備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成十九年四月号] 第十六号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


  國分寺の   
 来迎仏について
 

 ここ備後國分寺の本尊は現在薬師瑠璃光如来である。しかし、もともと國分寺には、丈六(立ち上がると一丈六尺ある御像)の釈迦如来が金堂におられたという。國分寺の詔に先立つこと四年、七三七年に朝廷は諸国に釈迦仏と脇侍菩薩を作らせ、大般若経の書写を命じている。そして法華経の書写や七重塔の建設を求め、続いて國分寺制度の詔勅が発せられる。

 ここ備後では、今国分寺跡とされて、昭和四十七年に教育委員会で発掘し、金堂跡、講堂跡、七重塔跡とされている参道入り口付近にもともと古くからのお寺があったのではないか。そして、詔勅後そのお寺の規模を拡張し改修して國分寺として整備したのではないか。そう考えなければ六百尺四方の境内から考えて余りにも窮屈な伽藍配置となっている。

 他の國分寺にも同様の事例があり、おそらくそういうことではなかろうかと、実は岡山からお越しになった郷土史家の先生から教えられた。それまでは、昭和四十七年の発掘調査が結果を急ぎ、十分な発掘がなされなかったのではないか、本来もう少し離れた位置に各堂塔があったはずではと、地元の学芸員さんが言われていた。

 そして、そののちの時代に、飢饉や疫病が流行し、皇室での薬師如来信仰が盛んになった。そこで、國分寺の本尊も釈迦如来から薬師如来を据えるようになったのではないかと言われている。

 もともと釈迦如来も薬師如来も、ほとんどわが国の造像はその姿に変わりはない。袈裟を纏い、右手は施無畏の勢いで外に向け、左手は、与願の印で膝の上に置かれている。その左の掌に薬壺を乗せているかどうか、それだけが違う。

 ご存知の通り、國分寺の本堂の入り口には医王閣と書いた扁額がある。医王というと、もとはお釈迦様ご本人のことであった。どんな悩み苦しみをかかえた人が来ても、その心や身体の病を癒してしまわれた。またお説きになる説法も、誠に科学的に当時の医者の診断処方に則った説き方をされた。

 それは、まず、ありのままの様子をご覧になり、その原因をつかみ、本来の理想とする姿を知り、そこに至る道筋を語った。その誰彼となく癒すというお釈迦さまのお徳の一つをとって、薬師如来が生まれた。だから、釈迦と薬師は正に同体であるとも言えよう。

 そして、ここから本題の来迎仏について述べようと思う。今ある元禄年間に再々建された國分寺の本堂内陣の東西の鴨居の上には、来迎二十五菩薩が祀られている。身の丈三十センチ弱。みな雲に乗っている。

 来迎とは、信者の臨終に際して、浄土から迎えに来ることである。古くは都卒天から弥勒菩薩が迎えに来る弥勒来迎もあるが、ここでは、阿弥陀如来の西方極楽浄土から往生する信仰者を音楽歌舞をもって祝福守護するために使わされる二十五体の菩薩であるから、弥陀来迎のことである。

 二十五菩薩に関しては、「十往生阿弥陀仏国経」に典拠があるとされ、「往生要集」を著した源信に「二十五菩薩和讃」がある。蓮台、合掌、憧幡、鼓、琴、琵琶、繞、太鼓、笛、笙などをそれぞれの菩薩は手にしている。現在の國分寺本堂が建造された際に造像され、一体一体施主の名前まで記録が残されている。

 ところで、薬師如来を本尊に祀る本堂内陣に、阿弥陀如来の極楽浄土から来るとされる来迎の菩薩たちが祀られているのはどうしてなのか。
 確かなことはわからない。しかし、平安後期に高野山金剛峯寺の座主となり、また根来寺に移って、新義真言宗の開祖となる覚鑁上人は、阿弥陀如来と大日如来の一体説を立てられている。

 また、古来、釈迦如来と大日如来の同体説も真言宗にはある。大日如来は、お釈迦様の得られた悟りの真理そのものを身体とされた仏であるから。したがって、冒頭に述べたように薬師と釈迦は同体であるから、釈迦と大日、大日と阿弥陀と繋がり、薬師と阿弥陀がぐるりと縁があっても不思議ではない。

 だが、それよりも、この本堂が再建された頃、江戸時代にはかなり浄土信仰が民衆に受け入れられ盛んであった。元禄より少し後の人ではあるが阿波の懐圓という学僧は、真言宗の即身成仏と往生成仏との二重安心説を主張し、真言宗にも往生が可能であるとの説を立てて、浄土教に流れる人心を取り戻そうと躍起になっている。

 おそらくそうした心理も働いて、広く備後圏内からの寄進をもって再建された國分寺本堂に据える御像として、当時の人々の最も切実な願いを叶える対象として、来迎二十五菩薩が選ばれ祀られたのであろう。

 いつの時代も、寺院は、その時々の時代背景と人々の願いを形にしたものなのであるから。(全)


読者からのおたより 

 國分寺庭園

 國分寺の客殿の裏に立派な庭があることは知ってはいたが、今までじっくりと拝観する機会がなかった。

 昨年、神辺町のシルバーセンターの人たちによって整備され、庭園の様相が一変したということで、あらためて拝観させていただいた。

 庭を取り囲む木々は剪定され、明るくスッキリとしている。心字池の枯れ草や泥土は取り除かれ、水面が青空を映している。

 多年、この庭園を管理されてきた庭園師塩出佳孝氏が書かれた國分寺庭園の説明書には、この庭は、三百年以上も前の元禄年間に作庭されたものと思われるが、江戸時代初期に造られた庭は全国的にも非常に少ない。庭園の様式は「蓬莱山庭園」で、左に「蓬莱山」、右に「鶴亀」を表しており、その山から流れ落ちる清水は滝となって「心字池」に注ぐ「座視鑑賞式」の庭園と考えられると説明されている。

 石を組み合わせて種々の風景や観念を表現する「石組」は、日本庭園の特徴であり、左の「蓬莱石組」は、中国の神仙思想に基づく不老不死の世界を表現したものであろう。

 右の亀島の上に赤松が立っている。何代目の松であろうか。枝振りは鶴の羽ばたきを思わせる。

 庭園では池が主要な要素とされ、「心」の字をかたどった「心字池」は、中世から江戸時代に広まったと言われる。池には睡蓮やカキツバタが植えられ、中央に「石切橋」が懸けられている。

 周囲の花木は四季折々に清楚な花を咲かせることであろう。

 客殿の廊下に座して庭を眺めていると、不思議に心が落ち着く。國分寺の庭園は、近郷では稀な名園である。(B)


総合仏教雑誌『大法輪』3月号
特集真言宗がわかるQ&A掲載

[真言宗の歴史]

前編 大師後の系譜

法流の分派

 真言宗の教えは、宗祖弘法大師によってほぼ大成されました。そのため、大師後二百七十年ほどは、教学上の発展を見るに至らなかったと言われます。しかし大師後、十大弟子のうち実恵と真雅の法流が栄え、皇室の保護尊信は大師の時代と変わらず、東寺を根本道場として発展します。

 実恵真雅の両法系を統合した源仁の弟子に益信(八二七ー九〇六)が出て、宇多天皇の尊信を得ます。天皇は益信に従って落飾され、延喜元年(九〇一)東寺灌頂院にて伝法灌頂に入壇。大内山に仁和寺を造営して御室と称し平安仏教の一大中心となります。歴代天皇の御受戒御出家が相次ぎ、密教研究が盛んになり造寺造仏を競ったため、密教隆盛の最頂に達したと言われます。

 宇多法皇の正嫡であった寛空は嵯峨大覚寺に住し、その法嗣寛朝は歴朝の国師として永祚元年(九八九)広沢に遍照寺を開創。益信を流祖とした広沢流と呼ばれる事相法流を大成し、諸儀礼の声明にも精通して真言声明の中興とも称されています。

 また益信と同時代に、真雅の法流を源仁から受けた聖宝(八三二ー九〇九)が出て、役行者小角の霊跡などを跋渉。法験を現して数多の尊信を集め、修験道の基を開いて、宇治に醍醐山を創建します。

 この聖宝の法資観賢(八五三ー九二五)は東寺長者となり、はじめて東寺灌頂院にて御影供を営み、延喜二一年(九二一)醍醐天皇の勅により宗祖に弘法大師の諡号を賜ります。観賢は勅使とともに御廟にいたり、大師の聖容を肉眼に拝したとして大師入定留身説を唱え、大師信仰を起こします。

 この観賢の法系から霊験を発揮して雨僧正と称された仁海が出て、正暦二年(九九一)小野に曼荼羅寺を開創。聖宝からの法流を大成し小野流を開きます。広沢流が仁和寺を中心に経軌を尊重するのに対し、小野流は醍醐寺を中心に師資口伝を重視しました。その後それぞれ六流に分かれ、併せて野沢十二流と言います。

高野山と覚鑁

 一方高野山では、その後の経営を大師から遺嘱された真然が堂塔を完成させ、後に東寺長者を兼ねると、宗宝として東寺宝庫にあった「三十帖策子」(大師在唐時に筆写された経軌)を借覧の上、高野山に保管。その後観賢が東寺長者のとき、この策子返還を院宣をもって督促すると、延喜十六年(九一六)真然の法孫無空は策子に随身し門徒を率いて離山します。

 正歴五年(九九五)雷火によって大塔はじめ壇上伽藍の堂塔を悉く焼失し、住僧のない時代が十数年続きます。祈親上人定誉は入山して復興に尽力し、仁海らも高野山浄土の思想を鼓吹して、藤原道長、頼道らの外護を得て、ようやく諸堂宇が再建されます。そして、高野山中興の祖明算(一〇二一ー一一〇六)が、高野山法流の主流となる中院流を開き宣揚して諸法会を興し、往時の盛観を回復しました。

 この後登山する覚鑁上人(一〇九五ー一一四三)は、仁和寺寛助に入室し南都に遊学後、二十歳の時高野山に登り修学修法に専心。鳥羽上皇の帰依を受け、院宣により今の金剛峯寺の地に大伝法院を開創し座主となります。

 そして、高野山の衰退とともに中絶していた伝法大会を長承元年(一一三二)鳥羽上皇の行幸を仰ぎ開白。春秋五十日間経軌を清談させました。

 既にこの頃末法思想が浸透し、高野山の別所には念仏聖が住み、浄土教の中心的拠点の一つでした。覚鑁はこれら高野聖とも交流し、大日如来と阿弥陀如来は本来一体平等であり、密厳浄土は西方極楽浄土を含むと説き、盛んとなる浄土教との調和を試みました。

 また覚鑁は、天台真言すべての法流を統一する伝法院流を開き、長承三年には金剛峯寺座主をも兼任し、高野山の興隆を計らんとします。

 しかし、大伝法院の隆盛に反感を持つ金剛峯寺方の常住僧徒と寺領の領有権をめぐる争いが起こり、覚鑁は二ヶ月足らずで座主を辞任。住坊密厳院に籠もり千日無言行に入って著述に専念し、「五輪九字明秘密釈」「密厳院発露懺悔文」などを撰します。

 そして永治元年(一一四一)、覚鑁は大伝法院の衆徒七百人と紀伊根来に退き、圓明寺などを造営するも、わずか三年後に四十九歳で永寂しました。

戒律復興

 鎌倉時代には、鎌倉新仏教が勃興する中、源家の氏神を祀る鶴岡八幡宮の別当に真言僧が任ぜられ、頼朝の一族や北条氏は高野山を崇敬します。

 また、奈良西大寺を中興する叡尊(一二〇一ー一二九〇)は戒律を復興して、乞食囚人遊女にいたる多くの人々に戒を説き布薩を行いました。当時既に鎌倉を中心に関東に多くの真言僧が進出しており、叡尊の弟子忍性は鎌倉に極楽寺を開創。悲田院、療病院を造り慈善救済事業を行いました。後に真言律宗として独立しました。

後編 新義派の分立を
   中心に

高野と根来

 高野山では、後に帰山した大伝法院方と金剛峯寺方はその後も騒動が絶えず、正応元年(一二八八)大伝法院学頭頼瑜(一二二六ー一三〇四)は伝法、密厳の両院を根来に移し高野山と断絶、分派独立します。頼瑜は教団の根本主張として、本地身説を基調とする高野山に対して加持身説を提唱。

 弘法大師が密教は法身説法なるが故に密教であるとした説を、頼瑜は更に厳密なものとして、無限常恒の本地法身を絶対無相の境地を説く自性身と化他の説法をなす加持身とに分けて、化他の一面においてのみ説法ありとして加持身説法を主張しました。

 この覚鑁上人を祖と仰ぐ根来寺の系統を新義と言い、その他高野山や東寺などを古義と言います。

 室町幕府は、夢想疎石など禅僧に帰依する一方、将軍家に護持僧として親近した醍醐寺座主満済を政治顧問として重用。醍醐寺は莫大な寺領所領を得て財力権勢は朝野を圧倒します。

 高野山では、無量寿院門主長覚が、一切の功徳は自心に本来具足しており凡身に即して仏となり得るとする不二門学派を宣揚。また宥快は、本来仏である我々は妄想に纏われ凡夫の相を現じているから、三密行によって功徳を開顕すべきことを主唱し、寶性院門主として而二門学派を大成しました。論義問講が盛んとなり教学の最盛期を現出しました。

 戦国時代、高野山や根来山では、諸堂宇や荘園寺領を管理する行人が時勢に迫られて僧兵となります。四隣を攻略、他領を略奪して、根来は七十万石、高野山は百万石を領します。

 豊臣秀吉は天正十三年(一五八五)十万の軍勢を配して根来寺を攻め焼き払い、その後高野山にも迫ります。しかし高野山客僧木食応其が陣中にいたり無事を乞い願うと、秀吉は逆に青厳寺(今の金剛峯寺)を寄進。

 一方、焼かれた根来寺では、学頭であった専誉(一五三〇ー一六〇四)と玄宥(一五二九ー一六〇五)が学徒を率いて遍歴。専誉は豊臣秀長の請により天正十五年豊山長谷寺に住して奈良時代からの霊場寺院を学山として栄えさせ、玄宥は慶長五年(一六〇〇)徳川家康より寄進された京都智積院を本拠として学徒の養成に努めました。

江戸幕府と真言宗

 江戸時代に入ると、寺院法度が発布されて寺院統制が厳しくなる一方、幕府は寛永年間に応仁文明の戦乱で被害を受けた門跡寺院などに寄進して堂塔伽藍を改修させ東寺、仁和寺、大覚寺、醍醐寺など大寺は概ね旧観に復することができました。

 高野山の頼慶は家康の信任を得て諸山に勧学の朱印を下すなど勧学運動に励み、教学の振興を計りました。

 また高野山では、高野聖により祖先の霊骨を高野山に納骨して菩提所とする観念が浸透し、多数の大名の五輪塔が奥の院参道に建立されます。

 新義真言宗では、五代将軍綱吉の帰依を受けた隆光(一六四九ー一七二四)が江戸に護持院を建立、元禄三年(一六九〇)覚鑁上人に大師号を奏請して興教大師号を賜ります。新義真言の僧録司にも任ぜられ、関東他派の多くの寺院を新義真言宗に転じました。

 また、智積院の学頭に運敞が出て教学の最盛期を迎えると、後に倶舎唯識の性相学が盛んとなります。これが豊山にも影響して亮汰など多くの学者を輩出し、あたかも南都仏教が両山に移転した観を呈しました。

 また、戒律の復興運動が起こると、浄厳が戒を仏道の基本とする如法真言律を唱導し、諸法流を統一して新安祥寺流を開き、梵学を復興。また、慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、正法律と称して釈尊在世時の戒律復興を目指して無数の道俗を教化。「十善法語」などかな法語を著し、十善戒を人の人たる道と説いて、後生の仏教者にも多大な影響を与えました。

近代の動き

 明治維新にあたり明治初年に発布された神仏分離令は、神仏習合を推進してきた真言宗寺院に大きな打撃を与えました。明治四年には諸山の勅会が廃止となり、承和二年(八三五)より宮中真言院で行われてきた真言宗による後七日御修法も中絶。しかしこれを憂いた雲照律師らの嘆願により、明治十六年東寺灌頂院にて御衣加持を主として再興されます。

 そして、明治五年に一宗一管長制が定められると、明治八年には合同真言宗が成立しますが、その後も離合集散を繰り返します。明治十八年初めて新義派の派号が公称され、さらに明治三十三年各山各立別置管長制度を確立して新義派が二分し、長谷寺を本山とする豊山派と智積院を本山とする智山派が独立。

 そして昭和十四年には、戦時下で強制的に一宗にまとめられ大真言宗を名乗りますが、戦後新しい宗教法人のもとに戦前にもまして各派が分派し現在に至っています。

[真言宗の年中行事]

 真言宗寺院の正月は、修正会に始まります。年のはじめに諸仏神祇、宗祖大師の御宝前に法楽をささげ、新しい年の無事平安を祈ります。

 そして、正月八日より七日間、真言宗最高の大法にて、かつては宮中真言院にて修せられた後七日御修法が行われます。今日では東寺灌頂院にて今上陛下の御衣加持により各本山の長老方が出仕され、玉体安穏・鎮護国家・五穀豊穣を祈祷いたします。

 また、釈迦ご入滅の二月十五日には、常楽会(涅槃会)がおこなわれます。釈迦涅槃図を掲げて、鎌倉時代の明恵上人作「四座講式」が流麗にお唱えされ、釈迦ご入滅を追慕し、報恩の誠をささげます。

 三月二十一日、宗祖弘法大師のご入定になられた日に、各本山や諸寺院にて御影供が修せられます。右手に五鈷左手に数珠を持った弘法大師の御影を掲げ、宗祖の恩徳に感謝をささげます。

 釈迦ご生誕の四月八日には、花御堂に祀った誕生仏に甘茶をそそいで、ご生誕を祝い讃歎する仏生会(花祭り)が行われます。

 そして、六月十五日宗祖大師の生誕日と、また新義真言宗では覚鑁上人の生誕日六月十七日に、ともに降誕会が行われます。弘法大師の降誕会は青葉祭りとも言われ、稚児大師像に甘茶を注ぎ大師のご誕生を祝います。

 また今日では夏などに、万燈会が行われ、境内にたくさんの提灯を灯し灯籠に点火して仏様を供養し四恩に報ずる法会が営まれます。

 さらに各本山などでは、信徒が仏縁を結ぶために結縁灌頂が行われます。受者は両目を覆い、敷き曼荼羅に一華を投じて得仏し、瓶水が頭頂に注がれ仏様とのご縁を結び、ご加護をうけるのです。

 そして真言宗の独特なる法会としては土砂加持法会があり、光明真言を唱えて土砂を加持してその加持土砂の功力により亡者の得脱を祈念いたします。また、大般若経六百巻を転読して除災招福を祈願する大般若転読会や彼岸会、盂蘭盆会、施餓鬼会、護摩供などの諸法会が各地の伝統風習に応じて厳修されています。

[四国遍路のススメ]

 十六年ほど前に、四国八十八カ所を歩いて遍路したことがあります。実は、その前年、インドで出会った臨済宗の雲水さんから「真言宗の人なのに歩いていないのですか」と言われ、「これから歩く予定です」と答えてしまったのでした。

 臨済宗では、眼病を癒すために四国を歩き、行き倒れた雪渓寺で出家され、昭和の白隠さんとも言われた山本玄峰老師が何度も四国を歩かれたことから、今でも徒歩遍路に出る雲水さんが多いとのことでした。

 「四国を歩くと歩いただけ坐禅ができるようになりますよ」とも言われ、その気になって歩いたのです。教えられたようにビニール紐で草鞋を編み、前に頭陀袋、後ろに寝袋をくくりつけ、衣姿に脚絆を巻いて網代傘をかぶり、錫杖を突きつつ歩きました。

 どこに寝たらよいのやら、昼に食にありつけるか、道に間違いはないか、そんなことばかりにとらわれて、ただ札所まで歩けばいいだけなのに様々な雑念ばかりが心に浮かんでくるのでした。そうした時には、なかなか札所が見えてこないもので、暫くして何も考えずに、ただ足の先だけを見て歩けるようになると、気がつくと札所の前に来ていることがしばしばありました。その時四国遍路は、正に歩く瞑想の道場なのだと実感いたしました。

 また、道端で佇むお婆さんから百円玉をのせたミカンをいただいたり。おにぎりを買いに入ったお店で、御飯ものがないからと、家の夕飯をパックに詰めてお接待下さったり。食堂でお会いした方に車で次の札所に連れて行かれ、そのまま善根宿をお接待いただいたこともありました。

 一度目の歩き遍路では三十九日目の夕刻、大窪寺に結願しました。拝み終わってベンチに座り、さあ、高野山までどうやって行ったものかと思案していると、たまたま隣り合わせたご夫婦から話しかけられ、徳島駅までと言われていたのに小松島港まで車をお接待下さいました。

 そして、フェリーに乗り込み和歌山港へ。そこから歩いて和歌山駅前に着いたのは、夜の九時頃だったでしょうか。駅前で知人の車を待っていた若い方に宿泊所をお尋ねしたところ、案内しましょうと言われました。それで、乗用車に乗り込みましたら、高野山までお連れしますということになり、話に興じている間に到着。結願した日の晩には高野山の師匠の寺に帰ることができるという、誠に絶妙な出会いの連続に不思議な遍路の功徳に感じ入ったものでした。

 出家とは本来、人様からいただく施食と粗末な衣で遊行しつつ樹下で暮らす者を言います。四国の道は、現代において、正にその出家本来の姿を体験させて下さる、得難い道場であるとも言えましょう。

 ところで、四国遍路の歴史は、奈良時代の役行者や行基までさかのぼることができるそうです。当時すでに、都から遠く海を隔てた四国の辺路は日本一の難所として知られており、大和葛城山などで修行していた役行者も四国まで足を伸ばしたと言われています。紀伊、淡路を通って、阿波、讃岐、伊予、土佐へと歩を進め、途中石鎚山にも籠もったとか。

 また、八十八カ所の札所には行基開基のお寺が多く、行基も四国を旅して修行し、様々な社会事業もなされたのでしょうか。

 そして、真言宗の宗祖・弘法大師空海も、おそらく生まれ育った讃岐から足を伸ばし、辺路の道場をくまなく渉猟されたのでしょう。舎心ヶ嶽や御蔵洞で虚空藏求聞持法を修したり、真言を唱えつつ山野を駆けめぐりました。そうして加持感応を示された霊蹟への道を、大師を慕う後の人々が踏み固めていったのが四国の遍路道です。

 鎌倉時代、若き日に四国の辺路を修行し、源平の争乱で焼失した東大寺大仏殿を再建した大勧進・念仏聖重源の活躍は、旅をして念仏する多くの仏教者を生み出し、さらに、そこへ一遍上人の時宗聖が加わり、たくさんの念仏聖たちが四国を修行に歩くようになります。

 戦国時代には、高野山や根来を追われた念仏聖たちが逃げ込んだ先が信長や秀吉の勢力の及ばない四国でした。彼らは後に全国を廻国して四国遍路の功徳を説いたと伝えられています。

 江戸時代には、四国遍路の中興と言われる真念と高野山の寂本によって、「四国辺路道指南」や「四国霊場記」が著され、四国遍路の大衆化が図られ今日に至っています。

 遍路道を歩いていますと、いにしえのお遍路さんたちが建立した様々な道しるべ、供養塔、地蔵尊を遍路道沿いに見ることができます。同行二人、杖を頼りに、是非歩いて遍路されることをお勧めします。(全)


 時代を見つめる   
 
ジェームス・ブラントの思い 

 ジェームス・ブラントという英国の歌手をご存知だろうか。彼は、一九九九年NATOの平和維持軍の大尉としてコソボに駐留して三万人の部隊を率いた軍人だった。その彼が歌手としてデビューして何年経つのだろう。一昨年欧米で大変な支持を受け、ヨーロッパ各国で大ヒットを記録した。一躍有名歌手となり、昨年になって日本ではドラマの挿入歌として流れ注目を浴びた。

 彼の歌う曲は、甘い恋人に語りかける恋歌の中に、この世のどうしようもない無力感、時代の耐え難い矛盾を聞く人に訴えかけているようだ。コソボで軍靴を履きながら眠る部下たちを眺めつつ、彼は曲を書き歌った。

 コソボで書いたという曲「ノー・ブレイヴリー」はこんな歌詞で始まる。

「子供たちがここに立っている
 両手を空に向かって広げて
 頬をつたった涙のあと
 彼が来ていたんだ
 兄弟たちは浅い墓地に横たわり
 父親たちは跡形もなく消えた
 恥ずべきほど国が盲目になったのは
 彼が来てからだ
 僕には勇気が見えない
 君の目には勇気が見えない
 あるのは悲しみだけ」

 私たちは何をやっているのか。何のために殺し合うのか。誰もが平和を望んでいながら死と隣り合わせに生きなければならない境遇をどうしたらいいというのか。そんな切ない思いが彼の歌声から伝わってくる。だからこそ彼の曲は多くの人々の心を打つのだろう。

 死の淵にある人たち、平和に暮らしていてもこの世の中の成り立ちに気づきつつある人々は、彼の書く歌詞に共鳴せざるを得ないであろう。

 『back to bedlam』彼のデビューアルバムのタイトルである。「精神病院にもどれ」とでも訳すのであろうか。アルバムの表紙には、人や動物たちを威嚇しているかのような王冠をかぶった猿が描かれている。

 このタイトルを見て多くの人々は何を思うであろう。アルバムタイトルへの思いについてインタビューで聞かれた彼がその真意を語ることは出来ない。そこで、私の思い入れと彼が見ていた世界の情景を思い浮かべながら、このアルバムタイトルに込めた彼の思いを私流に勝手に解釈してみよう。

「私たちはみんな
 誰もが心を病んでいる。

 上にいるあなたたちは、
この世界をどうしようというのか。
 あなたたちのしていることを
 私は知っている。
 しなかったことも。
 これからしようとしていることも。

 私たちはしっかりとこの瞼に
 焼き付かせ語り継ごう。
 戦争のまっただ中で
 命と引き替えにここに暮らす人々は
 みんな知っている。
 誰がおかしいのかを。
 あなたたちこそ
 精神病院に入るべきだ。

 そして誰もが分からなくなって
 精神が犯されている
 この世の中に生きる人々よ、
 一度自分を疑ってみよう。
 私も犯されてはいまいかと。

 この地上に生きる人々よ。
 何の不安も感じないでいられる
 今の幸せを大切に。

 それでも、私は歌う。
 すべての人たちの
 覚醒と未来のために。」

 欧米の多くの彼を支持し、彼の曲を聴く人たちの思いは様々であろう。しかし、そもそも音楽とはこのようなものではなかったか。心の奥底からわき上がる思いの丈を、このどうしようもない思いを歌にして多くの人たちに訴えかける。

 世の中よ、人々よ、これでいいのかと。そしてだからこそ多くの人々が共鳴している。私たちの言いたいことを曲にのせて歌う彼を支持する人の声なき叫びを聞く思いがする。

 ところで、今のこの時代が、あの戦争に向かっていった昭和の初期に似ていると多くの識者が指摘している。新聞テレビの報道もやや偏った傾向が見られ出した。マスコミやジャーナリストたちの見識を問い、報道の質を見定める目を、私たち自身が持たなければいけない時代となった。

 私自身、テレビを全く見なくなって何年経つだろう。新聞に目は通すが、その報道のすべてを受け入れる気持ちになれない。世論調査もそのまま信用することはない。恣意的に選別し、私たちをどこかへ誘導しようとするものとしてマスコミがあると思った方が良いのではないか。

 何があっても冷めた目で、様々な事件、報道に、それがどういう力関係、人間関係のもとに起こってきたものかを見定めることが必要だと、ある先生に教えられたことがある。九・一一のテロも、単なる文明の衝突では済まされなくなった。

 ジェームス・ブラント。彼の曲に共感する日本の若い人たちには、真に彼が訴える思いに気づき、それを我が身のこととして捉えて欲しいと思う。いまこの世の中はどのように存在し、どこへ向かおうとしているのかと。(全)


    若い方たちに
  
 人生に    
   リセットは出来ない


 ああ、こんな人生、一からやり直したい。そんな思いに駆られたことがある人は多いのではないでしょうか。あの時、ああしておけば良かった。なんであんなことしてしまったんだろう。どうしてあんなことを言ってしまったのか。などと、あれこれ後悔したりすることもあるでしょう。

 私自身、学生時代にもう少し勉強しておけば良かったと思うことしきりです。しかしだからといって、もう一度そのころに戻ってやり直せるわけでもなく、今できることをする、それしか私たちに残された道はありません。本当にそれが正統な考え方なのでしょう。

 しかし世の中には本当に追いつめられて、様々な理由から自分自身の生きる場が無くなり、自殺に追い込まれてしまう人もたくさんいます。誠に残念なことではありますが、ご存知の通り日本には毎年三万人もの人が自らの命を絶っています。

 生きているより死んでしまった方が楽になる。死ぬことしか考えられない。周りの人にとっても自分が死を選ぶ方が良いのだと思ってしまう。そして、死んでしまえば、その人生の難題がすべて解消できると思ってしまっているのではないかと思います。

 ですが、本当に死ねば問題が解決するのでしょうか。仏教ではすべてに因縁ありと言います。すべてのことは原因と様々な条件によって成り立っているということです。そしてその結果がまた次の原因となり、縁をともなって次の結果を導きます。

 つまり、自殺をしてもその因縁は次に行く世界、来世に持ち越されてしまうのです。死んで楽になると思うのは早計なのではないでしょうか。人生にリセットは出来ません。この世で何とか今の苦しみをどのようにしてでも解決していくことしか方法はないということなのです。

 私たちは、みんな違う環境に生まれ、様々な出会いによって、認識の仕方、物事の捉え方、好き嫌い、見方考え方が異なります。同じものを見ても、聞いても、嗅いでも、口に含んでも、触れても、その人の過去の経験いかんによってみんな違う受け取り方をします。

 私たちはみんな、これまでのそうしたすべての経験、つまり因縁の集積によってできている、成り立っていると言えます。それは、今のこの人生のことだけではありません。過去に何回も生まれ変わりを繰り返してきた過去世も含め、輪廻転生したすべての因縁と無関係ではありえません。だからインドでは、お釈迦様の様々な過去世の因縁話がジャータカ物語として伝承されてきています。

 わが国でも、「袖振り合うも多生の縁」ということわざがありますが、これは、取るに足りないようなちょっとしたご縁であったとしても前世からの深い因縁の仕業であるという意味で使われてきています。そして、それが次に他の縁を呼び、その人の人生にとって、とても大事な縁を生じるということもあるでしょう。

 隣あわせた人たちのちょっとした会話からヒントを得て、大もうけをする人もあるかもしれません。友人との何気ない会話から劣等感を抱き、啓発されて人生を根本から転換してしまうという人もあるでしょう。

 みんな誰しも苦しみの中に生きています。悩みが何もないという人はいません。みんな多かれ少なかれコンプレックスをかかえています。そこで、ある人はそれを自分の弱み、ウィークポイントとして認識して悩んだり、他の人との付き合いを限定したものにしてしまいます。ですが、ある人はそれを他の人にはない自分のキャラクターだと気楽に思って、たくさんの人に自分をアピールしてしまうかもしれません。

 また、同じことを言われても、別に意に介すことなく受け流し冗談を言い返せる人と、そのことに反発して喧嘩をする人もありましょう。その時はニコニコしていながら、胸に思いをため込む人もあるかもしれません。そういう違いがひとりひとり別々に、どうしても生じてしまいます。

 そうした捉え方の違いは、私たちの過去のすべての行いや経験、何かあったときに他の人から受けた反応や自分の評価や思いが蓄積されたものに影響されます。

 そうしたそれぞれの因縁によって生きる私たちは、みんな生きる目的や課題が違います。だからこそ誰もがそれぞれに自分自身を生きる価値があります。他の人と比較することは無意味なことです。他の人とではなく、少し前の自分と今の自分を比較し、少し先の自分の目標に向かって頑張ればいいのです。自分を変えるチャンスは今にあります。今何をするかということです。何事も今から始まると言えます。

 ところで、人生は何のためにあるのでしょうか。昔読んだインドの哲学者の本に、こんなくだりがありました。「神様に灯明、線香をお供えする人として生まれたとしても、死ぬときもそのようであったなら、何のために人生を過ごしたのか分からないであろう」と。

 これは、人がたとえ信仰心を持って生まれたとしても、そこから神仏にどれだけ近づけるか、行いも思いも、神仏の教えにかなうものにできるかどうかが大切なのだという意味だろうと思います。生まれたときと同じ場所にとどまっているのなら何のために生まれてきたのだろうかということだと思います。地位や財産、名誉が生きる目的などではなく、私たちはそれぞれの人生で、どれだけ心を成長させられるかが問われているのです。

 私たちの人生には、実に様々なことが起こります。その様々なことがあって、そこから何事かを学び、人として成長するために、私たちには時に過酷なまでの試練がやってまいります。いいことばかりではありません、ですが、それが人生なのではないでしょうか。だからこそそれを乗り越え、私たちは心を成長させることが出来るのです。     (全)


 般若心経からの
 メッセージ8


一心に一途にあれ

 次に、「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり」とある。ここに来て、いよいよ、だから知るべきであると、強い言い方をしてこの心経の核心を述べる。つまり、般若波羅蜜多とは、大いなるきわめて勝れた真言であり、無上なる比較すべきものもないほどの真言であると結論している。

 般若波羅蜜多とは、これまで述べてきたように、智慧の完成と言い換えられるものであり、その智慧の完成とは、前回述べたように、最高のさとりに向かって私たちの善行功徳を回向することによって得られる。しかし、その時、その功徳を意識したり回向することにわずかでも執着の心を生じていたとしたら最高の完全なるさとりに回向したことにはならないと言われる。

 だからこそ、般若波羅蜜多とは、大神咒であり、大明咒なのであるということなのであろう。真言とは、一心に、その意味さえ解することなく、無心に唱えることによって、神仏に直結する言葉なのであるから。

 時に、私たち凡夫は何かするとき、それが自分に見返りのあるものであろうか、賞賛に値するものであろうかと思いめぐらす。しかし、そういう思いなく、その人のためにとも思わずに、ごく自然に善行がなされたとき、思わぬ褒賞にまみえることもある。なにごとも、一心に一途にあれということか。

眼高手低

 そして、「よく一切の苦を除き、真実なり、虚しからざる故に」と続く。大神咒大明咒を唱えるという修行を支えとして、一心に一途になされる善行功徳を最高のさとりにと回向するとき、すべての苦しみがなくなり、真実のこととして、嘘偽りでなく、智慧の完成にいたるということであろう。

 ただ単に真言を唱えよということではない。娑婆世界での救済、今の言葉で言えば社会の福祉に邁進するという実践が基本にあらねばならない。なぜなら、大乗の菩薩は常に他者のため、一切衆生のさとりのために精進する存在を言うのであるから。

 志高く、行いは低く。常に最高のさとりを眼中に置きつつ、広くあらゆる人々とともにあるという意識が必要なのであろう。


読者からのおたより 

「千の風になって」
 
 大晦日の夜、何気なくテレビをつけたところ、偶然、「紅白」の番組から聞き慣れない歌が耳に入ってきた。オペラ歌手秋川雅史が歌う「千の風になって」である。

 この歌はご存知の通り、ずいぶん前から世界中で親しまれている詩である。アメリカのテロ事件で親を失った子供が事故現場で朗読したとか、戦死したイギリスの若者の遺書の中に入っていたとか、エピソードも語られている。各国で行われる戦争記念日、追悼・慰霊の式典などでは、必ずと言っていいほどこの詩が登場し、戦争や事故で愛する人たちを亡くした人たちが、この詩を口ずさみ、心の傷を癒しているという。

 詩の原作者は、メアリー・フライ(一九〇五ー二〇〇四)。アメリカの市井の女性詩人で、生まれて初めての作詩であるが、出版することも著作権を取ることもしなかったので、原作から派生作品も生まれる要因になったという。

 日本での訳詞・作曲は新井満氏である。新井氏にもこれにまつわるエピソードがある。三人の子供を残して妻に先立たれ、失意のどん底にあった親友の心を癒したいと思っていたとき、偶然この詩に出会い、新井氏が訳詞して曲をつけ歌唱してCDを友人に送ったのが始まりだという。写真詩集(講談社刊)も出版されている。

 誰でも自分の晩年にはそれなりの美学をもっているものである。みなさんはこの詩をどのように読まれましたか。 (B)

千の風になって
   
 私のお墓の前で 
 泣かないでください
 そこに私はいません 
 眠ってなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています
 秋には光になって 
 畑にふりそそぐ
 冬にはダイヤのように 
 きらめく雪になる
 朝は鳥になって 
 あなたを目覚めさせる
 夜は星になって 
 あなたを見守る

 私のお墓の前で 
 泣かないで下さい
 そこに私はいません 
 死んでなんかいません

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 千の風に
 千の風になって
 あの大きな空を
 吹き渡っています

 あの大きな空を
 吹き渡っています


 お釈迦様の言葉−十五

『この世は心によりて動かされ
また、心によりて悩まさるる
ただ心なる一つのものありて
すべてのものを隷属せしむるなり』
(相応部経典一・六二)

 この偈文は、お釈迦さまが祇園精舎におられるとき、夜更けに強い光を発して一人の神が天から降り立って、なした質問に答えられたものです。

 誰にも心があり、その心によってすべてのものが作られ動いています。道を造るのも、飛行機を作るのも人々の心の作用から願いを発し、想を練り、具体化していきます。人々の営みも心によって思い描いて、協議され、伝達されて動いていきます。

 ですが、心は、何でもできる万能なように思えて、それはまた私たちを悩ませ、苦しめるものでもあります。欲や怒り、疑い、怠け、おごりの心を起こして自分自身を、また周りを巻き込んで、私たちを翻弄します。

 だからこそ、この心を制御して邪なること、悪いこと、愚かなことに向かわないように気をつけている必要があるのでしょう。常に心が晴れやかであるよう、朗らかで明るくあるよう、すがすがしくあるように心がける必要があるのだと思います。

    平成十九年度國分寺年中行事

 月例御影供並びに護摩供     毎月新暦二十一日
 土砂加持法会             四月八日 
 正御影供並びに四国お砂踏み  四月二十一日
 四国巡礼(香川二拍三日)      五月九〜十一日
 万灯供養施餓鬼会          八月二十一日  
 高野山参拝              十月五日
 除夜の鐘                十二月三十一日

 ◎仏教懇話会   毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
 ◎坐禅会      毎月第一土曜日午後三時〜五時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四

郵便振替口座01330-1-42745ご利用下さい

□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
◎國分寺だよりは無料ですが、読んだら捨てずにご家族や知人にもご覧いただいて下さい。
「備後國分寺ホームページ」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/より
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