備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十一年四月号] 第二十二号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


  『戒名と日本人』 を読んで 

 平成十八年九月初版の祥伝社新書『戒名と日本人ーあの世の名前は必要か』を読んだ。麗澤大学教授の保坂俊司先生の意欲的な著作である。

 これまでにも戒名に関する本はいくつかあった。しかし、そのどれもが仏教の教義上いかなるものか、そして歴史的な背景が少し書かれている程度で、中には戒名について最近の風潮に迎合して批判的な内容を含むものも多かった。

 しかし、本書は古来の日本人の死に関する捉え方から説きだし、懇切丁寧に今日に至る戒名文化とでもいうべき戒名のあり方を解説している。そこには日本人特有の考えが作用しており、仏教伝来から千年にわたる試行錯誤の上に形成された文化とも言えるものであって、単に批判して済ませていいものではないと戒名に対して肯定的な捉え方をされている。誠に勉強になった。

本書の概要

 まず、冒頭には今日、人の死後付けられ葬儀がなされる戒名とはいかなるものかが分かりやすく説かれる。その上で、日本仏教史を紐解き、仏教と葬儀がどのように関わってきたのかが分かるように解説される。その上で、様々な文献を引き合いに出され、縄文時代からの日本人の葬送について解説し、戒名を救いとして求めた日本人の心情について触れられている。

 古来日本人は死を恐れ、腐乱していく死体に恐怖して死者の怨念に震えおののくばかりであった。死者は荒御霊(あらみたま)となって、祟るものと考えられた。そこで、死者の前で乱痴気騒ぎをして穢れが生きる者に触らないように、死の封じ込めがなされた。

 八世紀初頭、持統天皇が天皇として初めて火葬されたとされるが、庶民にとっては遺体を埋葬する習慣もなく、死後野捨てと言われるように路傍に放置された。しかし平安中期頃から、徐々に三昧聖(さんまいひじり)と言われる行者たちが遺棄された死体を火葬し、光明真言などで加持して死者の罪障を除き、民衆が死者に哀悼の念で接せられるようにしていった。

 そこには、お釈迦様がどのように埋葬されたかが大きく関わるとする。インドでも、それまでは死体に対する不浄感があったというが、お釈迦様が亡くなられたときには弟子たちが生きているが如くに敬い、礼拝し、丁重に扱ったといわれる。そのことから、仏教では、遺体や埋葬地は不吉なものでも不浄なものでもなく、死者と遺族を結ぶ象徴として尊重されるべきものと認識されるようになったと指摘する。

 そして、日本では、平安後期には天台宗の僧・源信が『往生要集』を書き、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道輪廻を説いて、死後の救済に念仏の行を定義づけた。そして、鎌倉新仏教の誕生により浄土教が庶民にまで浸透する中で、死穢が払拭され、いかに往生するかということに関心が向かい、葬送は悟りへの門出と位置づけられるようになったという。

歿後作僧ということ

 こうして仏教の死生観が浸透する中で、さらに死後の確約が欲しいという願望のもとに、中世末期から歿後作僧(もつごさそう)という形式が定式化するという。  九世紀中頃亡くなる仁明天皇は崩御二週間前に出家をしており、こうした駆け込み出家が高貴な人々にとっての慣習となった。さらには死後戒名を付けて、僧として葬儀を執り行うという歿後作僧が鎌倉後期頃に登場し、修行中に亡くなった禅僧の葬儀様式が採り入れられ、広く武士階級に普及したという。

 しかしこの間には、保坂氏は記していないが、九世紀末に天皇を譲位して出家し、初めて法皇となって、仁和寺を開かれる宇多法皇(うだほうおう)に示されるように、退位後正式な僧として修行され僧名をもって亡くなられていく皇室の伝統が、そこには大きく影響しているであろうと思われる。

 いずれにせよ、天皇、皇族、大名など、死の直前に僧になり臨終を迎えた人々が沢山おり、こうした風習が、次第に葬儀の直前に戒名を授かり形だけの出家作法を受けて僧として葬儀をする今日のスタイルに定着していったのだと言われる。

 それが一般の私たちにまで行われるようになるのは、江戸時代になってからであろう。江戸時代には、檀家制度による全国民皆仏教徒化を受け、強制的な仏式葬への制度化があり、戒名をつけ葬儀を行う歿後作僧の葬儀が一般化する。  その後明治時代には、神道国教化による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神葬式定着の難しさから、葬儀のみを仏教に認めていく仏教の形骸化が図られた時代があった。同時に仏教など宗教は婦女、子供のすることという考えを流布する学者があり、そうした見方が浸透していったことも影響し、信仰が抜け、単なる儀礼のみが残った。後には葬式仏教との謗りを受け、戒名ばかりが悪者にしたてられ、批難されるのであろうと指摘されてもいる。

葬儀の意味

 通過儀礼としての葬儀は、故人が担ってきた社会的な役割のすべてを実質的に失うことを社会に認知させる儀礼であり、残された人々が故人のいない新しい社会に脱皮するために重要なものである。故人の終焉を告げるものであり、故人を欠いた新しい世界の再生のための儀礼でもあると、保坂氏は言われる。

 そこで、主役をなす標識こそが戒名であり、死者の名前である戒名をもらえば仏の世界で安楽に暮らせるということになり、残された遺族も死者の霊に脅かされることなく住み分けができ、死者の霊が満足すれば、その魂も鎮めることができる。  このような概念を長い時間をかけて日本人は形成してきたのであり、それは日本の文化であり、民族の智恵であると言われる。

 仏教は、日本人が古来恐れた死穢を火葬によって解決し、死後遊離して生きた者に禍いをもたらす荒御霊を、高度な思想と複雑な儀礼によって浄化する力のある宗教であった。死の穢れを取り払えば人間は清浄となるという、日本的な霊魂観を完成させる呪力ある宗教として、仏教は民衆に受け入れられた。

 まさに仏教の悟りは日本人にとって死穢のなくなった状態であり、仏教の成仏と日本古来の清浄なる死者の世界も同質と考えた、これが日本的な成仏思想であると、保坂氏は言う。

 また戒名の、特に院号については、天皇譲位後の別称である○○院様という言われかたから発祥し、今日のような戒名に入れられる背景には、修験道の峰入りの行を終えた行者に対する、やはり○○院という呼称を使う風習が影響していると指摘されている。この他、墓標や位牌、塔婆などについても詳しくその由来を述べられている。

 今の姿になるには相応の先人の知恵や試行錯誤があったであろう。そのことに意味を見出し、私たち現代人にも分かりやすくその意味を解説されている。今日の仏式の葬儀や法事に疑問を感じる方には、是非読んでもらいたい好著である。

世界の仏教徒の考え方

 次に、この保坂氏の著作に関連して、引き続き葬儀や戒名について考えてみたい。はじめに、ここまで日本における葬送に関して述べてきた訳だが、他の仏教国での事情はいかがなものなのであろうか。彼らは一般に人の死をどう捉えているのであろうか。

 他国の仏教徒の一般的な考え方は、衆生である私たち人間は、お釈迦様のような悟りが得られない限り、輪廻の輪の中で何度も何度も生き死にを繰り返す存在だと考えている。死後いかねばならない来世には、地獄や餓鬼にではなく、功徳を積むことの出来る人間界、出来れば今よりもよい世界に生まれ変わりたい。そのためには、今生で多くの功徳を積んでおかねばならない。なるべく悪いことをせず善いことをして死んでいきたいと考えている。だから、お寺の行事ごとに三帰五戒を授けられ、在家の仏教徒として戒律の生活を送り、近親者の命日には僧侶を招き食を施したりして、功徳を積む。一時出家の制度があれば、僧として短期間でも僧院で修養をする。しかし、それでも還俗(げんぞく)すれば、俗名のまま亡くなっていく。 戒名の意味

 しかし今日の日本においては、まったく生前に戒律を意識することもなく、お寺で教えを聞くこともなく、心の修養を重ねることがなくても、死後、安易に戒律が授けられ、戒名をもらって葬儀がなされる。そもそも、そのことが問題なのではあるまいか。

 だから、戒名は単なる死後の名前という捉え方をされてしまう。しかし、やはり本来の意味を忘れてはならないであろう。きちんと仏教徒として戒律を授かり、その上での名前と捉えねばならないものだと思う。できれば、生前から、三宝に帰依して様々な仏の教えを学び、心を養う機会をかさねる。その延長線上に戒名があるならば、その本来の意味合いを感じとることもできるのではないか。檀那寺がある方は、日頃の年忌法要等を通じて、特にこうした意識のもとにお勤めされ、お経や法話を聞き学び、功徳を積んでいかれるならば有難いことだと思う。

 ところで、こうして檀家の一員として、人々を幸せに導き幸福を願う仏教の教えを信奉し、檀那寺を護持して功徳を積まれている檀家の皆様の家で、残念ながらご不幸があった。なれば、檀那寺の住職は、何をさておいても出向き経を唱えるというのは自然なことであろう。お寺のために尽くして下さり、たくさんの功徳を積み、法話を聞き、行事にも参加されてきたのだから、これまでのお徳を偲び、心からのお経をお唱えさせていただこうということになる。

 そこで、そうした功徳のもとに檀那寺から戒名が授与され、強く仏教に御縁を結んでいただくために、他国ではなされない歿後作僧の儀礼による大きな功徳を持って、よりよい来世に旅立っていただきたい。そういう思いをもって執り行われるのが、今日行われる日本仏教での葬儀というものなのではないかと私は思う。

 そして、初七日の法要からは、白木の位牌に記された戒名が読み上げられて読経される。それによって、今生ではない来世に確かに逝ったのだということをはっきりと意識するという意味合いもあるであろう。もしも俗名のままで名前を唱えるならば、いつまでもこの世にとどまっているかの如くに感じられ、残された遺族も、故人が亡くなった世界を新たに再生するのが難しくなるということもあるかもしれない。

成仏ということ

保坂氏は、著作の中で、日本で言う成仏とは、古来の清浄なる死者の世界、死穢の無くなった状態を指すと指摘されている。つまり日本では、いわゆる本来仏教で言うお釈迦様の悟りと同等のものとして、成仏と言うのではない。

 だとするならば、歿後作僧の儀礼により、そのまま、誰でも死後、仏の世界で安楽にくらせるなどと軽々しく言ってしまうのはいかがなものであろうか。現代の私たちにもうなずける内容でなくてはいけないであろうし、日本仏教の中だけに通用するような話でもいけない。やはり先に述べた世界の仏教徒の考え方にも齟齬をきたさない死と葬儀のあり方でなければならないと思うのである。

 そこで、当然のことではあるが輪廻転生ということを前提として死を捉え、寿命を終えた身体と分離した心は、四十九日の後に来世に旅立つけれども、それまでは私たちと同じこの三次元の世界におられる。だからこそ、四十九日の法要を盛大にするのであり、その間に遺族が故人に代わって功徳を積み回向して、より良いところへ生まれ変わって下さいと。

 そして、できれば、来世も人間界または天界に生まれ、また仏教にまみえて欲しい、戒名をもって来世でも仏教徒に生まれ変われるようにと故人をお送りする。そして、何度でも何度でも生まれ変わり、教えを学び行ずることで、お釈迦様のようなきれいな心に一日でも早く到達して欲しい。そのような願いから、「どうぞ成仏して下さい」と私たちは葬儀の際に合掌し祈るのではないだろうか。

 教えによったら、死後誰もが簡単に浄土にまいると教えられてもいる。しかし、それも輪廻の中のことと知らねばならないであろう。仏の世界にいく、ないし成仏するというのは、やはりお釈迦様の悟り、阿羅漢果の悟りのことでなくてはいけないと思う。しかし、そこに私たちが到達するのはそう簡単なことではない。何度も生まれ変わり生まれ変わりして学び、心を清め、功徳を重ねていくことが必要なのだと思う。

 成仏ということがそんなに簡単なことなら、この世の中は仏で溢れていなくてはいけないだろう。死して誰もが仏になるなら、そもそも教えも修行も不要なのではあるまいか。 (全)                 


│ │ │史跡めぐりでのお話 │ │備後國分寺の歴史 │ │ │

 平成二十一年一月十七日神辺町観光協会主催・かんなべ史跡めぐりにおける國分寺の歴史解説。(参加者六十人)       

『本日は、神辺町観光協会主催の神辺史跡めぐりということで、ここ備後國分寺にもご参詣下されまして、ご苦労様に存じます。少し國分寺についてお話しを申し上げます。

 國分寺は皆さんご存知の通り、今からおよそ一二七〇年ほど前、天平十三年、七四一年に聖武天皇が、國分寺の詔という勅令を発せられまして出来たお寺です。全国六十六州、それに島に三つ、都合六十九の国に國分寺が出来て参ります。当時は今のように日本の国という観念がありませんで、それぞれ各国でバラバラに暮らしていた。

 それが、國分寺の詔の百年くらい前に大化の改新という大改革がありまして、中央集権体制となって、都を中心に一つの国にしていこうということになります。その五十年後には大宝律令が制定されて中国をまねて律令制度という国の統一した制度によってまとめていこう、さらには、國分寺の詔の数年前から疫病が流行り干ばつなど天災に見舞われていた。そのために各国に國分寺を造り、中央には奈良の東大寺を造って、天下泰平・国土安寧・災害消除を祈願し、人々の心を中央に向けて国を統一する礎とされたわけです。ですから、國分寺は、鎮護国家、それに万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈願するというのが仕事でした。

 備後國分寺は、皆さん今参道を歩いてこられました入り口に南大門があり、古代の山陽道に面していた。少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂があった。金堂は、東西三十メートル、南北二十メートル、七重塔は、基壇が十八メートル四方であった。講堂は東西三十メートルあったと、昭和四十七年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。

 これは、奈良の法起寺式の伽藍であった。また、寺域は六百尺四方、およそ百八十メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には十二の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。

 当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約五メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われますが、当時の國分寺の中心には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経十巻が七重塔に安置されており、正式な國分寺の名称が『金光明四天王護国之寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。

 それは、護国経典として、とても当時珍重されたものであります。で、その『紫紙金字金光明最勝王経十巻』、今どこにあるかと言えば、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、ここから持ち出されて、沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されております。国宝に指定されています。

 その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、お隣の中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが、盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。

 おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたであろう。四年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町戦国時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。

 そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す。江戸時代には、延宝元年、一六七三年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、二年前ですか、文化財となっております。

 そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種候の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、人の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍ということであります。元禄七年にこの本堂が出来ました、今から三一〇年前のことです。

 それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。

 それが仁王門前の詩碑に刻まれておりますから、帰りにでも、よくご覧下さい。それで、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時は文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたのであります。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。

 皆さん、ところで、福山検定受けられましたでしょうか。関連しまして、『知っとる?ふくやま』という公式テキストが、発行されておりますが、ご存知ですか。初版では、この國分寺は、創建時の國分寺と歴史が分断されているかのような書き方をされていました。

 しかし、連綿と國分寺の歴史が続いていることは、先ほどの発掘でも明らかでありまして、そのことを出版先に伝えまして、最近出ました第四刷には、全文が訂正されております。どうか興味のある方はご覧いただきたいと思います。

 長くなりましたが、國分寺の変遷を通しまして、このあたりの歴史にも触れお話しをさせて頂きました。創建当時の人々、また苦労して再建して下さった人々は、今の私たちには想像も出来ないほどに、目に見えないもの、大きな私たちを支えてくれている存在に深く感謝とまことを捧げるために、このような立派な建物をお造りになったのだと思います。そうした、いにしえびとの御心についても、どうか思いを馳せながら國分寺をお参り下さいましたら有り難いと思います。

 本日は、ご参詣誠にありがとうございました。』        (全)


│ │ 常用経典の仏教私釈@  │ │ やさしい理趣経の話 │ │             │

理趣経のこと

 「理趣経(りしゅきょう)」という経典がある。「般若理趣経」とも言い、真言宗の常用経典である。真言宗の僧侶が執り行う葬儀や法事で読まれるのは、まず間違いなくこの経典だと言ってよい。普通の経典が呉音で読むのに対し漢音で読むため、聞いていて誠に軽快な感じがするお経だ。

 たとえば金剛というのを「こんごう」ではなく、「きんこう」と読んだりする。清浄を「しょうじょう」ではなく、「せいせい」と読み、如来を「にょらい」ではなく、「じょらい」と読む。また一切を「いっさい」ではなく「いっせい」だったりと、聞いただけでは言葉が当てはまらない。

 なぜこんな読み方をするのかと言えば、そこにはいわゆる煩悩の中でも最もやっかいな性欲を大胆に肯定しているように読めたり、どんな悪事を働いても成仏するというような文言があるためで、いわゆる仏教徒にとってはそのまま受け取りがたい内容を含んでいるから、聞いただけでは意味を解せないためとも言われている。

 がしかし、本当のところは、当時の洛陽や長安といった中国の都は漢音を中心にした世界であり、また日本でも平安の初期は漢字は漢音で統一するという時代だったためという。

さまざまな理趣経

 ところで、この経典は、通称を「般若理趣経」と言われているので、もともと大乗仏教が西暦紀元前後に新たに生起した頃大乗仏教徒によって新たにまとめられた般若経典の一種でもあり、その流れをくんでいる。だから真言宗ばかりか、たとえば禅宗のお寺さんでも、大般若経転読法会といえば、玄奘訳『大般若経六百巻』の中の五七八巻にある般若理趣分が導師によって読誦されたりする。

 つまり、同じ理趣経でも成立時期が様々なものがあり、玄奘訳は七世紀中頃に訳され、この他七世紀の終わりには金剛智や菩提流志(ぼだいるし)らによって翻訳されている。そして、現在真言宗で常用されている「般若理趣経」は、長安第一の大寺・大興善寺におられた不空三蔵(ふくうさんぞう)によって、七六三年から七七一年にかけて、あの玄宗皇帝の次の粛宗帝の勅により国家事業として翻訳された。

 その新訳を初めて日本にもたらしたのは弘法大師であろうか。唐の国からこれだけの経巻宝物を持ち帰ったと朝廷に差し出した『請来目録(しょうらいもくろく)』には、「新訳等の経」の一巻として『金剛頂瑜伽般若理趣経』とあるから、おそらくこの不空訳の「般若理趣経」のことであろう。

正式名称

 この理趣経は、正式名を「大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品」という。読んで字の如く、「大きな楽しみ、それは金剛つまりダイヤモンドのように堅い、空しからざる、真実なる、三摩耶つまり悟りに至る経典」ということになる。ただ、大きな楽しみとは、私たちの俗世間的な楽しみではなく、この宇宙全体がよくあるようなことに対する楽しみのことであり、堅いというのは菩提心、つまり悟りを求める心が堅固であるとの意であるという。

 「般若波羅蜜多理趣品」は、「般若」が智慧、「波羅蜜多」は完成に至るとの意で、「理趣」とは、そこに至る道筋、「品」は章ということで、智慧の完成に至る道を説く章という意味となる。全体では、「堅固な菩提心により智慧の完成を導き、必ず真実の悟りを得て、宇宙大の利益をもたらす道筋を述べたお経」だということになる。 啓請  ただ理趣経は、今日では、この経題の前に、読経する人が経典の説き手である大日如来をお招きしてお祀りする啓請(けいしょう)と呼ばれる偈文を読むことになっている。

 だから理趣経のはじめは、「みょーびーるしゃなー」で始まる。「みょー」というのは、帰命の帰の字を略して読むからで、本来は帰命、帰依しますということ。「びーるしゃなー」は、毘盧遮那仏の仏を略して引声して唱える。「帰命毘盧遮那仏」、大日如来様に帰依しますという文言から理趣経がはじまる。

 そのあと、「むーぜん、しょーうじょう、せーいせい」と唱え、煩悩に染まることのない執着のない真理に至る、生まれ生まれてこの偏りのない教えに遇い、常に忘れず唱え教えを受持しますと宣誓しつつ、弘法大師にこのお経の法味を捧げたり、過去精霊の菩提のために唱えることなどを述べてから経題を唱える。

序文

 そして、経題を唱え終わると続いて「如是我聞一時薄伽梵(じょしがぶーんいっしーふぁーきぁーふぁん)」と本文の読経が始まる。

 「如是我聞」とは、お経が始まるときの常套句で、かくの如く我聞く。この場合の「我」とは、お釈迦様に最後まで随侍したアーナンダ長老のことで、仏滅後の雨安居の際に第一の弟子マハーカッサパ長老のもとで五百人の阿羅漢がラージギールの七葉窟に集会して、最初の仏典結集(けつじゅう・お経と戒律の編集会議)が行われた。

 その時アーナンダ長老が長年近くにあって記憶していたお釈迦様の説法を、集まった長老たちの前で確認する際に、このように「かくの如く我聞く」と言ってからお唱えした。この言葉がお経の出だしの文句として常用され、大乗経典にもそのまま採用された。

 「一時」とは、あるとき。「薄伽梵」は、バガヴァーンというインド語の音訳で、尊敬すべき人、徳のある人、幸福、吉祥ある人との意味。経典には、ただバガヴァーンという言い方でお釈迦様を表している。この場合のバガヴァーンは、世尊と訳す。またヒンディ語では、最高神との意味もあり、ヒンドゥー教の神様にも使う。ところで、今でもインドの仏教徒は、バガヴァーン・ブッダという言い方をする。だから、ヒンドゥー教的な神様という意味しか知らない人には、インド仏教徒はお釈迦様を神様だと思っていると勘違いされることもあるようだ。

 十年ほど前にNHKが企画したNHKスペシャル『ブッダ大いなる旅路@輪廻する大地・仏教誕生』でも、とても良い企画ではあったが、コルカタのベンガル仏教徒にインタビューした際にそのような言辞があった。

教主大日如来とは

 ただし、ここでの「薄伽梵」は、密教経典を説く教主・大毘盧遮那如来、つまり大日如来を形容している。そして理趣経は、このあと長々と教主大日如来のお徳が口上される。

 つまり、@すべての如来のダイヤモンドのような堅い金剛によって加持された永遠なる悟りの智慧を有し、Aすべての如来の灌頂宝冠を得てこの世の宝を自分のものとした精神世界物質世界の主となり、Bすべての如来のすべての智慧を自在に駆使して利益する、Cすべての如来の働きを成し遂げる力を有し、すべての生きものたちの願いをかなえ、Dそして三世にわたって常に物質的音声的精神的なすべての活動に従事するありがたい如来であると。

 毘盧遮那とは、インド語のヴァイローチャナの音訳で、光り輝く者との意。すべての者に、昼夜に問わず光りと恵みをもたらす大きなお日さまを表し、この宇宙の摂理、真理をそのままに尊格にした仏様ということになる。

 だから、大毘盧遮那如来で、大日如来。この世の中のすべてはこの大日如来の表れであるとも言われる。

理趣経の聴衆

 その大日如来が、欲の世界の最も高いところと言われる他化自在天(たけじざいてん)という天界で、この理趣経を説いた。そこは、一切の如来がおいでになり、幸福にみちた宝物に溢れた宮殿で鈴や鐸の音が響き、装飾の施された布が揺らぎ、たくさんの宝石、宝珠、円い鏡などに飾られている。  そして、そこには、八十億からの菩薩たちが大日如来の説法を聞こうと勢揃いしている。

 それらたくさんの菩薩たちの代表として、悟りを求める心を表す五鈷という法具を持ち一心に精進する金剛手菩薩、つねに慈悲の心で見て人の心の清らかさを見出す観自在菩薩、この世のあらゆるものに宝を見出す虚空蔵菩薩、身体と口と心が常に一体となって永遠に働く金剛挙菩薩、智慧の利剣で人々の煩悩を断つ文殊菩薩、発心してとたんに説法が出来る纔発心転法輪(さいはっしんてんぽうりん)菩薩、人々にこの世のあらゆる宝を広大に供養する虚空庫菩薩、一切の魔を退治する摧一切魔(さいいっせいま)菩薩がおられた。

 これら八大菩薩たちが、大日如来をぐるりと八方に取り囲むと、大日如来によって、誠に巧みな意味深い清らかな説法がなされたと記される。  そしてこれにて、理趣経が説かれる場の設定に関する長々しい解説、つまり序文が終了する。     (全)


四国遍路行記H  岩本寺から金剛福寺へ (平成二年三月から五月)

 翌朝、六時頃だっただろうか。他の遍路旅の宿泊者たちとともに権現造りの岩本寺本堂のお勤めに参詣する。はるか奥に須弥壇(しゅみだん)が見えた。たくさんの様々な絵が格天井(ごうてんじょう)にはめ込まれている。花や鳥、子供の顔もある。みんな信者さんの作品だろうか。見ているだけで心が和んだ。

 藤井山五智院岩本寺、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開創という。もとは福円満寺といったが、弘法大師が立ち寄って修法され藤井寺となり、五体の本尊様を刻んで、新たに五か寺を造られた。  しかし、ここも明治になって一時廃寺となった。復興した際に今日のような寺号となり、五体まとめて本尊様としてお祀りしたという。阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩の五体。日本広しといえども、五体もの本尊様がお祀りされているお寺はここだけだ。

 食堂で朝食をいただき、歩き出す。曇り空。次の金剛福寺までは九十キロ以上もある。国道に出て、歩道を歩く。途中切り出した材木を横倒しにした木材の搬送所がいくつかあった。そのあたりで、カブに乗った奥さんから、「はい」という感じで白い紙に包んだお布施を頂戴する。礼を言い、頭を上げると、もう走り出していた。窪川は標高三百メートルあり、畜産と養豚の町として知られている。

 ひたすら国道を歩く。アスファルトの道は足が重い。今日はどこでお昼が食べれるのかと考えていたら、通り沿いに、たくさんの車が止まった食堂が眼に入った。これは食べなさいということかと思い、中に入る。丼ものを注文し、一人カウンターで味わいつつ食べ、レジに向かった。どうもその途中から見ていたのだろう、お金を払い終わると、一人の男性が話しかけてきた。

 「どうね、車に乗らんかね」とでも言われたのであったか。それが、私より十ばかり年上の、いつも涙目をしたSさんとの出会いであった。事業所向けの清掃会社を当時されていたので、たくさんの清掃用具を載せたワゴン車の助手席に同乗した。「あなたはただ食事しとったから声をかけたが」と言われたのを今も憶えている。普通の遍路さんは、食事をしながら何か物思いにとらわれているのだとか。思い悩むことがあるのか、いろいろなものを背負って苦しいのか。そんな風がまったく私にはなかったから、声が掛けやすかったのだ、とのことであった。

 途中、中村市の街中で仕事の打ち合わせとかで車の中で待たされた。すると腰掛けの脇に見たような本があった。インドの聖人・クリシュナムルティの本だった。『自我の終焉―絶対自由への道』篠崎書林刊。かつて私も食い入るように読みふけった本に、そのとき出会うとは。今でもその本を所持しているが、いくつも鉛筆の線が入っている。

 J・クリシュナムルティは、インド・マドラス州の人で、二十世紀初頭、神智学協会の次代の宗教的指導者と指名され英才教育をされた。三十才頃の日記には、「私は自分自身から離れてしまいました。私はあらゆるものの中にいるのです。と言うよりも、あらゆるものが私の中にあるのです。無生物も生物も、山や虫や呼吸しているすべてのものが私の中にあるのです・・・」と記している。

 その後、彼は教団を自ら解散し、一人旅を続けて真理を語る孤高の哲人としての生涯を過ごした。彼の語る真理は過去のどの教えにもよらない、個々人が自らを見つめていくことから、真に自由な道を歩み、真理を発見するものである。そして実は、それは、かつてまさにお釈迦様が到達した歩みにも似たものなのであった。

 Sさんが車に戻ると、早速その話を始めた。Sさんも驚き、彼の話や真理について語り、意気投合した。気がつくと遍路中であることも忘れ、土佐清水市大浜にある、Sさんの実家にお邪魔していた。鰹漁師のお父さんはごっつい手をした眼のきれいな方で、突然の遍路坊さんの登場にも顔色一つ変えずに温かく迎えてくれた。獲れたての鰹のたたきをご馳走になり、くつろいだ。夜もまた語り合ったと記憶している。

 翌朝は朝食の後、一宿一飯のお礼に、仏壇に手を合わせ心経一巻。唱え終わると、目を閉じて聞いていたSさんは、「お経をこれまであまり心して聞いたことはなかったが、お経の波動には真理が生きてるが」と言っていた。三十八番金剛福寺まで送って下さる予定が、途中ホテルの喫茶店に案内され、もう少し話をしようで、ということになった。そこでまた二時間。  よくそこまで話すことがあったと今では思えるけれども、Sさんの亡くなったお兄さんの話やお互いの歩みなど語り始めたら尽きない話を二人でやりあったのであった。

 Sさんは人の放つ光(オーラ)が見える方で、その時の私からは透明に近い白い光が見えると言われていた。ようやく、金剛福寺門前まで送ってくれて、お別れした。  Sさんとは、その後も高知の禅寺に坐禅に行った折にお会いしたり、この翌年の遍路では高知市内のご自宅に泊めていただき、ご家族と川遊びもさせていただいた。今は産業カウンセラーとして活躍中である。・・・。(全)


いざというとき困らないための仏事豆知識C

『葬儀式』

 葬儀は、故人が仏道に入門するための儀礼であり、今日では、そこに告別式が挿入された葬儀式が一般化しています。  葬儀会場には、白木の位牌が中央上段に祀られ、その下に二膳の霊供膳、果物、お餅などがお供えされます。また、葬儀並びに初七日の法要のための塔婆が立てられます。  通夜式と同様に、喪主は右側の中央最前席に座り、近親者親族が順に腰掛け、左側には友人知人、一般の参会者が座ります。

 導師並びに寺院方が入堂し、着座しますと開式の合図により、一同合掌礼拝して式が始まります。  導師は、まず香水を加持して会場並びに故人を清めます。遠い昔からの罪穢れを洗い清め、これから受ける儀礼に相応しい、きれいな心を準備していただくのです。  次に導師はおもむろに立ち上がり、故人を出家得度させるために、まず、『剃髪』を行います。故人のこの世に対する恩愛を断ち切らせ、辞親偈を唱える間に剃刀を三度頭に当てます。

 それから『三帰五戒』と『戒名』を授けます。三帰は、仏法僧の三宝に帰依し仏教徒になることであり、五戒は、仏教徒としての生き方を学ぶものです。五戒は、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つです。そして改めて仏教徒になった証として、戒名を授けます。  次に導師は、起居して『三礼』を唱え、新弟子としての故人とともに三宝帰依を本尊様に申し上げます。

 そして、脇僧による読経が行われる間、導師は、本尊様に向かいこの葬儀式の趣旨である『表白』を唱えます。つまり、故人がこの世の縁尽き、既に中有にあって、これから四十九日の後に来世に向かっていくにあたり、生前のたくさんの功徳と遺族の様々な追善によって善き世界にお迎え下さることを祈るのです。それから、様々な作法の伝授があります。

 理趣経の読経が済むと、導師は、立って、『諷誦文』を読み上げます。これは、故人を偲び、この世の無常のことわりを告げ、故人の今生での積善を語り、たくさんの功徳によって、善趣におもむき、来世でもしっかり仏道に精進されるよう引導するのです。

 その後弔辞弔電の奉読があり、それが終わると、再度読経の間に遺族親族から焼香が始まります。焼香は、本尊様に香を施し、その功徳を故人に手向けるものです。本尊様に合掌礼拝の後、一度ないし三度焼香してから、もう一度合掌し祈念することを忘れないようにしたいものです。

 そして、寺院方によって、この葬儀一切の功徳が生きとし生けるもの、ないし故人のために回向されて、葬儀式が終了します。

 なお、このあと、この地域では、引き続き同座にて、初七日の法要が行われるのが通例となっています。(全)


〈おたより〉  『小説「山椒大夫」と國分寺』 

 境内をぶらぶらしていたところへ、福山の備陽史探訪の会による神辺町内の古墳巡りの一行が歩いてやってきた。國分寺裏山の古墳群を見学するという。山門前で休息を兼ねて、引率の講師が備後國分寺の由来について説明をされていたのが耳に入った。 「國分寺は簡単に言えば、古代の国立大学のようなものです。・・・・。また、駆け込み寺のような役割も持っていたようです。・・・」と。 「駆け込み寺のような」と聞いて、ふと森鴎外の小説「山椒大夫」を思いだした。

 小説「山椒大夫」は、平安時代のこと、人買いにさらわれ、丹後の山椒大夫に売られた安寿姫と厨子王姉弟の物語である。二人は山椒大夫に奴婢として使われていたが、安寿は入水して死に、厨子王は中山國分寺に逃げ込みかくまわれる。そこへ追っ手がやってきて、厨子王を渡せと迫る。その時、住持曇猛律師が出てきて追っ手に言うくだりがある。

 (以下引用)・・・律師はしずかに口を開いた。騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声は隅々まで聞えた。 「逃げた下人を捜しに来られたのじゃな。当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟を執って、多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか、公の叛逆人でも出来たかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身が家の下人の詮議か。当山は勅願の寺院で、三門には勅額をかけ、七重の塔には宸翰金字の経文が蔵めてある。ここで狼藉を働かれると、国守は検校の責めを問われるのじゃ。また総本山東大寺に訴えたら、都からどのような御沙汰があろうも知れぬ。そこをよう思うてみて、早う引き取られたがよかろう。悪いことは言わぬ。お身たちのためじゃ。」 こう言って律師はしずかに戸を締めた。三郎は本堂の戸を睨んで歯咬みをした。しかし戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。             (「日本国民文学全集」より)

 平安時代、律令制の衰退とともに國分寺が国家の保護を失ったとは言え、地方においては厳然とした権威を持っていたのであろうか。この小説の一節は、そのことを象徴しているように思える。                  (B)


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十一

『諸々の道のうちにては八種の道、 諸々の真理のうちにては、四箇条の真理が 最勝なり。諸々の美徳のうちにては離欲、 諸々の人のうちにては具眼者が最勝なり。』 (法句経二七三)  

どう生きるべきか、などということに関しては一切学ばずに、私たち世代は大きくなってきたのではないだろうか。正に、今の若い世代の人たちにとっては、生きる手がかりがない。どう自分を律していけばいいのかということがまったく抜け落ちた社会になりつつあるのかもしれない。  

お釈迦様の時代にも、おおぜいの若い弟子たちが、修行の合間に無駄話に興じている姿をご覧になったお釈迦様が、この偈を唱え、私たちの基本とすべきものを教えられた。  

八種の道とは、八正道であり、四箇条の真理とは、四聖諦。人の道とは厳しい苦しいものと現実を捉え、その原因結果を見定めて、理想を掲げつつも、今をしっかり歩む。欲ばかりかいて今の大不況金融危機が引き起こされたことを考えれば、修行者ばかりか誰もがやはり離欲が必要だということが分かる。そして、暗中模索の時代には、しっかりと真実を見極めることが何よりも大切だということであろう。  

いかに生きるかの道標は、私たち仏教徒にはきちんと整理されてあるという気概を感じさせる偈文である。  (全)



平成二十一年度 國分寺年中行事

月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
土砂加持法会           四月五日
正御影供並びに御砂踏み    四月二十一日
四国八十八カ所巡拝(伊予)   五月十三・十四日
万灯供養施餓鬼会        八月二十一日
高野山参拝            十月七日
四国八十八カ所巡拝(讃岐)   十一月十・十一日
除夜の鐘              十二月三十一日 

◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時  
◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時  
◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時  
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所 真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四 FAX〇八四ー九六五ー〇六五二
編集執筆 横山全雄 郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい  
● 國分寺HP・http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/
◎行基菩薩像造立写経奉納受付中!
  造立までにはまだまだたくさんのご奉納が必要です。多数お写経、何卒宜しくお願い致します。

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