆さんご存知でしょうか、一九五一年のサンフランシスコでの対日平和条約締結時に、スリランカの代表が賠償権放棄の演説に引用した、「怨みは怨みによって鎮まること無し、怨みを捨ててこそ怨みは止む、これは世の中の変わらぬ真理である」という偈文でも有名なお経です。

 その法句経の第一章の第一偈に、「ものごとは心より起こり、心を主とし、心よりなる。もし汚れた心をもって語り行うときは苦しみがこれにしたがう、車を引く牛に車輪が従うが如し」とあります。

 しかしそう言われてもそれがどのようなことを意味しているのかが分からないものです。まあ、そんなものかなぁという程度かもしれません。

 たとえば、遠くにある電話が鳴り立ち上がるとき、私たちはあっ電話だ、と思った途端に足が動き歩き出しています。
 しかし、本当は、その一瞬の中に意識していなくても、電話の音を耳が聞き、それを電話の音だと知り、出なくてはいけないと判断し、受話器を取るために身体を運ぶために足を動かすという過程を経ているはずです。つまり、行動の初めにはきちんと心が先行しているということなのです。

 しかしそんなことをいちいち私たちは意識することはありません。ですが、その為に急いで足の臑をどこかにぶつけてみたり。つまり身体の動きをきちんと意識して自分で制御していないということになります。
 そして、身体の動きを心が制することも出来ないのですから、何かを目にしたり聞いたり思い出したりして現れる欲や怒りの心にも私たちは気づくことなく、それらに振り回されてしまうことになるのです。

 ところで皆さんは、かつて生徒たちに、強い心を持たなければいけない、なんていうことを言われたことはないでしょうか。勉強をしなさい、横道に逸れないように強い心で立ち向かいなさい、などと言われたことはないでしょうか。ですが、その強い心とはどのような心かとお考えになったことがあるでしょうか。

 また、私たちには誰でも、そりが合わない人というのがいるものです。他の人なら気にならないのに、その人が挨拶でもしなかったら、何だ、と思う。なんだか自分のことをのけ者にしているのではないか、無視しているのではないか、次々に妄想が膨らみます。それは怒りであり、欲かもしれません。とにかく考えたくなくても考えてしまう。それが人間です。

 人間は考える葦である、などと言いまして、考えることは良いことだと思っていますが、仏教では、それはただ汚れた心のまま勝手な妄想を作っているとしか見ません。それは弱い心であり、煩悩に占領されている状態なのです。

 その状態を脱するためには、自らの心を細かく知り、妄想思念が沸いてきたらそれを遮断しなければならない、それを、仏教では念・サティと言います。今読んだ般若心経にも含まれている教えです。

 そして、先ほど強い心とは何かと申しましたが、この自らの心をきちんと観察し様々な思いを断ち切ることができてこそ、はじめて強い心だということになるのではないでしょうか。では、この念の力、自らの心を把握する力を強くするにはどうしたらいいのでしょうか。

 そこで、仏教では教えだけではダメですよ、実践が大切ですと、こう言うわけです。
 歩く瞑想というのがあります。私は、このただ歩いていることを意識しているだけのこの瞑想のやり方をもう随分前に二十年ばかり前に知っていました。しかしその意味するところ、その大切さを知ったのはある在日スリランカ長老に聞法してからですから、まだ十年ばかりのことです。

 こう歩くときに「右足が上がります」「運びます」「下ろします」と心で言ってから動かしていくわけです。身体の動きを心できちんと制御することを学びます。

 そして坐る瞑想では、心の動きや身体の感覚などもきちんと自らの心で把握し制御することを学ぶわけです。呼吸するときに膨らむ腹の動きに、「膨らみます」「へこみます」と心の中で言いながら坐ります。何かの音に心がいったら「音」「音」と。何か思い出したら「記憶」「記憶」。身体が熱く感じたら、「暑さ」「暑さ」。各々心が移ったことを知り、言葉でそのことを確認し、また腹の動きに心を戻します。

 目を閉じ座るとき、思ってもいなかったような様々なものが心に出て参ります。正に妄想思考記憶の類が押し寄せて参ります。それらをきちんと知る、知って断ちきることを学ぶのです。そうして瞑想を重ね、日常にもそのことを意識しつつ実践していますと、自分の心がきちんと分かり、とても冷静で落ち着いた心でいることができます。

 また、こうした瞑想の前には、私たちがおかれている今ここにあることの恵みに気づき、自分が良くあるためには身の回りの人たちが良くあらねばならず、またそのためには全ての生きとし生けるものも良くあらねばならない。自分も含めそれら全てが幸せであって欲しいという気持ちを表すために慈悲の瞑想をいたします。

 それでは少し坐ってみましょう。足は片足股の上に置き、背筋を伸ばし手は腹の前に置いて軽く目を閉じ、全身の力を抜いて下さい。そして、深呼吸をした後、一文ずつ唱えますから、一緒に念じてみて下さい。

(慈悲の瞑想実習 十分。國分寺だより第十号Nさんへの手紙参照)

 いかがでしたでしょうか、少しは仏教の世界を身近に感じ取っていただけたでしょうか。おそらくこれまで皆さんが思っていた仏教とは違う仏教だなぁ、と思われたかもしれません。少しでも興味を感じていただけましたなら有り難く思います。

 ところで皆さん、それぞれに人生のテーマをお持ちだと思うのですが、これから何か新しいことにチャレンジしてみようとお思いの方がありましたら、是非仏教を研究してみて欲しいと思います。仏教は素晴らしい教えです。
 それでは今日の私の話を終わります。また機会がありましたらお話をさせていただきます。ありがとうございました。           (全)


 放下ということ


 放下(ほうげ)とは捨てるということ。思い計らいを捨てる。ものたりない、おもしろくない、つまらない、そんな心を捨ててしまえということだ。禅の言葉であり、茶道でもよく使われたりする。

 チベットの仏教では、在家の人たちでも五体投地礼をする。両膝両肘それに額を地につけてする礼拝を五体投地というが、彼らは身体全てを地に投げ出してベタッと地に伏せてしまう礼拝をする。その場合の礼拝とは、それこそ自分のすべてを仏様に投げ出し捨ててしまうことを意味している。

 チベットの人たちは、そうした礼拝を法要などでお坊さんたちが本堂で読経している間中、外で繰り返したりする。それを何万回も繰り返す行もあるという。カイラスだったか聖なる山を巡礼するときには、そのすべての行程をその五体投地礼によって、つま先から腕を伸ばした指先までを一回の礼拝として前進しつつ巡る人たちもある。

 高野山で私たちがした礼拝行は、四度加行の初期に二週間ほど、一日三座の行の前に百八礼するというもの。その場合はチベットのような礼拝ではなく、樒の枝を持って両膝両肘と額を床に着け礼拝する。

 天台宗の比叡山延暦寺では、好相行と言って、一日中礼拝する行があり、それを何日も続けて仏の姿が立ち現れるまでするらしい。三ヶ月も四ヶ月もかかる人があると、何かの本に書いてあったのを記憶している。大変な修行をしている。

 この放下というのは礼拝行に限らず、念仏ということの根本にある心でもある。すべての思い計らいを阿弥陀さまにあずけてしまうということ。だからこそ阿弥陀さまの功徳力によって弥陀の浄土に往生する。法然さん親鸞さんの念仏には、己に対するものすごい自己内省のもとに、己を捨てる、つまりこの放下という心境にいたって初めて信心が確立するというものであろう。

 ここに今日沢山の御祈願をいただき焚いた護摩の修行も、皆さんの思い願いを本尊様お薬師さまにすべておあずけする、火の中にすべての思いを焼いて手放してしまうことによって、心の中に何もないすがすがしい心、何のわだかりもない清らかさを得てもらうものではないかと私は思っている。
(これは月例護摩供後の法話に加筆したものです)         (全)



 ネパール巡礼・七
(1995.10.11~10.26~)

 十月二十六日、一週間お世話になったサールナート法輪精舎の後藤師に別れを告げた。「カルカッタのバンテーによろしく言って下さい」と言われたのだったか。とにかく余り別れに執拗にものを言われない方なので、あっさりしたものだったことを記憶している。それは居なくなった後の寂しさをよく知っているからなのだろう。

 お寺で部屋の片付けをしているとクリシュナさんがやってきて、オートバイで駅まで送ってくれるという。ベナレスから東に十七キロほどの所にあるムガール・サライという幹線列車の発着駅に向かう。

 この一年半前、サールナートのこの法輪精舎で過ごし、大学に通ったり、お寺の無料中学が発足したり、出入りするインドの少年達と付き合い、また後藤師と暮らした一年間に一応のピリオドを付けて日本に帰ろうというとき、その時もクリシュナさんが駅まで送ってくれたことを思い出す。

 ただその時は路線バスでであった。ムガール・サライ発カルカッタ、ハウラー駅行きの列車に乗るべく二時間前にお寺を後にしたのだが、バスでまずベナレスに出て、ムガール・サライ行きの別のバスに乗り換えたあたりから車が混み出し、車線も描かれていない道路なので後ろの車が右車線から前に出て、対向車もまた左に出てしまい双方がにらみ合う、インドではよく目にする最悪の事態になってしまった。そして、とうとう止まってしまって動かなくなってから警察官が来たが、どうともしようがない。

 そこでバスを降りて、脇を通り過ぎていくオートバイを止めて、後部座席に私だけ乗せてもらい先に進んだ。ところが、駅の手前でそのオートバイも行き先が違うとのことで降ろされ、近くにいたオートリキシャに乗り継ぎ何とか発車十分前にホームに駆け込み、予約した座席を探し、乗り込むことが出来た。ゆるゆると列車が動き出した頃、やっとクリシュナさんが窓の前までやってきて手を振ったことを思い出す。しかし、この時は初めからオートバイだったので、何の心配もなく時間通りに駅に辿り着いた。

 二等寝台で夜を過ごし、翌朝早くに到着。カルカッタの玄関駅ハウラー駅では両手に荷物を抱えているのに、ちっとも私にはクリーやタクシーの呼び込みが寄ってこない。大きな麻袋を二つ両手に持って頭陀袋を肩に掛け黄色い袈裟をまとった、見るからに貧乏な坊さんといった風体なのだから仕方がない。いつものように地下を通りフェリー乗り場に。朝の涼しげな風を額に感じつつ薄茶色のフーグリー河を眺める。周りはきちんとシャツを着込んだ人が多い。カルカッタの中心部ダルハウジー広場周辺で働くビジネスマンだろうか。

 歩いてベンガル仏教会本部僧院に向かう。時折しも安居開けの一大イベント、カティナ・ダーナの期間中ということもあり、寺内は騒然としていた。そんな中、早速総長ダルマパル・バンテーの部屋を訪ね、ルンビニーの建設現場の様子、カトマンドゥのルンビニー開発トラスト事務所でのこと、またサールナートの法輪精舎の学校運営状況などを報告し、預かったベンガル仏教会のお金の精算書を提出し、決済を受けた。

 私自身は、ルンビニーの個々のお寺の建設はさておき、全体計画の遅々とも進まない進捗状況に疑問を持っていたが、バンテーはただルンビニーに伽藍を建設するのに日本の縁故者たちがこの度も何とかしてくれるはずだという信念をもっておられるようだった。

 ルンビニーに行くときからうすうす予感してはいたのだが、バンテーは「私の代わりに日本に行って、お釈迦様の生誕地ルンビニーにベンガル仏教会がインドを代表して伽藍を作る計画に、是非寄付してくれるように話をするため縁故者たちの所へ行くように」と命じられた。

 それからは毎日のように顔を合わせればルンビニーの話だった。「この伽藍が完成したならば、お前はお釈迦様に祝福されて大変な功徳を手にするだろう」という話や、寄付をお願いする人たちのリストを何度も書き換えてはその人たちとの交際について話された。また、忙しい行事の合間に、建設予定の伽藍を設計した設計士事務所まで私を連れて行き、建設費用の詳細を詰めたり、「日本の兄弟達に向けて」と題する英訳の寄附勧進の嘆願書を作られた、さらには、代理として寄付を募る私を紹介する文章まで用意された。

 その年の暮れ帰国した私は、英文の寄付嘆願書やバンテーの履歴書、設計の概要、建設費用の概算表を一応和訳しワープロ打ちして、バンテーが言われた日本の縁故者一人一人に連絡し、会える人には会い寄付をお願いした。

 ある宗派の本山に出向いたり、若かりし日にインドに留学していた学僧に面会するために、ある大学の学長室にまでお訪ねしたこともあった。また、お会いできず電話で詳細を申し上げて意向を伺った方もあった。しかしながら、残念なことに時すでにバブルがはじけ景気の後退期にあり、総額二億円を超える寄付額の大きさに誰もが驚き、前向きの返事を返してくれる人はいなかった。またバンテー自身も高齢になり、ルンビニーがカルカッタから遙か遠くに位置するということも寄付に前向きになれない一因であった。

 三ヶ月ほど寄付勧誘に明け暮れた末、この度の寄付嘆願に対する一人一人の反応返答を記した上で、残念ながらこの度は日本からの寄付は期待できないとする結論を英文の手紙にしたため、この仕事の一応の締めくくりとさせていただいた。

 その後バンテーは台湾の仏教界と接触し、そこから寄付を引き出されることをお考えになった時期もあったようだが、結局この計画は完遂することなく沙汰止みとなり、借りた土地も返却することになった。

 その年、カルカッタに伺った際には、一切このルンビニーの話をバンテーはなさらなかった。もう別のことに関心が移ったということだったのか、もう私には期待しないということだったのかはよく分からない。いずれにせよ、その時は別に建設が進んでいたラージギールの寺院のことに関心が集中していたようだ。

 そしてこの時、南方の上座部で受戒して三年が経っていた私は、カルカッタにいて二度マラリヤに罹りこのまま過ごす難しさを思い、また日本に滞在する間の戒律を守れないもどかしさもあって、捨戒(上座部の戒律を捨て黄衣を脱ぐこと)することに踏み切った。

 こう考えさせられたきっかけは、東京で外出しているとき、何度かミャンマー人やタイ人から道端で突然跪かれ、お布施を頂戴したことにあった。十分に戒律を守れず、かつ修道生活を送っている訳でもない自分が、わざわざ不法就労してまで日本に来ている人からお布施を賜る居心地の悪さを感じたからであった。

 さらにはそれが契機となり、自分はやはり日本人なのにこんな格好で気取っていて良いのか、という気持ちをもつようにもなっていた。何か日本ですべき事があるのではないか。私のような紆余曲折をしたればこそ役に立つこともあろう、とも思えた。今思えば、その選択は年齢からしてその時が限界だったのかもしれない。御陰様で今日があるのだと思う。

 それはともかくとして、ルンビニーのその後について一言しておこう。私が訪問したとき解体調査中であったマヤ夫人堂(写真左)は、日本仏教会による調査が済み、きれいに復元再建された。建設途中だったベトナム僧院(写真下)は三重の鳥居風の門に重層の本堂がある立派な寺院となった。また中国寺ではまるで東大寺大仏殿のような本堂が完成している。日本山妙法寺でも立派な世界平和パゴダ(写真前頁)と僧院が出来上がった。

 しかし、やはり全体的にはまだ広大な計画の半分も済んでいないのではないだろうか。ネパールは現在、王室の悲惨な事件や国王によるクーデター等で政治的混乱状態にあり、益々ルンビニー開発計画は停滞を余儀なくされそうである。

 ともあれ、こうしてネパールにおいて南方上座部の比丘なればこそ出来た貴重な体験をここに綴ることができた。記憶が薄れ思い出せなくなる前に書き残すことができたことに安堵している。他国の仏教徒の行状から、読んで下さった皆様が何かしら学ぶべきものがあったと念じたい。 終  (全)



 四国遍路行記@     プロローグ  

 四国を歩いて遍路したときの話をしようと思う。しかしその前にしばしインドにバックパッカーしたときのことを話さねばならない。なぜなら私が本気で四国を歩こうと思ったのはインドのリシケシ(ヨーガの聖地)に居るときだったから。高野山を降りて二年目(十六年前)にインドへ行った。インドへ行かねば仏教は分からない、そんな強迫観念にも似たものを感じていた。

 何の予備知識も持たずに行った五月の熱いインドで、カルカッタ、ブッダガヤを経由して逃げ込むかのようにリシケシまでたどり着いた。そして、冷たいガンジス河の水に火照った身体をつけていたとき、どこからともなく一人の雲水が目の前に現れた。臨済宗で修行する信玄師であった。

 信玄師は、私より十ばかり年長で、普段は伊豆の小庵に住み托鉢をして暮らしておられた。その師匠は昭和の白隠さんと言われ、時の首相のご意見番でもあられた山本玄峰老師のお弟子さんで、信玄師はその孫弟子に当たっていた。

 玄峰老師は、幼少の頃目を悪くされ、一人歩いて四国を遍路する途上、高知の雪渓寺で倒れられ、そのままお坊さんになられた。それが為に、後に白隠禅師開山の三島の龍澤寺を中興されたり、臨済宗の妙心寺派の管長になられるなど影響力のある方が四国を歩かれて坊さんになられた。また隠居されてからも歩かれたとあっては臨済宗の坊さんたちは四国を歩くことが一つのステイタスとなり、一周歩けばそれだけよく坐禅ができるようになると言われているとのことだった。

 そんな話を聞いてから、真言宗なのだから当然歩いたのでしょうね、と問われたとき、何とも困ったことになり、これから歩く予定だとでも言ってしまったのだったと記憶している。そして、それならと色々と四国の歩き方をインドのリシケシでガンジス河を眺めながら毎日聞くことになった。

 靴はいけない、歩いていると夕方には足が膨らむので草鞋がいい、それもわらはすぐ擦れるからビニールの太い荷造り紐で編むとか、それも二足の草鞋と言うけど四国も二足で歩けるのだとか。なるべく荷物は少なく、寝袋と下着くらいにすること。下着も褌だけでいいとか。荷物は一つではなく二つにまとめて前と後ろに分散するのだとか。傘はいらない、ポンチョのようなものがいいとか。とにかくその話は誠に合理的で実際四国に行ったとき大変役に立った。

 そしてその三ヶ月後、インドから戻ると、私は早速伊豆の信玄師の庵をお訪ねした。信玄師の庵には小さいながら、囲炉裏が切ってあり、抹茶をご馳走になった。外には露天風呂があって、入りながら相模湾が見渡せる贅沢なロケーションでもあった。早速草鞋の編み方を習い、それを履いて一緒に西伊豆の町々を托鉢に歩いたのだった。 つづく (全)


大法輪十一月号特集
これでわかる仏教の基礎
第二部 仏教の信仰と実践 掲載

 善と悪 
  十善と十不善


 私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのでしょうか。私たちは何をたよりに生きたらいいのでしょうか。

 法句経という古いお経に、「善きことをなせる者は、この世にても喜び、死後にも喜び、何れにても喜ぶ。われ善きことをなせりとて喜び、天界に達してさらに喜ぶ(十八偈)」「悪しきことをなして果報の生ぜざるうちは、愚者は蜜のごとき思いをなせども、悪の果報生ずるときは、苦悩をうく(六十九偈)」とあります。

 なされた行いの果報が喜ばしいものであることが現世にも来世にも及ぶ功徳ある行為を善きことと仏教では言います。過去の行いが結果して目先の利益、損得に振り回されてある行為に及び、当座少しばかりのいい思いをしても、友を失い良識ある世間の非難を浴びて苦しむような行為はもとより悪行であるとされます。

 この三世にわたる因果応報をもたらす行いについて、お釈迦様が具体的に諭された教えが十善と十不善です。

 《十不善》

 まず、十不善とは、身で行う殺生(生き物を殺す)・偸盗(盗み心をもって盗る)・邪淫(他人の妻を犯すなど様々な欲に対する邪な行い)と、

 口で行う妄語(故意に偽りを語る)・綺語(不確かな根拠のない無意味な言葉)・悪口(怒りを伴った粗暴な言葉)・両舌(他の両者を離反させる言葉)と、

 意で行う慳貪(他人の財産や必需品に対する貪りの心)・瞋恚(怒りを伴う邪悪な思い)・邪見(善悪の行為に果報がない、来世はない、両親への孝行には果報がない、一切知者である覚者は存在しない、など誤った見解を持つ)を言います。

 《十善》

 この十不善の正反対に位置する行いが、十善です。身で行う不殺生・不偸盗・不邪淫と、口で行う不妄語・不綺語・不悪口・不両舌と、意で行う不慳貪・不瞋恚・不邪見となります。

 これらは、十善戒として教えられることもありますが、決して何か悪事をしなければ良いという意味合いのものではありません。十善業道とも言われ、悪を止め、善い生き方とはこういう事ですと諭し、奨励する教えです。

 たとえば不殺生は、生き物を殺すべからずということですが、これは殺さなければいいということではなくて、殺生の正反対にあたる慈愛の心をもって、生き物を慈しみ育むことを教えるものです。

 不偸盗は、盗みをしなければ良いというのではなくて、執着を捨て自分のものを他に分かち与え、施すことであり、その喜びを教えるものです。

 不邪淫は、邪なる姦淫をしなければ良いというのではなくて、貞潔な身の清らかな生活による静謐な幸せを教えるものです。

 不妄語は嘘を言わなければいいということではなしに、正直な心を養い真実を語るべきことを教えるものです。

 不綺語以下も同様に、相手の気持ちを尊重し相応しいときに必要なこと確かなこと誤りのないことを語る。

 不悪口とは、愛情に満ちて多くの人に愛され喜ばれるような言葉を語ること。

 不両舌とは、和合友好を楽しみ喜び、離反している者たちを調停し融和している者たちを助長することです。

 不慳貪は、他人の繁栄を喜び、今あるものを大切に、足ることを知り、簡便な生活による安らぎを知ること。

 不瞋恚は、おのれに害を与える者に対しても憎しみを抱かず、誰に対しても慈しみの心を持って接し、冷静であること。

 不邪見は、因果道理をわきまえ、ものごとをありのままに見ることです。

 十不善を止め、十善を修めることによって、私たちは何も憂いることのない平安と喜び、来世にまで及ぶ安楽を手にすることが出来ます。十善は、お釈迦様が私たち人類に与えてくれた、間違わずに生きる人生の指針とも言える教えなのです。


 慈悲の心と実践
  四無量心と四摂法


 私たちは誰もが幸せでありたいと願います。競争社会にあっては、他を押しのけてさえ幸せをつかみたいと思うことでしょう。しかし、たとえ幸せへの鍵だと思った場所に至ってみても、そこで味わう幸せは一瞬のものにすぎず、さらに過酷な競争の渦の中にあることに気づかされます。私たちは一人で生きることは出来ません。一人だけの幸せも成り立たないことを知らねばなりません。

 お釈迦様は、「人はおのれより愛しいものを見いだすことを得ない。同様にすべて他の人々も自己はこの上なく愛しい。されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ(相応部三.八)」「人は他の者を欺くなかれ、どのような場合でも他を軽んずるなかれ、身や口の害、怒りの心をもって互いに他の苦しみを望むなかれ。一切世間の上に、上にも下にも、また四方にも、うらみなく、敵意なく、ただ無量の慈しみの心をそそげ(経集一.八)」などとお説きになり、慈悲の心の大切さを教えられました。

 《四無量心》

 慈悲の心は、正確には、慈・悲・喜・捨という他の生命に対する四つの心の姿勢として教えられています。そして、この四つの心を無限に広げていく修習を四無量心と言います。

 慈無量心は、他のものたちと敵対するのではなく友情の気持ちをもち、怒りではなく友愛の情をもって良くあって欲しいと思う心です。自分と他のすべての生命、つまり愛する者も無関係にある者もまた敵対している者も、同じ命であるとのやさしい慈しみの心で、それらが幸せでありますようにと念じます。

 悲無量心は、他者の悩み苦しみに際し傍観したりもの惜しみすることなく、同情し苦しみを除いてあげたいと思う心です。すべての生命の悩み苦しみが無くなりますようにと念じます。

 喜無量心は、他者の幸せに嫉妬することなく、共に喜ぶ心です。すべての生命たちの幸せに共感し喜び、ともに幸せを喜び合えますようにと念じます。

 捨無量心は、他者に対して平素恨みや愛著の念をいだくことなく平静なる無関心の態度でいる心です。生きとし生けるものを好き嫌いなく、みな一つのいのちとして平等であると見て、いつも心が冷静平安でありますようにと念じます。

 これら四つの心をまずは自分に向け、次に愛する者や親しい人々に、そして生きとし生けるもの、さらには敵対する人にも念じ、無限に広げていきます。自らの楽を欲し苦を厭い喜びの心を抱き冷静なる心を保つことにより、自己を証人として自らに対して欲する如くに他のすべての者にもその同様な利益と楽を願い念じます。

 これら四無量心を日々実践することによって、様々な不安、焦燥、煩悶などに悩まされることなく、淡々と一日一日を生きることが出来るようになります。さらに、人としての最勝の生き方をする者として、人々からだけでなく神々からも愛されると教えられています。

 《四摂法》

 そして、世間の人々が良い関係を保つための、身近な人たちとの実際的な接し方として四摂法の教えがあります。四摂法とは、布施・愛語・利行・同事の四つで、

 布施は、もの惜しみせず、自分の才能技術やものなどを人に与える。

 愛語は、自分の言いたいことを自分勝手に話すのではなく、相手が喜ぶことを慈愛あるきれいな話し方で話す。

 利行は、自分の都合利益を優先することなく、周りの人たちのためになる役に立つことをする。

 同事は、自他、内外の区別や上下意識を持つことなく、みんな平等であるとの意識をもって人と接することです。

 私たちは相手や他の者たちのためと思いつつおこなったり話すことが、結局は身勝手な自分のためであったということをしがちです。ですが、それを自覚しつつ自らの心に正直に、この四摂法を日々心がけ実践することで、人間関係での様々な問題が解消することでしょう。そして、人の心を引きつけ慕われて、尊敬と供養が得られると教えられています。                        (全)


読者からのおたより 
 
『稲盛さんの
   生き様に学ぶ』


 十月十六日、NHK教育テレビで、「心の時代」を見た。その日は、世界の京セラを創立した稲盛和夫さんの話だった。

 堺屋太一さんによれば、現代の日本のリーダーには二つのタイプがあり、一つは一流大学を卒業後順調に出世街道を歩いた人。もう一つは努力と才能と幸運によって苦境を乗り越え大成功を遂げた波瀾万丈型のリーダーであるという。稲盛さんは、後者の代表格松下幸之助氏や本田宗一郎氏に次ぐ人であるという。

 稲盛さんは、鹿児島県に七人兄弟の次男として生まれ、小さい頃父親に連れられよくお寺に行き、その時住職さんから「何万何万ありがとう神様ごめん」という言葉を教わったそうだ。それを今でも毎日唱えていると言うが、戦前父親は印刷業をし、戦後は紙袋を作って、それを子供の稲盛さんが闇市や商売人に売り歩いたという。そうした苦労の連続のような幼少期を過ごしつつも希望と夢を失うことなく、地元の大学を経て技術者の道に歩まれた。

 その後、熱心な研究努力が報われ当時最先端のセラミック製造に成功し、友人にも恵まれ事業を興される。弱冠二十七才での旗揚げであった。現在はリストラなどといって従業員を大切にしない企業環境にあるけれども、稲盛さんは、昔から今に至るまで、従業員の家族も含めてその行く末を考える社員第一主義を貫いている。また人材の育成のために盛和塾という経営塾を通じて若い経営者三千人もの人たちに自分の経験から導かれる様々な知識や知恵を教育したり、倒産寸前の会社を引き受けて社員を解雇せずに更生されている。

 また利益は社員や社会に還元すべきものであるとの信念から、私財二百億円を投じて稲盛財団を設立して、世界で先端技術、基礎科学、精神医学・表現芸術などの分野で研究開発に携わる人に贈られる京都賞を創設している。こうした様々な業績を知るにつけ、稲盛さんの「世の中の役に立つために」との信念に基づく生き様人柄に強く惹かれ頭の下がる思いがする。

 番組の中で、この神様のようにも思える経営者の鏡そのものの稲盛さんが、最初に述べられたのが、「今までの人生は幸いでした。色々な面で感謝している」という言葉でした。「人間として正しいこととは何か、そのことを基本にすえて常に心を美しく生きていくことが大切。常に美しい心で人に接し美しく生きる。そうしていれば困ったとき誰かが助けてくれるもの。人間誠心誠意をもって常に人と接することが大切だ」と述べられた。

 また、人生二十才までは社会へ出る準備期間、二十才を過ぎて定年までは
稲盛和夫氏(京セラホームページより)
社会のために貢献する期間、定年後は死を迎えるための準備期間であり、稲盛さん自身も現場を退かれてから、ブッダの教えを学び魂を磨くために京都八幡にある臨済宗円福寺の西片擔雪老師に従い得度されている。得度後若い雲水さん達と托鉢したとき、ご婦人に駆けよられ、うどんでも食べてと小銭を頂戴したが、その方のお心の有り難さに思わず涙が溢れたという。

 最後に「現代は科学文明が進歩に進歩を重ね神業のレベルまで至っているが、だからこそ謙虚さを失わず、きれいな心ですべてのものに対していかねばならないのではないか。環境問題も深刻さを増すばかりだが、心の持ち方によって人も社会も変わっていくはず。私たちは自分一人では生きられない、動植物と共に人類も生きていかねばならないという心がけを失わないことが今私たち一人一人に求められているのであろう」と話された。

 私たちも稲盛さんの何万分の一でも世の中に貢献できるよう日々努力を怠ってはいけないのだと改めて思いました。(R)


 [荒神神楽今昔]

 消えた集落に神楽太鼓の音がもどった・・・去る九月十八日、神辺町上御領の奈良原で、七年に一度の荒神社式年祭が行われ、荒神神楽が奉納されるというので出掛けた。久しぶりの神楽見物である。

 奈良原の集落は太古の昔から開けたところで、かつては三十軒ばかりの農家が散在し、棚田が耕されていた。荒神様は先祖が開き代々守ってきた棚田を見下ろす小高い丘に祀られている。近年、過疎化が急速に進み、今では奈良原集落に住む人はなく、古い家屋はほとんど朽ち果てている。

 その消えた集落の荒神社式年祭に、昔からこの集落に住み荒神社を祀ってきた荒神組の十九人の産子たちが集まって祭りの準備が行われた。

 奈良原の荒神神楽は、昔から井上氏の邸宅で行われることになっている。そのため井上氏は、その日のために平素、住むことのない古家の維持管理をしなければならない。

 神楽太夫は備中神楽北山社中である。荒神神楽の演目は厳粛な神事と芸能的な演目で構成されており、式年神楽の順序に準じて進められる。

 第一部の神事のハイライトは、荒神神楽だけに行われる「白蓋神事」である。切り紙を四方に垂らし、神殿の棟木からつるされた「白蓋」は、降神の歌かぐらが詠じられる中を一本の白蓋綱で操られ、生き物のように激しく揺れながら紙吹雪を降らせる。

 そして鼻高面の白いシャグマのサルタヒコが降神の先払いとして登場し、急テンポの太鼓の音に乗って猛々しく舞って神事を終わる。

 続いて第二部はおなじみの「岩戸開き」「国譲り」「大蛇退治」など、芸能的な神代神楽である。つややかに舞うアメノウズメ。荘重典雅なオオクニヌシの舞い。軽妙なアドリブとギャグで客席を笑わせるイナシハギ。アクションヒーロー・タケミナカタノミコトと両神の決闘。最後にスサノオの「大蛇退治」でめでたく舞い納めとなる。

 その間、人々は神殿の周囲に敷かれたござやシートに座って、飲みながら食べながら見物する。子供の時から何度も何度も見てきたおなじみの演目であるが、次々に繰り広げられる演目に、手をたたき、声をかけ、笑いころげながら、太夫と見物客が一つになって舞台をつくっていく。

 荒神は小集落の土地の神、産土の神で、臍緒(へそのお)荒神とも呼ばれる。その土地を開き耕してきた一族を守るムラの神である。それゆえ、そこに住んでいた人達の愛着もまた格別である。

 祭りは村に住む人々のつながりのシンボルであり、昔も今もムラで最大のエンターテイメントである。

 「今年も式年神楽ができてえかったなあや。」「七年後にも、また神楽ができるじゃろうか。」・・・人々は、こんな会話を交わしながら日暮れの山道を降りて行った。(M) 

 『四摂法』について

 毎月講読している大法輪の十一月号、特集「これでわかる仏教の基礎」第二部「仏教の信仰と実践」(本紙十二ページ参照)の中で、國分寺の全雄住職が「慈悲の心と実践-四摂法」について、「世間の人々がよい関係を保つための、身近な人たちとの実際的な接し方として四摂法の教えがある。この『四摂法』を日々心がけ実践することで、人間関係での様々な問題が解消するでしょう」とお書きになっている。

 私は読みながら「四摂法」について、昔どこかでお聞きしたような気がしたので、古いノートをめくってみた。

 それは、十数年も前のある「ボランティア講座」で、アメリカ人講師の話の中にあった。私はノートにこうメモしている。

 「日本には昔から、四摂法という仏教の教えがある。すなわち、
『布施』〜自分の才能や財を人に施す
・ボランティア貯金、災害援助物資など
『愛語』〜人には親愛なる言葉を
・『寒いねと話しかければ寒いねと
  答える人のいるあたたかさ』
           (俵万智)
『利行』〜他人への利益を先に
・困ったときはお互いさま、小さな親切など
『同事』〜ともに社会的な活動を
・災害時の救援活動など

 今、ボランティア活動ということが声高に言われているが、何も今始まったことではない。『四摂法』こそボランティア精神そのものであり、仏教の素晴らしい教えである」と。(M)


 お釈迦様の言葉−十二

『善きことをなせる者は、
この世にても喜び、死後にも喜び、
何れにても喜ぶ。
己れの行為の浄らかなるを見て、
喜び楽しむ。』
(法句経十六)

 昨年五月、ミャンマーの女性が國分寺に来訪されて「私たちは死んで終わりではない。死後行かねばならない来世がある」と懇話会で話された。輪廻転生する衆生である自分を思うが故に、今どう生きるべきかと真剣に思索することになる。

 この偈文にあるように、間違いのない生き方をすれば、今生にも、死後にも喜びがあるということをお釈迦様は約束して下さっている。しかし、逆に間違えば大変なことになるよ、ということでもある。

 この輪廻の住人であることを自認しない人は、何をやっても悪事が知れず、自分だけよい思いをして死んでいけばいいと思う。歴代天皇の多くが退位後仏門に入り仏と対面された時代と違い、現在の為政者たちは、死後の輪廻を憂えることもないのであろう。恐ろしい世の中である。

 人間の世界は思い一つでどちらにも転がっていける世界である。畜生や餓鬼の世界にその自由はない。私たち人間なればこそ己れの進む道を正していける。     (全)


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│ 平成十八年度國分寺年中行事                  
│ 修正会並びに元旦護摩供     元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供     毎月新暦二十一日
│ ねはん会並びに土砂加持法会   三月二十六日 
│ 正御影供並びに四国お砂踏み   四月二十一日
│ 四国巡礼(高知一拍二日)  五月十・十一日
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 中国四九薬師霊場巡拝(岡山鳥取) 九月十一・十二日
│ 高野山参拝         十月三・四日
│ 四国巡礼(愛媛一泊二日)   十月二六・二七日
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 ◎仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県深安郡神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
FAX 〇八四ー九六五ー〇六五二
□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
○今年は六年に一度のねはん会が三月二十六日にあります。是非皆様、お誘い合わせてご参詣下さい。
◎現在大法輪誌にて、「わかりやすい日本仏教史」を連載中、是非書店にてご覧下さい!(ご希望の方はお問い合わせ下さい)
國分寺ホームページhttp://www.geocities.jp/zen9you/より


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