備後國分寺だより

備後國分寺 寺報[平成十八年盆月号] 第十四号

備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


天寿を全うするために
「病気にならない生き方」を読んで

 新聞の広告欄で度々目にした方もあろう。アメリカで活躍する日本人医師、新谷弘実先生の新刊(サンマーク出版)である。新刊と言っても、昨年の七月に初版が発行されているから、読まれた方もあるに違いない。

 ところで、やっと手に入れ読んだ健康法の伝授書ではあるが、書いてある内容は所々仏教の教えに通じるものがあった。かなり新谷先生ご自身が仏教の教えに造詣があるのか、それとも元々医学も仏教も根本的には同じ事を導き出すものだ、ということなのであろうか。

 新谷先生は、アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授として、普段ニューヨークに住まいし、一年に数ヶ月日本に戻り診察もされているという。俳優のダスティン・ホフマン、ロック・ハドソンはじめ、日本でも政界財界の著名人を診療されている。

 先生は、胃腸内視鏡外科医という肩書きで、この四十年の間アメリカと日本で三十万人以上もの胃腸を診てこられた。内視鏡を使って人々の胃や腸を検査し、胃腸内の様子でその人の健康状態が分かるようになったという。胃相・腸相という表現を用いて、胃相・腸相の美しい人は心身共に健康で、逆に悪い人は、体のどこかにトラブルを抱えているそうだ。

 そして、診療の際に患者さんに答えてもらったアンケートから、この胃相・腸相に大きな影響を与えるのは食歴と生活習慣だということが分かったという。それではよい胃相・腸相を保ち、健康で長生きするためにはどうしたらよいのか。それがこの本の内容である。

 先生はここで、エンザイムという言葉を使われる。エンザイムとは体内酵素のことで、動物でも植物でも生命があるところに必ず存在して物質の合成や分解、輸送排出解毒など生命を維持するために必要な活動をしてくれるタンパク質の触媒のことである。
 人間は五千種以上のエンザイムが生命活動を担っており、その原型となるエンザイムをいかに補う食事をし、逆に浪費しない生活習慣を身につけるかが胃相・腸相を良くすることに繋がるという。

 お酒やタバコ、食品添加物、農薬、さらには薬やストレス、環境汚染、電磁波などの影響をいやが上にも受けてしまう現代社会に暮らす私たちは、それだけでもこのエンザイムを著しく消耗させている。このことを思うと、私たちは新谷先生のいわれる食習慣、生活習慣を心して受け入れることによってしか病気をせずに天寿を全うすることが難しいのかもしれない。

 先生は言う。健康のためと言われてかなり間違った健康法を私たちは頭に詰め込んでいるようだと。それは一つの場所だけでよい働きをする成分があるとして推奨されるからであり、体全体として人間の体を診ていない医学のあり方が問題であると。

 そこで、世間で健康のためと思いしがちな所謂食の常識を斬り捨てる。緑茶やコーヒーを含むお茶を常飲している人の胃は胃の粘膜が薄くなり萎縮性胃炎となり、胃ガンになりやすい。肉食は成長を早める、がそれはつまり老化を早めることである。牛乳は脂肪分を均等化するために攪拌する過程で乳脂肪分が過酸化脂質、つまり錆びた油になり、さらに殺菌のために百度以上の高温にするためタンパク質を変質させ、エンザイムも死滅した最悪の飲物だと言われる。

 そして、カルシウムを補給するために推奨され牛乳を飲む人も多いが、飲むと血中カルシウム濃度が急激に上がり、その濃度を体は通常値に戻そうとして恒常性コントロールによって逆に体内のカルシウム量を減らしてしまうので、本当は骨粗鬆症のためにもマイナスであるという。

 さらに腸整効果があるとされるヨーグルトを常食している人の腸相も良くない。そして、植物油だからと多用されるマーガリンも。市販されている食用油の多くは溶剤抽出法という、原材料に化学溶剤を入れて抽出される。この油は悪玉コレステロールを増やしガン、高血圧、心臓疾患の原因になる。この油を用いた代表選手がマーガリンであり、またスナック菓子に使われるショートニングであるという。

 またガン患者の食歴から、肉、魚、卵、牛乳など動物食を沢山摂っていた人はガンになりやすい。特に早い年齢でガンになる人ほど幼い頃から頻繁に肉、乳製品など動物食に偏っていたことが分かっているという。

 ガンを含めどんな病気もその原因があり、薬に頼りきることなくその原因こそ取り除く必要がある。どんな薬も基本的に薬は毒であり、症状を抑えることは出来ても、薬で病気を根本的に治すことは出来ない。食事の量や質、時間やストレスなどその病気の原因そのものが除かれない限り根本的に健康を回復することは出来ないと断言される。

 では私たちは何を食べるべきなのか。先生は動物の食性を表す歯に注目される。人間の場合、肉を食べる歯が一なのに比べ植物を食べる歯が七あるということから、植物食を八五パーセント、動物食を一五%にすべきであると言われる。

 すなわち、穀物を五〇%、野菜や果物が三五から四〇%、動物食は一〇から一五%とし、穀物は玄米など精製していないもの。他のものもなるべくエンザイムを沢山含む新鮮な物がよい。動物食は人間より体温の低い魚で摂るのがよく、牛乳、乳製品、マーガリンは避け、揚げ物もなるべく摂らないこと。

 そして、一口に五十回程度よく噛み、消化されやすくする必要がある。なぜならば腸壁で吸収されなかった場合、過剰に食べた場合同様に腸内で腐敗、異常発酵が起きるため、その解毒にエンザイムが浪費されるからだという。
 よく噛むことで食事に時間がかかり、その間に血糖値が上がり食欲も抑制され、食べ過ぎを防ぐことが出来る。つまりダイエットにもなり、腹八分目でも満腹感が得られる。小食を心がける必要がある。

 そして、出来れば子供の時からこうした食習慣を身につけるのが良いという。なぜなら、病気は遺伝するのではなく、生活習慣の継承に問題があるから。良い食材、良い水を摂り、規則正しい生活をして薬は極力飲まない。そうした体によい習慣を受け継げば子供は苦労せずに健康を維持し続けることが出来るであろう。

 そして、糖分、カフェイン、アルコール、添加物が細胞や血液から水分を奪い血をドロドロにしてしまうジュース、ビール、コーヒーやお茶を水代わりに飲むことなく、血液の流れを良くし新陳代謝をスムーズにするためには、水を毎日一.五gから二g飲むのが良いのだそうだ。先生は、朝起きがけに五百t、昼食と夕食の一時間前に五百tずつ、あまり冷たくない浄水を飲まれているという。

 還元力の強い良い水はダイオキシンや様々な環境汚染物質、食品添加物もちゃんと体外に排出し、バイ菌やウイルスが侵入しやすい気管支や胃腸の粘膜も良い水によって潤っていると免疫細胞の働きが活発化してウイルスの侵入しにくい場所になるともいう。

 そして、食事以外のことで必要なのが、三、四キロを歩くなどの軽い運動と、十分な睡眠、また昼食後の昼寝なども大切なこと。それから、副交感神経を刺激して精神の安定を促し免疫機能を高める深呼吸を暇さえあればすること。そして、ストレスのない愛情に充ちた幸福感を感じる生活をするならば、天寿を全うできるであろうと結論される。

 勿論これらすべてをすぐに実行することは難しいかもしれない。家族もあり、一人だけ食べ物を替えることは簡単なことではない。しかし出来ることから実行することで少しでも良い方向に変えていけるのではないか。特に持病に悩み薬に頼ることに疑問を感じ始めている人には朗報であろう。

 ここで紹介できなかった諸々の健康に生きる智慧がこの本には凝縮されている。所々大事な部分が太字になっている。そこだけを読んでもかなり役に立つだろう。是非手に入れて、ご一読願いたい。

 最後にこの本で記された仏教に通底する部分を紹介してみよう。体の一部のダメージが体全体に影響を及ぼすということは、仏教でいう「縁起」にかなう考えであり、病気は薬で治ることはなく、まずその原因を知りその原因こそ取り除くことが病気を治すというのは正に仏教の「四諦の教え」に、また、私たちの今ある体は生涯の食歴生活習慣の積み重ねによるとするのは、「業論」そのものであった。医療の最先端で活躍する新谷先生の到達した教えには、正に仏教がその正しさを裏付けているように思えた。

 最後に先生は臓器別医学が医者をダメにすると主張される。一部の症状を回復させるために命を落とすことが平然と行われていると指摘する。これなどは、仏教で言えば、宗派別の学問ばかりを優先する今日のあり方が僧侶をダメにするということになるのであろうか。新谷先生のひと言ひと言が私には納得できる、誠に心に響く名著であった。                                              (全)


無常偈について 
お釈迦様の入滅ーお涅槃に学ぶ



anicca vata sankhara
uppada-vaya-dhammino
uppajjitva nirujjhanti
tesam vupasamo sukho
(Mahaparinibbana-sutta
パーリ長部経典第十六大般涅槃経)

諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめっち)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
(漢訳)

諸行は実に無常なり
生じ滅する性質のもの
生じてはまた滅しゆく
その寂静は安楽なり
(現代語訳)

色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
(この無常偈をかなにしたいろは歌)

 ここに挙げたのは、所謂無常偈といわれる偈文であるが、これは、お釈迦様が八〇歳でクシナガラにおいて入滅されたそのとき、帝釈天が唱えた詩である。パーリ長部経典におさめられた大般涅槃経に、その時の様子が詳しく記されている。

 この経典には、お釈迦様が入滅されたとき、身の毛もよだつ大地震が起こり雷鳴がとどろいたとある。

 と同時に、梵天が
「この世において生けるものは
 すべて身体を捨てねばならぬ、
 この世において無比の人、
 力をそなえた正覚者、
 かくの如き師、如来さえ
 入滅されたことゆえに」と唱え、

 そして、同時に、神々の王である帝釈天がこの無常偈を
「諸行は実に無常なり、
 生じ滅する性質のもの、
 生じてはまた滅しゆく、
 その寂静は安楽なり」と唱えられたという。

 そして、またこれも同時に尊者アヌルッダとアーナンダも次のような詩を唱えたという。
「貪りのない牟尼にして、
 寂静により去り逝ける、
 心安定のかかるお方に、
 もはや呼吸は生起せず、
 動じることなき心をもって、
 感受に忍び耐えられた、
 灯火が消滅するように、
 心の解脱が生起せり」

「そのとき恐怖のことがあり、
 その時身の毛のよだちあり、
 あらゆる勝れた相のある、
 覚者が入滅されたとき」と。

 そして、愛着を離れていない比丘や神々の泣く声がこだまし、その場に倒れ、転げ、のたうち回ったと、その時周りにあった者たちの、あまりにも早く入滅されたお釈迦様への思いをそう書き記している。(「」の部分は、中山書房仏書林刊「原始仏教」第八巻片山一良訳より)
 
 私たちは、この無常偈をどのように受け取るべきなのであろうか。単にこの無常偈の字面を追うことなく、正に私たち仏教徒にとって、最も記憶に留めておくべき、このときの情景から解すべきではなかろうかと思う。

 お釈迦様という、この世のすべてのことに精通され、転生輪廻の呪縛から自ら解き放たれ、その真理への道を生涯有縁の者たちに説き聞かせ、多くの弟子らを阿羅漢という悟りの極みに導いた聖者の最後を、その有様をまざまざと思い浮かべつつ、この偈文を読み味わう必要があるのではないかと思う。

 そして、ここにあげた入滅直後の四つの偈を一つに解してはいかがであろうか。なぜならば入滅時にそれらが各々二人の神と二人の仏弟子から同時に唱えられたとしているのであるから。

 つまり、『諸行は実に無常なり、生じては滅する性質なり』というのは、正にこの比ぶべき者のない無上の力あるお方であられるお釈迦様でさえ入滅し、恐ろしいばかりに地がふるえ雷が鳴り響いて奇瑞が起こり、無常のことわりに従われたのであるから、一切の衆生も誰一人としてこのことわりから逃れることなどできない、みな生じたるものは身体を捨て、滅するときが来るのである、と。

 そして、『生じてはまた滅しゆく、その寂静は安楽なり』とは、お釈迦様は正に灯火が消え入るかのように生存の因を消し去られ、転生輪廻の束縛から解脱なされたお方であり、肉体という過去の業の報果をも離れた完全な無苦安穏の涅槃(無余涅槃)にお入りになられたのであるから、このお釈迦様の般涅槃(parinibbana)こそが最上の理想の安らぎなのである、と解釈したい。

 そして今もって、スリランカ、タイ、ミャンマー、インドなどの南方上座部仏教の国々では、仏教徒が亡くなると、葬送の儀礼にはこの偈文がパーリ語で唱えられ、火葬される。この偈文とともにお釈迦様の入滅を思い、お釈迦様の教えを奉じた者としてそのお徳を改めて思い起こし、来世にあっても、また仏教にまみえ、さらに心の浄化に励むべく、そのはなむけの言葉として唱えられるのである。

 この無常偈をわが国にいろは歌として伝えられたお方が弘法大師空海、お大師様であると言われる。勿論この説には色々な説があるようではあるが。撰者が誰かはともかく、いろは歌はこの無常偈をわが国のかな文字で記した名句であろう。

 いろは歌は、この世の移り変わる様の哀れを情感たっぷりに嘆き悲しみ、しかしその行き着く先の安らかなることを思うという日本的情緒をかき立てる。がしかし、無常偈は本来もっと理性的に私たちの生きるということの際限を見つめる営みをともなうものではないかと思う。

 自らお悟りになり、多くの人々を教え導いて悟らせ、完全なる悟りに入られたお釈迦様を慕い、決してそのお釈迦様にすがるなどという安易な態度ではなく、その聖者たちの流れに付き随うべしという仏教徒としての厳然たる姿勢を差し示した誠に厳しい教えとして受け取るべきではないかと思う。であるが故にこそ、二五五〇年もの間大切に唱え、伝えられているのではないかと思えるのである。

 それでは次に、この無常偈をもう少し私たちの身近な教えとして受け取ってみたい。
 『諸行は実に無常なり、
   生じ滅する性質のもの』
 はたして、私たちはこのように見ているであろうか。頭では、世の中のことは、そんなものだよ、と思えたとしても、実際には全く無常ということを認めていない。そのように受け取れないのが本当のところではないか。

 異常気象と言いながら、暑いの寒いのとつい口に出てしまう。生活の安定を求めない人もいないだろう。景気が悪いとか一向に良くならないと知らず知らずのうちに不平を述べているのではないか。また、家族の誰かか重い病気に罹ったときの困窮狼狽を考えてみただけでも、私たちは無常ということをただの言葉としてしか理解していないことが分かる。

 そして何よりも、この無常であるが故に生滅する、ということを我が身のこととして捉えねばいけないのであろう。たとえば、自分がガンと診断されたとしたらいかがであろう。治る見込みのない病気に罹ったに違いないと思った瞬間に、誰もが胸に杭を打たれたかのような重苦しい思いにとらわれるのではないだろうか。なぜ私なのか。何が悪かったのか。どうして隣の人ではなく自分なのかと。

 そんな思いが堂々巡りを繰り返し、眠れない夜を幾晩過ごせば心にいくらかでもゆとりが出来るのか想像も出来ない。誰もがその場面に遭遇すれば同じように憔悴するのではないか。だからこそ、無常ということ、生じたものは必ず滅するという真理を、私たちは自分自身のこととして受け入れることを学ぶ必要がある。

 『生じてはまた滅しゆく、
   その寂静は安楽なり』
 私たちはこの人生について、二度と無い人生などと言われ、死ねばそれで終わりと思ってはいないだろうか。どこかの宗教者の言うままに、死んだら天国に行くなどと思っている人もあろう。だから、自分は死んだらどうなるのか、と改めて考える人もいないのかもしれない。勿論学校で教えてくれることもない。ただ漠然とそう思う、そんな世の中になってしまったようだ。

 仏教では、死ぬと輪廻転生すると教えられている。生前になされた業にしたがって転生すると。だからこそ何万回と繰り返されてきたとされるこの果てしない輪廻の苦しみから解脱するために、お釈迦様は出家され、苦行に励み、禅定に入り、真理を得て、悟りを開かれ、その悟りへの道筋を指し示す教えを説かれた。そのお蔭で仏教がある。

 輪廻はなぜ苦しみなのか。それは、衆生は六道に輪廻するともいい、死後人間として生まれるとも限らないからであり、行いによっては、次の生では地獄に生まれるかも知れないし、畜生なのかも知れない。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道のどこに生まれるかもわからない。鎌倉時代に浄土教が熱病の如くに広まった背景には、この輪廻思想が浸透していたことがあり、だからこそ極楽(天道)に往生したいと当時の人々は考えたのであった。

 「殺生を好む人は来世では地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれ変わったとしても短命となる。手や棒で人を叩くような人も地獄に生まれ変わる。もし人間に生まれたとしても多病となる。怒りを好む人はたとえ人間に生まれたとしても醜悪に、欲が深く他に施さない人も人間として生まれたとしても、とても貧しい人になる」とこのように業と言われる行いの報いについて経典(パーリ中部経典135)に記されている。

 厳しい季候環境、過酷な階層社会に暮らすインドの人々、また政情不安の中で貧しい生活に日々追われる東南アジアの人々、いずれも人間としての生も苦だと実感しているであろう。しかし私たち日本人だって、暮らしは遙かに贅沢ではあるが、働けど働けどわが暮らし楽にならずという状態に陥りつつある。失業して職に就けなくなってしまった人も多い時代である。また複雑な人間関係に神経を疲弊させてもいる。自殺する人が絶えない現実、凶悪な事件に巻き込まれる不安の中で生きてもいる。

 いかにしたらこうした苦しみの現実から解放されるのか。そのことを説くのが仏教である。そして、その教えを自らの意思によって学ぶことができるのも、六道の中で人間界をおいて他にない。何気なく安逸のままに生きてしまっているが、こうしてなんでも思い通りにやろうと思えば出来る人間界にいるということが、本当は誠に貴重な得難い時間を生きているのだということになる。

 漠然と幸せを求め、生きがいを探しつつ、人生を歩む。気がつくと、既に人生の半ばにあることに、愕然とすることもあるだろう。残された時間は僅かであることを知りつつも、それまでに培った価値観を変えることはそう簡単なことではない。今際の際に、本当に納得し良い人生を歩むことが出来たと満足するには、どうしたらよいのか。ことここにいたって、「その寂静は安楽なり」、つまり輪廻からの解脱に至る悟り、心の安穏、静謐こそが本当の幸せなのです、とするこの偈文を反芻することは来世への土産として意味あることなのではないだろうか。

 人としての営みを無為に過ごすことなく、本当は時を惜しんで教えを学び、実践しつつ心を磨くことは、仏教徒として課せられた私たちの責務なのかもしれない。大恩教主であるお釈迦様が、灼熱の大地を裸足で旅をしつつ、人々に教え諭し、入滅するそのときまで説き聞かせた、その教えをたよりに、私たちは「戒名」というブッディスト・ネームをもらって次の世に旅立っていくのであるから。                         (全)


 四国遍路行記A   フェリーでお四国へ
      (平成二年三月から五月)

 インドから帰って、身辺の状況が変わったりして、西伊豆の信玄師の庵にお邪魔する回数が増えていった。一緒に臨済宗のお経や陀羅尼を唱え、坐禅させていただいた。二時間もかけて土肥や戸田の温泉街まで歩き、托鉢して、帰りに無料温泉で汗を流した。そして信玄師の師匠にあたる高知の玄忠和尚のお寺に坐禅に行った。

 臘八接心と言って、一週間ぶっ続けで一日十時間ばかり坐禅する参禅会だった。十二月一日から八日まで。期間は短いが、真言宗の四度加行より厳しいものだと感じた。作法がある方が楽なのだ。一週間経つと、首筋から腕の先にかけて筋が張って痛いほどであったことを記憶している。

 とにかくそんなことで信玄師の指導よろしく、その翌年一月には白隠禅師開基の三島の龍澤寺専門僧堂でも臘八接心を経験した。そしてその時、龍澤寺住持宗忠老師の計らいで真言宗の衣を脱いで臨済宗の雲水衣を着用し坐禅した。早朝の作務のとき箒で掃く風で裸足の足の指がしみる冷たさと晩の坐禅後にいただいたクリームパンの極上の味わいは今も忘れることができない。

 そしてそのとき一週間共に過ごした雲水衣は、ずっしりする藍木綿の重さと腰に巻いた太い手巾が殊の外坐禅には適しているように感じ、東京に戻り早速雲水衣を新調した。そしてそれから二ヶ月後、いよいよ網代傘にビニール紐の草鞋、作務服に脚絆を巻いて雲水衣を身にまとい、平野屋さんから供養していただいた錫杖を撞きつつ、四国へ旅立つことになる。

 東京の有明埠頭から晩の七時頃、オーシャン東九フェリーに乗船し、翌三月二七日の昼頃徳島港に接岸。そこからバスと電車を乗り継ぎ四国一番霊山寺に向かう。途中電車の中で早くも御接待ですと言われ、子供連れのご婦人から紙に包んだ五百円玉を頂戴した。

 高徳本線の板東駅に着く。駅を出て、霊山寺へ。網代傘を脱いで、楼門をくぐり、池の横を通って本堂に向かう。
 大勢の参拝者の間を通って奥へ進み、お釈迦様の足元で、この遍路の成満を祈願して理趣経一巻を唱える。大師堂前では般若心経。多宝塔や諸堂に詣る暇もなく歩き出す。

 二番極楽寺へ。国道をまっすぐ西に向かう。二番極楽寺は、国道の案内板もあって国道の右側に大きな赤い楼門が目に付き、すぐに分かった。ぐるっと境内を進み、石段を上がると本堂だった。理趣経を唱えると、本堂に座っていたお婆さんが?子を打ってくれた。木々に囲まれ少し薄暗い。その右奥に大師堂。古びたお堂がありがたさを感じさせている。

 三番金泉寺へは、途中国道から右にはいる。松山のへんろ道保存会の人たちが作ってくれた赤い矢印の小さな白い案内板を見て先に進む。それでも慣れないため、次の矢印まで道を間違えたのではないかと心配しつつ道なりに歩く。少し畦道に入った先にお堂が見えた。子安観音像が境内を飾っていた。

 四番大日寺までの道は初めての遍路には手ごわかった。なかなか先が読めない小道が続く。だんだん暗くなり、第一日目の寝場所のことも頭をよぎる。途中地元の公民館の前にさしかかった。ここの軒先にでも寝かせてもらおうかとも考えながら歩く。白い掲示板もよく見えなくなった頃、養豚場の横を過ぎた先が大日寺だった。残念ながら五時を過ぎ閉門していた。門の前で遙拝し、理趣経一巻に般若心経。納め札も御朱印帳も持たずの遍路旅なので、読経だけで札打ちとさせていただく。

 五番地蔵寺。何とか暗くなるものの辿り着く。既に七時になろうとしていた。この辺りの木の下にでも寝ようかと考えて、まずは腹ごしらえ。地蔵寺の先にお好み焼き屋があり、そこで一品頂戴する。「お一人ですか」と問うので、「この辺りで寝ようと思います」と言うと、「そうですか、風邪を引かないように」とでも答えられたのであったか。まったく歩き遍路にも慣れた様子で、何の感動もない。その日は結局地蔵寺の大師堂隣のお堂の縁に寝袋を広げた。

 慣れない寝袋でも初日の疲れからかよく眠れた。翌朝五時頃薄明るくなって目を覚まし、境内の水場で顔を洗い身支度を調え本堂に向かう。縁のふちに座れるように長椅子が作りつけられている。座って静かに延命地蔵尊へ経を唱える。その間に地元の信者さんらしき人たちのお詣りがあった。

 普通遍路や巡拝の時には立ってお経を唱える。そのせいか座ってお経を唱えていると違和感がある。しかし座って落ち着いて唱えるお経には立って急いで唱えるお経とは違う味わいがある。本尊様のお姿を想像し、香の香りを楽しみ、深としたお寺の空気を吸い込みながら聞くお経には有り難さがある。

 今日一日の最初のお勤めを終え、大師堂へ向かう前に、五百羅漢堂に寄る。本堂の左奥の方へ道が続いていた。かなり距離があったが行ったかいがあった。どの羅漢像も素晴らしい。弥勒、釈迦、大師像も大きくて立派だった。ここで大阪からお詣りの小さな団体の方からお接待をいただく。早速遠くまでお詣りした御利益があった。大師堂へ詣り、六番に向け歩き出す。

 六番安楽寺は、山号を温泉山という。途中に温泉旅館がいくつかあった。山門をくぐって正面に本堂、右の立派な建物が大師堂だった。本堂には沢山の御守りや値付けなどが並んでいる。ところで、後に団参でここに宿泊した際、売店で「四国へんろの春秋」という年表を買った。

 それによると、四国遍路は、辺路の修行と言われ、弘法大師よりひと時代前の修験道の開祖役行者や行基までさかのぼるという。平安時代も後期になると、東大寺の大勧進をしたことで有名な重源や西行法師、法然上人なども四国の辺路を旅して若き日に修行に励んだと言われる。もともと修験、聖、持経者などが盛んにしていた辺路修行に、ともにそうして念仏勧進聖が加わって今日の基礎をなしたという。

 この年表は実に丁寧に四国に関する記事を引いて各時代の日本仏教史を四国遍路を基点に展開している。編纂されたのは安楽寺住職の畠田秀峰師だ。実に貴重な研究をなされている。四国遍路から見た日本仏教史、弘法大師伝を執筆中だという。早く拝見したいと思っている。

 次は七番十楽寺。庫裏を覗くと大きな字で「みてござる」とあった。味わいのある字だ。その字を見て、全くその通り、見られてござると思った。人に見られていなくても、みんな自分が見てごさるのだ。自分をごまかして生きてはいけない。懺悔するときには懺悔するのだと思いながら、ここで反省が止まってしまうのを恐れる。お詣りし歩き出す。

 十楽寺を出て、アスファルトの道を一時間ほど歩くと八番熊谷寺。遠くからも目に付く四国で最も大きなものの一つと言われる仁王門をくぐった。が、そこからが長かった。駐車場を抜け、石段の道を上がる。なかなか本堂が見えない。もうそこだと思って歩く道ほど長く感じるものはない。まだまだ先と思って歩いていると、気がつくと着いている。そんなものだろう。

 本堂で十一面観音さんを拝み、また石段を上がって大師を拝む。来た道を戻って、九番法輪寺に向かう。
 田んぼの真ん中にたたずみ、遠くからでも白壁で囲まれた境内が一望できる平地のこぢんまりした札所だ。本尊さんは寝釈迦。この頃からお釈迦様第一主義だった私は、お釈迦様のお前立ちならぬ寝姿を間近に見つつ、理趣経をお唱えした。

 お釈迦様が法輪を転じたお陰で私たちは仏教にまみえることが出来る。梵天に促され法を説かれなければ永遠にお釈迦様の悟りは封印されていたところだった。法を説き終わった安らかなお顔が目に浮かんできた。

 山門前の茶店でうどんを食べる。このとき茶店のおばさんと何やら話をしたらしい。この翌年来たとき、そのことを憶えていてくれた。こちらの方が驚くほど良く憶えておられたのには感心した。つづく       

「濡れた落ち葉を踏みしめる 足が冷たい」
「歩きながら 気がついたら 遍路道」
「張り上げる 声を聞くのは 自分だけ」
                                                  (全)


  縁起ということ

 縁起とは、お釈迦さまが悟られてから最初に思索された最も根本の教えの一つ。ものごとはすべて、よりておこる、ということ。

 お寺などの沿革、由来を縁起と言う。誰それがどうしてこうして、こうなったという成り立ちを述べるものだ。そういう書き付けを縁起ということもある。

 原因があって結果して、それがまた原因となってまた結果するというそのあり方が縁起ということだから、そのような縁起を述べたものだからお寺などの由来を縁起と言うようになったのであろう。辞書にも因縁生起の略とある。

 縁起が良いとか悪いというのも、ある兆しがよい結果、もしくは悪い結果を生じさせることが期待される、見込まれるということであろう。受験勉強に精出している子の前ですべったの落ちたのと言うと、縁起でもないからそんなことを言うなという気持ちを起こさせるのも、その言葉を聞いた本人に何かしらの影響があるやもしれないという親心からであろう。

 私たちは身体にしても、顔も、心もみんな違う。二人と同じ人はいない。六〇億もの人がいれば同じ人がいてもよさそうな気もするが、実際は誰とも全く違う。それも縁起ということではないか。誰もがその成り立ちが違うのだから。同じ両親から生まれても皆違う。

 たとえ一卵性の双生児であっても違うといわれる。勿論顔も身体も瓜二つに見えるのだが、やっぱり違う。それぞれの歩みが違うのであるから。好みも思いもやることも違うのだから違う結果になって当然だとも言えよう。

 顔はその人の履歴書であるということを聞いたことがある。正にその人の歩みそのものだということなのであろう。言葉、振る舞いは育ち、顔は心がそのままあらわれるとも言われる。氏素性よりも大切なのはやはりその人の心ということになろうか。

 仏教では、身体の行い、口の行い、心の行いの三つを行いとして、三業と言う。自分の身体と口と心のなした行為の、生まれてからこの方今日にいたる縁起したるものが今のこの自分というものなのであろう。今の思いも、心もみんな縁起してきたものだということになる。顔は心の縁起をあらわすということになるのであろうか。

 そう考えると、実はこの縁起という教えは、誠に厳しく、恐ろしい世の中の現実を私たちに突きつけるものなのかもしれない。行いの一つ一つも心して行わねばならない。                                               (全)


五月十九日開催
國分寺仏教懇話会特別企画
タイの僧侶と語る会4

 タイ比丘藤川清弘師による「生と死について」と題する講演が行われた。今年は中国新聞、山陽新聞に告知記事が掲載され、雨模様にもかかわらずお越しになった大勢の方たちに熱のこもったお話をして下さった。

「昨年十一月、タイカンボジア国境の町を旅したとき、暫く前から不審に思っていた臓器移植に関わる実態の一端を知り愕然とした。日本では臓器移植はいつまで待ってもできないのに、日本人がタイに行って臓器移植しようとすると三千万円もあればすぐにでもできると聞いていた。が、それはカンボジアの貧しい人々が臓器売買目的のヤミ組織に子供を人身売買する現実があるからだった。そして、その上売られた沢山の子たちはバンコクで臓器移植を待つ間、物乞いをしたり売春させられたりしている。

 そのような子供たちの中で、カンボジアからバンコクへ連れて行かれる途中病気になり足手まといになる子や身体の弱い子はその場に放置され、野垂れ死にしてしまう。そうして置いていかれた子が獣に喰われ死に、血を流している様を、実はその時国境の町で見て、裏の実態を知ることになった。

 タイで臓器移植を受ける患者の八割は日本人であると言う。贅沢三昧をしている日本人が金の力で臓器移植するために、貧しいカンボジアの子供たちが売られ、バンコクで臓器をむしり取られ、死なないまでもかたわの様な人生を余儀なくされる現実に驚愕した。

 なんとかこの現実から子供たちを解放する手だてはないものかと思う。カンボジアの貧しい親たちはその日の食べるものにも困り、小さな子供に食べさせるものも無く、どうせ飢え死にするくらいなら連れて行ってもらい臓器を売ってでも生きて欲しい、そんなギリギリの選択から子を売ってしまうのだと聞いた。

 我が日本も、戦後の経済発展によって豊かな生活は送れるようにはなったが、その反面心を置き忘れてきた。タイに旅行に来る人に聞くと、みんな何か生きる目的、生きがいとは何かを探しに来たと言う。だが、どこにもそんなものの答えなどあるはずがない。

 生まれ、生きている限り、死ぬということだけ。それだけが確かなこと。死はいつ訪れるかわからない。今日これからかもしれないし、明日かもしれない。本当はみんな死と紙一重の所で生きている。そう考えると、何のために生きているのかという、生きる目的などというものは消えてしまう。ただ死ぬために生きているとしか言えない。ならばいかに死ぬか、ということを真剣に考えるべきではないか。

 皆さん、是非、どんな気持ちで死にたいかを自分自身で決めて欲しい。そのためにはどうあるべきか。家族に邪険にものを言い、扱っていたとしたら、自分が死ぬときどうだろうかと考えてみれば、いかにすべきかがわかる。死を見つめることで生が決まる。お釈迦さまもそうおっしゃっておられる。

 若い人が聞いてくると、何でも好きなことをしなさい。思いっきりやれと言う。ただし、四つのことだけ気をつけなさいと言う。それは、@自分が人にされて嫌なことはしない。A人に言われて嫌なことは言わない。Bやる前に自分の人生に利益になることかをよく考える。Cやることで周りの人たちが利益になることかをよく考える。

 この四つが満たされることなら先生や親に叱られても良いじゃないか。それが自分の人生にとってプラスになり、人間らしく溌剌と生きられるのなら。少なくともそんな生き方ができたならば、幼い子を殺したり、自分の子を殺したり、親を殺したりはしないだろう。今の日本はただの知識ばかりの教育になり、親からも何が本当に大切なことなのかが伝わっていない。

 お釈迦さまも単なる宗教者として教えられるだけであるが、本当はお釈迦さまは世の中で最も大切な哲学を語っている。何世代かのちに、お釈迦様やソクラテス、弘法大師やデカルトを比較して語られる時代が来れば元々日本人が持っていた心に戻ると私は思っている。今日のこのような話を聞いて家に帰ってこんな話を聞いてきたと家族の中で話ができる家庭の子供たちが大人になる時代には日本人の心が取り戻されるだろうと信じている。」

 (後半、同行してこられたミャンマ  ー・メッティーラの日本語学校校 長ススマーさんから簡単なミャン マー語講座を開いていただいた)

「なぜミャンマーか。ミャンマーに戦時中進駐して引き上げてきた人たちが消防車や学校などを寄付したという話をよく聞く。他の南方の国々に戦争に行った人たちの中でそんな話を聞いたためしがない。

 それは沢山の戦友が眠る地だからということもあるが、ミャンマーで命からがら生き延びてさまよっているとき、日本軍のために戦争でひどい目に遭っているというのに、着る物もボロボロのミャンマーの人々が、日本の敗残兵たちに、自分たちの食べ物も困っているのに米をめぐんでくれたり、傷の手当てをしてくれたことが忘れられないからだと聞いた。ミャンマーの人たちはそういう人々で、だからこそメッティーラという日本の軍人が大勢死んだ激戦地の町に寄付を募って日本語学校を建てた」

 最後に仏教の坐禅瞑想についてお話頂いた。「瞑想は人間としてすべきこと。お釈迦さまは、人間は猿のように頭の中で心があっちに行ったり、こっちに行ったり、動き回っていると言われる。そうして見たり聞いたりしたことから刺激され、過去の記憶によって判断し妄想していく。その妄想によって欲や怒りの心を生じ、辛い思いをしたり苦しんだりしている。妄想だらけの自分に気づくだけでも瞑想をする価値がある。是非実践して欲しい。」

 今回は、ここに掲載できなかった東南アジアでの戦中戦後の歴史秘話なども織り交ぜて、人の生と死について改めて一人一人が重く受けとめざるを得ない貴重な話をうかがった。来年も比丘としての視点から様々な分野に話し及ぶことであろう。乞うご期待。                                             (全)


般若心経からの
 メッセージ6


絶対ということはない

 そして「智も無く、また得も無し」と続く。
 ここのところの「智」とは、これまでに述べた般若の智慧とは違い、知ること、知識という意味。しかしただの知識ではなく、この前に位置している苦集滅道、前回述べた「四諦八正道」の教えを実践することから導き出される智恵を指す。

 また、次の「得」とは、その智恵を得ること。そのいずれも主観的に経験するものであって、絶対的なものではない。それも『空』なのであるから、存在しないのだということになる。

 私たちは様々な経験から導かれた知識によって生きている。それは間違いないものであって、絶対だと思いがちではないだろうか。しかし、ところや時代が変われば、まったくそのものの認識も変わってしまう。

 たとえば、私たちは竹というのはまっすぐに生えるもので、一直線に割れるものと思っている。だから竹を割ったような、という言い方をする。ところがインドで竹というと、からみつくものを喩えるときに使われたりする。インドの竹は曲がりくねっているからで、実際インド・ラージギールの竹林精舎で見た竹はまっすぐには割れそうになかった。

 私たちが間違いないと思っている知識、すべてのこうあるものという概念、人からあーだこーだと言われて反発したり怒ったり悩んだり、重荷になっているようなことも、様々な思い込みも、本当はみな「空」であって絶対的なものではない。

不動の心を養え 

 次に「無所得なるが故に、菩提薩?は般若波羅蜜多によるが故に心に?礙無し」とある。

 すべてのものは「空」であって絶対的なものでは無く、心にとどめおくべきものが何もないので、菩薩は、般若波羅蜜多、つまり智慧という完成によって、心に何もさえぎるものがないという意味になる。

 私たちは常に心が様々なことに刺激を受けそれに引きつけられて思いわずらう。良い思いをすればそれを何度も思い描きそこから欲の心をかき立て、嫌な思いによって怒りが生じ様々な過去の情景を思い描いては身も震わせんばかりの状態になることもある。

 ここでは既に、何に触れても「空」という意識の段階にあって、何も心をさえぎり影響されることもない状態に安住しているということ。どんなものを見ても、聞いても、されても、心に去来しても、何者にも動揺しない泰然自若とした境涯に至っているということ。不動の心を養えということか。                               (全)



読者からのおたより 

 堂々川の砂留 

 國分寺西の堂々川に沿ってさかのぼると、川をせき止める大きな石組みが目にとまる。堂々川の一番砂留である。

 堂々川の流域は小さいが、江戸時代に渓流砂防工事のダムが施行された代表的な渓流である。このダムを地元では「砂留」と呼んでいる。ここから上流にかけて約五百bほどの間に八基並んでおり、これらは県内最古のもので全国的にも類を見ない砂防ダムである。

 寛文六年(一六六六)幕府は「諸国山川の掟」を発布して砂防工事を勧め、福山藩においてもこれは重要な施策の一つであった。

 延宝元年(一六七三)五月十四日、この地方は集中豪雨に襲われ、上流の池が決壊して堂々川が氾濫し、川下の村は大きな被害を受け、六三人もの犠牲者を出すという空前の大惨事となった。この洪水で備後國分寺の伽藍も流失し、田畑には一b以上の土砂が堆積した。時の福山藩主水野勝種の外護により、國分寺は上手の山際に移して再建された。

 その後、堂々川の砂留は、元文三年(一七三八)頃から始まり、百五十年の歳月を経て、明治十六年(一八八三)に完成した。三番、五番、六番の大砂留は天保三年(一八三二)から六年にかけて築造されたものである。

 堂々川に沿う東側の山には國分寺古墳群といわれる沢山の古墳があった。砂留に使われた大量の石材にはこの古墳の石が使われたと言われる。中でも六番砂留は高さ十三b幅五十六bに及ぶ最大のもので、天保六年に施工されたという記録がある。江戸時代にはこのような砂留が周囲を含めると四十以上も作られたという。

 最近この砂留の構築法が注目され、平成八年、三番砂留の掘削調査が行われた。その結果、砂留の構築部分を開削して、まず後ろ側に石垣を築き、次に前面に石垣を積みながら、間に栗石を積めるという構築法で、城郭石垣と同じ工法であることが分かった。当時の日本の石積み技術の時代的特色を伝える遺構として注目されている。

 六番砂留の上に、「安那の海は弥砂の海となりにけり川とは見えず埋もる砂留」と刻んだ歌碑が建っている。砂とのひるみない戦いの中で築造した古人の足跡が偲ばれる。

 今回、この堂々川一連の砂留八件が「登録有形文化財」として登録される。今後、砂留見学とセットで、國分寺を訪れる人も多くなるであろう。
                                                 (B)



 お釈迦様の言葉−十三

『我こそ我の主なれ、
いかんぞ他を主とすべけん。
我をよく調御せば、
またと得難き主をうるなり。』
(法句経一六〇)

 私は私だと誰もが思っている。しっかりものを考えていると自分では思う。知識、情報の真偽を疑うこともなく、自分の考えは正しいと思ってしまう。

 しかし新聞やテレビも含めその情報自体が意図的に選別した内容であったとしたら、それは自ら判断しているのではなく、他者に誘導され、洗脳されていることになるのではないか。

 また、情報から自分の好ましいものだけを採り入れ、他のものを捨てていたとしたら、都合の良いように解釈し、判断することになる。また他人の言辞意見を真に受け、動揺したり、同調したり。あたかも自分の考えであるかのように語ることもあるかもしれない。それらのことは、つまり自分でものを考えているとは言えないのであって、他を主としている、ということになるのであろうか。

 何の先入見もなく、ありのままに真実を知り、目先の損得を離れたところでものを見たり考えることができたとき、自分が自分の主であるということなのであろう。それには外から入る様々な情報に刺激され反応する自らの心をよくよく調御しておく必要があるとこの偈文は教えている。その為には日々心静かに坐り、自らの心の内を見つめる修養が求められているのではないかと思う。 
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│ 平成十八年度國分寺年中行事                  │
│ 月例御影供・護摩供       毎月二十一日         │ 
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日          │
│ 中国四九薬師霊場巡拝(岡山鳥取) 九月十一・十二日   │
│ 高野山参拝         十月三・四日             │
│ 四国巡礼(愛媛一泊二日)   十月二六・二七日       │
│ 除夜の鐘 十二月三十一日                    │
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 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
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