備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十二年正月号] 第二十四号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


 団体参拝者に向けての法話
『お釈迦様は私たちに
 チェンジを求める』

 本日は、数あるお寺の中からここ國分寺にお参りを頂きまして、ありがとうございます。歴史の話は前回に済ましておりますので、今日は少し、やさしい仏教の話をしてみたいと思います。
ですが、一口に仏教と言いましても、そもそも仏教というものがなかなか捉えにくい、何をもって仏教というのか、皆様と私とで、たぶん仏教のとらえ方が違うのではないかと思っております。

 今日、日本の国で仏教と言うと、葬儀仏事と結びつけられて、死者のための儀礼としてしかその役割がないかのように感じます。皆様も仏教というと拝むもの、お唱えするもの、信じるものという印象が強いのではないでしょうか。
 ですが、もともとのお釈迦様の教えは、本当はとても科学的論理的な教えでした。たとえば、その昔インドで医王と言うと、お釈迦様本人を指していました。お釈迦様のところに行くと誰でも心も体も癒されてしまう。その説法も医者の診断の仕方に則ったものだったと言われています。だから医王と。

 で、どんなことをお話しになったかというと、私たちが生きるとは何か、なぜ苦しむのか、幸せとは何か、いかに生きるべきかということを諄々とお話しになったのです。今日はそのあたりの話しをしてみようかと思っております。

なぜ仏様の前でお経を唱えるのか

 ですが、まずはとりあえず、身近な話しから入っていきます。先ほど般若心経一巻をお唱えをいたしました。本尊様を前に唱えたわけですけれども、なぜ仏様の前でお経を私たちは唱えるのでしょうか。お経ばかりでなく、真言とか、念仏とか、題目、やはり仏様の前でお唱えしますね。なぜでしょうか。仏様に聞かせてあげるんだと思っている人はありますか。仏様がお経を聞いて勉強されるのでしょうか。ですが、仏様の方が私たちよりお経のことはよく知っているはずですよね。
 仏様が喜ばれるからと言う人もあるかもしれません。そうですね。私たちがお経を上げると仏様は喜ばれる。なぜでしょうか。自分が説法したことの記録であるお経を後世の信者たちが唱えてくれるからでしょうか。私が思うには、私たちがお経を唱えて、教えを学んだり、また唱えて心が静まり清らかになる、それを仏様は喜ばれるのではないかと思うのです

 ですから、仏教とは、ただお唱えしたり拝んだりするものではなく、やはり、それによって教えを学び、行いが正され、少しでも心が静まり落ち着いた心になる、つまり、自分がよい方に少しずつ変わる、今の言葉ではオバマ大統領ではないですが、CHANGEですか。それが大事なことなのだということです。どんなに山に籠もったり、断食をしたり、たとえ滝行をしたといっても、その人が変わらなければあまり意味がない。

教誡の奇跡

 それでたとえば、皆様の中には、私は美しい端麗な観音様ですとか、可愛らしいお地蔵さんが大好きです、信仰していますという人もあるかもしれません。ですが、手を合わせ信仰して、きっと助けてくれる、救ってくれると、礼拝し信じるだけでは、あまりその人自身は変わっていかないかもしれません。かえって、考える力を失うことにもなります。
 ですから、信仰崇拝するよりは、観音様とは、お地蔵様とは、どのようなお方だったのか、その生き方を学び、自分も観音様のように生きようと励まれると、自分も幸せになり、周りの人たちにも御利益がある。ただ救ってくれると信じているよりは自分できちんとどうすべきか考える人になれる。
 このことが結構大切なことです。特殊な信仰に入るような人はだいだい上の人たちの意向で動く。全く自分の考えがありません。それではいけないんですね。やはり自分が判断できなくてはいけない。

 関連しまして。今、スピリチュアル、ですか、ブームですが。スピリチュアルとは霊的なとか精神的なという意味ですが、オーラが視えたり、人の過去生が視えたり、目には見えない気やエネルギーを察知する能力があったり、予言してみたり、亡くなった人の霊と話ができたりする人がもてはやされています。皆さんもよくご存知ですね。
 ですが、その人が、オーラが見えても、前世が分かっても、亡くなった人のことを聞けても、それだけでは、私たちは幸せにはなれない。つまり、変われない。ますます特異な能力のある人にやはり依存して、言われたことに従うような、心の奴隷になる。

 それで、仏教ではそのあたりのことをどう考えるかと申しますと、お釈迦様はどうだったのかということになりますが、お釈迦様の奇跡、あまり聞いたことないかもしれませんが、本当は、ものすごい神通力、いわゆる超能力があったわけです。当然のことではあるのですが。
 お釈迦様は、空も飛べたし、天界に行ってみたり、神様と話しをしてみたり、会った人の過去世も、来世もみんな見えてしまった。遠くのものを見たり聞いたり、人の心も分かったし、ナーガという蛇の鬼神を簡単に退治したり、同じ修行者を従わせるために教団の草創期にはかなりなさったようです。
 ある修行者たちとの神通力の競い合いがあったときには、足が水になり、体が火になって空を飛んだとも言われています。しかし、膨大な経典の中にはあまりその手の話は出てこないのです。お釈迦様のことを単なる超能力者と見なす人もいないのですが、とにかく沢山の人から尊敬されていた。

 それは、お釈迦様はそうした超能力はよいことではない、そんなもので人は幸せにならないと考えられて、教誡(きょうかい)の奇跡こそ最上のものだと言われたからなのです。教誡とは、教え戒める、つまり正に人の生き方を変えてしまうことです。
 この世の真実を教え、智慧を生じさせ、その人の生き方が変わることです。どう変わるかというと、新興の仏教に対抗心を燃やすバラモンたちも訪ねてはいろいろと問答をするのですが、結局はみんなお釈迦様の話しに引き込まれ改心して弟子になったり、すぐにそこで初歩の覚りを得られて弟子となり出家をしたりしています。

チェンジということ

 実は、何を隠そうこの私も変わった口なんです。私の場合は、一冊の仏教書と出会い、人生が変わりました。その本には、お釈迦様の生き様と教えが克明に書かれていました。
 東京の普通の家に生まれて、お寺との縁も何もなかったのですが、大学一年の時、ある大学の門前で友人と会い、その時の会話がきっかけとなり仏教と巡りあいました。その後、縁あって高野山にのぼり専門道場で修行をし、帰ってきて東京のお寺に入り、様々な手伝いをしておりました。
 そんなある日の夕方、一生懸命本堂の床をぞうきん掛けしていましたら、その寺は私がそもそも仏教に興味を持つきっかけとなった、あの時友人と会った大学の真ん前にあるのだと気づきました。その瞬間、走馬燈のように過去の出来事が頭にひらめいて特殊な体験を致しました。

 様々な人生の瞬間瞬間のつまらないようなことの積み重ねのすべてにとても意味があり、それらの人生の岐路に立って一つも間違わずに今ここにある。仏教の言葉では因縁、縁起と言いますが。すべてのことに原因があり結果する。偶然などというものはなく、すべての物事があるべくしてある、ここに今あるためにすべてのことがあったと思えました。今の行いが次の自分を作っていく。今のためにすべてがあった。
 ですから、皆様も今日こうしてここに来て、この話を聞くために皆さんのこれまでがあったと言うことも出来ます。大げさな言い方かもしれませんが、もちろん、それがどれだけ明日からの人生に影響を与えるかはまた別の話ですが。私はと言えば、私の人生は今の瞬間としては、皆様にこうしてお話しをするためにあったと言うことも出来ます。つまり、今という瞬間がとても尊く大切だということであります。

 また、別の見方をすると、それは私たちは変われるということでもあります。今の自分がどんなに辛くても、自殺したいほどに苦しくても、また劣っているように思えても、次からの一つ一つの行いによって変わっていけるということです。占い、などというものがあります。運命的なことを言われることもあります。しかし、それさえも変えられるものです。
 それから、そのとき、今の自分、それを支えてくれている人たちやものすべてがとても尊く感じて、ありがたいと思えました。目に見えるもの耳に聞こえるもの、すべてがとても意味のある、今こうして私が目にするためにそこに存在してくれている、それぞれがとても得難い因縁の元にそこにあると思えました。

今という尊い瞬間

 信じれば救われるというようなことを言う人もあるかもしれません。ですが、信じるだけでは依存するだけで、奴隷になるだけなのではないでしょうか。自分とは何か、生きるとは何かということをお釈迦様はお話しになった。自分が生きるということをきちんと自ら考えられる。元気はつらつと、今という瞬間に意味を感じしっかり生きる。教えによって、そういう自分に変わる。それが教誡(きょうかい)の奇跡です。
 今という尊い瞬間を大切に生きる、自分を変えられるのは今しかない、今に専念する、過去のいざこざ、失敗したようなことに思い煩うことなく、未来のことにうつつを抜かすことなく、今に生きる。それがまた心静まり、清らかな心を作ることにもなります。皆様も、是非、仏教に学び、すべての過去の行いの集積としてのかけがえのない今という瞬間に意味を感じて生きて欲しいと思います。今の瞬間の積み重ねが将来の自分を作っていきます。自分こそが自分の主なのですから。

 時代が変革を求め、私たちの生活も少しずつ変わっていくことでしょう。様々なものの認識も変わる。何もかも与えられるものに満足させられ、引かれた線路を歩んできた時代が変わりつつあります。
 宗教や仏教に対する認識も変わることでしょう。自らが選択し自らが求めて確認し、より深く意味あるものとなったとき、既に皆さんも変わっていることでしょう。自分が変われば周りの世界も変わる。CHANGEこそ、お釈迦様の私たちに向けたメッセージだと言えましょう。 (全)


〈おたより〉
《かんなべの伝説》より 『地蔵峠の白い花』 

 神辺・中条三谷の龍華寺下の県道脇に「袖無地蔵↓」と記した案内板が立てられている。この看板をたどって山道を約一・五キロほど行くと、草むらの中に小さな石仏が立っており、かたわらにその言い伝えを書いた看板も立てられている。
 最近、地元有志によって設置されたもので、このあたりでは「袖無地蔵」と呼ばれ、若い娘の哀話を伝えている。その言い伝えを小坂道和作の「かんなべの伝説」をもとに詩風にしてみた。

《かんなべの伝説》より  
『地蔵峠の白い花』

一、むかし備後は かんなべの
  沖の長者の お屋敷に
  奉公娘が おりました
  気立てやさしく 器量よく
  働き者で 名はおつる

二、ある年 暮れの 藪入りに
  初めて帰る 親の元
  着せてもらった 袖無しに
  おつるは心 はずませて
  三谷峠に さしかかる

三、哀れおつるは 賊に逢い
  命からがら 逃げる道
  力も尽きて 果てました
  涙ながらに 長者さん
  峠に地蔵 建てました

四、おつるをまつる 村人は
  袖無地蔵と 呼びました
  ある日地蔵の かたわらに
  不思議な花が 咲きました
  あざみにも似た 白い花

五、おつるおそった 権八が
  罪をつぐなう 旅に出て
  遠い国から 持ち帰り
  そっと植えたと いう話
  死蔵峠の 白い花

(B)


『仏教の盛衰に   
   何を学ぶか』 を読んで

 京都・臨済宗大本山相国寺(しょうこくじ)の教化活動委員会・研修会での講義録である。中外日報紙で頒布して下さる記事を拝見し、早速取り寄せ拝読した。
 講師の先生は、麗澤大学教授(現中央大学大学院教授)の保坂俊司氏。比較思想、比較文明論が専門の先生だ。この先生の本は以前『インド仏教はなぜ亡んだのか』(北樹出版社)『戒名と日本人』(祥伝社新書)を読ませていただいたことがある。

 『インド仏教はなぜ亡んだのか』では、これまで誰も紐解くことの無かったイスラム文献を渉猟(しょうりょう)されての仏教衰亡論には説得力があった。イスラム軍がインドに攻め上ったとき、教えと平和を守るためにそっくり指導僧の交渉によりイスラムに改宗したとあった。
 実は、その話は、以前私がインドにいたころ、インドの師匠であったベンガル仏教会総長のダルマパル師より聞いた話とも符合するものであった。それは、たまたま見たテレビで、白い袈裟のようなものを仏教式に纏ったイスラム教の人々が居るのを見たという話であった。そんなこともあり、とても興味深く読ませていただいた。(本書の要約を以下に掲載する)

 「本書は四回の講演内容を収録してある。第一講「インド仏教はなぜ興隆したか」では、まず、日本では宗教というものが誠に限定されたものとされ、ゆがめられて認識されていると指摘する。宗教という言葉は、もともと宗派の教えというような意味で、伝統仏教の中にあった。
 それが明治になって、ラテン語のレリギオを日米通商条約の中で訳す際に宗教という言葉で置き換えをした。そして、明治にこの宗教の範疇(はんちゅう)に入れないものとして神道を位置づけた。それは、宗教が違っても国を統一する上で必要な神社や皇室を拝まないということがないようにするためであった。

 さらに、仏教、キリスト教など宗教の上に位置するものとして神道を認識させるために、東大の文学部をつくる井上哲次郎という学者が、『我が国体と国民道徳』にて、「宗教に頼る者は女子、小人であって、半人前である。半人前でない人間は、神道を信じるものである」と書いた。こうした考え方が広まり、のちのち私たちは、知らず知らずのうちに、宗教を信じる者は普通以下のレベルの人間だということを常識化されてきたのだという。
 だから宗教である仏教もつまらないものだという観念が植え付けられてしまった。伝来以来、日本の政治経済、文化、情操、技術、発展のためにどれだけ貢献してきたか分からぬ仏教を、こともなく博物館に陳列されたものとして捉え、冠婚葬祭の部分だけにその役割を矮小化(わいしょうか)されてきたのだと言われる。

 インドで仏教が当時多くの人々に受け入れられたということは、哲学的にすばらしかったというだけでなしに、人々の要求に応えるものであったからだ。お釈迦様は人間の知性、可能性の限界に立ち向かい、その道を開かれた。
 生老病死という普遍的な問題について取り組んだからこそ、誰でもが受け入れられるものとなった。その中でも大事なことは、心と体というものを分けてそのどちらかを制御するのではダメで、心と体をともに大切に生きていくということ、それが仏教の中道だ。

 @すべては関連性のもとにある。だから自分だけ正しいとは考えない。
 A誰もが教えを受け取り実践する意味において平等である。カーストは関係ない。
 B個人の行いの結果は自らが引き受ける。因果応報。
 C異質なものとも対立せず融和する。これが仏教の特質であるという。

 だから、生まれ性別を問わず、個人の行いによって自分自身を救うことが出来る。儀式や集団ではなく、自分の行いが未来、死後の世界、社会をよくしていけると説いた。よって、農民ではなく、都市商工者や女性に信者が多かった。また西域からの異民族がカーストによらない仏教徒になった。そして、それが仏教がインドから姿を消す要因でもあったという。

 第二講「インド仏教の衰亡と宗教興亡」では、インドの歴史をはかるうえで欠かすことのできない資料に玄奘(げんじょう)三蔵の『大唐西域記』(だいとうせいいきき)があるが、それと同時代に書かれたイスラム文献『チャチュナーメ』について語られる。この書はムハンマド・カーシムという武将の一代記で、インダス河を北上して攻め上る記録が残っている。

 ニールンという町を占領するくだりにおいて、他の都市では三日三晩の殺戮が繰り返されたというが、その町では、町の長であり、長老であり、仏教僧であるバンダルカルという人物が登場し、カーシムに戦わずして城を明け渡す。しかしその代わりに、お寺の建物と人々の信仰、生命、財産は守ってくれるようにと交渉しその保証を取り付ける。
 当時の仏教徒はヒンドゥー教徒との戦いが続いていたこともあり、自分たちをイスラム軍が守ってくれるという意識もあったのではないかという。こうして被保護民としてイスラム圏に入ることによって仏教徒は生き残りを図っていった。だからこそイスラムは急激にインドに攻め込むことが出来た。しかし、その百年後の記録には仏教は消滅してしまうそうだが、残念ながら、その事情はよく分かっていないという。

 第三講「インド仏教の衰亡と宗教興亡二」では、インド仏教衰亡の原因として、
 @イスラム軍によってビハールやベンガルの巨大僧院が破壊されたため。
 A祭祀を行わなかったなどにより自ら衰退していったため。
 Bヒンドゥー教化して吸収されたため。
 C信者に義務として教団を支えることを教義としなかったため。
 などこれら伝統的なインドにおける仏教衰亡説に加え、インドの特殊事情が影響していると保坂氏は指摘する。

 多数派で土着信仰の保守派ヒンドゥー教に対し、仏教は少数派で革新的合理的普遍主義なため、両者には、常にインド社会では両極端の対決があった。だから、イスラムの侵攻というときに、仏教徒は、イスラム教という宗教の実態がわからずも、ヒンドゥー教との社会的対立、宗教的対立が引き金となり、仏教の不殺生の戒律を重視して、イスラム軍を受け入れた。しかし、結果的にそのことが仏教の衰亡を招いたのだと言われる。
 第二講で述べたようなインダス河流域でのイスラム化。また東ベンガル地方でも今日イスラム人口が多く、最後まで仏教徒の多かったこうした地域で、現在イスラム教徒が異常に多い。そこに、仏教徒が集団でイスラム教に改宗していった実態が浮かび上がる。
 東ベンガルでは、鍛冶屋、鋳物工など、仏像を造るイスラム教徒が最近までいたという。かつて仏教徒であった時代の職業がイスラム教徒になっても引き継がれ、存続していたのではないかと考えられているという。

 ところで仏教は、誰でも受け入れる教えであり、普遍主義であるけれども、ヒンドゥー教も、イスラム教も、キリスト教も、神道も、それはナショナリズムに結びつく特殊な人々の教えに過ぎない。だからこそ、仏教はインドで滅びる運命にあったわけだけれども、これからの時代には仏教の普遍主義こそ人類に必要な教えではないかと、保坂氏は言われる。
 しかしだからこそ、明治時代には仏教ではダメで、列強に対抗し植民地にならないために、またヨーロッパの文明を受け入れやすくする意味において神道という核が必要であったのだと言われる。

 第四講「仏教の持つ可能性」では、仏教が滅びなかったスリランカやシンガポールなどの例を検証し、政治的な指導ないし民衆の文化の根底に仏教が浸透することによって存続してきた。また現代インドでのネオブッディスト(新仏教徒)たちの改宗についても触れて、インドで仏教は、カースト外の人たちに注目されているかの如く思われている。
 しかし、IT産業に代表されるインドの産業発展が地球規模での行動を求められている現代にあって、一地域信仰のヒンドゥー教では世界に受け入れられないし生活しにくい。そこで知識階級である彼らも仏教に注目しているのだという。

 日本は、明治以降廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を経てなお、未だに嫌仏(けんぶつ)政策の中にある。戦後まで神社はたくさん出来るけれども、寺院はつくれなかった。今日でも、初等教育にお坊さんの話は全くない、つまり仏教の千二百年に及ぶ長い歴史をほとんど評価していない教育が続けられていると保坂氏は指摘する。
 明治の近代化の御旗のもとに、否定されてきた神仏習合の精神的、文化的な伝統をないがしろにしてきて、未だにそれを顧みることもない。寺檀制度や戒名など、悪者扱いされるものも、実は、民衆も死後の世界に安寧を勝ち取ることが出来る一つの世界観を共有できるシステムとしてあったという。だから良い悪いで、なくしてよいものではない。

 それまで死者は祟り神として怖れられた。そこで仏教が登場し死の穢れなど無いと、人は浄化することで悟りに至ると説いてきた。仏式で戒名をつけ葬儀をするというのは、そうした千年の仏教の歴史のもとに室町から江戸時代のころ形成されたもので、それは人々に安心感と確証を与えるものとして機能してきた。
 近年多くの凶悪事件が起こり精神的にとても不安定な社会が現出した。日本人が今まで作り上げてきた精神世界、言葉にならない文化みたいなものがかなり今ほころびている。それに歯止めをかけるとしたら、私たちの伝統に対する再評価、再認識をすること以外にない。いま正に、千数百年の日本人の血肉になっていた仏教を評価し直す時期に来ている。それには嫌仏敬神(けんぶつけいしん)の視点ではなく、歴史を謙虚に見ていく必要がある。

 かつて多くの天皇が仏教に帰依し、仏教的な政治理論みたいなものでまつりごとを行ってこられた。そうした伝統が脈々と続いてきたからこそ、天皇制が民衆から支援された。政治、文化、様々な分野での仏教との関わりを今一度再評価することが、現在直面するいろいろな問題に解決策を見出すヒントになる。仏教はもっといろいろな面で発言して、存在意義を高めていくべきであると述べられ、保坂氏は講演を締めくくられている。」

 まったく同感である。明治憲法の下での神道国教化、神仏分離令であった。そこで、それまでの日本人の信仰は分断された。戦後新憲法下の法制度の下で、改められるべきものがそのままに放置され、まさに心よりも実利、なにものをも投げ捨てて経済的物質的繁栄のもとに突っ走ってきた戦後があった。
 それはそれで必要な時代であったろう。しかし、その間に私たちは積み重ねてきたアイデンティティをすっかり忘れ去ってしまった。長い歴史によって培われ私たち一人一人に刻まれた仏教的素養の復活に、様々な問題が噴出している今こそ、国民挙げて取り組むことが必要なのであると思う。(全)


四国遍路行記J 
延光寺から観自在寺へ
(平成二年三月から五月)

 下の加江から次の三十九番延光寺までは四十キロほどもあろうか。宿を出て、向かいの山裾の道を西に歩く。山肌からは綺麗な水がしみ出ている。所々に柄杓(ひしゃく)と盥(たらい)が置かれてあった。たぶん飲める水なのだろうと思ったが、万が一腹をこわしてもいけないと思い遠慮した。右側には田圃が山と国道の間に挟まれ細長く続いていた。
 時折車が横を走っていくが、誰一人通行人がいない。寂しいくらいの道を一人ひたすら歩く。何も考えない、ただ歩くだけの歩き遍路には誠に相応しい遍路道だった。酒蔵のある集落を越えていくと、うっそうとした木々に囲まれた、また一人の道になった。崩れかけた古いお堂があったり、お地蔵様が並ぶ寂しい道が続いた。しばらく行くと国道に出た。今度は国道のクルマの横をひたすら歩く。

 国道から右に入れと矢印があった。へんろみち保存協力会の小さな白い看板だ。
 へんろみち保存協力会は、愛媛県松山の警察を退職された方が中心となり結成されたボランティア組織。一六〇〇キロもある全遍路道の迷いそうな辻々に矢印を設置してくれており、誠にありがたいお遍路さんの道しるべとなっている。四国の道の道しるべや古い石の道標と違って、その数も多く常時建物や道の変化に対応して付け替えられていくので、誠に安心して歩くことが出来る。歩き遍路さん用の地図や解説書まで制作し頒布されている。
 国道から入った湾曲した道の先には遍路宿やおみやげ屋が両側に見えてきてお寺の近いことを知らせてくれた。駐車場の先に石段があり、上がると梵鐘を背中に乗せた石の亀が出迎えていた。

 ここの梵鐘は延喜十一年と刻銘があり、国の重文と名高いが、その年に赤亀が梵鐘を乗せて寺の近くに泳ぎ着いたのだと伝承されている。だから山号を赤亀山という延光寺の、そもそもの創建は聖武(しょうむ)天皇勅願というから古い。行基菩薩の開基。後に弘法大師が参詣して薬師如来を刻み本尊とされた。
 本堂と大師堂前で読経して境内を歩く。木々の中に佇む観音様やお地蔵様のお顔が何とも言えぬやさしさをたたえていた。

 まだ日が高かったので、国道に戻り歩く。宿毛(すくも)の町を抜けるあたりで、夕飯の弁当を買い込んで、腹ごしらえ。暗くなってはきたが、それでも歩く。なかなか今日の寝床が決まらない。国道沿いに両側を山に囲まれた道を歩く。県境あたりで、ログハウスの土産物屋などがあり、その先に篠川食堂・民宿と書かれた看板が目に入った。
 近くに行くとさびれているが、中に誰かいるようで話し声が聞こえる。扉を開け、泊まらせていただけますか、と問うと、もう宿はやっていない、という。仕方なくまた歩き出す。どれだけ歩いただろうか。後ろから声がして振り返ると、食堂にいたおじさんだった。泊まるだけならいいそうだ、と言う。引き返してみると、まあ風呂もあるしゆっくりしんさい、ということになった。

 そこに居合わせたのは、この食堂の奥さんと知り合いの大型長距離トラックの運転手さん二人だった。野球中継を見ながらお酒の席に同席し、しばし楽しく歓談。
 魚介類を東京の築地などに運んでいるのだとか。私のような遍路坊さんと話すのは珍しいようで、何で歩いているのか、何で坊さんになんてなったのか、そんなことをあれこれ聞かれたように記憶している。
 ほろ酔い気分の途中で、朝から歩いてきた疲れもあり、先に風呂に入らせてもらった。お風呂場の床は大きな石を組み合わせた上にスノコが置かれてあって、使ったお湯は石の間から水が流れ落ちていく。何とも珍しいお風呂だった。綺麗な沸き立ての一番風呂に入らせていただいた。

 風呂から上がると六畳ほどの何も置かれていない部屋に案内された。部屋の真ん中には、糊のきいた真っ白のカバーに包まれた布団が敷かれていた。一度断ったことが気になったのであろうかと、あまりの行き届いた待遇に申し訳ない思いがした。
 翌朝も泊まるだけということだったのにご飯が用意されてあり、またお昼の握り飯まで持たせて下さった。とても印象に残るお宿となったのであったが、遍路終わってお便りに感謝の気持ちを認めただけなのが今も心残りになっている。

 昨日は曇り空だったが、快晴の中、宿毛(すくも)警察のあたりから山道にはいる。途中草に覆われた道で衣が濡れる。松尾峠には番外の札所もありお参りして先を急ぐ。高知県から愛媛県にはいるとなだらかな下り道が続く。道の両側が急に賑やかになり、御荘(みしょう)の海が見えると、もう四十番観自在寺だ。
 丁度昼前に到着し、正面に位置する本堂に入り読経。狭い外陣に沢山のお守り類が並んでいるので、沢山の参詣者で押される中、理趣経を唱えた。大師堂に参ってから、池の前のベンチで握り飯を頂戴した。

 観自在寺は、桓武(かんむ)天皇の死後皇太子だった次の平城(へいぜい)天皇の勅願所として弘法大師によって創建された。平城天皇が御幸(みゆき)して大般若経などを納経された際に「平城山」という勅額を賜ったといわれる。
 弘法大師が霊木に薬師如来を刻み本尊とされたというが、寺号が観自在寺というのはなぜなのであろう。いろいろ調べてみたが分からない。元々創建前にあった廃寺の名前を踏襲されたのであろうか。大師は同じ木で阿弥陀如来と十一面観音を刻み脇士としている。

 大きな握り飯を三つも食べて重いお腹を突き出しつつ、次なる札所、龍光寺目指し歩く。南宇和の真っ青な海に浮かぶ小島にぶつかる波飛沫がことのほか美しかった。(全)



常用経典の仏教私釈B 
やさしい理趣経の話
           

第二段の概説

 第二段が、「しーふぁきゃふぁん、ひろしゃだじょらい・・・」と始まる。冒頭に「時薄伽梵毘廬遮那如来」とあるように、大日如来が登場する。
 初段は大日如来の教えを金剛薩?(こんごうさった)が代弁して、自と他の壁が解消することによって、どんな煩悩もその本質は清らかなものであり、自分だけの小さな欲から、より多くの生きとし生けるものの幸せのためになる大きな欲に転じていく教えを説いた。
 第二段では大日如来みずからがお出ましになり、その覚りそのものについてより具体的にお説きになる。
 「一切の如来の寂静法性(じゃくじょうほっしょう)」とは、静かなる真に完全なる覚りということ。現にいま正にそのあらゆる対立を越えた平等の覚りに至った、その究極の教えを説く、と簡潔にこの段の趣旨を説明する。

四仏と四智

 理趣経は、このあとずっと、各段ごとに各々四つずつに内容を分解して教えを展開していく。これは、大日如来の、周りに配置される四仏の覚りの境地をいろいろな角度から解明していくというスタイルで説かれていくため。
 真言宗の仏様の世界を表す曼荼羅(まんだら)の、金剛界(こんごうかい)の仏様たちの中心に位置するのが大日如来で、その周りを東南西北の順で四仏が取り囲む。
 四仏とは、阿?如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、阿弥陀如来、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)(釈迦如来)の四人の如来を言い、この四仏は大日如来の智慧を四つに分けたものとも言われる。その四つの智慧とは、
 @[絶対に怒らないと誓った意志強固な仏・阿?如来の智慧]大きな円い鏡がすべてのものを映し出すように永遠なる天地宇宙の一切を了解している誠に大きく深い智慧(大円鏡智(だいえんきょうち)という)、
 A[世の中の宝を見つけ出す仏・宝生如来の智慧]すべてのどんなものにでも平等に価値を見出す智慧(平等(びょうどう)性智(しょうち)という)、
 B[清らかな心で衆生をご覧になる仏・阿弥陀如来の智慧]個々の違いにその尊さを見出して無限の優しさをたたえる智慧(妙観察智(みょうかんざっち)という)、
 C[衆生を救う仕事を円満に成就させる仏・不空成就如来の智慧]すべてのものを成長させ育む智慧(成所作(じょうそさ)智(ち)という)を言う。

四つの平等

 そして、この第二段は、大日如来の覚り・大菩提とは、これら四つの智慧の平等なる覚りであると説かれる。ここで言う平等とは、等しいという意味ではなく、初段で述べた清浄と同義で、みな一つ、一体、同体不二ということ。

四つの平等なる覚りとは、
 @ダイヤモンドのように堅固でかつ永遠なる覚りがすべてのものに周遍しているから金剛平等(きんこうへいとう)の覚りといい、金剛平等の覚りでは、覚りは永遠に不変で滅することもないので、永遠なるいのちの平等に目覚めよと教えられている。
 みな初めのない輪廻を生きている衆生は、平等にいのちの連続を生きている。誰にも刻一刻、時間が平等に経過していくように、今という瞬間の連続であるいのちは平等なるものと言えよう。
 Aすべてのもの、生きとし生けるものに何でも願いをかなえてくれる宝珠の如く、等しく福徳をもたらすので義平等の覚りといい、義平等の覚りでは、覚りはすべて平等に福徳をもたらすので、すべてのものの無限なる福徳、価値の平等に目覚めよと教えられている。
 どんなものにも価値がある、使いようによっては宝になる。ゴミから沢山の資源が回収されるように。どんなものにも無限の価値、可能性があり、私たちはみんな違ういのちを生きている、だからこそ一人一人に平等に生きる意味と価値、可能性がある。
 B泥の中から咲く蓮のように、すべてのもの、また生きとし生けるものも本来その本性は清らかなものであるから法平等の覚りといい、法平等の覚りでは、覚りは清く穢れないものであるので、すべてのもの、生きとし生けるものもその本性清浄なることの平等に目覚めよと教えられている。
 ひとつひとつ、一人一人、みんな違うものを持っている。その違いを優しい眼差しできちんと観察し見つめてみれば、みんな平等に清らかな輝きに充ちている。
 Cすべての働きや行いがみな人間のはからい分別を越えた仏の衆生済度の働きになるので一切業平等(いっせいげっぺいとう)の覚りといい、一切業平等の覚りでは、覚りはすべてのはからいを越えたものであるので、不滅の業の平等に目覚めよと教えられている。
 一人一人すべての過去からの身と口と心による行いの果報・業はすべての者たちの覚り着く先にあってはそれらすべてがその帰結のため、つまり覚りのための行いと見ることが出来る。相互にみな関係し合っている私たちの業を考えれば、それぞれの行いは平等に相互に済度し合っていると捉えることが出来よう。

第二段の功徳

 このあと、「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。この四出生の法を聞くことあらばとあり、この四つの智慧の教えを信じ、受け入れ、読誦するならば、いかなる重罪も消滅して、死後、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣(さんなくしゅ)に落ちるようなことがあってもそれを乗り越え、自己の完成を求め、覚りを強く求めるならば、無上なる覚りを得ることが出来ると説く。

大日如来の心真言

 そして、最後に、「しーふぁきぁふぁんじょしせっち・・・」と最後のまとめにはいる。世尊大日如来は、真実にして無上なる覚りをすべての人に授けんとされて、大悲の心を抱き、真実の智慧を表す智拳印(ちけんいん)を手に結び、すべて世界の究極の真理は、みな一体であるとの平等心にあると説き示されて、その心髄を現す一字真言「アーク」を唱えた。
 智拳印とは、左手の人差し指を立てその指を右手でつかむ印相で、迷いと覚り、凡夫と聖者の一如不二を表している。また、「アーク」は、四仏の働きを一字に表現している。(全)         


鐘楼堂再建落成
慶讃法要の御報告

 近郷でもまれに見る重厚な國分寺の鐘楼堂は、境内の建物の中で最も長く修繕されないままで、いくつも瓦が落ちるなど老朽化しておりました。が、かなり東南に捻れ傾きだしたのはこの三、四年のことでしょうか。次回お涅槃の平成二十四年にはまだ間があるものの、強い風が吹き新築したばかりの塀に瓦解しては大変なことになると考え、この四月中旬に解体しました。
 解体された鐘楼堂は、戦時中に供出した梵鐘を昭和二十四年に再鋳した際に屋根瓦を葺き替えたとされていますが、解体時に確認したところ、棟札には「明治十三年三月十八日 奉再建梵鐘堂一宇為二世大願成就祈 大願主当寺阿闍梨良俊、総檀家中」と記されていました。ですから、建物としては百三十年もの風雪に耐え、妙音奏でる梵鐘を支え続けてくれていたのでした。

 解体後、用材の手当、加工に四ヶ月ほどを費やし、盆行事万灯会を終えて間もなくの八月二十六日に慌ただしく上棟式を執行。当日は朝八時頃から工事を担当した武村住建関係一同により柱が立てられ作業を開始、予定通り午後四時頃には棟上げが終了。午後五時から棟梁はじめ工事関係者七名と五名の総代各氏参列のもと上棟式を執り行いました。名誉住職とともに仏式の上棟式作法を修し、棟梁が御幣と棟札を棟木に打ち付け四方に御神酒と米、塩を撒いて、簡単な祝いを致しました。早速翌日から、上部の木組から工事に入り、そして瓦が載り、目出度く落成の運びとなりました。

 当初、落慶法要は、これまでの例に則り世話方までの案内と考えておりましたが、百年に一度の鐘楼堂落慶祝賀とのことから、全檀家の皆様へ案内をさせていただいた次第であります。
 ご案内の通り、鐘楼堂再建落成慶讃法要は、十月二十日火曜日午前十時より五十名もの檀信徒のご参加を得て、國分寺鐘楼堂前にて挙行。はじめに、國分寺御詠歌衆によるご詠歌の奉納があり、続いて、國分寺名誉住職、法類・円照寺副住職を職衆(しきしゅう)に迎え、本尊薬師如来報恩謝徳の慶讃法要を厳修。この間出席の皆様には焼香をしていただき、般若心経並びに諸真言を一同唱和して法要が終了しました。

 住職、総代から挨拶の後、この度の鐘楼堂再建に当たり、設計から施工すべてに亘って尽力され忠実に旧鐘楼堂そのままに復元された武村住建棟梁武村俊治氏に感謝状と記念品が檀信徒一同から授与されました。引き続き、名誉住職による新鐘楼堂からの梵鐘撞き初めがあり、一同乾杯。出席者全員で記念写真を撮り、一人一人鐘を撞いて散会いたしました。
 この度の再建事業は、平成二十四年度涅槃会営繕事業の一貫として建設させていただきました。一度の涅槃会寄附積み立てでは不可能な再建予算ではありましたが、長年の御寄附並びに供養料等の積み立てをもって充当することと致しました。これもひとえに檀信徒の皆様の本尊薬師如来様並びに仏教への厚い信心のお陰と深く感謝申し上げます。

 梵鐘は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と言いますように、その音色にはこの世の真理・無常を悟らせる力があり、聞く人にはそのまま仏法そのもの、つまり仏の言葉そのものとしてありがたき妙音となり、ご加護あるものと信じられています。どうぞ、國分寺にお越しの際には新しき鐘楼堂の鐘を撞いてお詣りし、是非ご加護をお受け下さい。    合掌
                                 平成二十一年十月二十二日 
                                                住職全雄 
                                                総代一同


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十三

『怒り、おごり、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の高慢、不良の徒と
交わること、これがなまぐさである。
肉食をすることがなまぐさいのではない。』
(経集二四五)

 肉魚を食べることが生臭なのではなく、汚れた心でここにあるような思いをいたすことこそが生臭というのであるとお釈迦様は言われています。
 仏教僧は本来、托鉢でいただいたものは何でも食するというのが習慣でした。ですから、今も南方仏教の僧は肉魚を当然のこととして食べています。

 仏滅後五百年して大乗仏教が興り、後に書かれた梵網経(ぼんもうきょう)の四十八軽戒の中に肉食を禁ずる戒があるため、俗に肉食妻帯という言い方もあり重要視されているかに思われていますが、古くは肉食は破戒には当たらなかったのです。
 昔、あるヒンドゥー教の行者さんと話をしていて、仏教徒は肉食をするからけしからん、だから一向に世界が平和にならない。と極論を吐かれたことがありました。しかし、もともとヒンドゥー教こそが神様に供えるため生き物を犠牲にしてきた過去があります。

 いずれにせよ、お釈迦様は、この経文にあるように、たとえ菜食しても、攻撃的な心、偽り、利己的な心でいるのでは意味がないと、はっきりと心のあり方を重視する姿勢を示されています。(全)


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│ 平成二十二年度 國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 土砂加持法会          四月四日
│ 正御影供並びに御砂踏み     四月二十一日
│ 四国八十八カ所巡拝(讃岐高野山) 五月十二・十三日
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 高野山参拝         十月十二・十三日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
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 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
編集執筆 横山全雄
郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい
 ● 國分寺HP・http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/
○行基菩薩像造立に沢山のお写経奉納、ありがとうございました。今春土砂加持法会に際して開眼供養を行う予定です。

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