備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十年正月号] 第十八号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺寺報編集室 年三回発行


 『日本人の死者の書 
 
往生要集のあの世とこの世』を読んで 


 宗教評論家大角修氏による、平安中期に浄土思想を説いた源信僧都著『往生要集』の概説書。NHK出版「生活人新書」の新刊である。

 現代に生きる私たちは、浄土教とは、浄土宗、浄土真宗のことで、鎌倉時代の法然上人、親鸞上人によるものと思っているかもしれない。しかしそのルーツは、ここに登場する源信、その前には平安初期に中国に渡った円仁など、比叡山の学僧にまでさかのぼる。

 もとは法然も親鸞も共に天台宗の比叡山で学んだ学僧だった。だから、比叡山で学んだとき、源信僧都の伝説的なこの名著を読んだであろう。読まずして浄土教を宣布することは出来なかった。同じ教えを大先輩がどのように説かれたか、それを学ばずして教えを説けるはずがない。

 世に遁世僧と言われる、正式に国家から認められた官僧をリタイヤして、在野で自由に教えを説いた僧たちは、鎌倉時代から誕生したと思っていたが、平安時代にすでに源信は、比叡山のしきたりから逃れ遁世して、この『往生要集』をしたためたという。つまり、その生き方も法然親鸞の先駆けなのであった。

 くわえて、法然親鸞らによってその後、日本仏教のあり方が大きく、良くも悪くも変化していくターニングポイントとなる、日本人の浄土教への熱病的と表現される程の広まりを考えると、この『往生要集』というのは、誠に重要な、浄土各宗の人々に限ることではなく、その後の日本仏教にとって誠に意味深い書であると言えよう。

 それは、鎌倉時代に浄土教が弘まる素地を造っただけでなく、人の生き死にとはいかにあるのか、インドで説かれた仏教がどのような生命観をもったものであったのかを分かりやすく日本人に浸透させた。往生するとは、死後来世に、仏の浄土に生まれ変わる、輪廻転生することを意味する言葉に他ならない。

 衆生の中の一つの命として、誰もが輪廻の輪の中にあって、その生き様によって来世がある、悪いことばかりを重ねて地獄には行きたくない、だからこそ、極楽に往生したいと人々は願ったのであった。さらに当時「末法の世」に至ると信じられた時期に該当していたことも影響し、人々に切実な死生観を迫ったのであろう。多くの人々が、本当に死後どこかの世界に生まれ変わるという、輪廻を信じたればこそ、末世にいたり真剣に極楽に往生することを願った。

 大角氏は、あとがきで、「仏教徒であれば、来世があると信じて当然だ」と記している。もっとものことである。「しかし、明治以来の近代仏教学では、来世はどうにも扱いかねるテーマだった。そこに大きく失われてしまったものがある。その喪失の暗がりから、カルトと呼ばれる怪しげなものが立ち現れてくるのだろう」とも書いている。人の実際の行い、生き様が、原因し結果する因果応報の生き死にを説くことなく教えが成立することはない。

 ところで、本書では『往生要集』の各章を丁寧に概説している。はじめに、地獄、餓鬼など六道輪廻について述べる。人間界については、人間とは、その肉体は不浄なるものであり、苦しみに満ちている。それは、はかない無常なる存在であるとする。

 現代に暮らす私たちは、健康ブーム、エステなどと身体の美を誇り、楽ばかりを追い求め、健康長寿を願う。しかし、この世の真理である不浄や苦や無常が消えて無くなったわけではない。人の生き様をもっと根底から達観するのでなければ、その根本的な思い違い、誤りに気づくことはないだろう。

 平安貴族の最高位に昇った藤原道長でさえ、最後には弥陀の浄土に思いを馳せて阿弥陀堂を建立し、さらには出家までしたと本書にある。そうした当時の人々のやむにやまれぬ心情が理解できなければ、「人間として生まれ、仏法にめぐり会えたのはありがたい」とは思えないのかもしれない。

 そして、阿弥陀浄土の様相を克明に解説し、本来、念仏とはいかなるものであったかを明かす。「正修念仏」と題して、礼拝、讃歎、作願、観察、回向という五段階の念仏を解説する。いわゆる単に唱えるだけの称名念仏ではない、本来の観想を主とする念仏である。観想では極楽浄土と阿弥陀仏を観じる十六種類の観想法「十六観」を述べる。その中で源信は、阿弥陀仏の白毫の光の観想を重要視している。

 続けて、「助念の法」として、念仏を行とする者の心得が記される。場所の設定から、怠け心の抑え方、止悪修善を勧めたり、罪障の懺悔、魔の退治まで。

 そして、特に念仏は、寿命が尽きるまで止めてはならない、阿弥陀仏の極楽を尊び西に背を向けない、昼夜六回、三回、二回と一定して念仏する、南無阿弥陀仏と唱え、もっぱら心に念じ讃えるなどと細かく注意事項が並ぶ。誠に徹底して念仏を生涯続ける作法が述べられる。そこでは、念仏とは、ただの一遍、ないし十遍唱えればいい、というようなものではない、厳しい一生をかけた行であるということだ。

 さらに、特別に期間を設けて行う「常行三昧行」などの厳しい修行や法会について述べる。それから、「臨終時の念仏」について詳述される。病人を西向きに寝かせ、香を焚き、花を散じて、仏像を見せ、病人は、一心に阿弥陀仏を念じ口にも心にも念じてお迎えの菩薩たちが来迎するさまを思い往生を願う。その死に際に来迎し極楽へ往生する様子を枕元の人に語ることにまで言及している。

 本書の『往生要集』についての解説は以上であるが、源信も加入した念仏集団「二十五三昧会」の過去帳には、死後源信が弟子の夢に現れて述べた口上が記されているという。

 そこでは、夢の中で弟子が「私は極楽に往生できますか」と源信に尋ねると、『お前は怠慢であるからできない』と答える。また、「成仏の願いがあれば極楽往生できますか」と尋ねると、『願いがあっても、行が伴わなければ往生は難しい』さらに、「罪を懺悔し浄土往生の修行に励んだら願いを遂げることが出来ますか」と尋ねると、『やはり難しいだろう、極楽に往生するのは至難の業である』と答えたという。

 私はこれが正しいと思う。だからこそ、みんなが極楽を願い必死に行じた。死ねば誰もが往生する成仏すると言ってしまってはいけないのだ。私は、仏教者とは、この源信の言葉のように本当のことを言わねばならないと思う。どんな時代であっても、世の中の真理から乖離したことを言っていては、人々の信仰はかえって離れていくのではないか。
  
 本書の「あとがき」に、第十四世ダライラマ法王が、昨年日本に来たときの講演会での問答が記されている。いまどきのスピリチュアルブームに毒された聴衆が、「背後霊がいるのですが、どうすればいいですか」と質問すると、ダライラマは、『そんなことは知らない』と素っ気なく答え、さらに「私に光を放ってください、会場の皆さんも法王のオーラを浴びましょう」と言う者には、『そんな光は放てません。私は普通の人間です』と答えられたという。

 法王は、どのようにこれらの質問を聞かれたであろう。単なる興味本位で、教えを全く理解しようともしない、何の為にこの講演会で教えを垂れたのか、と思われたのではなかろうか。

 さらに、ダライラマ法王は、『私は仏教徒ですから、来世を信じます。そして、いつまでも希望をもっています』と言われたとも記している。来世があるとは、希望に通じることだという。死ねば何もなくなるのであれば、この世で希望が叶わないのなら絶望しかない。より良く生きたなら、必ず今世か来世で良い報いが期待される。だからこそ、この人生は大切なのであり、悪いことはできない。

 日本仏教徒は、仏教本来の教えの根本に触れた『往生要集』を再検証すべきではないかと、私は思う。この源信の教えを逸脱したところに、日本仏教の本来の教えからの乖離が始まったとも言えるのではないかと思う。(全)


大法輪9月号特集
仏教の見方・考え方掲載

すべては
  つながっている


無常なるこの世の姿

 あらゆるものは変化を繰り返し、生まれ来るものはみな滅する、この無常という真理からは、なにものも逃れるすべはありません。

 今日、インドの仏教聖地は、崩れた煉瓦積みの僧院や仏塔によって、そこがかつて寺院であったことがわかる遺跡にすぎません。中にはブッダガヤのマハーボーディ寺のように、きれいに整備された堂内に多くの参詣者が詰めかけ賑わいを見せるお寺もあります。が、そのほとんどが、かつて数千人規模で学僧を教育していたナーランダー寺のように、いくつもの僧坊が取り囲む僧院の様子が、かろうじて煉瓦の壁で伺い知ることのできる程度の遺構なのです。

 その地に立ち、隆盛だった往事の姿を想像すると、やはり日本人の私には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりを顕す」と、古典の一節が思い出されるのです。

 インド仏教も、かつてはアショーカ王の帰依と援助によってインド全域に広まりました。しかし、西域からインドへ侵攻してきたイスラム軍によって、十三世紀初頭、中核となる仏教寺院が次々に破壊され、以後衰退したと言われています。今日では、インドの全人口の三パーセントほども仏教徒は存在していません。

 煉瓦や石で造られた堅牢な寺院も、また精神的な蓄積である思想哲学も、まさに、諸行無常、盛者必衰のことわりそのままの姿を現していると言えましょう。

すべてのものは縁りて起こる

 諸行は無常なり。では、なぜ無常かと言えば、それは縁起せるものだからなのです。「法を見る者は縁起を見る」とも言い、お釈迦様の教えの中心に縁起の教えがあり、それは、この世のあらゆるものの真実の姿、そのあり方を教えるものです。

 「これあるによりてかれあり。これ生ずるが故にかれ生ず」と言われ、縁起とは、縁りて起こることであり、原因と様々な条件によって現象が起こるということ。すべてのものは、そのものだけで存立しているのではなく、多くの条件のもとで他に依存して現象しています。

 コップの水は、コップという入れ物によってその形をとどめ、その場の気温が液体としてとどまる温度にあり、また重力の作用により、そこに水として存在しています。気温が沸点を超えれば気体になりますし、氷点を過ぎれば固体になってしまいます。

 条件が少しでも変われば別の現象が立ち現れていきます。すべてのものがこのように様々な条件のもとで、他に依存するがために不安定な状態にあります。

 ですから、その水そのものも絶えず変化しています。まったく変化しないように見える硬い岩であっても、物質の最小単位である原子以下のレベルでは常に変化しつつ周りとバランスし調和して個体を形成していると言われています。すべてのものが、こうして絶えず変化しつつあり、その瞬間存在しているにすぎないのです。

 私たち人間も、それぞれの条件のもとにみな違った環境の中で、生まれた瞬間からたくさんの人の助けにより、日々変化し成長していきます。不安定な存在に過ぎませんから病気をしたり毎日の体調も違います。他に依存しなければ生きられませんから、人や物に影響され、支えられ、心身ともに変化し新陳代謝することで生きています。

 すべてのものは、縁起するが故に無常であり、だからこそ存在しているのです。

すべてはつながっている

 ところで、地球上の全生命は、三千万種もあると言われます。それらは、食うか食われるか、光や養分の取り合い、受容と拒否の関係にある生物種など、多種多様な生物が複雑に相互に関係し合うことによって、安定した生態系を形成しています。

 しかし、急激な環境破壊により、この先三十年ほどの間にその五パーセントの生物種が絶滅するのではないかと懸念されているのです。たとえ、ごくわずかと思える五パーセントの命でも失うならば、生態系全体に大きな危機をもたらす可能性があるとも言われています。

 地球上の豊かな生命の営みは、一つ一つの小さな命に支えられ、その多様性によって調和がはかられているのです。

 ですが、このことは、生物の世界のことだけでなしに、すべてのものが縁起することを考えると、あらゆるものが他のものたちと複雑に関係し合い助け合い相互に依存し共存する、かけがえのない関係にあることが分かります。

 あらゆるものはバラバラにではなく、この縁起という関係性のもとに、すべてのものと、ともにつながって、この瞬間存在しているのだと言えましょう。


人生とは

自分がなした積み重ね

 人生とは、生老病死の苦しみに満ちていると、お釈迦さまはご覧になりました。
しかし、私たちは、たった一度の人生だからなどと言われ、夢を追いかけ自分の思いどおりに、おもしろおかしく生きたいと思います。と同時に、誰もが、人生とは何事も順調に、思いのままに進むものではないのだと漠然と感じてもいることでしょう。

 中学生のとき友人をガンで亡くし、その後親族の不和を経験した私にとっても、人生はそんなに淡いものではありませんでした。後に仏教に関心を深めた私は、それを仏教では無常と言うのだと知りました。自然界の移り変わりも、人間関係も。それにコロコロと変わる心も、無常そのもの。

 そして、人の生と死。何事も思い通りにならずに、一刻一刻死に向かって、不安と焦燥の中に私たちは生きています。こうして無常なるがゆえに苦しみもがくのです。

 ですが、私は無常を目の当たりに経験し、苦しんだお蔭で仏教とまみえることができました。大学二年の時、高校時代の友人二人と、ある大学の門前で待ち合わせいろいろな話をする中で、哲学的な話題に花咲かせる彼らに劣等感を抱きました。そのとき何か学ばねばとの思いを抱き、一冊の仏教書を手にして、私は仏教にのめり込み、気がつくと僧侶への道を歩んでいました。

 親友を亡くしたり、家族の不幸を経験したひと誰もが僧侶を志すわけではありません。私には、仏教に触れる縁を得て、それを深く受け入れる業(結果をともなう行為)が過去に備わっていたのだと思います。

 そして何年も後に、縁あって高野山に修行し、下山して東京のお寺に役僧として勤めました。ある日の夕方本堂の床を雑巾掛けしているとき、突如として、このお寺は私が仏教に関心を持つ切っ掛けとなったあの時友人たちと待ち合わせた大学の門の真向かいに立地していたことに気づきました。

 その瞬間、様々な過去の映像が立ち現れ、すべてのことが今ここにあるためにあった。一瞬一瞬の行いを、さまざまな岐路に立って一つも間違わずに選択して今ここに辿り着いた。すべてのことはあるべくしてある。すべてが偶然などではなく、今のために用意されていた。自分がなした行いの因と果の織りなす積み重ねが今に至ったとわかりました。それから数日は何を見ても聞いてもありがたく、それらはそこに私にとってとても意味あるものとして存在しているように感じられたのでした。

 人生とは、一瞬一瞬の行い、言葉も思いも含めた自分自身の業の積み重ね、因果の連鎖なのです。そしてすべてが自業自得。良くも悪くも、すべて自分次第なのです。

本当の幸せをめざす

 ところで私たちは、人生とは自分のものと思い、何でも自分の思うようにしたいと考えます。ですが、仏教では、私たちの行いは、現世を生きる今の自分の人生の問題だけではなく、その因果は三世に及ぶものなのだと考えます。

 お釈迦さまは悟られたとき、そのまま菩提樹の下で十二因縁という、苦がどのように生じ、どのように滅せられるかの因果を何度も思索されたと言われています。

 私たちの愁い悲しみ苦しみ悩みのもとには、ものの因果道理を理解しない無明(無知)があり、その故に行(行為)があり、それによって識(意識)を生じ、名色(形あるものと心)として受け取り、六処(感覚器官)との触(接触)により、受(感覚)として受け入れ、愛(欲求)を生じ、取(執着)となり、有(生命)を形作り、生(誕生)をうけ、老死(生老病死の苦)に至ると説かれました。

 そして、この十二因縁の教えは、このように苦しみのあり方に関する因果を説く教えであると同時に、過去現在未来へと巡る三世の因果を説く教えとして解釈されます。

 過去世の輪廻の苦しみを覆い隠す無明のために、いろいろな善悪の行為がなされ、それが原因となって現世でのものの受け取りかたや行いがあり、その善悪の行為が結果して、来世に再生するというように。

 つまり、物に対する好き嫌い、趣味趣向、もののとらえ方考え方も、前世を含む過去からの業によって左右され、そして現在の行いは来世を含む未来に影響を与えるものなのです。

 では、私たちは人生をより良く歩むために、いかにあるべきなのでしょうか。お釈迦さまは自ら悟り得た教えを説法するに際して最初に四聖諦(聖なる四つの真実)という教えを説かれました。その四つとは、
@苦聖諦・生老病死の苦しみに加え、愛するものと別れ、憎むものと会う、求めるものを得られず、人のいとなみは総じて苦しみである。

A集聖諦・その原因は、喉が渇いた人が水を求めるような激しい欲の心(渇愛)にある。

B滅聖諦・この欲の心を滅したところに、苦しみのない幸せがある。

C道聖諦・その苦しみのない幸せにいたる八正道という実践の道。(第四部参照)

 四聖諦の教えは、冒頭述べたように、この世は苦しみに満ちている、思い通りにならないその現実を、そのあり方を理解し受け入れよというのです。なぜ苦しみに満ちているかと言えば、私たちには、心地よい楽しい感覚を求めて止まない欲の心があるからで、そのことを自覚し、滅していくことが求められています。

 そして、誰でもが幸せでありたいと思うわけですが、本当の幸せとは、一時の享楽、名誉、財産などではなく、苦しみのない清らかな心を獲得することであり、そのための良い生き方として八正道が提示されています。

 人生は、一瞬一瞬、今の業の積み重ねにすぎません。人生とは、一日一日、三世の因果を理解して良い業(行い)を重ねていくためにあるのだと言えましょう。 


(一部改訂)
人間という
   存在について


自分という幻影

 人間は、万物の霊長であるといい、他の動物に比べ遙かに進化した勝れた存在であると、私たちは思っています。ですが、インドの言葉では、人間も含めた生きとし生けるもの(衆生)をサッタと言い、執着せる者を意味します。
 ところで、私たちと同じ人間としてこの地上に生まれ、この世の真理を悟り仏陀となられたお釈迦様は、

「ある人は再び母胎に生まれ、悪をなせる者は地獄に生じ、善をなせる者は天界に生じ、汚れなき者は涅槃に入る(法句経一二六)」

「人として生まれること難く、人として寿命あること難く、正しき教えを聞くこと難く、仏陀の出でたまうこと難し(同一八二)」と教えられました。

 執着するが故に何万回も死と再生を繰り返し、六道に輪廻する衆生の中で、ありがたいことに唯一自らの行いによって輪廻を離れることが出来る人間として生まれたのだから、人間らしくしっかり生きるための生き方を教えられたのです。

 また、人間とは「考える葦である」などといい、自然の中では弱い存在でも思考する存在としては偉大であるとされています。だからこそ農業も工業も発展して豊かな物質文明を育み、今日では高度情報化社会の中で、私たちは暮らしています。

 ですが、一方で様々な欲望を煽り自己を肥大させ多くの社会問題をもたらし、娯楽と裕福な生活の代償として愁いや悩み、苦しみが尽きることがありません。

 私は、かつて仏教発祥の地であるインド・サールナートの寺院で一年間過ごしました。意気揚々と使命感に燃えて着任したのではありましたが、住み始めて三ヶ月頃のこと、環境の変化や言葉の壁、周囲の人たちとの軋轢などで気持ちの落ち込む時期がありました。誰にも心うちとけて話の出来ない中で、何でここに来たのだろうか、私は何をここでしているのかと悩み、何日も何をしていても悶々と悩み考えながら日を過ごしていました。

 ですが、そんなある日、多くの参詣者があり、沢山の金属製の食器を一人しゃがんで砂をこすりつけ擦っていると、気づくとその洗う行為だけに没頭している自分がいました。悩み考え込んでいる自分はなく、器に力を込める行為だけがありました。自分という思いのない瞬間に気づくことができたのです。それからは、後先のことを考えず、その時の行いだけに気持ちを落ち着かせ過ごせるようになりました。

 私たち人間は、ものを考え、様々に思いめぐらし思索することは良いこと人間らしいことだと思っています。がしかし、それは自分を中心にして勝手に妄想を巡らし、強固で立派な自分という幻影を作り出しているに過ぎないのかもしれません。

ありのままを自覚する

 仏教では、人間とは、身体と四つの心の集まり、五蘊に分解されるもので、自分と言えるようなものは存在しないと説きます。大きくは色(身体)と名(心)、心はさらに受(感覚)、想(知覚)、行(反応)、識(識別)の四つの働きに分けられます。

 テレビの映像は小さな三色の光の粒で出来ているわけですが、私たちはその赤青緑の光の三原色の組み合わせを見て実像の如く捉えてしまいます。丁度それと同じように、五蘊に過ぎない自分を実体あるものととらわれているのです。

 では、どうしてそのようなとらわれを起こすのでしょうか。十二処十八界という教えがあります。私たち人間には、外界から刺激を受け入れる感覚器官として眼耳鼻舌身(皮膚)の五官がありますが、それに意(心)を加えて六つの受け皿があると考えます。これらを六根といいます。

 そして、それらの受け皿がそれぞれ取り入れる対象を、色(形あるもの)、声(音)、香(匂い)、味(舌で味わうもの)、触(肌に触れるもの)、法(心に浮かぶ考えや思い)として、これらを六境といい、六根と六境をあわせて十二処といいます。

 そして感覚器官である「眼耳鼻舌身意」が、その対象である「色声香味触法」をそれぞれとらえる心、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を六識といいます。これら六根六境六識をあわせて十八界といいます。

 たとえば、きれいな花を見るという行為は、花という色境を眼識によって眼根という感覚器官に捉える過程のことです。ですが、普通それが好ましいものなら欲の心が、嫌いなものには怒りが生じます。それが問題なのです。

 きれいなものを見たい、心地よい音を聴きたい、いい香りを嗅ぎたい、美味しいものを食べたい、身体に心地よい感覚を得たい、心楽しいことを考えていたいと、私たちは思います。単なる外界を認識するその過程が、そうして常に何か自分の心に刺激を与えていたい、より甘美な感覚を得たいという執着を起こし、自分の感覚にとらわれていくのです。

 それは私たち人間のもって生まれた心の癖だとも言えますが、そうしてたえず心に刺激を得たいと思うのは、実は自らの心の内面、本当の自分を見たくないからでもあるのです。

 昔高野山で百日間の修行に打ち込んだとき、そこではすべての情報、新聞、ラジオテレビ、手紙も電話も禁じられた中で、毎日六時間から十時間もの行を重ねていきました。そうして外部からの刺激が乏しくなると、心の中に深く潜在して普段現れることのない記憶や感情が沸々と湧いてきました。

 そうした自分という幻影にとらわれた潜在意識に翻弄され影響されていた自分も知ることになりました。そして、ありのままの自分を知ることで、不安も焦燥も消え、安らぎを得ることができたのです。

 人間らしく生きるためにはいかにあればよいのでしょうか。人間とは、執着せる存在であることを自覚しつつ、自分の心を探求し学び続けなければならない存在なのだと言えましょう。


四国遍路行記D  
鯖大師から御蔵洞まで
(平成二年三月から五月)


 翌日出がけに、「それではどうぞお先に」とAさんに言われ、私が先に歩き出す。今思えば、Aさんは六十代半ばくらいの女性だったのだろう。当時は私も三十になったばかりで、随分年が離れていたこともあり、孫と祖母くらいに思えたが、子と母と言ってもおかしくない年の差だったのかもしれない。ともかくも、このAさんのお蔭で私の引き摺っていた足は癒され、この後室戸に向かってひたすら歩く元気をいただけたのだと思う。

 薬王寺から室戸の二十四番最御埼寺までは八十六キロもある。その間に番外札所の鯖大師がある。阿佐海岸鉄道牟岐線の下をくぐって国道の右側に道があった。鯖大師は、鯖を右手に持った弘法大師の石像が本尊で、昔お大師さんがこの地で修行中に塩鯖を運ぶ馬子に鯖を供養してくれるように乞うて無碍に断られたという、よくある話が起源になっている。

 その馬子はその先に進み坂に差し掛かったところで馬が急に動けなくなった。馬子は先ほどの僧に供養しなかったせいと思い引き返して、鯖をお大師さんにさしだした。大師は加持した水を馬に飲ませると馬は元に戻り、そして大師は近くの浜で塩鯖を加持すると生き返って泳ぎだしたと言われている。

 宿坊もあって賑わっていた。近年大きなお堂も出来たが、昔は小さな祠のようなものだったのではないかと思わせる低い天井のお堂で拝む。ゆっくりお参りして、また海岸沿いの国道を室戸に向け歩く。時折きれいな砂浜が広がった様子を一望できる。青空、青い海、岩の黒茶色、そして木々のみどり、砂浜の白。この色のコントラストがすばらしい。思わず駆けだして砂浜で寝転がり青い海に泳ぎ出したいという思いにとらわれつつ歩く。

 この辺りからか、二時間歩いたら少し道端に腰掛け休む習慣になっていた。また昼の時間や夕飯時間にお店に出くわすかも分からないので、商店があったら、とにかくおにぎりやらパンを買い込み頭陀袋に入れておくようにした。この日も途中で買ったおにぎりを大砂海岸で海を眺めつつ食べた。今日はどんなところで寝れるのか、足の調子が良くなって、そんな不安もよぎる。海部、宍喰。港町を通過する。

 海部という字を見て、九十年代の初めに首相を勤めた海部総理を思い出していた。海部さんは私が高校生の頃よく見ていた、今でも日曜日の朝放映しているNHKの国会討論会という番組に毎週のように出演し、こぎみいい答弁をしていたのが印象にあった。丁度この遍路をしている時期に首相だったのではないかと思う。

 実はこの二年後インドに行くときに成田空港の搭乗ロビーで海部氏と出くわしている。SPやら取り巻き数人を連れて歩いてきたのだが、海部氏の周りにオーラのような輝きを感じたのを記憶している。ところで海部氏がこの地と関係があるのか無いのか定かでない、確か愛知県選出だ。

 さてそれはさておき、海岸沿いをひたすら歩いて県境に差し掛かり、いよいよ土佐の国。甲の浦を過ぎて東洋町に入ったところで、右側に東洋大師と看板があるのに気がついた。午後の何時頃だったであろうか。小高い石垣の上に番外札所東洋大師があった。小さなお堂の前で心経を唱えていると、ガタガタと戸を開けて、小さな住職さんが出てきてくださった。

 老眼鏡で目が大きく見える。キラキラした目をして、「よくおいでなすった。中に入りなさい」そう言うと庫裡に入ってしまった。私はお経だけ唱えて帰ろうと思っていたのに、後について行かざるをえないことになって、中にはいった。すると、住職さんは、そば屋さんに電話で出前を取っていた。私が腹を空かしているだろうと気を遣ってくださったようだ。小さな庫裡の後ろにはお堂がくっついていて、暗いお堂の中にお大師さんが隠れておられた。

 元々この辺りは野根というところで、昔は野根大師と言っていたそうだが、近年東洋町と町名が変わったので東洋大師と言っているとか、修行時代一生懸命拝んでいると、雨が降ってきて気合いを入れると自分を雨が除けて降ったとか、とにかく色々昔話を語ってくださった。一人住まいで、あと取りもいないという。「まあ、ゆっくりしていきなさい」というので、その日はのんびり、野根のお大師さんと寝ることにした。

 このとき野根のお大師さんに二泊している。たった一人でお寺を守っている老僧さんと一緒に、日長一日色々な話をして過ごした。裏山の木がお堂の屋根に伸びてしまったのを一緒に切り出したり、境内の掃き掃除などもさせていただいた。三日目の朝、遍路へ戻る私を国道まで出てきて見送って下さった。今あの老僧さんはどうなさっておられるのか。お元気でいて欲しいと思う。

 それから、国道をひたすら歩いて室戸岬を目指した。海岸沿いのひなびた町並みを眺め、また開店休業中といった錆び付いたホテルも、かつては人々で賑わったであろうとわびしさを感じつつ歩いた。もう何か見えてくるだろうと思うせいか、なかなか陸地の果てが見えてこない。まだかまだかと思っていると、右手の先に白い大きなお大師さんが見えてきた。十bはあろうか。室戸岬の手前に出来た、地元仏教会で造った新しい青年大師像だった。

 そこを過ぎると国道沿いに二つの洞穴が現れた。右に神明宮、左が御蔵洞。御蔵洞で弘法大師は若いときに虚空藏求聞持法を修した。その時、龍が現れ修行を止めさせようとしたが、大師は動じることなく完遂し、空と海が口の中に飛び込んできたと言われている。

 このとき、神明宮前で心経を唱え、それから御蔵洞に入った。中は真っ暗で結構奥が深い、コウモリが飛んできそうな薄気味悪い感じがした。何か神様を祀っているようで、神具が並んでいた。振り返ると遠くに水平線が見えた。            (全)


 煩悩即菩提ということ

 広い境内を持つお寺も含め、どこの家でも屋敷を管理する上でのやっかいな問題の一つに雑草がある。

 雑草はない方がいいと誰でも思う。が、無ければ無いで困るものでもある。それこそ草取りという神聖な仕事が無くなってしまう。それに、何よりも草が生えないということは、不毛の土地ということにもなるであろう。

 昔ある雲水さんに聞いた話ではあるが、砂漠に作物を実らせる仕事をしている人がいて、砂漠に何か作ろうとしたら、まず雑草のような植物を植えるのだそうだ。そうしてだんだんと大きなものを植えていき、それから草ものの作物、実の成るもの、根菜類、果物となるのだという。だから、雑草が生えているということは、まずその土地には命がある証拠になるということになるのであろうか。

 ところで話変わるが、仏教では、いやそうではなくて、大乗仏教、それも中国で主張されるようになった思想に「草木成仏」がある。草木も仏だというのである。全世界は衆生の心が造りだしたものだから衆生が成仏するなら、その対象である草木も成仏するのだとか、仏の絶対的な立場から見ると全世界は平等に真理そのものだから、衆生も草木も区別なく成仏するなどと言われる。

 ここで、だから雑草も仏なのだから尊いのだ、などと言いたいのではない。その議論が日本に来て更に発展して、平安中期あたりから近世にかけて、盛んにこの私たちが目にする現象世界そのものが悟りの世界なのだとすべてを肯定する思想に変形していってしまう。そうして「煩悩即菩提」などという言葉も一人歩きしていく。

 勿論それは、悟りを得た者から発せられた言葉としてもともとはあったようである。が、それが、日本仏教が思想として展開していく中で、戒定慧の実践のもとに煩悩を滅してはじめて菩提に至る道を仏道としていたものを、安易に、凡夫の身のままでこの世を肯定し、さらにすべての衆生に仏性ありとしてこの世は悟りの世界そのものであると飛躍していく。

 だから、煩悩即菩提。この身の生身におこす煩悩がそのまま悟りに通じているとされていくのである。何故にそのようなことが言えるのか、現代に生きる私たちはそれを、どのような教えとして受け取ったらよいのか。実は、この言葉は私にとって、長い間疑問の一つであった。

 ここで、冒頭に述べた雑草が登場する。先日、本堂脇の雑草を取っていて、はたと気がついた。煩悩とは雑草なのではないかと。だから煩悩が無くてはいけない。雑草が無くては作物が実らないように煩悩が無くては悟りがない。煩悩がある心だからこそ、感情もあり、善いこと悪いことも判断し、真理にも気づくことができる。

 煩悩をかかえているのは人間だけだろう。煩悩をかかえているからこそ、人間なのであり、善い行い、功徳ある行いもできる。だからこそ悟りを目指して自らを律していける。六道に輪廻する衆生の中で唯一、自らの行いによって悟りを得て解脱できるのは人間だけである。

 「煩悩即菩提」とは、つまり、自らの行いによって解脱できる人間としての位置を表現したものとも言えようか。しかし私たちはその雑草である煩悩に取り巻かれ、煩悩に夢中になっているのではないか。

 それは、雑草ばかりを大切にして作物が実っていない状態とも言える。普通雑草には誰もが見向きもせず、きれいな花を咲かせたり、作物を大きく実らせることに熱心になる。そのように、私たちの心の中の雑草をどう取り去り、その代わりにどのように作物を実らせたらいいのか。

 お釈迦様は、耕田バラモン・バーラドヴァージャに次のように教えられた(スッタニパータ一・四)という。「私にとっては、信仰が種であり、苦行が雨であり、智慧がくびきと鋤とである。恥じることが鋤棒であり、心が縛る縄であり、気をつけていることが鋤先と突棒である。身をつつしみ、言葉つつしみ、食べ物を節して過食しない。真実をまもることを草刈りとしている。

 柔和が牛のくびきを離すことである。努力が牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく、そこに至れば憂えることがない。わが耕作はこのようになされ、甘露の実りをもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる(ブッダのことば・岩波文庫中村元訳より)」とこのようにお釈迦さまは自らの耕作について語られている。

 無為徒食の出家僧という批難に対して、出家者としての耕作とはこのようなことを言うのであると表明されたものだ。こうしてなされた耕作の末に得られるとした「安穏の境地」とは、ニルヴァーナという涅槃・悟りと同義であり、「甘露」とは、不死という意味もあり、それは輪廻からの解脱を意味する。

 私たちにとって、雑草である煩悩に心奪われることなく、信仰や修行しようとする心を持ち、自らの行いや思いに心とどめ、慚愧の念をもって身をつつしみ言葉つつしみ、柔和な心をもって間違った生き方をしない努力によって、人生の作物や果実を手に入れられるということになろうか。

 それが、唯一煩悩を持つが故に人間であり、人間であるからこそ解脱できる、つまり菩提を遂げられるということを表現した「煩悩即菩提」の意味するところではないだろうか。

 だから、「煩悩即菩提」は、煩悩がそのまま菩提だというのではなく、つまりそのままでいいということではなく、煩悩があるからこそ実践によって菩提に転じていくことが可能なのだということを教えているのであろう。               (全)


大覚寺 大法会参拝記


 平成十九年十月二十四日から二十六日までの三日間、大本山大覚寺では後宇多法皇後入山七百年を記念する大法会が厳修されました。この大法会は、約十億円をかけて平成十四年から進めてこられた大覚寺総合整備事業完成の披露もかねて催されたものです。

 國分寺ではまたとないこの大法会にあたり、十月二十四日の「開白法会」へ参拝バスツアーが企画(手配・倉敷観光)され、三十八人が参加しました。

 当日、参加者はそれぞれの停留所から乗り合わせ、早朝六時三十分出発。車中では、道中の無事を祈願しての御法楽の後、全雄住職から大覚寺の縁起や大法会についてのご案内をいただきながら一路京都へ向かいました。

 ひとまず嵐山で下車。大覚寺参詣前に、渡月橋を渡って対岸の法輪寺へ参拝。法輪寺は「日本三大虚空蔵」の一つとして名高い虚空蔵菩薩を安置し「嵯峨の虚空蔵さん」として、また「十三参り」の寺として親しまれている古刹で、境内にはエジソンやヘルツを祀る電気電波供養塔や虎と牛のコマ犬など、珍しい石像が祀られています。

 嵐山レストランで昼食後、身支度を整え再びバスで大覚寺へ入りました。寺内は既に大勢の参詣者で賑わっていました。

 まず、開白法会が行われる心経前殿に入堂。心経前殿の奥にある心経殿は、弘仁九年(八一六)の日本全土を襲った大飢饉に際し、嵯峨天皇が御大師さまのお勧めにより、一字三礼のもとに書写された勅封の般若心経が伝えられています。

 澄み渡る秋空のもと、午後一時「庭儀理趣三昧法要」開始。廊下に溢れるほどの大勢の参詣者が見守る中、唐門が開き、門跡猊下の進列が入場。今回は新開現門跡に代わり、片山宥雄前門跡猊下がお勤めです。全国から出仕されている僧侶の職衆の進列は心経前殿前の中央舞楽台に整列。「庭儀」の作法が厳粛かつ華やかに行われました。まるで、平安絵巻を観るようでした。

 続いて進列は心経前殿に入堂着座。三時間にわたる理趣三昧法会が厳かに営まれました。

 われわれは中座して、「授戒」を受けるため心経宝塔に向かいました。心経宝塔は、大沢池畔に立つ大覚寺の象徴とも言うべき朱塗りの宝塔です。塔の前に大きな「五蘊碑」が立っています。待つことしばし、一団は塔内へ導かれ、授戒会の戒師の前に着座。授戒会は、一般の人や僧侶に限らず仏弟子になるための儀式です。文字通り、「戒」を授かることによって仏弟子となります。「戒」とは、仏を信じ、正しい生活を送るための「きまり」です。

 まず、「三帰依」(仏法僧に帰依する)が授けられ、次に「十善戒」の誓いをたて、ご法楽を唱えて終わりました。晴れて仏弟子となった瞬間です。
 午後四時、今日の二大行事を終え、、帰りの時刻を少し遅らせていただき、境内の散策や寺内の巡拝をしました。

 時代劇でお馴染みの風景が広がる大沢池では、石仏群、梅林、嵯峨碑などを散策。寺内では、本尊の五大明王を祀る五大堂。国宝「後宇多法皇宸翰御手印遺告」をはじめ、天皇ゆかりの寺宝が収蔵されている収蔵庫。式台玄関内に活けられた花。狩野山楽の襖絵「牡丹図」など、足早に巡って午後四時半退出しました。

 大覚寺では明日、明後日も引き続き、慶讃法会、柴燈護摩供、写経奉納などが行われます。

 暮れなずむ帰りの車中でも、住職の大法会にまつわる解説や仏教Q&Aに耳を傾けながら、九時過ぎに無事帰着しました。

 今回千載一遇の法縁をいただき、皆さんとご一緒に参詣させていただいたことに深く感謝申し上げる次第です。
                                                 合掌 (B)


 お釈迦様の言葉−十七

人身得ること難く、
人として寿命あること難く、
正しき教えを聞くこと難く、
仏陀の出でたまうこと難し。

(法句経一八二)

 仏教では、六道に輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難いことであると考えます。私たちはその価値を知ることなく、漫然と年を重ね、人生の後半にさしかかります。人として正しく生きることは誠に難しく、本当に自分のためになることは行いにくいものです。

 ですが、出でたまうこと難い仏陀の正しき教えを聞き、そして、功徳を重ねる後半生を送るならば、必ずや、その果報によって、善き来世を迎えることができる。それはお釈迦様が保証してくれている教えなのでありますから、真実に違いありません。

 来世にどこどこに生まれ変わりたいなどとと願うよりも、何よりも多くの功徳ある行いをする人が勝ちなのです。たとえ天上極楽世界に生まれても、それまでの功徳を使い果たすだけの生命となるに過ぎないといいます。

 それよりは、再び人間界に生まれて、正しき教えを聞き、学び行じ善行を重ねることによって最高の幸せである悟りにいたる道を歩む方が近道なのです。だからこそ、人身得ること難し、とお釈迦様はその尊さを教えられているのでありましょう。

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│ 平成二十年度國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩       元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供      毎月二十一日
│ 土加持法会               四月六日
│ 正御影供並びにお砂踏み      四月二十一日
│ 四国八十八カ所巡拝(土佐)     五月八・九日
│ 万灯供養施餓鬼会          八月二十一日
│ 高野山参拝               十月九・十日
│ 四国八十八カ所巡拝(土佐伊予)  十一月六・七日
│ 除夜の鐘                十二月三十一日
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 ◎ 座禅会       毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会    毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会  毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会  毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
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