備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十三年八月] 第二号
 
 備後國分寺だより



 四国遍路にて 

 今年五月、結衆寺院を中心とする神辺霊場会主催の四国遍路に参加いたしました。今年は徳島二十三か寺を二泊三日でお参りする行程。お天気もよく、皆さんの唱えるお経も、またご詠歌も、札所ごとに声が揃って、きれいなハーモニーを奏でていたものと思います。

 一日目の宿となった二番札所の極楽寺では、朝の勤行の後、地獄十界図を前にご住職の法話がありました。私たちが死して後行くところはどんなところか。それはその人その人のそれぞれのこの世での行いの善し悪しによって、閻魔大王が裁くのであるとユーモアたっぷりに話され、誰もが話に引き込まれていきました。

 閻魔大王に罪業を問われ、たとえ知らぬと言ったとしても、過去の所行をすべて見せられ、誰もが屈服させられてしまう、などと笑えない話もありました。が、たとえ、その場面にまいりましても困らない人生を送ることが、何よりも大切であるということでありました。

 話を聞きながら、その極楽寺の境内が思い出され、仏足跡や十界をあしらった石積みなど、この時のご住職のお話に出てくる内容が境内のあちらこちらにちりばめられていることに気がつきました。

 お寺の境内は、正にそのお寺の住職による参拝者への声なき説法。代々の住職が心を砕いて築いてきた境内が、何を私たちに語ろうとしているのか。お寺参りをする上での楽しみが、また一つ増えたように感じました。

 四国遍路は一人で参るのが本来の姿とはいえ、多くの同行とともに参る遍路は、そこでしか得られない有り難さがあります。ともにあげるお経に心一つになる法悦を、また味わいたいものだと思いつつ、四国をあとにいたしました。


●お薬師さまの話●

 前回は、お薬師さまとは、よい薬をお授け下さる尊いお方であり、その薬とは、心を癒す薬であるということを述べました。

 ところで、國分寺の本堂には「医王閣」と大きな扁額がかけられています。医王とはお薬師さまのことであり、実はそのむかし、お釈迦様こそは医王、医者の王様と尊称されていました。

 なぜお釈迦様が医者の王様であったのでしょうか。それはお釈迦様が説かれた教えがお医者さんが身体を治す場合の原理と同じであったからであると言われています。

 お医者さんは、普通、
一、病人の容体を正しく診断し、
二、その病気の原因理由をつきとめ、
三、病気のない状態、理想の健康体とはいかなるものかを心得た上で、
四、実際の治療法を施します。

 お釈迦様もこれと同じように、
一、私たちの今ある現実について正しく知る、
二、それはどうして生じたのか、
三、私たちの理想の姿とはどのようなものか、
四、そこにいたる道とはいかなるものかと教えられていきました。

 このような四つの段階を踏まえたお釈迦様の教えを四聖諦(四つの聖なる真実)と言い、仏教の最も基本的な教えとなりました。

 そして、この教えに代表されるような人々の心の悩み苦しみを乗り越える、身心を癒してくれるお釈迦様の徳や智慧を象徴する仏様として、古くからお薬師さまが信仰され、尊ばれてきたのでした。


仏教ってなに-二

 お釈迦様がさとられて、まだ間もない頃のこと。ある密林の中でお釈迦様が瞑想していると、その近くの森に三十人の王族の青年たちがやって来て、若い妻と共に遊び楽しんでいました。

 その中の一人は未婚であったため、遊女を連れていたのですが、みんなが酔いしれ遊び呆けている間に、その遊女はお金や宝石を盗んで逃げてしまいました。

 彼らはその遊女をさがして密林に入り瞑想していたお釈迦様に「あなたは一人の女を見かけませんでしたか」と尋ねると、お釈迦様は「青年たちよ、そなたたちは自己自身を尋ね求めるのと、一人の遊女をさがすのとどちらが大切であると思うのか」と問われ、そのとき青年たちは「自己を探求することです」と答えたということです。

 そして「それではそこにすわるがよい、私はそなたたちに自己探求の法を説くであろう」とこのように言われ、お釈迦様は、自分のことばかり考え生きるのではなく、周りの人たちの幸せと利益のために善行を施したり、また貧困な者たちや布施によって暮らす出家者などに食物などを施すなど、功徳を積む生き方の大切さを説かれました。

 そして、世間で暮らす上での普遍的なルールとも言える五つの戒、生き物を殺したり傷つけたりしない、与えられていないものを盗らない、邪な姦淫を犯さない、嘘や汚い言葉を使わない、酔いを生じるお酒などを飲まない、という戒律を守って道徳的に生きるべきことを説かれたと言われています。

 そうして、人として間違いのない正しい人生を送ることによって、死後来世には天界に生まれ幸せな生活を送ることが出来ると説かれたと言います。

 よい結果を期待するのであれば、善い行いをしなさい、こんな簡単なことからお釈迦様は法をお説きになられたのでありました。


お釈迦様の言葉-二

すべての者は暴力におびえ、死をおそれる。
おのれの身にひきくらべて、
殺すべからず、殺さしむべからず。
(法句経第一三〇偈)


 このところ凶悪な犯罪が後を絶ちません。嘆かわしいことではありますが、現実の問題として、私たちの社会にその原因があることは明らかなことです。経済的発展の影で忘れてきたものを、私たちはこれから取り戻していく必要があるようです。

 お釈迦様のこの言葉は、誰もが自分自身にとって暴力は好もしいものか、死というものはのぞましいものかを考えて下さいということです。自分の身におこって欲しくないものであるならば、他の人も同じようにいやなことなのだと知らねばならないということです。

 人を害する人は、その前ぶれとして小動物を傷つける前科があると言います。子供の頃から、どんなに小さな生き物に対しても優しい心をもち、それらの命を軽んじることの無いように、教え育てる必要があるようです。

 そのときには、自分が同じようにされたらどうだろうかという、自分の身にひきくらべてみるという想像力を育むことが必要なのでありましょう。

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