備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成十九年盆月号] 第十七号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


 神仏習合と八幡神 
 <日本の神と仏の交渉史>
 

 國分寺の本堂には、明治初年まで隣の下御領八幡神社に祀られていたご神体をお祀りしています。

 黒い厨子に入っているので、普段どなたも余り気に掛けることなく素通りしてしまいます。

 ときおり団体で國分寺に参詣され、少しお話しでも、と言われて様々國分寺の歴史などをお話しするときには、時々明治以降の歴史にも触れるため、その厨子についても解説します。
 「本堂左隅の黒いお厨子には江戸時代まで八幡神社で祀っていたご神体、真ん中に八幡神のご本地仏・阿弥陀如来と、八幡大菩薩がお座りになっています」と。

 明治になって神道国教化となり国家神道が民意掌握の手段として制度化するまでは、神仏はともに混淆して祀られ、信者は分け隔てすることなく参詣し信仰されてきました。

 神仏習合とも言われ、現在のようにお寺と神社は明確に分けられてはいなかったのです。
 仏教伝来と共に日本の神々の威光を増進するものとして仏教が捉えられ、各地の神社には付属する寺院が建設されました。神社の管理運営のために別当寺または神宮寺として立派なお寺が後から出来ることもあれば、お寺の鎮守として神を祀り社が造られ、神社が出来ることもありました。

 平安時代になると、神前読経が行われ、神に菩薩号が付けられます。平安中期には、日本の神は仏の化現したものとする思想が芽生え、仏を本地として権に垂迹の身を現したものであるという本地垂迹説が成立します。そこから神を権現と言い習わすようにもなります。

 神宮寺住職が神社の別当として神社の職務を統轄し、社僧と言われる僧侶が僧坊から社殿に入り、仏典を読誦して仏式で神を拝みました。祭礼に際しても、社僧が神殿奥に入り、仏式の作法により神を神輿に遷し、その神輿を担いで氏子は町内を巡ったのでした。

 江戸時代には、僧侶は幕府の官吏ともいえる特権から地位も高く、多くの神社を造営し、そこに僧坊を建て、その後寺格を調え、新寺建立を計ることも各地で行われました。
 宇佐八幡宮、太宰府天満宮、厳島神社、石清水八幡宮、祇園八坂神社、北野天満宮、東照宮、秋葉山、金比羅宮、春日大社、伊勢神宮等々、あげればきりがないくらいに、これら大社を含め多くの神社は神宮寺を付属し、社僧によって明治初年までは管理運営が図られてきたのでした。

 それでは次に、日本の神々の中で特に仏教と縁の深い八幡神について述べてみたいと思います。

 現在、八幡神社は全国に四万社あるということですが、全国の神社総数が十二万社ですから、実に三分の一が八幡社ということになります。

 八幡宮の祭神は応神天皇のご神霊であり、応神天皇の神霊は仏教伝来時の欽明天皇の御代に大分県宇佐の地に顕れたと言われています。

 そしてその時既に、八幡神は、仏教ないし道教と融合していたということです。仏教の八正道の教えが垂迹して八幡になったのだとも言われ、八正道の標幟であるとの説もあるほどで、仏法守護の神として仏教と一体となり古来信仰されてきたのでありました。

 天平勝宝元年(七四九)に奈良の都に大仏が出来ると、孝謙天皇は宇佐八幡別当弥勒寺に綿六万トン稲六万束を寄進。奈良の都に八幡神を迎え、東大寺鎮守として手向山八幡宮を造営しました。

 そして、総國分寺である東大寺が八幡神を鎮守としたことから、八幡神は全国の國分寺を常住守護する神と位置づけられ、國分寺が創立されると自ずからその近くに八幡社が勧請されるようになります。

 確かに、現在ある殆どの國分寺の近くに八幡社が鎮座しています。國分寺と八幡社の所在地は、ここ備後國分寺のように隣接している場合ばかりでなく、三四町離れている場合もありました。

 しかしともかくも、地域の守護神であった八幡神は、こうして地域性を越えて鎮護国家、庶民救済、仏法守護の神として祀られ、国家の守護神としての地位が確立したのでした。

 そして、平安時代になると八幡神を先に述べた如く「八幡大菩薩」と呼称し、地蔵菩薩形の八幡大菩薩像が造像され、多くの寺院の守護神として勧請されていきます。

 その後貞観元年(八五九)に京都石清水に八幡神の分霊が勧請されました。宇佐八幡では社殿と神宮寺が別個に存立し、祭祀は斎会と呼ばれ殆ど神仏混淆したものでしたが、神職が社僧の上位におりました。

 しかし、石清水八幡宮では一山の管理はすべて僧侶が占め、神官は僧侶の末席に位置し、祭祀様式は完全に神仏融合が計られました。

 そして本地垂迹説の普及によって、八幡神の本地は、当初、釈迦三尊とされますが、十一世紀には末世の到来と浄土思想の流布に応じて阿弥陀如来となります。

 鎌倉時代には源氏の氏神として鎌倉鶴岡八幡宮が造営され、それによって八幡神は武家の守護神、武運の神という性格を併せ持つようになります。鶴岡八幡宮も石清水と同様に官寺(国立寺院)として別当を置き、放生会を正祭としました。

 室町時代になっても、足利氏は八幡神を崇敬し、特に義満は石清水八幡を足繁く参詣しました。
 その後、石清水八幡別当寺では清僧を捨てて妻帯し世襲したと言われます。江ノ島弁財天でも、同様に世襲したと言われ、早くから大きな神社を管理する別当寺では妻帯し世襲することで寺社の法灯を継承していったことが分かります。

 また朝廷や皇室の八幡神に対する崇敬も言うに及ばず、国家の大事には必ず奉幣(神前に奉献すること)して崇敬の誠を表したと言われます。特に白河天皇は石清水八幡を国家の崇廟として八幡大菩薩を鎮護国家の霊神として年毎に行幸し、一切経を供養し大般若経を修したとのことです。

 その後江戸時代にはすべての国民が各々の寺院の檀徒であることが強制され、事実上仏教が国教の地位を与えられていたので、その後も、こうした神仏融和の歴史が長く続いたのです。

 しかし、明治に年号が改元される年に公布された神仏分離令、それに端を発する廃仏毀釈の嵐によって、寺院と神社のこうした一千年を超える歩みは瞬く間に粉砕され、今日に至ります。

 全国各地で寺院が壊され、経巻仏像が燃やされて、僧侶が還俗させられました。神社にあった鰐口や半鐘、様々な仏具、仏像のような神像等々は撤去され、境内を分割し、別当寺の僧侶が復飾して神官となるなどして、新たに宮司が任命されていきました。

 ここ備後國分寺に隣接する下御領八幡神社も、創立当時國分寺鎮守として祭祀された神社であったと言われ、貞享三年(一六八六)の再建棟札には、「領主水野勝慶の君命により修復。遷宮導師國分寺法印快範」と記されているということです。

 冒頭に述べた國分寺本堂の黒い厨子の中に祀られた本地仏阿弥陀如来像と八幡大菩薩像は、こうした長い一千年にわたる日本の神と仏の交渉史を物語る貴重な遺産であると言えましょう。今後も大切に祀り、お護りしていきたいと思います。                      (全)



「中外日報」平成十九年二月二十二日付より三回にわたり掲載されました
シリーズ『近代の肖像』 危機を拓く 一〇三回より一〇五回


 釋 雲 照 律師


釋雲照@ 略伝

 釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請うた明治の傑僧であった。
雲照は、文政十年、現在の島根県出雲市東園町に農家の五男として生まれ、十歳で得度。十八歳で高野山に登り伝法灌頂を受け、地方一寺院の住職となる。

 しかし、二十二歳のとき高野山に登り金剛峯寺衆徒となり真言宗学を悉く学ぶと共に、全国の名山大寺に高僧を訪ね天台十不二門、唯識論述記、止観、梵網経など宗派を超えた修学受法に努めている。この間幾度となく虚空藏求聞持法、八千枚護摩供を修した。

 明治維新を四十二歳で迎えると、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、一沙門として、「三道一致国体建白」「廃仏毀釈に対する建白」など建白書を携えて京都、東京の政府当局に出頭して「仏法は歴代天子の崇信するところにして、皇国の神道及び儒教の忠孝と相助け国家を擁護せるものなれば、一旦にしてこれを排棄すること甚だ非なり」などと剛毅不屈の気迫をもって建白を重ねた。翌年には諸宗同徳会盟に参加。

 また四十八歳の時京都勧修寺門跡。五十三歳で大学林学頭になり、真言宗各本山が独立の機運ありと知ると、大崎行智らと湯島霊雲寺に各派代表九十五名を集め真言宗大成会議を開催。委員長となり、真言宗新古統一の宗制を定め、戒律中心主義に基づき厳格なる宗規を定めた。そして、真言宗僧侶養成の機関として東寺内に総黌(今の種智院大学の前身)を設立。

 明治四年の諸山勅会廃止により中絶していた宮中後七日御修法の再興を東寺長者三條西乗禅、土宜法龍らとともに関係諸氏に懇願。玉体加持に代わり御衣を下附され、東寺灌頂院にて明治十六年より再興するに至る。

 同年久邇宮殿下の外護を得て「十善会」発足。しかし翌十七年に真言宗宗制会議が開かれると、戒律中心主義は根底から覆され教学中心主義の宗制が制定されるにいたり、宗団の改革見込みなきことをさとった。

 明治十八年、雲照の護法に掛ける情熱に敬服していた政府大書記青木貞三氏は、首都東京での護法民衆教化にあたることを進言。五十九歳で雲照は東京に出て、明治十九年現在の文京区関口二新長谷寺(後の目白僧園)住職。

 そこで、戒律学校を開き、常時四十名程の僧侶が薫陶を受けた。また、通仏教を標榜し国民道徳の復興を目的に社会の一道徳的教会として「十善会」を再興し、「夫人正法会」を発足。会報として『十善法窟』『法の母』を発刊。後に共に天覧に供された。

 那須野に雲照寺開創、備中寶島寺に連島僧園を開設し、目白僧園と併せ三僧園とし、持戒堅固な清僧の養育にあたった。

 六十二歳の時わが国で初めて大蔵経の和訳事業を開始し、六十八歳頃からは、早稲田大学で「金剛経」をまた哲学館(後の東洋大学)では「仏教大意」を講義。

 七十歳からは、説法教化のために全国各地を巡り、七十三歳の時仁和寺門跡となる。日露戦争戦歿者慰霊のために光明真言百万遍講を組織して霊を弔い、八十歳にして、満韓戦場戦死者回向のため満州朝鮮に渡り、各地で追悼法会を営んだ。

 さらに、八十二歳で、東北、北海道、樺太巡教。西洋化する社会を憂えて神儒仏三道一貫の精神をもって本義とする国民教育を施す場として徳教学校設立運動を開始する。

 しかし、志半ばにして明治四十二年四月十三日遷化。不惜身命の精神で、仏教護法にささげた八十三年の生涯であった。

釋雲照A 正法律復興

 釋雲照律師は、生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り午後は食事を摂らなかった。その生活姿勢の厳しさから滲み出る、崇高なる人格が人々を感服させ、いかなる人と言えども会見に際しては自己を三拝させたと言われる。

 丹波敬三薬学博士は「言わずして人を感服せしめ、菩提心を起こさしむる御方である。決して律師は口の人でない、筆の人でない、研究の御方ではない、全身これ法門、五尺の身体そのままが四六時に活説法していられる」と雲照を評している。

 雲照自身が戒律の尊いことを知るのは、十六歳で『沙弥十戒経』を読んだときだった。「沙弥の戒は尽形寿(一生涯)人物を残殺し傷害することを得ざれ」とはじまるこの経には、「沙弥の戒は尽形寿婦(嫁)を取り、継嗣を畜養することを得ざれ。女色を防ぎ遠ざけ、六情を禁閉し、美色を見ること莫れ」ともある。

 本来、戒を持するがゆえに僧侶、仏弟子たり得る。正法は戒律を堅持する僧侶によって久住せしめられる。このように解した雲照は、当時の僧界の破戒堕落甚だしい状況を嘆いて、仏祖の示したこの経の如くに戒律を守り正法を興起して仏教界に生気を与えようと志したという。

 そして、雲照は十九歳で県下一寺院に住職し、釈尊涅槃会の前日夕刻、本堂にて単座し本尊観音菩薩に祈願していると強い霊感にうたれた。そのとき、正法興隆のために今後一切女人と同座せず、飲酒せずと誓い、正法律そのままに生活することを誓ったという。

 そして、二十九歳の時、常に敬仰し心の師と仰いでいた江戸時代の学徳高き清僧・慈雲尊者の墓に詣で、尊者五世の法孫で当時持戒第一と称されていた東大阪長栄寺端堂を戒師に沙弥戒、十善戒、雲伝神道などを受け、三十四歳の時には河内高貴寺奥の院にて具足戒(二五〇戒)を受けた。

 このとき雲照は、慈雲尊者の教えを継承する者と自覚して、正法律の復興と正法興隆の念を益々厚くしたと言われる。

 慈雲尊者は、僧坊の組織、僧徒の行儀、袈裟の縫い方やかけ方にいたるまで悉くを釈尊が説かれた如くに、千年経っても万年経っても行うべきであるとして、正法律を創唱した。

 律藏に従い、大乗小乗の区別を付けることなく、自派他派、宗派の別を言うことなく、超宗派の立場から、日常の行為実践に基づき仏教の統一を起こそうと試みた。

 そして、十善を人の人たる道と説いた慈雲尊者の平易な教えは、明治時代、雲照をはじめ、浄土宗の福田行誡、戒誉、曹洞宗の大内青巒、山岡鉄舟らが通仏教の立場から鼓吹している。

 中でも、慈雲尊者の戒法を相承する雲照は、明治の僧界が混迷する中で、戒律の根本道場として如法の僧侶育成のために戒律学校を設立。目白僧園をはじめ、那須僧園(雲照寺)、連島僧園(備中寶島寺)の三僧園を開園した。

 ところで、明治五年、肉食妻帯勝手たるべしとの勅令が出ると、高野山では女人禁制を解く旨が宣せられた。

 政府勅使を迎えた山内僧侶が、みなこれを了承する中、雲照は一人憤然と立って、「女人禁制は歴代天皇の御詔勅、これを撤廃するはその叡旨に背くものなり、愚衲は歴代天皇の勅使として閣下の罪をたださん」と抗弁したと伝えられている。

 釈尊は、国王に対しても師として教えを垂れた。仏祖の訓戒をそのままに生きようとした雲照は、仏教本然のあるべき姿を近代の世で体現した人であった。

 雲照の位牌には「正法律復興雲照大和上不生位」と記された。


釋雲照B 三世因果と十善

 丁度雲照が東京に転機を見出した頃、廃仏毀釈の時代は既に過ぎ去ってはいたものの、欧化思想が蔓延し、知識階層の仏教に対する無関心が進行していた。そのため、西洋の学問を学んだ仏教徒たちによって近代的仏教研究が試みられていた。 

 しかし雲照は、こうした西洋的方法で仏教を研究するのではなく、仏教の原点へ回帰することで、知識人に自律的覚醒を促すべく論理的合理的な仏教論を展開したのであった。

 明治二十二年に「十善会」結成二年目に刊行された『佛教大意』では、仏教の真理として、諸行無常などを内容とする三法印から説きはじめ、そこに至らんとする菩提心を論ずるにあたり、四諦、十二因縁に触れ、その実践道においては十善戒法、五停心観、四念処など修禅観法を丁寧に解説している。

 中でも、「我等は過去以来の善悪の業因と現世人界において造れる業因とによりて、一期命終の後、必ず未来の生を受くべきなり」などと、三世因果の業報論に紙数を費やし、十善戒をはじめとする実践法への論拠とした。

 そして、明治三十八年に刊行した『佛教原論』では、因果応報の道理をほぼ全編三百頁にわたって詳述した。

 また、『佛教通論』(明治四十三年刊)では、「老衲、十年一日の如く十善を説き、善悪因果応報の真理を主張せり。(中略)しかるに、世間の多くはその教宗(各宗派の教え)の玄妙を説くことのみ意を用いて、仏教の宗骨たる、大小に一貫して片時も離れざるべき因果応報は、あたかも人生における命根たるに、それを忘れたり」と述べている。

 各宗門においては、そのころ戒律を疎かにするばかりか、その教義を談じるにあたり、自宗の特徴優位ばかりを主張して、釈尊所説の仏教の仏教たる根幹の教説を軽視し損ないつつあった。

 そこで浄土宗の福田行誡師は「仏法をもって宗旨を説くべし」と言われたが、雲照は、諸宗教義の本に本来あるべき教説を開示し、それによって現実社会の諸相を解明し仏教が世の中に不可欠な教えであることを論証しようと試みた。

 雲照が一生涯に残した著作は三十余部を数える。その大半は戒律に関するものではあるが、それも含め多くが超宗派的な、宗派仏教の限られた見解を離れた仏教の根本を明らかにしている。

 そして雲照は「十善会」を設立し全国に支部をつくり巡教するなど広く世間にむけて、三世に因果応報を詳察するが故に、なんびとも受持すべき教えとして、万行の根本たる十善を提唱した。文明開化に沸き世の中が西洋化して欲望が肯定されていく風潮に抗い、仏教倫理として十善戒を守ることを社会道徳の根本と位置づけ、治国の基礎となることを願った。

 こうした一途な雲照の活動は海外に知られ、英国人フォンデス、セイロン人ダルマパーラ居士など多くの外国人も来訪して教えを乞うた。甥興然のセイロン遊学に機を得て、インドの仏蹟地を異教徒から買収して世界仏教の総本山たらしめ、世界仏教の統一まで視野にあったと言われる。

 明治元年の戊辰戦争の最中、法弟と伏見街道を歩いていると、数人の殺気だった荒武者が駆けてきた。脇道を行くことを進言する法弟に、「本道を歩かずにどこを歩くのか」と言われ、本道を行くと、その血相を変えて逃げてきた武士たちは逆に救いを求めた。

 雲照はその時、威儀を調え諄々と因縁の尊さを教え、十善戒を授けた。その教化に安心した武士たちは所持金すべてを雲照に供養したという。

 正に、生涯仏道の本道を歩まれた人を象徴する逸話と言えよう。(全)



 四国遍路行記C  
 徳島市内から薬王寺まで

     (平成二年三月から五月)

 徳島市内の中学校の駐輪場で目を覚ます。この時まだ寝袋の下に敷くマットも用意が無く、コンクリートの上に新聞紙を敷きそこへ寝袋を広げた。おかげで、夜中深々と冷えてきて、身体に当たるコンクリートの堅さにろくに眠ることが出来なかった。

 それでも明け方眠りについたのであろう、白々と夜が明ける頃目を覚ました。夜暗くなってから入り込んだので、守衛さんにも告げずに寝てしまったことに引け目があり、見つかる前に出かけようと、急いで荷物をまとめ歩き出す。

 裏通りから国道に出る。まっすぐ東に向かう。朝から、右足の足首辺りに痛みを感じながら歩く。途中市庁舎や駅前を通る。県庁舎の前を通り、道が南に向く。この辺りから足が動かなくなり、通り沿いの喫茶店に入った。温かいココアを注文して暫し休息。

 右足の足首がジンジンするので、さすってみる。少し膨らんでいるようにも思えた。しかし小一時間休んで、また歩き出す。街路樹のツツジが鮮やかな赤紫色をして目を楽しませてくれているのだが、そんなときに限って薄曇りの天候ということもあり、一向に気分が乗ってこない。

 小松島辺りで国道から右手に入り山沿いの道へ。恩山寺の看板が目にはいる。足を引きずるように何とかなだらかな山道を登り境内へ。
母養山恩山寺という。かつて弘法大師がここで修行中に、母玉依御前が訪ねてこられ、女人禁制を大師が解いてお参りさせ、そこで母は髪を切って出家なされたとの言い伝えから、このような山号と寺名になったという。

 本堂まではさらに石段を遙か上まで上がらねばならなかった。薬師如来。伝行基作。椅子があるので坐って理趣経一巻。足が痛み、歩くよりお経を上げている時間の方がホッとする。大師堂は下。また石段を下りてお参りする。隣には玉依り御前像を祀ったお堂があった。
上ってきた道を降り境内を後にする。すると初老の一人歩きの女性から話しかけられた。白装束を身につけ運動靴を履き杖をつく姿は、私と同じ歩き遍路の初心者を思わせた。聞くと千葉県から一人で出てきて歩いているという。私が足を引きずるのを気の毒に思ったのであろう、Aさんはゆっくりと歩いて下さった。

 田圃沿いの車が良く通る小道の脇を歩く。何を話したのだったろうか。おそらく、私のそれまでの歩みを語ったはずである。インドで四国の歩き方を教えてもらったことも。Aさんは、少し話をしたら、「それでは」と言って先を行かれるのだろうと思ったのに、なぜか、わざわざ遅い私を気遣い、ついてこられる。

 歩き遍路というのは不安なもので誰でも同じ志の人と歩くだけで安心するところもある。そんな初心者としての心理からだろうか。あれこれ話をしている間に橋を渡り平地にある十九番立江寺までご一緒した。そろそろ夕方だった。

 「本堂で長くお経を上げますから、お先にどうぞ」と言ったのに、それでもまだ何か本堂でご覧になり待って下さった。暗くなりかけていたこともあり、「寺務所に本堂のひさしの下で寝かせてもらえないか」と頼みに行った。すると「歩きですか。それなら、どうぞ宿坊を御接待します」と言うではないか。早速Aさんもお誘いして二人共々大部屋に向かうことになった。

 早速お風呂に入る。立江寺さんの歩き遍路に対する歓待に感謝しつつ、昨晩のことを思うと嘘のようであった。自転車置き場にこそこそと入り込み横になる晩もあり、またこうして勿体ない宿坊に接待を受ける日もあり、その日その時の境遇を素直にありがたく受け入れねばならない歩き遍路の心構えを早くも学ばされた。

 泊めていただいた楓の間には「妙應無方」と書かれた掛け軸があった。どんな意味なのだろう。どんなところでもそのままに応じて受け入れよ、とでもいう意味なのか。近づいて見ると、戦後まもなくに高野山の管長にもなられた八栗寺の中井龍瑞猊下の書であった。

 真言密教の坐禅である阿字観を多くの人に勧められ、以前私も「密教の一字禅」(高野山出版)という本を読ませていただいたことがあった。その晩は足の痛みも忘れて、しばし坐禅を楽しんだ。

 翌朝、六時半頃玄関に行くと、Aさんがいて、私のことを待っていてくれたのか、昨日と同じように一緒に歩き出された。昨日は夕暮れで気がつかなかったが、境内には人の丈の三倍はあろうかという立派な修行大師像がそびえ立っていた。山門で振り返り、丁寧に一礼して歩き出す。

 二十番鶴林寺への道は、細い舗装道路が続く。途中飛ばす車によけられながら進む。大きな夏みかんの木のある集落から山道に入る。山の道に何段もの石段が現れた。十二時頃山門を入ると鶴の彫像が出迎えてくれて鶴林寺に到着。

 庫裏から石段を登ると徳島県最古の三重塔が美しく、その上に地蔵菩薩を祀った本堂があった。鶴林寺は山号を霊鷲山と言う。霊鷲山とは、インドのかつてお釈迦様が説法された場所と言われる山のこと。山の頂が鷲に似ているからと言われるが、鶴林寺の山が鷲に似ているとは思えなかった。

 太龍寺への道は宿坊脇の道を降りていく。ひたすら山道をあるく足が心地よい。次第に足の痛みも和らぐような感じがする。それでも相変わらず右足首の痛みは残り、かばいつつの歩みであった。

 大井あたりで鶴林寺の住職に出会った。法事か何かだったのだろう黒い改良服姿で、温和ないい顔をされていた。道案内を受け、先に進む。太龍寺山に上がる道の横に小川があり、Aさんには先で休んでもらい、一人裸になり水を浴びる。

 さすがに冷たかった。だが、体が凜として、着込んで歩き出すと五日前に歩き出したときの、はつらつとした感覚が思い出された。山の遍路道を上がると太龍寺山門が突然現れる。もうすでに夕刻が迫っていた。

 ご存知の通り、太龍寺は今では立派なロープウェイがついて、車で来た人はぐるっと大きく回り込んでロープウェイ乗り場に入らねばならないから、道がかなり違っている。この時はまだそんな大層なものはなく、静かなまま、山門の脇に出て、門をくぐった。

 太龍寺は舎心山という。弘法大師が十九歳の時、ここ太龍寺山の南舎心嶽というところで虚空藏菩薩の真言を百万反唱える求聞持法をなさったところだ。これを修するとただちにすべての経文の文句を暗記でき、意味を理解できるようになると言われている。

 昔は、官吏になるのに多くの漢文を暗記する必要があり、その為に官吏になる試験を受けようという人は挙ってこれを修したらしい。

 勿論弘法大師はその為になさったのではないようだ。それよりも本当のものを求めておられたはずだ。だから四国の辺路の道まで来られたのであろう。

 本堂をお参りしてから、その南舎心嶽に行ってみた。切り立った崖を縫うように進む。突端に平坦なところがあり、数珠を繰りながら坐られたお大師様のご像がおられた。手を合わし戻り、大師堂に向かう。さすがに西の高野山と言うだけあって、高野山奥の院と同じ造りになっていた。

 手前に灯籠堂があり、その先に御廟がある。草鞋を脱ぎ縁を通って御廟の前に進み、読経する。明治十年の建物だという。多宝塔も立派だ。

 拝んでいたら、歩きながら自分の居場所ばかりを願っている自分がとってもちっぽけな者に思われてきた。その前にお大師さんの足元にでも触れるような仕事をまず考えるべきなのであろう。が、気がつくと自分のことばかりが先行している。

 四国の道を歩いていても、これだけの道を千年にもわたって多くの人たちが絶え間なく歩いてきたということに驚かされる。随所に残る地蔵尊、三界万霊塔、大師堂、小庵、光明真言読誦の祈念碑など、すさまじいばかりの人々の思いがそこにある。

 先人の徳を慕い、我らも行じねばとは思うものの、やはり足の痛みには勝てない。実は太龍寺の副住職さんは高野山で同期だったのだが、この時にはお会いできず、足を引きずりつつ、お寺を後にする。

 麓の宿までの坂道が足にこたえる。Aさんも私の痛い足に付き合ってゆっくりと歩いていかれる。辺りが寂しく暗くなりかけた頃、一緒に麓の宿に入った。

 次の日もAさんがお供して下さった。太龍寺の麓から十キロほどの道のりを歩く。途中薄暗い竹藪の中の道を抜ける。光が竹の葉に透けて、きれいな黄緑色の空間を醸し出していた。幾重も落ちた竹の葉の感触も柔らかい。思わず寝転がりたくなる衝動を抑え、心持ち軽快に足が前に進んだ。

 二十二番平等寺は、山裾に位置しているため山門を入ると正面に長い石段が目にはいる。本堂はずっと上だ。山号を白水山と言い、お大師様がお参りのみぎり、五色の雲に乗って薬師如来が現れ、祈祷するため井戸を掘ったところ乳白色の水が湧き出たという。その水は今でも滾々と湧き出て、その水で入れたお茶を接待にいただいた。

 昔は遍路宿を経営していたのではないかと思われる家並みを抜けて、先を歩く。途中小さな森の中に番外の札所であろうか。お大師様を祀ったお堂があった。そこを抜けると国道に出る。Aさんと、とぼとぼ歩く。すると一台の新車が私たちの少し前に止まった。運転席から背広姿の初老の男性が降りてきて、「どうぞお乗り下さい」と言う。

 Aさんと顔を見合わせ、乗り込む。聞くと、いま車屋さんから受け取ったばかりの新車で、どなたかお遍路さんを乗せたかったのだと言われた。丁度次の薬王寺近くの高等学校まで行くらしい。実は、そこの校長先生であった。

 渡りに船。初心者遍路にとっては特に有り難いお接待である。新車にお遍路さんを乗せて接待し、それを交通安全の祈願にするというのか、それとも新しい新車で共々功徳を積むことで、縁起の良い新学期をスタートさせたいということであったのか。とにかくも、何ともありがたいお接待であった。

 二十三番薬王寺は、国道沿いの入り口から石段を幾重も上がっていく。平安の昔から厄落としの寺であったと言われ、女厄坂三十三段、男厄坂四十二段の石段の脇には小銭が沢山置かれていた。本堂前まで来ると、視界が開け、後ろには日和佐の海が一望できる。

 ウミガメの産卵でも有名なところだ。本尊は薬師如来。ゆっくりと理趣経を上げる。右手山上には瑜祇塔が美しい。多宝塔の屋根の中心と四方に五本の瑜祇五鈷を乗せた姿をしている。

 この日も多くの参拝者が後先にお参りしていた。夕刻が迫っていたが、まだ日も高く先に歩を進める。そろそろAさんとも三日目。Aさんもいつまで一緒に歩いていいものか思い計っているようでもあった。心なしか口数も減ってきた。

 私が衣を着込んだ僧侶ということもあって、お昼の食事から宿代までご面倒を掛けていた。国道をとぼとぼ歩きながら足が次第に楽になってきた分、明日のことを考え、また今日の宿のことを考えていた。

 普通はその日の宿くらい電話を入れておくのがマナーというものだろう。しかし歩き遍路はこの日の車の接待のように、どうなるか分からない。だからこそおもしろいし、出会いの妙がありがたい。

 日和佐を出て、牟岐の街まで来たところで夕刻になり、日が傾いてきた。「私はこの先でどこかに寝袋を広げますから・・・」と言うのに、Aさんが「今晩までお接待しますから」と言われた。厚かましいかとは思いながらもお供させていただいた。

 JRの駅を過ぎて左に入った宿に入る。同じ関東出身で巡り会わせた機縁、励まし合いながら手探りのAさんとの三日間であった(全)

「てくてくと お前も遍路か かたつむり」
「こらこら車 そんなに急いで いいことあるか」
「太龍寺へ 道案内か トンボたち」



 倍音読経    
 天界の音楽を聴こう


 もう二十年ばかりも前のことではあるが、高野山の僧侶養成所である専修学院で一年間を過ごした。全寮制で六十人からの様々な年齢の出家得度しただけの僧侶が入学し、白衣の上に黒衣を着て白袈裟を掛けた姿で、朝は本堂、夕方には持仏堂の広間で勤行を行う。

 四月に入寮して二三ヶ月のある日の夕刻。夕勤を広間で三十人三十人が向かい合わせて坐り、習いたての経を読
(宝寿院広間で戒を受ける専修学院生)
んでいると、何やら女の人の声のようにとても高い声が聞こえてきた。何事かと思って目を上げても何も変わったことはない。すると暫くして銅鑼や笛や太鼓の音が聞こえてきた。何ともそれが心地よい。まるで天界の音楽を奏でているような昂揚した心地がした。

 小一時間のお勤めが終わると季候が良いことはあったが、顔が火照っているような感じがする上に身体の疲れがスッキリ取れたように身が軽い。そんな不思議な感覚を味わった。周りの何人かもそんな法悦を味わったかのようにいい顔をしている。聞いてみると同じように不思議な音を聞いたと言っていた。

 これは決して誰かが素っ頓狂に馬鹿高い声を出したわけではない。ご承知のように音は波動であり、声の低い男の人だけの読経であっても、その声の音がきれいに合うとその波が共振して突如として倍音というそれまでの波形を突き抜けた波となることがある。それは誠に高い音として聞こえては来るけれども決して聞きにくい音ではなくて、きれいな清音である。

 昔東京にいる頃、五反田でデバインヨガクラブという教室を開いていた成瀬雅春氏にヨガを習っていたことがある。成瀬氏は空中浮遊で有名だが、気功やイスラムの修行者であるスーフィーなどの研究もされ、ここで言う倍音についてもかなりの研鑽を重ねられ、「倍音声明」と銘打って、講習会や体験会をされていた。

 あるとき神奈川県の田谷の洞窟での体験会に参加したことがある。その洞窟は、田谷山瑜伽洞といい、横浜市栄区田谷町に位置する真言宗定泉寺境内にある。

 古墳時代の横穴墓あるいは横穴住居跡だったものを、鎌倉時代、修行僧たちが真言密教の道場としてノミ一本で迷路のように掘り広げたものだという。その後崩落荒廃していたが江戸後期、天保年間に洞窟を整備して数々の彫刻を施し、四国や西国、板東などの観音霊場を彫刻した地底伽藍が完成。東京近郊の人工洞窟としては比べるもの無い規模と内容を誇り、洞窟内の公開されている順路は五百メートル弱もある。

 そのとき何人くらいの参加者がいたであろうか、思い思いに坐り、低く母音を唱えていく。ウー、オー、アー、エー、イー、と順に唱えていく。ウーと唱えると、肛門の少し前の会陰部が振動する。オーと唱えると、臍の少し下丹田が振動する。アーと唱えると心臓が、エーと唱えると甲状腺が、そしてイーと唱えると頭頂が振動する。

 私たちのホルモンの分泌する主要な箇所がこうして母音を低く唱えることで活性する。それを大勢ですると音が共振して倍音が深くそれらの箇所、つまり「チャクラ」とインドで言われるエネルギー帯が活発化して誠に心地よく、全身がリフレッシュする。

 その田谷の洞窟での体験会では、誠に素晴らしい音の世界、まさに天界の音楽を聴く不思議を体験することができた。

 私たちがお寺で唱え耳にする仏教音楽である声明も、一様に経文の母音を長く抑揚を付けて唱える。おそらく、この倍音声明と同様に、音の不思議を体験させ、唱える者も聞く者も共に仏の世界を体感させることがその深秘としてあるのではないかと思われる。               (全)


 いざというとき困らないための仏事豆知識@

『枕飾り』

 人が亡くなると、ご遺族はまず檀那寺に連絡を入れます。檀那寺ではご遺体がお宅に帰る時間を尋ね、その時間に枕経にお伺いします。

 ご遺体の枕元には机が置かれ、そこには、花立て、お灯明、香炉、枕飯の盛られた飯椀、水の入った湯飲み茶碗、打ち鳴らし、そして、ご遺体の上もしくは枕元には小刀が置かれます。

 花立ての花は、俗に「一本花」と言われますが、樒を一本立て、線香も一本点じ香炉に立てます。ともに、まっすぐ一直線にあの世に召されることを願うためと言われています。

 また、一本花は故人に供えるため急いで取ってきたことを表しているとも言われ、線香は仏様への供養ではなく故人のご遺体の臭いを消すために焚く香だと考えられています。灯明は、ロウソクが用いられ、普段と変わりません。

 枕飯は別名「山の飯」とも呼ばれておりますが、一合の米を炊きその全部を山盛りに一つの御飯茶碗に盛りつけます。そこに二本のお箸を山盛りの御飯の真ん中に縦に並べて立てたり、一本は縦に一本は横に立てる場合があるようですが、この地方では前者のようなされるようです。

 また、湯飲み茶碗には水を入れ、その中に樒の葉を一枚入れるか、新しい筆、ないし割り箸に綿を巻いたものを用意します。

 これは故人に末期の水を与えるためのものです。またご遺体の上に置かれる刀は遺体を傷付ける悪魔を追い払うために用意するのだと言われています。

 枕経では、はじめに故人に臨終の印と真言を授けます。そして、魔を防ぐために、その場を不動明王の真言などを唱えて結界し、三帰十善戒などをお授けして、般若理趣経を読誦します。

 枕経が済みますと、通夜葬儀の日程を打合せます。それから、葬儀で導師が読み上げる諷誦文作成のために、故人についてお生まれや行跡、お人柄などを詳しくお伺いします。つづく


 般若心経からの
 メッセージ9


さとりは身近なものと確信すべし

 そして、「般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち、咒を説いて曰く。ガテイ、ガテイ、パーラーガテイ、パーラサンガテイ、ボーディ、スヴァーハー」と唱えて心経は終わる。

 最後に心経の最高のエッセンスとして真言がそのまま表記されている。この般若心経全体が真言陀羅尼であると既に冒頭に述べた。お唱えすることに功徳がある。祈りを捧げる心経の真髄がここにあると言えようか。

 この真言の意味は古来様々な解釈が成り立つようだ。チベット仏教の十四世ダライラマ法王は、「この道を通って、行け、行け、彼方へ行け、徹底的に行け、そして悟りの境地に至れ」と訳されている。また、行けではなくて、至れりと訳する学者先生もおられ、その場合は既にさとりに至っているのだと認識するための真言と捉えている。

 私たちは、ともすると仏の世界とは全くかけ離れた私たちの手の届かない世界であると実感しがちである。しかし、それでは未知の世界に近づくことすら不可能ではないだろうか。

 より身近にわが心にそのまま手に入れられるものとして認識し励み、それを確信するためにこの真言があると言えるのではないかと思われる。

教えを丸ごと直観する

 そして、心経は大般若経典六〇〇巻を僅か二六二文字につづめたものであるとも言われる。紀元前後、大乗仏教が興起したとき、新たに仏教をとらえ宣布すべき主張が込められた新仏教運動の精神をそのままに体得するものとして心経がある。そのキャッチフレーズこそが、「空」なのであった。

 当時のインドで誰もが知っていた「シューニヤ(空)」という言葉に、特別に新しい仏教運動の核心的な意味を与えて世に宣布した。

 すべてのものが空である。すべて相互に依存して融通無碍に、仏も他も自分も分けへだてない。だからこそ、なにものにもとらわれず、他のものたちとともに生き、そのさとりを分かち合おうと唱える。

 さらには、その短い経文中に、お釈迦様からの、仏教の主要な教えがすべて網羅されている。これまで述べてきたようにそれらを無と否定はしているが、般若経の教えを教理的に体得するためにはそれらの教えに沿って学び、仏教の仏教たる所以を知り、心の修養を重ねることも大切であろう。

 つまり心経を憶えれば、仏教の要諦を学ぶことにもなる。それら網羅された教えを丸ごと直観するために無心に唱えこむ経典が心経と言えよう。

 「般若心経からのメッセージ」と題して、九回にわたり様々なメッセージを一文一文からくみ取ってきた。太字でそのメッセージを各章の冒頭に掲げている。是非読み直して心経からのメッセージとして受け取って欲しい。   【完】                              (全)


読者からのおたより 

松並木が市保護樹林に
 
 県道から國分寺へはいる約二百メートルの参道の両側に古い松並木がある。この松並木は近郷では稀に見る松並木で、神辺はもとより備後の貴重な景観として知られている。

 松並木はところどころ途切れているところや二代目の松もあるが、参道の両側に三十五本の黒松の大樹がそびえており、中でも樹齢二百年を超える老樹が十五本ある。

 福山市は、公共地以外に植えられている樹木樹林の保全を目的に、平成十五年から保護樹木・樹林の指定をしている。保護樹木・樹林に指定されるのは、樹木は高さ十二メートル以上、幹の周囲一.二メートル以上。樹林は面積三百平方メートル以上で、樹齢が古く病害虫の被害が少なく、外観の立派な自然状態の樹木樹林である。

 現在、市の保護樹木は四十二本、樹林は三カ所である。神辺町内では、川南のエノキ(個人所有)、川北のイチョウ(天別豊姫神社所有)、十三軒屋のムクノキ(荒神社所有)、東中条のエノキ、ムクノキ(個人所有)などが指定されているが、今年三月一日、唐尾山國分寺所有の千三十四平方メートルの松並木が福山市の保護樹林三号として指定された。

 神辺には、黄葉山の一本松、堂々川の丑寅松、金光芸備協会の松並木など、松の名木が多くあったが、近年枯死して今はその姿はない。これほどの古松が、数多くしかも古刹の参道に生き続けているこの松並木は、我が郷土の大いなる遺産である。

 しかし、最近、参道(町道)の改修工事により路面が整備され、アスファルトが松の根元を覆っているところも見られる。心ある人はこのままにしておくと松の生育にも悪影響を及ぼしかねないと、この参道の松並木を護る活動を起こしてはとの声も聞かれる。(B)



 お釈迦様の言葉−十六

   『森は楽し。 
   世人の楽しまざる所において
   愛著なき者は楽しまん。
   これ、快楽を求めざればなり。』
             (法句経九九)

 五木寛之氏の『林住期』(幻冬舎刊)という本が売れているという。だが、この林住期とは、五木氏の新しい発想ではない。インド古来の生き方に現代的な光を当て、私たちが人生を完結させるためのヒントを綴ったものだ。

 インドの人々は、昔から四住期に則って人生を捉えてきた。人生の生きる糧を学ぶ学生期、家庭を持ち養う家住期、そして、家を出て森に住み教えを学ぶ林住期、さらに聖地を巡礼して歩く遊行期の四つである。

 定年して仕事から解放されたから林住期なのではない。この偈文にあるように、森は街のように人々を魅了する遊興娯楽の場ではない。街の喧噪を離れ、ひと時静寂を楽しむというのとも違う。何もない森で、一人坐り思索し無想となることに楽しみを見いだせねばならないという。だが、それは、そう簡単なことではないように思われる。

 ところで、これまでに、どんなことでも結構だが、もうこれでよい、これについてはすべて完璧になし終えた、何も付け足すことはないと思えたことがあっただろうか。実際には、逆に何事も不十分、不完全、心残りの連続ではなかったか。しかし、それこそが無常。世の中とはそのようなもの。すべて移ろいゆくが故なのだと、もし達観するなら、その人は既に林住期に足を踏み入れていると言えるのではないだろうか。
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│ 平成十九年度國分寺年中行事
│ 月例御影供並びに護摩供        毎月新暦二十一日
│ 万灯供養施餓鬼会            八月二十一日
│ 高野山参拝                 十月五日
│ 大覚寺大法会参拝            十月二十四日
│ 四国八十八カ所巡拝(一番から)     十一月八・九日
│ 除夜の鐘                  十二月三十一日
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 ◎理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
 ◎慈悲の瞑想会 毎月第一土曜日午後三時〜五時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
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□読者からのお便り欄原稿募集中。  編集執筆横山全雄
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