備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十二年四月号] 第二十五号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


◎死者供養のより所となる
 重要経典を解釈する

お釈迦様は
亡くなろうとする人
に何を語ったか

 縁ある人が今にも亡くなろうとするとき、お釈迦様はどのような対応をなさったのか。そのことを説く経典『瑠璃王経』が、増一阿含経(ぞういつあごんきょう)の中に残されている。
 お釈迦様のお生まれになった釈迦族には、コーサラ国という宗主国があった。当時その国を治めていた王は、パセーナディ王と言い、在家信者としてお釈迦様に帰依した王の一人で、多くの経典にその名を残している。
 この経典を要約すると、

 『お釈迦様がサーヴァッティにおられるとき、パセーナディ王は釈迦族の女をめとりたいと申し入れた。しかし、自分たちこそは誠に誉れ高き生まれとの自負があった釈迦族の人々は、コーサラ国の王は大王とはいえ家系図が正しくない、どうしてそれらと縁を結ばねばならないのかと考えた。そこで、一族の長者マハーナーマが自分の家の召使いの娘に沐浴させ着飾り、自分の娘と偽って、王の元に送り届けてしまう。
 その娘が容姿端麗であったこともあり、王は悦び第一王妃として迎え、まもなく男児を出産。その子も誠に端正な容貌から、ヴィデゥーダッバと名付けられ、寵愛された。そしてこの子が八歳になると、王は釈迦族のお城カピラヴァッツで弓術を学ばせようとした。太子は、釈迦族の五百人の子供たちと共に弓を学んだ。

 ちょうどその頃、新たに造られた釈迦族の誇りとも言える大講堂が完成し、お釈迦様を迎えて落慶供養をするばかりとなっていた。そこに弓の教練の後、ヴィデゥーダッバ太子をはじめ五百人の子供たちが入り込み、太子は、ごく自然のこととして講堂の獅子座に昇って行った。
 しかし、それを目撃した釈迦族の人々は、端女(はしため)が生んだ子供が座るべきところではないと怒り、太子の肘をつかんで外に追い出し、地に打ち付けてしまった。このとき太子は、「われ後に王位に就くときまで、この辱めをけっして忘れないであろう」と誓ったという。

 後にパセーナディ王は亡くなり、ヴィデゥーダッバが王として即位すると、幼時の怨みを思い、軍勢を従えて釈迦族を征伐に赴く。しかし、そのことを神通力で知ったお釈迦様は、その進軍する街道の枯木の下で一人瞑想していた。軍勢は、お釈迦様に遮られ、三度まで逡巡するが、四度目には、お釈迦様もその果熟せりとて、その報いを受けねばならないことを悟られる。
 カピラヴァッツでは、その報を受けて、数里ゆきて王を迎え、弓矢を射るものの、誰も敵兵を傷つけることがなかった。釈迦族は兵士であっても戒を保ち、虫さえも殺すことがないと高を括っていた王の兵たちが城門までいたると、釈迦族の一人の勇猛な若者が王の兵を殺害してしまう。

 すると、釈迦族の長老は、なぜ我が釈迦族のならいを辱めたのだと叱り、「一人殺せば万人を敵に回すことになる。人の命をとることは死して地獄に入る。人に生まれても短命になる」と言って、その者を国外に追放した。
 そして、釈迦族が城門を開放して王の兵を請じ入れると、王は暴れ象によって人々を踏み殺させた。
 責任を感じたマハーナーマは王の下にいたり、自分がこの池の水底に没している間釈迦族を逃がしてやって欲しいと願い上げる。祖父の願いと、王がこれを許すと、マハーナーマは水底に潜り頭髪を水中の樹根に結わえていつまでも上がってこなかった。それを知った王は、「そこまで親族を祖父が愛していたことを知っていたなら、釈迦族を征伐しなかったのに」と悔いたという。

 多くの人を殺したので流血は河となり、城は焼かれた。ニグローダ園に戻った王は、先に王が命じ選ばせた五百人の釈迦族のみめよき女たちを連行し、女官として迎えようとした。しかし女たちはみな「この身を保つために、どうして端女の子と楽しみ交わることなど出来ましょう」と答え、王の怒りをかい、もろともに、その手足を切りおとされ(他の訳本には縛られたとある)深い穴の中に捨てられてしまった。
 穴の中に落とされた五百人の女たちは、手足を切り取られてもなお、お釈迦様の名を口々に呼び続けた。お釈迦様は、諸々の比丘(びく)らとともにカピラヴァッツにいたり、これらの女たちに、法を説かれた。

 「すべてのものは無常にして、盛んなる者も必ず衰える、会えるものに別れあり、身体と心に執着するならば苦しみ悩み、死後には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間の中に生まれ変わる。このことわりをさとらば、また生まれ変わらず、生まれ変わらざれば、生老病死なし」と。
 さらに、「世論・戒論・生天論」を説かれると、彼女らの心は開かれ、迷い尽きて法の眼を得て、命終し、みな天界に生まれ変わったという。
 お釈迦様は、ニグローダ園にいたると、比丘たちに、「ここで昔は諸々の比丘たちに法を説いた。しかるに、それも今となってはうつろになった。人々もいなくなってしまった。いまより以後またここに来ることはないであろう」と一族の消滅した悲しみを語られたという。

 サーヴァッティの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に戻られる道すがら、お釈迦様は「ヴィデゥーダッバ王および兵たちは、今日より七日のうちにことごとく亡ぶであろう」と預言された。
 王たちはこのお釈迦様の言葉を伝え聞いて戦慄したが、七日目にも何もなく、喜び楽しんだとされる。が、その晩に時ならぬ暴風雨により、すべての者が水に流され命を失い、みな地獄に堕ちた。さらに、王宮も雷に焼失したとされる。』

 以上『瑠璃王経』と名付けられたこの経典は、死者供養のより所となる誠に貴重な経典であると思う。この経典にある、死にゆく人たちへ教え諭したお釈迦様の教えは、正にこの世の真実をそのままに語るものであった。死を前に、教えを伝えることによって、そのものたちの心が浄化され、より良いところに生まれ変われるようになされた。ここでは天界に生じたと記している。
 仏の教えは死にゆく者に対する教えではないとして、何もされなかったわけではない。やはり縁あり求めに応じて、きちんと臨終の教えをお説きになられている。それがあるべき姿であろう。

 仏教は人の死に関わらないものだと言って、何もしないでいいということではない。代わりにそうした儀礼を執り行う宗教者が一般にいた当時のインド社会であったればこそ、葬送の儀礼には当時の仏僧は関わらなかっただけなのではないか。
 しかしこの経典にあるように、縁あり、その場に他になく、求められた場合には、お釈迦様自らがそうして教えをお説きになれている。
 葬送に仏教が関わってはいけないのではない。関わり方、つまり日頃縁ある人々に教えを説き、戒定慧の実践を重ねる延長として、それぞれの葬送があるという本来のあり方を取り戻す必要こそが求められているのであろう。

 そしてさらに大事なのは、お釈迦様がその終焉に際して説法したのにもかかわらず、彼女らは天界に生まれ変わったという記述である。お釈迦様ほどのお方が法を説かれても、彼女らを仏の世界に送るとか、成仏させたと言われていない点である。
 「如来は道を説く者なり」という厳然たる姿勢を崩してはいけない。彼女らの自らの業に従って、死に際してお釈迦様の説法により心が清められ天界に生まれ変わったというこの経典に、末世の仏徒は多くのことを学ぶべきであろう。          (全)

参考文献
仏教聖典・友松圓諦著講談社文庫
根本仏教聖典叢書第四巻赤沼智善訳


 施論・戒論・生天論
    ということ


 お釈迦様は生涯に様々な説法をなさり、沢山の人々を導かれた。出家の修行者にはもちろんのこと、一般の在家者にも問われるごとに様々な法をお説きになられた。在家者への説法の入口の話として施論・戒論・生天論という基本的な仏教の特徴を表す教説がある。
 施論とは、読んで字の如く、布施をしなさい。戒論は戒律、在家であれば五戒を守りなさい。そうすれば死後天界に生まれるよというのが生天論だと言われる。まあ、これだけのことかと言われると、何だと、こんな程度のことを言われているのかとつまらなく思う人もあるかもしれない。

 まずは、布施をして下さいと、つまりは当時のお坊さんたちが自分たち托鉢で生活する者たちの生活の糧のために言ったものかとも思われるかもしれないし、戒律も当たり前のこと、「殺すな、盗むな、邪なことをするな、嘘を言うな、酒を飲むな」と簡単なことを言っているに過ぎないし、天界に生まれるなどと言って、単に死後どうなるかとも知れない非科学的な話を語っているに過ぎないと思われるかもしれない。
 しかし、そこはお釈迦様の法であるのだから、心してその内容を深く味わう必要が本当はあるのではないかと考えなくてはならない、と私は思うのである。

 まず、施論とは、施しをしたらそれを受け取った人が喜び助かることであるが、それによって施した側にも良いことが還ってくるということ。何か良いことをすれば良い結果があるということだ。つまりは因果論であって、ごく当たり前のことを言っているとも思われるかも知れないが、その昔インドでは神に盛大な捧げものをして供養することが幸せのためには最も必要なことだと考えられていた。
 しかし、お釈迦様は、功徳とは神に供物を捧げることではなく、もっと実用性のある、他者に喜ばれること他者がよくあることをすることであると考えられた。だからこその因果論であって、周りの者たちに良いことをすれば自分にも良いことが結果すると。ただそれがどのくらい時間を要するものかは分からない。すぐ結果が現れることもあろうし、ずっと後になることもある。
 逆に、悪いことをしていれば必ず報いが来る。それは今の時代でも同じこと。悪いことをしても法律に触れなければいい、世間に知られなければ何をしてもいいと考えて、多くの人々の不利益を顧みることもなく、地位や権力を利用して一部の人々の利益のために隠れて悪事を働くということはちまたに溢れている。

 しかし、善い行いには善業が、悪い行いには悪業がついて回り、結果していく。何事も因果応報、自業自得。自分の為したことの結果は自分が受けなくてはいけないということを、施論は教えて下さっている。

 そして、戒論。なぜ戒律が必要なのか。それは私たちは一人ではないということであろう。伴侶、家族、地域の人たちと生きていく、共同して暮らすためには、みんなが上手くあるようにしなくては気持ちよくいられないであろう。
 一人自分の生活を考えても、規則正しく規律ある生活をしなくては、その人の人生がよくあることはない。朝はきちんと起き、きちんと食事をして洗濯した物を着て、掃除の行き届いたところで生活する。それだけで健全な幸福感が得られるはずである。

 しかし人はまた、一人では生きられない。一人で立派に生きていると思っても、食べ物も着るものも住まう家もみんな他の人が作り、手にしたものに過ぎない。畑があったとしても、その水や種や肥料ということになると全部他の人の手によらねばならない。作物を生長させる様々な養分を含む土壌を作るには、小さな昆虫や微生物の存在が不可欠であろう。
 すべての生き物たちとの共生の元に私たちの生があると考えれば、なにがしかの誓約が必ず私たちの生活に課せられて当然だということになる。社会生活にも当然なにがしかのルールが必要であろう。その根底には私たちはみんな一人ではない、みんな一つの関係性のもとに繋がっているのだという意識であり、そこから慈悲という思いも当然のこととして導かれる。
 みんながよくあらねば自分も良くないという気持ちであり、周りの人もよくあらねば自分も良くない、そのためにはみんなが良くあって欲しいという気持ちが芽生えてくる。

 つまり戒論は、私とはいかに生きている存在なのかということを考える視点からの発想であり、そこから慈悲という、私たちが生きる上で必要な他との関係性のもとでの尊い思いを教えてくれている。

 三つ目の生天論はいかがであろう。良いことを沢山して品行方正な生活をしていれば、つまり沢山の善業を持って死ねれば天界に生まれ変われるということではあるが、つまりは死んだらそれで終わりということではないということであろう。つまり輪廻転生(りんねてんしょう)するということである。悪いことを重ねていれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に生まれるよということでもある。たとえ人間界に生まれたとしても様々な世界がある。
 私たちは何も分からずにこの世に生を受け、このような輪廻などということも意識せずに生きている。しかし、なぜこの家に、なぜこの父母の元に生を受けたのか、なぜ自分はこのような能力、機根、物の好き嫌いを持って生まれてきたのかと考えてみると、やはりそこには原因があったのだと考えざるを得ない。他の人となぜ違うのか、同じ日に同じ時間に生まれたとしても全く違う人生を歩む。同じ名前だとしても違う人生。たとえ同じ家に生まれたとしても、一卵性双生児であっても違う好み、違う人生を歩む。

 池川明さんという産婦人科医が前世を記憶する子供たちを研究して『子供は親を選んで生まれてくる』という本をお書きになっている。生まれてきた原因、その家に生まれた原因。時間的にそれ以前にあるべき原因は当然生まれる前に生じていたと考えられるので、前世があったのだと考えざるを得ない。その原因を持った心がお母さんのお腹に宿ったいのちに入り、心と体が一つとなって生命が誕生する。
 前世があって、今こうしてある。あるべくしてあったと。そこには何事かのこの人生での課題、学ぶべきこと、自分にとってのテーマがあったであろうと私は思う。この先生は魂の研磨のために私たちの人生はあるのだと結論するが、いずれにせよ、自分に相応しい家族、境遇、環境の中でそれをクリアすべく私たちの人生はスタートし、そして何十年かの善悪の業を重ねて身体は寿命を迎える。

 死とは、身体の寿命がつきて身体と心が分離することである。身近な人の死にあたり私たちは成仏してくださいと念じる。死ねば誰でも仏だと思われがちだが、それはそう簡単に考えていいものではない。お釈迦様や日本の祖師方がどれだけ死をも覚悟して何年も修行された末の成道であったかを考えれば分かることであろう。即身成仏とは、死ねば誰でも仏になれるなどという陳腐な教えではない。みんな六道(ろくどう)の衆生は輪廻する。悟れぬ限り。
 死ぬ瞬間の心によって来世が導かれる。だから死に際には明るい心で、何の心配も危惧することも執着もなくありたい。この一生に、また家族や周りの人たちにも感謝の気持ちをもってその時を迎えて欲しいと思う。
 死とは新たな誕生であるとも言い換えられる。その先で、また出来れば仏教にまみえ、修行を重ねてほしい。そうして心を清らかにするために何度も生を重ねていく。だからこそ早く成仏して下さいと、何回生まれ変わろうとも、何とか早く安らぎの心にいたって下さいと、私たちは手を合わせ願うのであろう。つまり生天論とは、死んで終わりではないよ、だから、その先のことを考えて生きよ、ということであろう。

 施論・戒論・生天論。考えてみるとこれは仏教の根幹。因果、業、慈悲、輪廻、そこから導かれる生命観、人生論。だからこそ、いかに生きるべきかと教える根本だと言えよう。
 お釈迦様はその壮大なる教えをごくごく簡単に、施しの心が大切ですよ、基本的な戒律を意識して生きなさいよ、そうすれば来世で天界に逝けるよ、何も死後のことを心配しないで済みますよと教えてくれていたのであった。お釈迦様の教えには、どんな教えであっても、そこには何もかも私たちには計り知れない智慧が隠されていると知るべきなのであろうと改めて思う次第である。 (全)


『大法輪』平成二十二年四月号特集

間違えない仏教書選び  掲載

(執筆依頼は、仏教史と仏教辞典の分野で推薦する書を選び、その紹介文を書いて欲しいというものです)

インド中国日本仏教通史
・平川彰・春秋社

 昭和五十二年初版のインド中国日本にわたる仏教史概説である。仏教史の本ではあるが、初学者向けに難解な仏教語をわかりやすく読み解きながらの叙述に、読了後は仏教そのものの全体像を概観することになる。
 この後に紹介する『インド仏教史上下』を上梓された関係から、インド仏教については簡略に綴られている。が、それだけに簡便に要点を修得する上で優れている。中国仏教は、その全盛期である隋唐時代の記述に重点が置かれ、全体の半分は日本仏教史に当てられている。
 仏教伝来から徳川時代まで、時代ごとに各宗派の発展、また各時代の特色については、文献資料の内容にも触れ、その背景や文化面への影響にまで言及するなど、分かりやすく説かれ、誠にバランスよく丁寧な日本仏教史としてまとめられている。
 朝鮮の仏教やチベット仏教にも簡単に触れ、仏教史全体を網羅している。仏教史を学ぶ定番と言えよう。

インド仏教史上下
・平川彰・春秋社

 昭和四十九年初版の、インド仏教を本格的に学ぼうとする人に読み継がれてきた、権威あるインド仏教史。
 仏教発生以前のインドの思想状況から説き起こし、部派仏教、初期大乗、後期大乗では中観(ちゅうがん)・唯識(ゆいしき)を中心として密教にいたり、インド仏教の滅亡までを扱っている。
 単なる歴史書と言うよりは、各時代における教理思想がかなり詳しく説かれているので、インド仏教思想史、ないしは編年式のインド仏教思想全書とも言えよう。
 一方で、インド仏教を教団史的な側面からも解明し、大乗仏教の成立については、従来理論的な面から捉えられていたのに対し、出家教団とは別の、仏塔を中心に活動する在家信仰者の伝道集団により興ったとする著者独自の学説に則って丹念に書き綴られている。
 インド仏教が終焉したとされる十三世紀初頭以後、インド世界にわずかに残った仏教徒の様子にも筆が及ぶなど、隙間なくインド仏教を学び取ることが出来る。

新中国仏教史
・鎌田茂雄・大東出版社


 平成十三年初版の新しい中国仏教通史である。しかし、著者はこの二十三年前にも中国仏教史を書かれていて、本書はその後の研究の成果を踏まえまとめられた決定版である。そして、本書は中国・朝鮮仏教史を専門とする著者の遺著でもある。最後の精魂込めた一冊、長く読み継がれていくことだろう。
 中国仏教とは何かを真っ正面からとらえ、仏教伝来から現代までを網羅し、各時代の仏教がその特色に加え仏教界の動向、高僧の活躍などにも触れ、過不足なく叙述してある。
 随唐時代の仏教に詳しく、その背景となった南北朝の仏教についても念入りに書かれ、唐の仏教では、法会儀礼や福祉事業など、仏教の社会的な活動面に言及してあり興味深い。
 文献資料の解読に加え、現地調査や各方面の学術交流の成果をあわせた論述によって、現代中国仏教の実態をもうかがい知ることができるのは貴重である。

日本仏教史・思想史としてのアプローチ
・末木文美士・新潮文庫


 インド仏教とも、中国仏教とも異なる日本仏教の、特にその思想面の変遷に力点を置き、かつ文化史との関わりにも目配りした日本仏教思想史である。
 仏教伝来から近世まで、各時代の文献資料を解説しながら、これまでの鎌倉新仏教を中心とする従来の日本仏教史観を見直すべきであると主張されるなど、学界で定説とされていた見方に対して、より広い視野での再考察に努めている。
 終章「日本仏教の一視角」では、本来現世否定の教えであるべき仏教が、日本にいたり時代とともに現世主義的な思想に変容し土着した。それは、仏教自体の風化によってもたらされたのではないかと語り、日本仏教を考える上で欠かせない視点を提起している。
 難解な用語や文献については下部に解説があり理解が深まる。巻末には文献案内と仏教史年表があり参考になる。日本仏教を深く理解したい人必読の一冊である。


新佛教辞典
・中村元監修・誠信書房

 昭和三十七年初版の平易明快な解説による先駆的な仏教辞典。コンパクトで引きやすく、普段仏教書を紐解くときに最適である。
 仏教書を読もうとすると難解な仏教用語に出くわし立ち往生することがある。たとえ仏教辞典があったとしても、その解説する文句自体がかえって難しいということもあるだろう。
 しかし、この新佛教辞典があれば、これ一冊でおおよその意味を理解し読み進めることが出来る。仏教用語の他に人名、寺名、地名、文献名まで網羅しており、さらにはインドや中央アジアに関する項目も含み、近代仏教について学ぶ人のために西洋のインド学仏教学に関する項目も充実している。
 巻末には、日本仏教宗派一覧の他、仏教者などの生没年代を比較参照できる仏教年表、仏教聖地の地図を収録。

仏教要語の基礎知識
・水野弘元・春秋社

 昭和四十七年初版の仏教語の解説書である。大学の仏教学基礎講座のテキストとして使用される、仏教の基本を学ぶための定番中の定番と言えよう。
 内容は、原始仏教から初期大乗仏教までの基本用語二千を系統的に、まことに分かりやすく解説してくれている。三宝、三科、三法印、四聖諦(ししょうたい)など、つまり仏教とは何か、仏教の基本的なものの見方考え方、いかに生きるべきかを体系的に学びつつ、難しい仏教用語も平易に解説され、初学者でも理解できるよう書かれている。巻末の索引を利用すれば辞典として活用できる。
 パーリ仏教学の泰斗であり、南伝大蔵経『清浄道論(しょうじょうどうろん)』の翻訳をなされた著者ならではの信頼度の高い仏教要語辞書。仏教を初歩から学ぶのに良し、また、ことあるごとに取り出しては語彙を確認するのにも適した座右の書である。                                                  (全)


四国遍路行記K 
観自在寺から仏木寺へ
(平成二年三月から五月)

 四十番観自在寺から次の龍光寺までは、六十一キロもある。豊後水道沿いの国道を歩く。ひっきりなしのクルマの騒音に気持ちが落ち着かない。四国の道の矢印があったので、右の小道に入る。途中小さな番外の札所があったり、お地蔵さんが並ぶ道を歩いた。山道だったこともあり、かなり遠回りだったのかもしれない。国道に戻ってみると、まだ景色は先ほどとさほど変わっていなかった。
 青い海に浮かぶ小島。水飛沫が白く美しい。それを見ているだけで元気が出てくるようだった。海が見え隠れする道を歩く。相変わらず車の多さにうんざりするが、五時過ぎ頃、バス停で休憩していると、たまたまそこに車が迎えに来るという方と話し始めた頃に、乗用車が到着。津島までクルマのお接待を受けた。山道を歩いた分、車で今日の道程を進ませていただいたような格好になった。

 津島は、国道沿いに川が流れ、橋を渡って街に入る。お寺の建物が目に入った。しかしどう見ても禅宗のお寺のように思えた。普段であれば、庇(ひさし)をと言って玄関を叩くところではあったが、このときは何故か橋を渡ったところにあった新橋旅館に泊まってみたくなって、境内を覗いただけで踵(きびす)を返した。
 新橋旅館は木造二階建ての古い旅館で、こざっぱりした落ち着いた雰囲気の宿だった。真珠の養殖の街だけあって、古風な落ち着きのある街並み。川と国道の先に見える夕暮れ時の海も美しい。景色を眺めながら、ゆっくり日記を認める。

 ここまで、沢山の方たちのお接待や善根宿のお陰で、何の苦労もなく至っていることを思った。ただ自己の心を見つめ、歩くときには一歩一歩何も考えないことを心がけてきた。しかし、ここ数日、札所などで出会う、他の歩き遍路さんたちの様子や話しかけられての会話に違和感をおぼえ心乱している自分を不甲斐なく思い、お経に身が入らないこともあったことなどを反省した。
 翌朝、家に電話をした。元気そうな声に安心する。気持ちよく宿を後にして、橋を渡る。バスの走る国道をひたすら北に向け歩く。宇和島の街に入るところで、中務茂兵衛(なかつかさもへえ)という明治の人が建てた道標(みちしるべ)があった。少し茶色になった四角の石に、手形と龍光寺と記してあった。茂兵衛は江戸時代の終わりごろに山口県大島に生まれ、十九歳の時に四国遍路を思い立ち、大正十一年に七十八歳で遍路途中に亡くなるまで、二百八十回も四国を巡ったという。

 その間に四国全域に二四三基もの道標を建立し、施主が広い範囲に見られることからも、かなり有名で生き仏と慕われていたとも言われている。大きなものでは六尺、平均四尺の高さで遠くからもよく分かる道標である。茂兵衛の辞世の句が遺されている。
 「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」今の世にこうして顕彰されることを先読みしていたかのような句を書き残した。
 沢山の賑やかな飲食店などが目にさわる宇和島の街並みを過ぎると、国道とも別れ東に道を取る。四十一番稲荷山龍光寺は、三間(みま)のお稲荷さんの下に位置する。古い集落の間の道を進むと山門ならぬ鳥居が目に入った。昔弘法大師がこの地に至ると、白髪の老人が現れ、我れ仏法を守護せん、と告げて姿を消したことから、ここが霊地と知り寺を造った。その老人の尊像を刻み、稲荷明神として祀ったという。

 お稲荷さんは、稲を象徴する神、五穀豊穣の神であったが、今では開運や商売の神となっている。ここでも、明治になり廃仏の煽りを受けた。江戸時代までは現在の境内の上に位置する社殿が本堂だったという。現在では狭い土地に本堂が造られ十一面観音を祀っている。気の毒なほどに狭小な境内。それでも、落ち着いた静寂の中にあり、ゆっくりと理趣経を唱える。石段をまたいで反対側に大師堂があった。
 龍光寺を後にして、次の仏木寺に急ぐ。三・七キロの距離。近いと思ったのが間違いだった。田んぼの畦道の脇を歩き、小高い山をいくつも横に見ながら、もう着いただろうと思うと、神社だった。アスファルトの整備された道を進むと、右側に大きな楼門が見えてきた。石段を上がると茅葺きの堂々とした鐘撞き堂が目に入る。そこを左手に進むと境内に出た。奥に本堂と大師堂が並んでいた。

 寺伝では、弘法大師が唐の国から還った翌年、大同二年(八〇七)頃にこの地にいたり、牛を引く老人に牛に乗るように言われ乗ったところ、楠の木の前に案内された、するとその楠の木には唐の国から有縁の土地に至れと投げた宝珠が掛かっていたという。さっそく大師はここでその楠の木で大日如来を彫り、その宝珠を眉間に納め白毫にしたという。
 鎌倉時代には、大覚寺統の後嵯峨天皇の皇子で、最初の宮将軍となる宗尊(むねたか)親王(鎌倉幕府第六代将軍)の護持仏になったと言われる御像である。宗尊親王は十歳の時征夷大将軍になり、その十四年後に謀反の疑いで京都に追放され、三十一歳の時出家、三十三歳で崩御。時代に翻弄された一生であった。また、仏木寺の大師堂の大師像は、鎌倉末期の正和四年開眼との胎内銘がある御像として有名である。現存する大師像の中でも最古の胎内銘だという。

 整備された境内の落ち着いた雰囲気の中、お勤めを終えて時計を見る。四時半を指していたが、さらに先を歩いた。北に進む。夕刻が迫ってきたが、木々に覆われた山道が続ていた。突然視界が開けたと思うと、車道の左側から長い崖を下る道が続いていた。はるか下の方には車道に繋がっている様子が見える。一段一段気をつけながら下る。草鞋が段にひっかかる。日が落ちるのが気になりながら歩く。
 ようやく崖を下ると車道が、明石寺のある卯之町(うのまち)に向けて延々続いていた。気がつくと、もう八時になろうとしていた。一気に疲れが全身に広がる。卯之町の商店街に入り最初に見つけた宿に草鞋を脱いだ。(全)


常用経典の仏教私釈C 
やさしい理趣経の話

第三段の概説

「しーちょうふくなんじょうせーきゃぼーちじょらい・・・」と第三段が始まる。ここに「調伏難調釈迦牟尼如来」とあるように、この段は教主大日如来が、様々な煩悩の火を吹き消して覚り、その教えによって多くの迷える人々さらには教化しがたい者たちをも覚らしめたお釈迦様となって登場する。
 第二段では、真に完全なる覚りを四つの平等なる覚りに展開して見てきた。第三段では、その中の@永遠なる堅固広大なるものとしての覚りの意味を開示している。
 私たち人間は常に苦しみの中にあると、お釈迦様はご覧になった。四苦八苦の苦しみと言うように、生まれた瞬間から生老病死の四苦の苦しみが生じ、これに愛別離苦(あいべつりく)(愛する者と別れねばならない苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく)(憎しみ合う者と会う苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく)(求めても得られない苦しみ)、五陰盛苦(ごおんじょうく)(身と心から盛んに生じる苦しみ)を併せて八苦の苦しみが襲い来る。
 これら四苦八苦を生じる根本の原因となるのが、人の心に巣くっている、貪瞋痴(とんじんち)の三毒と言われる三つの根本的な煩悩である。それによって、誰しもが迷い怒り愚かしい心を持つにいたる。お釈迦様は、これら苦しみの原因となる三毒を真実なる智慧を開かれることによって克服なされた。
 カピラ城を出て遊行し、六年間の苦行を経て、菩提樹下で瞑想する修行者シッダールタの前には、沢山の魔が夜ごと襲いかかったと言われる。これら魔が襲って来たとき、お釈迦様は、右手を膝の下に降ろし地に触れて、大地の神にこの世の真理を獲得し解脱せんとの堅い決意が不動なる真実であることを証明して見せたことによって魔は退散していったという。正にこの触地印のお姿が前回述べた四仏・四智の一つ「大円鏡智」を象徴する阿?如来(あしゅくにょらい)のお姿でもある。
 つまり、真実を示すこと、それが魔との戦いに勝利することになった。それと同じように真実の姿、この世のあり様を真実なる智慧によって見るとき、人間の根本的な煩悩である三毒も消えて無くなってしまう。小さな自己の欲求に取り巻かれている人々が正しく貪瞋痴を制御するために、この世の中の真実の智慧を授けるのが、この段の教えであると趣旨を説明する。

無戯論ということ

 私たちは無意識のうちに、眼と耳と鼻と舌と皮膚から入る刺激に反応して、それが自分にとって好ましい物なら欲の心を、好ましくない物なら怒りの心を生じさせている。心の中で思い巡らす刺激に対して欲や怒りの心から妄想していくのも同じこと。しかしその好ましい物でも、ずっとその刺激が続くと逆に苦しみ、そして怒りに転じていく。
 甘い物が好きで、ケーキを食べたいと欲の心で食べたとしても、三つも四つも食べたらムカムカして、もう食べたくない見たくもないという怒りの心が生じる。それなのにもっと食べたいと思い、吐きだしてまでご馳走を食べるなどという愚かしいと思えることも、中世の欧州貴族の間では実際に行われていたと聞く。好きな音楽も何時間も聞き続ければ、もう耳にしたくないという怒りの心にも転じる。
 しかしたとえば同じ欲でも、何か人に喜んで欲しい、助けてあげたいという気持ちから、欲っしていた物を見つけてあげたり、困っている人を助けてあげたようなときに、心から感謝されてこちらもうれしく思うような喜びの心はとても長く心楽しい気持ちでいさせてくれる。さらには、自然の中で少し落ち着いた気持ちで心静かに過ごしたり、坐禅でもして心の中に何もない安らぎ、心地よさを経験することは、さらに大きな喜びを永く味わうことが出来る。
 欲や怒りの心は良くないと思っても、特に欲は次々に生じてくるものなので捨てられるものではない。捨てることを考えるのではなく、外からの刺激をどう受け取るか、受け取る側の反応の仕方が問題なのである。物事にとらわれず、蓮の上の水玉の如く周りに囚われず自由に安らかにあるべきだと教えられている。
 無戯論・戯れの論がないとは、小さな自分だけの好き嫌いの感情から欲をつのらせたり怒ったり愚かな思い行為に至ることから離れ、自他の対立を超え、自他が一体なるものとの認識の元に、自分も周りも、もっと沢山の人たちや生きものたち全体が良くあるように幸せであって欲しいと、大きな欲に心を導いていくことをいう。
 第三段では、この欲(貪)瞋痴の三毒をこのように小さな自分の中のとらわれた分別から開放して、より広く大きな、長い時間に亘って喜びを感じられる清らかな心に転じていくことによって、一切法、つまりすべてのこの世の現実世界も、本来このような小さな個による好き嫌いを超えた清らかな世界であると知る。すべてのこの世の現実世界が清らかな広大な永遠なる存在であると目覚めれば、真実なる般若の智慧も開かれていくと説くのである。

第三段の功徳

 そして「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。すなわち、この段の聞き手である金剛手菩薩に対し、この欲望を正しく導く教えをよく受けとめ、実践していくならば、たとえ欲望にまとわれた人々を殺害するようなことがあったとしても、地獄の暗闇の世界に墜ちることはないと諭している。ここでの殺害とは、悪業を生む心の中の煩悩を殺害することを意味しており、それによって、自他共々に真実なる智慧を速やかに獲得するからであると説かれる。
降三世の印を結ぶ
 そこで、金剛手菩薩は、この教えを重ねて明らかにせんとして、心に巣くう頑なな自己に固執した欲や怒りの心を粉砕すべく、三世を支配するというインドの神・シヴァ神を倒した降三世明王の忿怒の形相で、蓮華を持ちその姿が広大な慈悲心から現されたものであることを明かすために微笑みさえ浮かべて、すべての者たちの豊かな人格の形成を念じる。
 降三世の印とは、両手の甲を胸の前に交差させ小指を掛け合わせた形であり、仏の心と迷える衆生の心、さらには、小さな自己と真に広大なる宇宙大の自己との一体不二なることを表している。そして、その心の心髄を表すべく、降三世明王がシヴァ神を打ち倒したときの勇猛なる心・金剛吽迦羅心(こんごううんきゃらしん)の一字真言「フーン」を唱えた。(全) 



いざというとき困らないための仏事豆知識D

『七日参り』

 七日ごとに火葬を済ませたご遺骨を前に法要をし、その功徳を回向することを七日参りといいます。
 初七日の法要を葬儀式において同座にて済ませてしまうと、七日参りは二七日からお参りします。亡くなられた日を入れて七日目が初七日なので、二七日は十四日目となります。

 床の間には十三仏の掛け軸をかけ、その前に三段の祭壇を祀ります。正面上段中央には白木の位牌を置き、その隣にご遺骨。中段下段には、お霊供膳二膳、果物など様々な御供え物を配置します。大きな遺影は祭壇には置かず、小さな遺影を置きます。壇の両脇には花立て、前机には灯明と香炉が来ます。また葬儀式に際して建立した塔婆は床の後ろに立てて置きます。
 十三仏の掛け軸は、その後も法事に際して祀られますが、初七日の仏様は不動明王、二七日は釈迦如来というように、各回忌ごとに本尊様が違うため、それぞれの本尊様が集うこの掛け軸をかけて法要を行うのです。

 七日参りでは、常用経典の読誦後、参詣の皆様とともに『仏前勤行次第』をお唱えします。最後の回向文の前に祈願がありますがここはお唱えせず、「南無過去精霊」と唱えます。
 七日参りは通常それぞれの忌日当日の晩に行われることが多いのですが、前日でも結構ですし、また時間も集まれる人次第で可能な時間帯に行えばよろしいかと存じます。

 いずれにせよ、この間に、人が亡くなるということ、十三仏の掛け軸のこと、塔婆のこと、納骨のことなど様々なことを学んでいただき、勤行次第にもこの機会に慣れ親しんでいただくことが大切であろうと思います。
 七日参りは納骨するまで行われますが、通常、七七日、つまり四十九日忌の法要まで行います。四十九日の法要は特別盛大に行われるわけですが、それは、通夜式のところで述べたとおり、亡くなった人の心が来世に旅立つのが四十九日目だとされているためであり、その間に、遺族親族が沢山の功徳を積み、その功徳を手向けて、よりよい来世に赴いてもらうのです。

 なお、この七日参りが続く間に、喪主は、墓所への納骨、仏壇に祀る塗りの本位牌、また四十九日忌の法要などの準備が必要になります。(全)


〈おたより〉
 『鶴の供養碑』 

 神辺・西中条の箱田川に元屋橋という橋がかかっている。その橋の東側の道べりに小さな石碑が立っている。碑には「奉供養村中安全」と彫ってあって、よく見るとその上に空を飛んでいる鶴の姿が浮き彫りされている。この辺では「鶴の供養碑」と呼んでいるが、「嘉永三戌年正月」に彫ったと記されているから、今から百三十年ぐらい前に建てたものらしい。鶴の供養碑は珍しいそうだが、これにはかわいそうな鶴の伝説が伝わっている。

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 昔々、中条沖の草原には鶴が住み着いていて、時折ゆうゆうと舞う鶴の姿が見られた。昔は海がこの辺まで入り込んでいたのだろう。広く開けた田圃の方を昔から「沖」と呼んでいた。ここに住み着いていた鶴は羽根がねずみ色をした黒鶴であったという。
 ある年の暮れ、ある日の夕方のことだ。沖の空を二羽の鶴が気持ちよさそうに舞っていた。村ではよく見かける風景であった。突然、沖の方でズドーンと大きな音がしたかと思うと、一羽の鶴がはらはらと草むらの中へ落ちていった。もう一羽はしばらく空をぐるぐる舞っていたが、「クオー ルルル」と一声鳴くと北の空へ飛んで行った。

 このことが村中に知れて騒ぎ出した。どこから来た者か、一人の猟師が鉄砲で鶴を狙い撃ちしたということがわかった。村の者が大勢集まって落ちた鶴を探したのだが、どうしても見つからなかった。みんなはあきらめて鶴のことも忘れかけていた。
 ところが次の年の同じ頃に、夕方になるとやってきて、空からおりたり舞い上がったりする一羽の鶴を見かけるようになった。
 ある日のこと、その鶴を目で追いかけていた村の者が、「クオー ルルル」と一声鳴いたかと思うと、とつぜん、急降下して草むらの中へ消えていったのを見かけた。

 また、大勢の村の者がそのあたりの草むらを探していたところ、草むらの中でうずくまっている一羽の鶴を見つけた。だが、どうも様子がおかしいと思って鶴を抱き上げてみたところ、その鶴は大きな羽根の下に骨ばかりになった一羽の子鶴を抱いて死んでいた。
 みんな、この子鶴は去年鉄砲で撃ち落とされたあの子鶴に違いない。だからこの鶴はその親鶴だろう。それにしても親鶴はなぜ死んだのかと、いろいろ心配したがわからなかった。それにしてもむごいことだと、村の者は寄り合って二羽の鶴を葬り、この供養碑を建てて供養した。
 それからというものは、この沖では鶴の姿が見られなくなったという。
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(まぼろしの絵師・無玄氏の絵話参照)
                                                  (B)


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十四

『真実ならざるものを真実なりと思い、
真実なるものを真実ならずと見る者は、
誤れる決意にしたがい、
真実なるものに達せず。』
(法句経十一)

 現代に生きる私たちは、あまりにも多くの情報の渦の中に生きている。その中から自分に必要な正しい情報を選別するのは至難の業であろう。新聞テレビのマスコミ報道の垂れ流す情報も、何が真実で何が不要なものかを判断する前に耳に入り目に飛び込んでくる。

 それら報道の表現一つで物事の認識判断が左右されるならば、本来、よほど慎重にそれらの真偽を見極め受け取るべきなのであろう。しかし殆どの人が、何もかもすべてを受け入れてしまう。だから、意図するしないにかかわらず、それら情報のもたらす内容に右往左往して誘導されているのが現代人の姿なのだとも言えよう。

 何が真実なるものか、何が真実ならざるものか。お釈迦様の時代でも様々な教えがあり、多くの修行者たちも迷っていた。お釈迦様は、誰がやって来ても招じ入れ、穏やかに話を聞き、質問に答えられた。

 いつの時代も、逃げ隠れせず堂々と表に出て来て、質問に答えられる人にこそ真実があるのではないか。いずれにせよ、真実も真実ならざるも見極めようとしないならば、物事の実相に至ることはないとこの偈文は教えてくれている。(全)


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│ 平成二十二年度 國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 土砂加持法会          四月四日
│ 正御影供並びに御砂踏み     四月二十一日
│ 四国八十八カ所巡拝(讃岐高野山) 五月十二・十三日
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 高野山参拝         十月十二・十三日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
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 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
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編集執筆 横山全雄
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