備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十一年正月号] 第二十一号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


 

つらい思いをかかえている人に
○いのちとは何か○

【これは、「自死遺族のケア」を研究されているN女子大教授が来訪された際に話した内容を編集したものです】

 私たちはみんな、この身体を持った自分が私だと思っている。この顔、この身体、今のこの思いや記憶を持った自分が私だと思っている。だからこのいのちも自分のものだと思うことであろう。私、私と思っているこの私とは何なのか。そんなに確かな自分などと言える存在があるのだろうか。

 生まれてこの方、ずっとこの身体が成長し、たどってきた道のりを生きてきたこの私はとても確かなものだと思っている。人から何か言われたり、何かされたりしたら、この私がうれしくなったり、逆に苦しくなり。イヤなことなら、ことさらに何でこの私がと思う。

 つらいことが重なりイヤになって逃げられなくなって、つい自分を傷つけたり、いのちを絶ったりする人も多い。自分のいのちだから自分がどうにでもしていいと思うのかもしれない。いやそんなことも考えずに、ただつらい現実から逃れたい、誰かに思い知らせたいと思うのかもしれない。

 私たちの、このいのちとははたしていかなるものなのか。昔は、いのちは授かりものだったのではなかったか。赤ちゃんは授かるもの、けっして親が作るものじゃない。天の神様か誰かは知らないが、とにかく私たち人間の考えの及ばないところから授かった尊いものだった。
 それが今では、「いのちの尊さ」と叫ばれながら、逆に軽く考えられてもいるように思える。なぜなのだろうか。尊い尊いと言いながら、その実、いのちとはいかなるものかと説明されることが皆無だからではないか。近代科学ではいのちを説明することは出来まい。単なる部品の構成では説明できない。

 仏教では本来輪廻を説く。しかし近代になって日本の仏教者はなぜか近代科学思想に染まり、この輪廻転生を説かなくなった。誠に愚かしいことだと思う。輪廻からの解脱無くして仏教は存在し得ない。そもそものお釈迦様の出家の動機さえも無に帰してしまう。お釈迦様の悟りすらその意味を問うことになるであろう。

 輪廻は世界の仏教徒の共通認識であり、日本でも江戸時代までは当然のこととして受け入れられてきた。鎌倉時代、なぜあれだけ熱病的に浄土教が普及したのか。それは、武士の世にあって、来世に地獄に堕ちたくない、出来れば極楽浄土という天界に行きたいとの願いからであったろう。だから平安時代には既に輪廻思想は日本人に普通に受け入れられていたと考えられる。

 私たちはみんな生まれてきたときから周りの環境も性質も顔も違う。持って生まれた才能、好き嫌い。ものの好みも一人として同じ人はいない。なぜ違うのかと言えば、それは前世が違うから。何回も何万回も生まれ変わってきた、その間に蓄えてきた業がみんな違うからだと説明できる。

 同じお母さんに生まれても、兄弟でものの見方、考え方、好みは違うだろう。一卵性双生児であったとしても、身体は似ていても、その心や才能までは同じではない。やはり違うものをもって生まれ、違う人生での役割、その生涯でなすべきテーマとでもいうものは違うであろう。

 池川明さんという産婦人科医が、日本でも前世の記憶のある子供から聞き取りをして生まれ変わりの研究をされている。『子供は親を選んで生まれてくる』(日本教文社刊)という本を出されているが、それによれば、私たちはみんな自分で気に入ったお母さんを天の上の方から見て選び、自分に相応しい人生を歩むことの出来るお母さんのお腹に入って、生まれてくるのだと書かれている。

 仏教では、前回の生で死ぬ瞬間にどんな心で亡くなったか、その瞬間の心のエネルギーに相応しいところに生まれ変わると考えられている。その心に相応しいお母さんのお腹に宿り、その心にかなった人生を歩むべく私たちは人生をスタートさせる。

 だからこの人生とは、今生のこの私のものではなく、何度も何度も生まれ変わりしてきた心が成長を遂げるために、私たちが自分と思っているこの身体を借りて、今回の人生を歩んでいるということになるのだろう。だから、八十年ばかりの私たちのいのちは、ずっーと繋がってきてその先もある心の連続の営みの、そのごく一部であるに過ぎない。

 ときに私たちには、とてつもない試練がやってくる。それも突然に。そんなはずではなかった、といえるような事態に陥り、にっちもさっちもいかない。何でこんな事になってしまったのか。よくなるはずだったのになぜ、と思えることもあるだろう。周りの人たちからいじめに遭い、つらい時間を過ごし、耐えきれない思いをしている人もあるだろう。

 または、かなり危険な病気になったと思い、よく診察も受けないうちから、もうダメだ、何でこの私がこんな病気になってしまったのか。この先どうしたらいいのかと思い、眠れぬ晩を過ごすこともあるかもしれない。または、突然の事故で身近な人を失い、茫然自失、このことをどう説明していいのかも分からないということもあるだろう。

 そんなとき仏教はこう語りかける。今のあなたが悪いのではない。これまでの沢山の過去世の因果として今あなたのなされた、何でもないと思える行為が縁となり、その災難が訪れているのであろう、だから静かに受け入れましょうと。つらいけれども、その試練を受け入れ乗り越えることによって、あなたのこの人生で学ぶべき大きな課題をクリアすることが出来るのだから。

 安易にそこから逃げてしまうことは何の解決にもならない。また同じようなことを繰り返すことにもなりかねない。自殺も、同じこと。それはけっして、それで終わりではない。いのちは自分のものと思っているかもしれないが、いのちを大切にしなかった殺生の悪業が加算されて、さらに来世は難しい苦しい生が待っているであろう。

 このいのちは自分のものではない。始まりも終わりもない、いのちをこの身体が一時期預かっているに過ぎない。ということは、そんなに一人思い悩む必要もないということでもある。私、私と思っているこの私は、心の連続に過ぎない。見るもの、聞くもの、感じたものに反応し、頭の中に思い描いている心の連鎖を私と思っているだけだ。この身体のせいで私だと思っているに過ぎない。

 私たちは、この身体という衣を脱ぎ捨てて、来世に赴いて行ってしまう心の連続を私と勘違いしているということになる。だから、私という思いは、私たちの錯覚に過ぎないと仏教では考える。いま悩み苦しんでいるのは心であって、あなたではない。あなたは心の痛みをただ傍観するだけでいいのだ。

 さらに、私たちが何千回も何万回も生まれ変わりしてきたということは、過去生で何かしらみんな関係し、特に今生で縁のあったような人は前世でも何かしら関係をもち、親族であったかもしれないし、伴侶だったのかもしれない。様々な因縁をもって、ことに触れて関係するものたちとは、血を分けた兄弟だったのかもしれない。そんな風に考える。

 だから、道行く人も、生きものたちもみんな過去世では何かしら血縁があったであろう、お母さんであったかもしれないし、お父さんであったかもしれない。みんながそれぞれに関係し、共存しあっている。そう考えると、みんな自分と繋がりがあり、大切なものたちであることに気づく。誰もがよくあって欲しいと思える。そこに、自ずと深遠なる慈悲の心が生まれてくる。

 私たちは、だれもみんな一人で存在しているわけではない。それぞれに他と関わりをもち、ともにあることによって生きている。みんながいるから自分がある。孤独感に苛まれている人には、他とともにあるからこそ、今こうして生きているということに思いをいたして欲しい。あなた一人ではない、みんなそれぞれに大変な人生を生きているのだから。                                                              (全)


大覚寺の研究三


大覚寺は、その後、明治維新の激動の末、一時無住となり、明治六年に、中御門神海(なかみかどしんかい)を門主に迎え、皇室から二百石をうけて復旧した。そして、大正十三年(一九二四)、神辺道上出身の第四八代龍池密雄(りゅうちみつおう)門跡が心経殿を再建。また大正天皇即位式の饗宴殿を移築し、御影堂(みえどう)(心経前殿)とした。

 一方、大正十一年(一九二二)、大沢池附名古曽滝(なこそのたき)跡が国指定名勝、昭和十三年(一九三八)には大覚寺御所として境内全域が国指定史跡に指定された。また平成四年には、心経殿が指定文化財になっている。

 それでは次に、大覚寺の建物と文化財について触れておこう。現在大覚寺の境内は、十八万u約五万五千坪あり、先に述べたように南北の講和会議が行われた正寝殿(重文)、後水尾天皇の紫宸殿を移築したと言われる宸殿(重文)が境内中心部に位置している。

 それぞれには、狩野山楽(かのうさんらく)など狩野派の画家によって描かれた桃山時代の障壁画、金地に極彩色で、あるいは墨絵で描かれ、また、尾形光琳や渡辺始興らの名筆になる建具など、すべて重文に指定されている。正寝殿御冠(おかんむり)の間の桐竹の蒔絵、宸殿の牡丹図、紅白梅図など。

 また宸殿前には、ミカン科の常緑小高木の橘と、紅梅の老木がある。庭も苔も美しく、各宮家のお手植えの松などが多く珍しい樹木もあり、嵯峨野の御所らしい風情を醸し出している。

 また、大正期の勅封心経殿、その前には心経前殿がある。これは、大正天皇即位式の響宴殿を賜ったもので、御影堂とも言われ、中央は心経殿を拝するため開けられ、右に秘鍵大師、嵯峨天皇、左に後宇多法皇(ごうだほうおう)、恒寂法親王(ごうじゃくほっしんのう)の御像を祀っている。またその左には歴代門跡の位牌と右には皇室関係者の位牌が並ぶ。

 そして、国民の幸福と平和を祈り嵯峨天皇が弘法大師に造らせたと言われる五大明王を祀る五大堂。安井門跡蓮華光院の御影堂を明治四年に移設し、後水尾(ごみずのお)天皇の等身大の木像を祀る安井堂(徳川中期)、庭湖館(ていこかん)と呼ばれる客殿(徳川中期)、奥の間には慈雲尊者の「六大無碍常瑜伽」の掛け軸があり、六大の間と言われる。

 大覚寺の功労者の過去帳位牌を祀る霊明殿は、昭和三十三年関東から移設したもので、お堂の右には、加茂出身の草繋全宜(くさなぎぜんぎ)門跡の御像が祀られている。また大きな庫裏は、明智光秀の亀山城の陣屋を移したもの。

 そして各建物を結ぶ回廊は村雨(むらさめ)の廊下と言われ、縦の柱を雨、直角に折れ曲がるのを稲光と見る。天井は刀槍を振り上げられないように低く造ってある。床は鴬張り。

 池の北側には新しい朱塗りの心経宝塔がある。元々心経殿があった場所に、昭和四十二年、嵯峨天皇の心経写経一一五〇年記念に建立された。如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置して、秘鍵大師を祀る。また、大沢池畔には裏千家による茶室望雲亭がある

 ところで、大覚寺の本堂は五大堂で、そこには、現在、昭和の大仏師、松久朋琳宗琳による五大明王が祀られている。現在の大覚寺本尊である。しかし、これと別に二組の五大明王像がある。

 一つは、平安後期を代表する仏師、定朝(じょうちょう)を祖とする三派のうち円派の、当時の造仏界をリードした明円の作は五体が完備し、重文。伝統に裏付けされた中に、生命感と品格を感じさせる。定朝とは、藤原道長の晩年の時代の大仏師で、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏が確証ある代表作という。

 もう一組は、鎌倉時代の作と室町時代の作の混成のものがあり、室町時代のものは二メートルを超える巨大像。元々弘仁二年(八一一)嵯峨天皇が弘法大師に、五大明王像を造らせ五覚院を建立して安置したと言われ、以来大覚寺では五大明王を本尊としてきた。

 五大明王とは、別々に成立した明王を不動明王を中心に、金剛界五仏にならい配したもので、中央大日に当たるのが不動明王、東方阿?如来に降三世(ごうざんぜ)、南方宝生如来に軍荼利(ぐんだり)、西方無量寿如来に大威徳(だいいとく)、北方不空成就如来に金剛夜叉。

 因みに、五大堂には、本尊の右に弘法大師、左に最後の宮門跡であった慈性法親王を祀り、さらに弘法大師の隣には明治の傑僧・釈雲照大和上の合掌した御像を祀っている。

 また大覚寺には、このほかに鎌倉末の愛染明王像、鎌倉後半の毘沙門天像。仏画では鎌倉時代作の理趣経曼荼羅、五大虚空蔵画、金剛界曼荼羅降三世会などを収蔵する。

 さらに、大沢池畔に並ぶ石仏は、彫像の様式から平安後期を下るものではないと言われ、大振りな五体は胎蔵界の五仏。他に、阿弥陀如来、聖観音など、沢山の石仏が並ぶ。

 多くの仏を祀り、本尊もおられるわけではあるが、なんと言っても大覚寺の一番の中心は、『宸翰(しんかん)般若心経』であり、中でも嵯峨天皇の宸翰を真の本尊とするのが大覚寺である。

 「大覚寺は仏像を中心とする寺院ではない。朝原山山頂にある嵯峨山上陵を守護する伽藍である。帝王が天地神明。仏天菩薩に対して責任を感じ、我が身を慎むことによって、神明仏陀の絶大なる慈悲に浴し、神仏の慈悲で天下泰平、万民快楽ならんとする嵯峨天皇の御意を体し、その御意を宇内に拡げようとするための聖舎である」

 と、歴史家中村直勝氏が『大覚寺の歴史』で記すように、大覚寺とは、宸翰勅封心経を嵯峨天皇がお書きになられた御心に報じ、国の安泰と人々の幸福を祈願するための我が国の中心にして神聖なる道場なのであるといえよう。だからこそ、皇室などから中心となる建物がいくつも下賜されたり、最高の文物がそれぞれに設えられ、また歴史的にも時代の潮流に度々巻き込まれ翻弄されてきたのである。

 最後に、大覚寺は「いけばな嵯峨御流」でも有名であり、これは嵯峨天皇が大沢池の菊島から菊を手折られて花瓶に挿し眺められ、菊の気品ある姿と香りを好まれたことが華道の始まりとされ、華道発祥の地でもある。嵯峨天皇、後宇多法皇によって代表される御所の伝統精神が大覚寺の格式ある文化の源ともなっているのである。(全)


大法輪誌6月号特集
知っておきたい
     
仏教の常識」掲載

日本仏教には
どんな宗派があるか


 日本仏教は、三国伝来の仏教と言われるが、そのすべての宗派が漢訳された経律論に基づく大乗仏教である。

 まず奈良時代に南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる学問集団が出来る。三論・法相(ほっそう)・成(じょう)実(じつ)・倶舎(くしゃ)・華厳・律の各宗である。このうち法相・華厳・律の三宗が今に伝わる。

 唯識思想が中国で法相宗の教学として大成され伝来し、それは興福寺薬師寺を中心に長く仏教の基礎学として尊重された。

 東大寺を本山とする華厳宗は、漢訳の華厳経をもとに中国の華厳思想を研究し、国家統一の指導原理となる。

 律宗は、大乗色の強い四分律に基づいた中国南山律宗の教えが主に伝えられ、仏教の規律管理を司るものであった。

 平安時代には、天台・真言という専門の教義を信奉し実践する教団が誕生する。主に、国家鎮護や病気平癒など個人の安寧を祈祷する役割を担った。

 天台宗は法華経を第一義として大成された中国天台宗の教義に基づき、真言宗はインドで七世紀に流行する密教を伝え、中国・日本を経て大成された教学を中心に体系づけられた。

 天台宗は、法華経の教えに加え、密教、禅、戒の四宗合一の総合仏教を目指したため、鎌倉時代には天台宗から多くの宗派を生むことになる。

 鎌倉時代、まず浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗など浄土系の各宗が起こる。それらは中国で生まれた浄土教に基づき、より平易な思想が説かれた。日蓮宗も同じく法華経を絶対視する独自の思想を宣布。また、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(江戸時代に伝来)などの禅宗は、中国思想に関わりをもつ中国禅を継承し日本で更なる展開を遂げた。

 いずれも、時代とその対象に応じ、求められた教えをより簡潔に説くことで仏教が多様化し大衆化した。

 明治時代には、欧州で盛んになった近代仏教学を現地に留学し学ぶ学僧が現れ、サンスクリット語やパーリ語の原典による仏教研究が進められた。しかし、それによって新たな宗派を生むことはなかったのである。

 以上のように、日本仏教は中国の仏教が流入し、その時代に応じ、人々の心の歩みにかなう仏教として変遷し培われた教えなのだと言えよう。

お坊さんの袈裟と剃髪の意味

 お釈迦様の時代の仏教に近いとされるスリランカ、タイなどの南方上座仏教における出家の儀礼から袈裟と剃髪の意味を考えてみたい。

 今日上座仏教では、仏教僧になるためには、まず十戒を授かり沙弥(しゃみ)という見習い僧になる儀礼を受け、その後、具足戒(二百二十七戒)を受けて正式な僧侶(比丘(びく)と言われる)となる。

 まず、沙弥になるためには、三衣という三種類の袈裟と鉢を用意して剃髪しなければならない。そして、それまでの世俗の世界から僧院という神聖な修行環境に身を投じるのであるから、在家時代の僧院生活には不要な所持物を放棄する必要がある。

 世俗の衣服類も勿論僧院に持ち込むことは出来ない。そのため沙弥出家の儀礼において、出家が許された段階で俗服を脱ぎ袈裟を着するのである。

 その地方の気候環境によって保温のために内衣を着ることも許されるが、本来は袈裟だけが正式な僧侶の着物ということになる。

 袈裟は、もともと拾い集めたボロ布を縫い合わせて作り、それは糞掃衣(ふんぞうえ)とも言われる。施しによって新しい布で作る場合も、壊色(えじき)と言われる、くすんだ黄色から茶系の色に染め、つまり世間の人が好まぬ色に染めて、身なりを飾るという執着を絶つのである。

 沙弥出家の儀礼においては、予め剃髪した頭に戒師はカミソリを当てる。これも仏道修行に精進するために、俗世間から抜け出し、それまでの垢を剃り落とすという意味がある。

 剃髪し袈裟を着す姿は、我は出家者であるという意思表示をすることになり、それによって戒律を犯すような邪な行為や誘惑から身心を守るのである。

 袈裟だけで生活するということは、どこへ出かけるにも着替える必要もなく、くすんだ黄色や茶色の袈裟は汚れが目立つこともない。

 また、長髪であれば洗髪にも時間が掛かり、整髪も必要になる。しかし剃髪すれば、ただ定期的に伸びてきた髪を剃り上げるだけで済む。

 ともに修行に専心するための簡便な生活スタイルであると言えよう。


修行とは

さとりとは、この世の中の真理をさとることに他ならない。この世のありよう、因果法則、道理とも言えよう。それを知るためには教えを学びつつ、心を磨く実践修行が不可欠となる。

 仏教の実践は、一般に戒・定・慧という三つの観点から説明される。日常の生活姿勢を道徳的に規則正しく調え、身心について良い習慣を身につけるために戒があり、そうした正しい生活のもとで身も心も調整されると心を統一する定が生じ、そして最終的な目的であるさとりの智慧をはじめ様々な慧を獲得していくのである。

 この戒・定・慧に該当する伝統的な南方上座部の修行法をあげるならば、戒には、衣食住に関わる清貧な生活により清浄な心をもたらす頭陀(ずだ)行(dhuta)があり、定には、心を統一し禅定をもたらす瞑想法であるサマタ(samatha)が、慧には、智慧を開発する瞑想法としてヴィパッサナー(vipassana)がある。

 頭陀行は、南伝大蔵経『清浄道論(しょうじょうどうろん)』によれば、粗末な袈裟だけを着し、托鉢による一日一座の食を摂り、樹下を住まいとして瞑想に励むなど十三種の行じ方が教えられている。それにより煩悩を払い衣食住における欲を捨てて仏道に邁進する基礎とするのである。

 サマタは、同論には、瞑想の対象(業(ごっ)処(しょ))として四十種の対象が記され、四十業処と言われる。

 地面に大皿ほどの円を描き「地、地」と唱え心に念じて地面などの対象と一体となる観念をする十遍処(じっぺんじょ)や、死体の腐乱の様子を観察する十不浄、仏の徳を念じる仏随念や呼吸を観察する入出息念などの十随念、さらに慈悲喜捨を念じる四梵住など、それぞれの対象に心を集中し瞑想することにより、自我の意識がなくなり禅定をもたらすのである。

 ヴィパッサナーは、同『長部経典・大念處経』に、四念処(しねんじょ)として詳述されている。
@呼吸や身体の動き行いについて、
A様々な感覚について、
B心に生じる考えや思いについて、
C自己の内外に生じる現象について、
間断なく観察し、不浄・苦・無常・無我とそれぞれを随観しつつ、智慧を開発する。

 これら戒・定・慧は相互に関係し、一体不離となって仏道修行を完成に導くのである。

 なお、大乗仏教においても様々な修行が説かれるが、いずれもここに紹介した修行法を継承したものと考えられよう。

日本のお坊さんはどうして結婚しているのか

 日本仏教は、そのはじめから国家仏教であり、僧侶はもとから国の庇護と規制の下に置かれた。

 七五七年、『僧尼令(そうにりょう)』二十七条が制定され、僧尼の出家には官の許可を要した。試経という試験に合格すると剃髪し、受戒(四分律二五〇戒)が行われた。律蔵に規定された通り「交淫、盗み、殺人、悟りを得たと詐称する事」が重く禁ぜられ、犯すと還俗しなければならなかったのである。

 この時代にもまったく破戒僧がいなかった訳ではないだろう。しかし、官僧として大戒二五〇戒を受持する制約があった。

 しかし、後に天台宗では、大乗梵網経にある十重四十八軽戒をもって僧侶の受戒と見なす大乗戒壇を比叡山に建立した。これにより大戒を受持せずとも官僧として遇されることとなった。このことが、後生の僧侶に厳正な戒律に対する意識低下を助長することになったのである。

 鎌倉時代以降、官僧を脱して自由に活動する僧侶が増えて一層戒律が軽視された。僧兵が現れて不殺生戒を犯し、「末代には妻もたぬ上人年をおうて稀にこそ聞こえし」(沙石集)と記されるように、隠れて妻帯することも特別なことではなかったであろう。だからこそ、慚愧の念をもって公然と妻帯する僧侶も現れてくる。

 江戸時代には、寺院僧侶は厳しく統制された。その一方で、幕府の官僚として人民の管理統制を担い、僧侶は堕落傲慢にふけり、社会の反発を招いた。

 そして、それがために明治新政府の神道国教化政策により、一八七二年(明治五)「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、それまで僧尼令で定められた肉食妻帯の禁が解かれる。これは国家が妻帯を認めたということではなく、国家が仏教との関わりを解く一環であったに過ぎない。しかし、これを国の意向と受け取り、妻帯に踏み切る僧侶が多く現れたのである。

 僧侶の妻帯問題は、明治後期まで仏教界にとって誠に重大な問題であった。各宗宗議会で公認すべきか否かで議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っているのである。

 今日では、このことに何の痛痒も感じない僧侶を生む時代となっている。まさに破戒ではなく無戒の時代なのだと言えよう。                                                        (全)


四国遍路行記G 
種間寺から岩本寺へ
(平成二年三月から五月)


 早くも、夕刻が迫ってきた。高知の街からそう遠くまで歩いてきたわけでもないが、それぞれ二時間ほどの距離を歩き、それぞれの札所で懇ろに読経してきたためか。大きなビニールハウスの間を通り、右に水路のあるのどかな道をしばし歩く。

 よろず屋や農協があり、今晩の夕食を買い込む。おむすびに海苔巻き。それを持って街を抜けたと思ったら、田んぼの中にお寺が見えた。三十四番種間寺。門を入り納経所の前を通ると、すぐ右に大師堂、奥に本堂。誠に手狭に感じられる。

 種間寺(たねまじ)は昔、仏教が伝来して間もなくのこと、百済から大阪四天王寺を建立するため仏師達が招かれ、帰国の途中暴風雨に遭い秋山の港に寄港。この時、航海の安全を祈って薬師如来を刻み本尾山頂に安置した。

 後に、弘法大師が訪れ薬師如来を本尊とし堂宇を建立、唐から持ち帰った五穀の種をまき、種間寺と号したという。本尊薬師如来は今日では重文に指定されている。平安時代には、村上天皇より「種間」の勅額を賜り、江戸時代には藩主山内家の加護を受け栄えた。

 しかし、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で一端廃寺となり、明治十三年には再興されるが、往時の華やかさは取り戻すことが出来なかったのであろう。ゆっくり拝んでいたら暗くなってきた。厚かましいながら「ひさしでもお貸し願えませんか」と納経所に願い出ると、なんと、接待堂があるという。

 山門手前の大きな建物に案内して下さった。蒲団まである広い部屋に一人。何とも贅沢な一夜となった。翌朝暗いうちに起きて本堂にお礼に行くと、ご住職にお会いした。落ち着いた優しげな老僧さんだった。丁重にお礼を述べ種間寺を後にした。

 この日は早々に雨模様。頭陀袋の中からポンチョを出してかぶる。足元が冷たい。素足にビニール紐の草鞋(わらじ)のためだんだんと擦れて赤くなり、しまいに血が出てきた。それでも歩かないわけにいかないので、擦れるところをかばいつつ歩く。途中薬局でバンドエイドを買い貼ってみる。

 三十五番清滝寺(きよたきじ)は、土佐市の街に入り、そこから北に抜け、みかん畑の中を縫うように登っていく。もう着く頃かと思って登るので、なかなか到着しない。木の枝で暗くなった道を抜け歩くと、やっと清滝さんの境内に着いた。大きなお薬師様が出迎えて下さった。

 清滝寺は、山の山腹に建つ行場の雰囲気を醸し出すお寺だ。正面の本堂は反り返りの大きな屋根に、こちらを向いた大きな切妻屋根が正面を飾り、その下には唐破風の向拝屋根がつく。何ともいかめしい作り。本尊薬師如来。脇にあった椅子に腰掛け理趣経一巻。たくさんの千社札に見つめられながら唱える。

 養老七年(七二三)行基菩薩が薬師如来を刻み本尊とし、開山したと伝えられている。弘仁年間に弘法大師が訪れ、北方の山中で修法を行い満願の日に金剛杖で大地を突くと清水が滝のように湧き出たので、医王山清滝寺と寺号を改めたという。ここも明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治十三年(一八八〇)に再建された。

 またこの寺は、弘法大師の十代弟子の一人眞如親王が唐へ旅立つ前に、死んだらここに舞い戻ると言い残して、自ら逆修の仏塔を建てた寺としても有名である。弘法大師が教えを受けた長安の青龍寺(せいりゅうじ)に参り、その後、唐の官許をもらって雲南を通りインドを目指した親王は、残念ながら道をどう間違ったのか、ラオスの地で虎に食われて亡くなったとも言い伝えられている。余談ではあるが、眞如親王については、渋澤龍彦が『高丘親王(たかおかしんのう)航海記』という小説を書いている。読売文学賞を受賞している。

 大師堂に参り、参道を下る。途中みかん農家のおばさんから、持ちきれないほどみかんをいただく。土佐市の街まで戻り、車道の洒落た店並みを過ぎ、須の浦目指して南に進む。新しい橋を渡り、入り組んだ海岸線を歩く。途中二メートルほど上から滝が落ちていたり、そこに不動明王が祀られたりしている。四国の道のあずま屋があり、しばし足を休める。

 車道から右手に西国観音霊場の石仏が祀られている道に入ると三十六番青龍寺の山門が見えてきた。手前に庫裏(くり)、少し石段を上がると納経所がある。さらに、そこから上に一直線に石段が続く。何段あるのだろう。細い雨が降り出し草鞋の足が濡れる。滑らないよう気をつけて登る。

 ここ青龍寺は、山号を独鈷山(とっこさん)という。弘法大師が唐で教えを受けた青龍寺の恵果(けいか)和尚への報恩のため一寺を建立せんと唐から独鈷杵を投ぜられ、帰国後四国巡錫の折、この地で老松の木に突き刺さっている独鈷杵を見つけ、嵯峨天皇に奉上。不動明王を刻み堂宇を建立した。恵果和尚を偲んで青龍寺と名付けられたという。

入唐の砌(みぎり)、遣唐第二船に乗船した大師は、嵐の中、不動明王に祈願を込めると波間から不動明王が現れて風波を切り静めてくれた。その時お出ましになった波切不動明王を大師はここで刻んだのであった。このことから青龍寺の本尊波切(なみきり)不動明王は、漁師を始め海で働く人々の海上安全の信仰が厚く、近在の船乗りは海へ出る前には必ず青龍寺に御参りしたという。

 因みに高野山にも波切不動尊がおられる。今では南院の本尊様だが、その昔は、壇上伽藍の山王院に祀られていたという。霊験あらたかな力ある御像である。

 青龍寺は、宝永四年(一七〇七)の地震と津波で大きな被害を受けたが、江戸末に再建されたのが今のお堂。薄白けた木肌の本堂と大師堂に参る。本堂の右側に社があった。そちらにも心経一巻。

 登るときには思わなかったが、降りるときは恐ろしいほど勾配が急な石段。そういえば、ここ青龍寺は前の海の岸壁に洞窟があり、古の辺地(へじ)の行者さんたちはそこに籠もり修行したという。だからこそ、ここにお寺ができたのだとも言えるようだ。

 青龍寺を後にして横浪三里(よこなみさんり)をとぼとぼと歩く。横浪三里とは、青龍寺が突先で十キロほども西に浦ノ内湾が入り込んでいる。橋を渡って湾を左手に見ながら歩く。どこまで行っても海岸沿いだ。暗くなりどこかに一日の宿を探さねばならないのだが、なかなか適当な場所が見つからない。とにかく腹ごしらえにと食品を売るお店に入る。ご飯ものを買い込もうと探していると、乗用車で来た男性から話しかけられ、車のお接待を受ける。

 青龍寺から三十七番岩本寺までは六十キロもある。途中の須崎まで帰るのでそのあたりまでという話だったが、お寺の話や高野山でのことなど楽しく話をさせていただいている間に須崎の街を通り過ぎ、結局窪川にある岩本寺まで来てしまった。

 たしか、お寺のお坊さんも転勤とかあるのかとか、本山から配属されてお寺に入るのかといったあまり聞かれないことを質問され、イヤイヤみんな個人的なツテなんですよといった話をしたように記憶している。こんな話を小一時間していたのであろう。岩本寺までは五十キロもそこから距離があったであるから。

 住所とお名前を聞き、礼を述べて、岩本寺の山門前でお別れした。岩本寺では、「歩いてきました」と言うと、離れの通夜堂一室を用意して下さり、街の人たちの銭湯でもある岩本寺温泉に入らせていただいた。その晩は皆様の好意で思いもかけない長足の札打ちに感謝しつつ横になった。                          (全)


〈おたより〉
 『鐘楼堂の鬼たち』 

 國分寺の鐘楼堂の屋根が傷んできたということを聞いたので、鐘楼堂をじっくりと観察した。鐘楼堂はいつも何気なく見ていたが、細部まで観察したことはなかった。

 お寺に鐘楼堂はつきものだから、どこのお寺にもある伽藍である。

 國分寺の鐘楼堂は、備後國分寺年表によると、宝永四年(一七〇七)梵鐘鋳造。明治十三年、梵鐘再鋳。昭和二十四年(一九四九)梵鐘再々鋳・鐘楼堂屋根替えとあるから、梵鐘は二度も鋳造されているが、鐘楼堂は築後三百年になる。よく見ると、その装飾性に改めて驚かされる。

 屋根は本瓦葺きの入母屋造り(いりもやづくり)。最高所の大棟の両端に鯱(しゃち)が立ち、その下に鬼面の鬼瓦が飾られている。降り棟の鳥衾(とりぶすま)の下と隅棟の端にも鬼瓦が飾られてあり、小さな屋根に十面もの鬼面が据わっている。これらは鬼師の手になる傑作で、ユニークな面構えの鬼たちが睨みをきかせている。古くから魔除けとして寺院の屋根に葺かれたものである。

 そして、切妻部分の合掌部には懸魚(けぎょ)。上下の横木の間には板蟇股(かえるまた)、木鼻にも装飾彫刻が施されている。これだけ装飾を施した鐘楼堂は、地方ではめったにお目にかかれないのではなかろうか。                                                              (B) 


仏像とは何か

 「仏像とは何か?」また、何か大上段に振りかぶって大仰なことを、とお思いの方もあろう。しかし、私にとって、これは大いに意味ある大事な問いであって、高野山にいる頃から、なぜ仏像などあるのだろうか。仏像などあるから仏教は堕落したのではないか。そんなことを考えていた。

 かつて高野山の専修学院で学んでいた頃、同じ修行僧にそう言ったところ、キョトンとして何も答えてくれなかった。高野山に修行に来るような信仰心の篤い人には、なかなか私の発した問いは理解しがたいものがあったのであろうか。意外と大都会のど真ん中で、若い人に問うてみたら、おもしろい答えが返ってくるのかもしれない。

 後に、インド・カルカッタのお寺にあったときも、ふとそんな思いが沸いた。そこで、師匠の宗務総長ダルマパル師に問うと、「仏像があったからこそ、ここまで仏教が広まったのだよ」とだけお答えになった。

 確かにそうなのだ、たしか西暦一世紀中頃クシャーン王朝の時代に、ガンダーラとマトゥラーで、ほぼ同時に仏像が造られ始めた。それまでは、お釈迦様の御像を彫刻することは不遜なこと、お悟りになったお方の姿を刻むなどということはできなかった。それで、彫刻の様々な場面でお釈迦様をあらわす場合、菩提樹であるとか、法輪、仏足石を描くことでお釈迦様を表現した。

 しかし、お釈迦様入滅後五百年して、仏像が造られたことによって、インド世界から他の西域、アジア東部へと仏像と経巻が運ばれ、瞬く間に仏教が広まった。確かに教えだけでは仏教は無味乾燥なものであったかもしれない。仏像がなければ、僧侶が勉強したり生活する講堂や僧坊だけで、あっても仏塔くらいで、お寺には仏堂もなく香も灯明も差し上げず、荘厳する場もなければいわゆる仏教文化の華は咲き誇ることなく終わっていたのかも知れない。

 だがしかし、それでも私は、「仏像とは何か?」と問いたいのだ。たとえば、お地蔵様でも、お薬師様でも、沢山おられる。世界中のお寺に、もちろん仏像として。西国などの観音霊場なら、三十三カ所で三十三体もの観音様をお参りする。しかし観音菩薩、釈迦如来、阿弥陀如来、ありとあらゆる仏は本来やはりそれぞれお一人なのではないかと私は思う。

 四国の八十八カ所も、本尊は別々かもしれないが、大師堂に祀られた弘法大師像は八十八体あって、それぞれにお参りする。しかし、弘法大師は本当はお一人であって、来世に都卒天(とそつてん)に転生して衆生を済度すると言われた。

 それなのに沢山の弘法大師像を前に正にそこにお大師様がおられるかのように思い拝む。また、仏・菩薩であっても、ありとあらゆる所に祀られているその御像を正に唯一の仏、そのものと思い手を合わせるという。

 しかし私は、いくつおられても、それぞれを、その仏・菩薩そのものとして拝むという行為は少々受け入れがたい。それはどういう事かとどうしても考えて、私なりの納得をしなかったら、手を合わせるという行為が嘘になってしまうのではないか。そう思えるのだ。

 これもしばらくペンディング事項で、いっこうに自ら納得できる答えのないまま時間が経過した。そうこうしていたら、ある時、昔子供の頃テレビで見た『タイムトンネル』という米国のドラマを思い出した。二人の主人公が、時空を超越した旅に出る。目に見えないスポット(はざま)にはいると、時代や空間を超えて、たとえば三百年も前の時代にと四次元空間の旅をして、行った先のハプニングに遭遇し、危機に陥るとまたタイムトラベルを繰り返すというSFものだった。

 その時閃いたのは、そうか仏像とはそのスポットなのではないかと。つまり、本来一つの仏へ通じる時空を超えた、仏そのものに直結した四次元の空間が口を開けたスポット(はざま)こそが仏像なのではないかと。

 だから、その本来の一つの仏に向けて、時空を超えて直結するものとして各々沢山の仏像があるのではないか。そんな風に考えれば、それぞれ造形された仏像に開眼供養を施して、礼拝し拝むという行為に一つの意味づけができるではないか。そう私は納得して、それ以来その考えのもとで仏を拝んでいる。

 そして、更に言わせてもらえば、私はそのおおもとの、本来一つである仏・菩薩、明王などのすべての仏たち、それらもまた元を正せば一つであり、それらはすべて歴史的背景からしてお釈迦様の悟りから発生したものであると考えなければいけないのだろうと考えている。すべてはお釈迦様の悟りに端を発して時代に応じて様々に発展発生させてきたものなのだから。

 お釈迦様の数え切れないほどの智慧、お徳の一つ一つをそれぞれの仏・菩薩たちに分担させているものであると言えよう。すべてはお釈迦様に収斂されるのではないか。

 だから、そう考えるならば、今日たくさんある仏ももとは一つ、教えも一つ。様々な宗派も、もとは一つ、という発想に立ち返ることができるのではないか。

 この混迷の世の中に仏教が今一度その存在感を発揮するためには、そうあらねばならない、そんな風に一人密かに考えているのである。                                            (全)


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)−20


『子が私にある、財産が私にある、
とて愚者は悩む。しかし、
自己さえ、自分のものにあらず。
どうして、子が、財産が、
自分のものであろうか。』(法句経六二)

 子や財産は自分の将来に幸せをもたらすものと、誰しもが思っています。そして、それらは、自分のもの、自分の思い通りになるものと思いがちではないでしょうか。

 ですが、実際には、子供はじきに言うことをきかなくなり、財産も古くなったり扱いに困ったり。かえって、それらに束縛されて、悩みの種になりかねません。

 すべてのものが無常、そして、無我。一瞬たりともとどまっているものはありません。ですから、幸せをもたらしてくれると思うものではあっても、それらに執着してはいけないのです。何事もほどほどに、いずれは、すべてを手放さざるを得ないのですから。

 そこで、何ものにもとらわれることなく、自分のものと言えるようなものがあってもなくてもいい、本当の幸せを求めるべきではないかと、お釈迦様はこの偈文で教えられているのです。                    (全)


┌─────────────────────────
│ 平成二十一年度 國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 土砂加持法会          四月五日
│ 正御影供並びに御砂踏み     四月二十一日
│ 四国八十八カ所巡拝(伊予) 五月十三・十四日
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 高野山参拝         十月七日 │
│ 四国八十八カ所巡拝(讃岐)   十一月十・十一日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
└─────────────────────────
 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
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