備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十一年四月号]
第二十二号 備後國分寺だより 発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行 『戒名と日本人』 を読んで 平成十八年九月初版の祥伝社新書『戒名と日本人ーあの世の名前は必要か』を読んだ。麗澤大学教授の保坂俊司先生の意欲的な著作である。 これまでにも戒名に関する本はいくつかあった。しかし、そのどれもが仏教の教義上いかなるものか、そして歴史的な背景が少し書かれている程度で、中には戒名について最近の風潮に迎合して批判的な内容を含むものも多かった。 しかし、本書は古来の日本人の死に関する捉え方から説きだし、懇切丁寧に今日に至る戒名文化とでもいうべき戒名のあり方を解説している。そこには日本人特有の考えが作用しており、仏教伝来から千年にわたる試行錯誤の上に形成された文化とも言えるものであって、単に批判して済ませていいものではないと戒名に対して肯定的な捉え方をされている。誠に勉強になった。 本書の概要 まず、冒頭には今日、人の死後付けられ葬儀がなされる戒名とはいかなるものかが分かりやすく説かれる。その上で、日本仏教史を紐解き、仏教と葬儀がどのように関わってきたのかが分かるように解説される。その上で、様々な文献を引き合いに出され、縄文時代からの日本人の葬送について解説し、戒名を救いとして求めた日本人の心情について触れられている。 古来日本人は死を恐れ、腐乱していく死体に恐怖して死者の怨念に震えおののくばかりであった。死者は荒御霊(あらみたま)となって、祟るものと考えられた。そこで、死者の前で乱痴気騒ぎをして穢れが生きる者に触らないように、死の封じ込めがなされた。 八世紀初頭、持統天皇が天皇として初めて火葬されたとされるが、庶民にとっては遺体を埋葬する習慣もなく、死後野捨てと言われるように路傍に放置された。しかし平安中期頃から、徐々に三昧聖(さんまいひじり)と言われる行者たちが遺棄された死体を火葬し、光明真言などで加持して死者の罪障を除き、民衆が死者に哀悼の念で接せられるようにしていった。 そこには、お釈迦様がどのように埋葬されたかが大きく関わるとする。インドでも、それまでは死体に対する不浄感があったというが、お釈迦様が亡くなられたときには弟子たちが生きているが如くに敬い、礼拝し、丁重に扱ったといわれる。そのことから、仏教では、遺体や埋葬地は不吉なものでも不浄なものでもなく、死者と遺族を結ぶ象徴として尊重されるべきものと認識されるようになったと指摘する。 そして、日本では、平安後期には天台宗の僧・源信が『往生要集』を書き、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道輪廻を説いて、死後の救済に念仏の行を定義づけた。そして、鎌倉新仏教の誕生により浄土教が庶民にまで浸透する中で、死穢が払拭され、いかに往生するかということに関心が向かい、葬送は悟りへの門出と位置づけられるようになったという。 歿後作僧ということ こうして仏教の死生観が浸透する中で、さらに死後の確約が欲しいという願望のもとに、中世末期から歿後作僧(もつごさそう)という形式が定式化するという。 九世紀中頃亡くなる仁明天皇は崩御二週間前に出家をしており、こうした駆け込み出家が高貴な人々にとっての慣習となった。さらには死後戒名を付けて、僧として葬儀を執り行うという歿後作僧が鎌倉後期頃に登場し、修行中に亡くなった禅僧の葬儀様式が採り入れられ、広く武士階級に普及したという。 しかしこの間には、保坂氏は記していないが、九世紀末に天皇を譲位して出家し、初めて法皇となって、仁和寺を開かれる宇多法皇(うだほうおう)に示されるように、退位後正式な僧として修行され僧名をもって亡くなられていく皇室の伝統が、そこには大きく影響しているであろうと思われる。 いずれにせよ、天皇、皇族、大名など、死の直前に僧になり臨終を迎えた人々が沢山おり、こうした風習が、次第に葬儀の直前に戒名を授かり形だけの出家作法を受けて僧として葬儀をする今日のスタイルに定着していったのだと言われる。 それが一般の私たちにまで行われるようになるのは、江戸時代になってからであろう。江戸時代には、檀家制度による全国民皆仏教徒化を受け、強制的な仏式葬への制度化があり、戒名をつけ葬儀を行う歿後作僧の葬儀が一般化する。 その後明治時代には、神道国教化による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神葬式定着の難しさから、葬儀のみを仏教に認めていく仏教の形骸化が図られた時代があった。同時に仏教など宗教は婦女、子供のすることという考えを流布する学者があり、そうした見方が浸透していったことも影響し、信仰が抜け、単なる儀礼のみが残った。後には葬式仏教との謗りを受け、戒名ばかりが悪者にしたてられ、批難されるのであろうと指摘されてもいる。 葬儀の意味 通過儀礼としての葬儀は、故人が担ってきた社会的な役割のすべてを実質的に失うことを社会に認知させる儀礼であり、残された人々が故人のいない新しい社会に脱皮するために重要なものである。故人の終焉を告げるものであり、故人を欠いた新しい世界の再生のための儀礼でもあると、保坂氏は言われる。 そこで、主役をなす標識こそが戒名であり、死者の名前である戒名をもらえば仏の世界で安楽に暮らせるということになり、残された遺族も死者の霊に脅かされることなく住み分けができ、死者の霊が満足すれば、その魂も鎮めることができる。 このような概念を長い時間をかけて日本人は形成してきたのであり、それは日本の文化であり、民族の智恵であると言われる。 仏教は、日本人が古来恐れた死穢を火葬によって解決し、死後遊離して生きた者に禍いをもたらす荒御霊を、高度な思想と複雑な儀礼によって浄化する力のある宗教であった。死の穢れを取り払えば人間は清浄となるという、日本的な霊魂観を完成させる呪力ある宗教として、仏教は民衆に受け入れられた。 まさに仏教の悟りは日本人にとって死穢のなくなった状態であり、仏教の成仏と日本古来の清浄なる死者の世界も同質と考えた、これが日本的な成仏思想であると、保坂氏は言う。 また戒名の、特に院号については、天皇譲位後の別称である○○院様という言われかたから発祥し、今日のような戒名に入れられる背景には、修験道の峰入りの行を終えた行者に対する、やはり○○院という呼称を使う風習が影響していると指摘されている。この他、墓標や位牌、塔婆などについても詳しくその由来を述べられている。 今の姿になるには相応の先人の知恵や試行錯誤があったであろう。そのことに意味を見出し、私たち現代人にも分かりやすくその意味を解説されている。今日の仏式の葬儀や法事に疑問を感じる方には、是非読んでもらいたい好著である。 世界の仏教徒の考え方 次に、この保坂氏の著作に関連して、引き続き葬儀や戒名について考えてみたい。はじめに、ここまで日本における葬送に関して述べてきた訳だが、他の仏教国での事情はいかがなものなのであろうか。彼らは一般に人の死をどう捉えているのであろうか。 他国の仏教徒の一般的な考え方は、衆生である私たち人間は、お釈迦様のような悟りが得られない限り、輪廻の輪の中で何度も何度も生き死にを繰り返す存在だと考えている。死後いかねばならない来世には、地獄や餓鬼にではなく、功徳を積むことの出来る人間界、出来れば今よりもよい世界に生まれ変わりたい。そのためには、今生で多くの功徳を積んでおかねばならない。なるべく悪いことをせず善いことをして死んでいきたいと考えている。だから、お寺の行事ごとに三帰五戒を授けられ、在家の仏教徒として戒律の生活を送り、近親者の命日には僧侶を招き食を施したりして、功徳を積む。一時出家の制度があれば、僧として短期間でも僧院で修養をする。しかし、それでも還俗(げんぞく)すれば、俗名のまま亡くなっていく。 戒名の意味 しかし今日の日本においては、まったく生前に戒律を意識することもなく、お寺で教えを聞くこともなく、心の修養を重ねることがなくても、死後、安易に戒律が授けられ、戒名をもらって葬儀がなされる。そもそも、そのことが問題なのではあるまいか。 だから、戒名は単なる死後の名前という捉え方をされてしまう。しかし、やはり本来の意味を忘れてはならないであろう。きちんと仏教徒として戒律を授かり、その上での名前と捉えねばならないものだと思う。できれば、生前から、三宝に帰依して様々な仏の教えを学び、心を養う機会をかさねる。その延長線上に戒名があるならば、その本来の意味合いを感じとることもできるのではないか。檀那寺がある方は、日頃の年忌法要等を通じて、特にこうした意識のもとにお勤めされ、お経や法話を聞き学び、功徳を積んでいかれるならば有難いことだと思う。 ところで、こうして檀家の一員として、人々を幸せに導き幸福を願う仏教の教えを信奉し、檀那寺を護持して功徳を積まれている檀家の皆様の家で、残念ながらご不幸があった。なれば、檀那寺の住職は、何をさておいても出向き経を唱えるというのは自然なことであろう。お寺のために尽くして下さり、たくさんの功徳を積み、法話を聞き、行事にも参加されてきたのだから、これまでのお徳を偲び、心からのお経をお唱えさせていただこうということになる。 そこで、そうした功徳のもとに檀那寺から戒名が授与され、強く仏教に御縁を結んでいただくために、他国ではなされない歿後作僧の儀礼による大きな功徳を持って、よりよい来世に旅立っていただきたい。そういう思いをもって執り行われるのが、今日行われる日本仏教での葬儀というものなのではないかと私は思う。 そして、初七日の法要からは、白木の位牌に記された戒名が読み上げられて読経される。それによって、今生ではない来世に確かに逝ったのだということをはっきりと意識するという意味合いもあるであろう。もしも俗名のままで名前を唱えるならば、いつまでもこの世にとどまっているかの如くに感じられ、残された遺族も、故人が亡くなった世界を新たに再生するのが難しくなるということもあるかもしれない。 成仏ということ 保坂氏は、著作の中で、日本で言う成仏とは、古来の清浄なる死者の世界、死穢の無くなった状態を指すと指摘されている。つまり日本では、いわゆる本来仏教で言うお釈迦様の悟りと同等のものとして、成仏と言うのではない。 だとするならば、歿後作僧の儀礼により、そのまま、誰でも死後、仏の世界で安楽にくらせるなどと軽々しく言ってしまうのはいかがなものであろうか。現代の私たちにもうなずける内容でなくてはいけないであろうし、日本仏教の中だけに通用するような話でもいけない。やはり先に述べた世界の仏教徒の考え方にも齟齬をきたさない死と葬儀のあり方でなければならないと思うのである。 そこで、当然のことではあるが輪廻転生ということを前提として死を捉え、寿命を終えた身体と分離した心は、四十九日の後に来世に旅立つけれども、それまでは私たちと同じこの三次元の世界におられる。だからこそ、四十九日の法要を盛大にするのであり、その間に遺族が故人に代わって功徳を積み回向して、より良いところへ生まれ変わって下さいと。 そして、できれば、来世も人間界または天界に生まれ、また仏教にまみえて欲しい、戒名をもって来世でも仏教徒に生まれ変われるようにと故人をお送りする。そして、何度でも何度でも生まれ変わり、教えを学び行ずることで、お釈迦様のようなきれいな心に一日でも早く到達して欲しい。そのような願いから、「どうぞ成仏して下さい」と私たちは葬儀の際に合掌し祈るのではないだろうか。 教えによったら、死後誰もが簡単に浄土にまいると教えられてもいる。しかし、それも輪廻の中のことと知らねばならないであろう。仏の世界にいく、ないし成仏するというのは、やはりお釈迦様の悟り、阿羅漢果の悟りのことでなくてはいけないと思う。しかし、そこに私たちが到達するのはそう簡単なことではない。何度も生まれ変わり生まれ変わりして学び、心を清め、功徳を重ねていくことが必要なのだと思う。 成仏ということがそんなに簡単なことなら、この世の中は仏で溢れていなくてはいけないだろう。死して誰もが仏になるなら、そもそも教えも修行も不要なのではあるまいか。 (全) │ │
│史跡めぐりでのお話 │
│備後國分寺の歴史 │ │ │ 平成二十一年一月十七日神辺町観光協会主催・かんなべ史跡めぐりにおける國分寺の歴史解説。(参加者六十人) 『本日は、神辺町観光協会主催の神辺史跡めぐりということで、ここ備後國分寺にもご参詣下されまして、ご苦労様に存じます。少し國分寺についてお話しを申し上げます。 國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ一二七〇年ほど前、天平十三年、七四一年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国六十六州、それに島に三つ、都合六十九の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。 それが、國分寺の詔の百年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その五十年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、さらには、國分寺の詔の数年前から疫病が流行り干ばつなど天災に見舞われていた。そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、天下泰平・国土安寧・災害消除を祈願し、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈願するというのが仕事でした。 備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西三十メートル、南北二十メートル、七重塔は、基壇が十八メートル四方であった。講堂は東西三十メートルあったと、昭和四十七年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。 これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は六百尺四方、およそ百八十メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には十二の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。 当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約五メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経十巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が『金光明四天王護国之寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。 それは、護国経典として、とても当時珍重されたものであります。で、その『紫紙金字金光明最勝王経十巻』、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。 その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、お隣の中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが、盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。 おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。四年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町戦国時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。 そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す。江戸時代には、延宝元年、一六七三年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、二年前ですか、文化財となっております。 そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄七年にこの本堂が出来ました、今から三一〇年前のことです。 それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。 それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時は文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。 皆さん、ところで、福山検定受けられましたでしょうか。関連しまして、『知っとる?ふくやま』という公式テキストが、発行されておりますが、ご存知ですか。初版では、この國分寺は、創建時の國分寺と歴史が分断されているかのような書き方をされていました。 しかし、連綿と國分寺の歴史が続いていることは、先ほどの発掘でも明らかでありまして、そのことを出版先に伝えまして、最近出ました第四刷には、全文が訂正されております。どうか興味のある方はご覧いただきたいと思います。 長くなりましたが、國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。創建当時の人々、また苦労して再建して下さった人々は、今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになったのだと思います。そうした、いにしえびとの御心についても、どうか思いを馳せながら國分寺をお参り下さいましたら有り難いと思います。 本日は、ご参詣誠にありがとうございました。』 (全) │ │ 常用経典の仏教私釈@ │ │ やさしい理趣経の話 │ │ │ 理趣経のこと 「理趣経(りしゅきょう)」という経典がある。「般若理趣経」とも言い、真言宗の常用経典である。真言宗の僧侶が執り行う葬儀や法事で読まれるのは、まず間違いなくこの経典だと言ってよい。普通の経典が呉音で読むのに対し漢音で読むため、聞いていて誠に軽快な感じがするお経だ。 「一時」とは、あるとき。「薄伽梵」は、バガヴァーンというインド語の音訳で、尊敬すべき人、徳のある人、幸福、吉祥ある人との意味。経典には、ただバガヴァーンという言い方でお釈迦様を表している。この場合のバガヴァーンは、世尊と訳す。またヒンディ語では、最高神との意味もあり、ヒンドゥー教の神様にも使う。ところで、今でもインドの仏教徒は、バガヴァーン・ブッダという言い方をする。だから、ヒンドゥー教的な神様という意味しか知らない人には、インド仏教徒はお釈迦様を神様だと思っていると勘違いされることもあるようだ。 四国遍路行記H 岩本寺から金剛福寺へ (平成二年三月から五月) 翌朝、六時頃だっただろうか。他の遍路旅の宿泊者たちとともに権現造りの岩本寺本堂のお勤めに参詣する。はるか奥に須弥壇(しゅみだん)が見えた。たくさんの様々な絵が格天井(ごうてんじょう)にはめ込まれている。花や鳥、子供の顔もある。みんな信者さんの作品だろうか。見ているだけで心が和んだ。 食堂で朝食をいただき、歩き出す。曇り空。次の金剛福寺までは九十キロ以上もある。国道に出て、歩道を歩く。途中切り出した材木を横倒しにした木材の搬送所がいくつかあった。そのあたりで、カブに乗った奥さんから、「はい」という感じで白い紙に包んだお布施を頂戴する。礼を言い、頭を上げると、もう走り出していた。窪川は標高三百メートルあり、畜産と養豚の町として知られている。 Sさんが車に戻ると、早速その話を始めた。Sさんも驚き、彼の話や真理について語り、意気投合した。気がつくと遍路中であることも忘れ、土佐清水市大浜にある、Sさんの実家にお邪魔していた。鰹漁師のお父さんはごっつい手をした眼のきれいな方で、突然の遍路坊さんの登場にも顔色一つ変えずに温かく迎えてくれた。獲れたての鰹のたたきをご馳走になり、くつろいだ。夜もまた語り合ったと記憶している。 いざというとき困らないための仏事豆知識C 『葬儀式』 葬儀は、故人が仏道に入門するための儀礼であり、今日では、そこに告別式が挿入された葬儀式が一般化しています。 葬儀会場には、白木の位牌が中央上段に祀られ、その下に二膳の霊供膳、果物、お餅などがお供えされます。また、葬儀並びに初七日の法要のための塔婆が立てられます。 通夜式と同様に、喪主は右側の中央最前席に座り、近親者親族が順に腰掛け、左側には友人知人、一般の参会者が座ります。 導師並びに寺院方が入堂し、着座しますと開式の合図により、一同合掌礼拝して式が始まります。
導師は、まず香水を加持して会場並びに故人を清めます。遠い昔からの罪穢れを洗い清め、これから受ける儀礼に相応しい、きれいな心を準備していただくのです。
次に導師はおもむろに立ち上がり、故人を出家得度させるために、まず、『剃髪』を行います。故人のこの世に対する恩愛を断ち切らせ、辞親偈を唱える間に剃刀を三度頭に当てます。 なお、このあと、この地域では、引き続き同座にて、初七日の法要が行われるのが通例となっています。(全) 〈おたより〉 『小説「山椒大夫」と國分寺』 境内をぶらぶらしていたところへ、福山の備陽史探訪の会による神辺町内の古墳巡りの一行が歩いてやってきた。國分寺裏山の古墳群を見学するという。山門前で休息を兼ねて、引率の講師が備後國分寺の由来について説明をされていたのが耳に入った。
「國分寺は簡単に言えば、古代の国立大学のようなものです。・・・・。また、駆け込み寺のような役割も持っていたようです。・・・」と。
「駆け込み寺のような」と聞いて、ふと森鴎外の小説「山椒大夫」を思いだした。 お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十一 『諸々の道のうちにては八種の道、
諸々の真理のうちにては、四箇条の真理が
最勝なり。諸々の美徳のうちにては離欲、
諸々の人のうちにては具眼者が最勝なり。』
(法句経二七三)
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