備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十二年盆月号] 第二十六号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


 保坂俊司先生に学ぶ
 教学講習会速記録

『21世紀の仏活-癒しと  
鎮めの仏教復活論』

 今年三月五日、福山のニューキャッスルホテルにて、真言宗大覚寺派中国教区・平成二十一年度教学講習会が、比較宗教論をご専門とする中央大学大学院教授保坂俊司先生を招き『21世紀の仏活―癒しと鎮めの仏教の復活論』と題して行われた。
 先生には、『インド仏教はなぜ亡んだのか』『戒名と日本人』『癒しと鎮めと日本の宗教』など多数のご著書がある。当日のご講演の要点を速記した原稿を以下に掲載する。
(なお各章のタイトルは速記者が便宜上付けた。やや専門的な記述も多い内容ではあるが、是非お読み下さい。)


心の荒廃をもたらしたもの

 お寺のお堂や門が荒廃するのはすぐに分かることでもあり、それを復興することは可能なことである。しかし、形のないものはどうか、たとえば、宗教などの信仰や人々の共通に大切にしている思い、心の荒廃はわかりずらくその復興はとてつもなく難しいものであろう。
 今日本の国は十年も続けて自殺者が年間三万人を超え、十年間では三十万人もの人が亡くなっている。さらには何万人もの社会的な基盤を失ってホームレスになってしまった人々もいる。勝ち組負け組という言葉があり、高級車に乗りブランド物を惜しげもなく身につけている人たちがいる一方で、負け組となって社会の掃き溜めのような扱いをされている人々がいる。

 昔だったら、おそらく、そうした人々が何らかの救済、それは地域であり、宗教の力によって救われていたのではないか。イラクで日本人の若者が惨殺されたとき、それは自己責任だと言われた。政府の要人がそういう発言もなした。しかし、それに対する批判は聞かれなかった。
 だが、国家とは、本来国民一人一人の生命を守るものであり、それが本義であるべきなのに、そうした本来の立場さえ忘れ去られている。そこには、国家レベルでも個人レベルでも、人に対する思いやりの心を忘れている、ないがしろにしているということを如実に表していると言えよう。
 母親が子供に食べ物を与えずに餓死させる、昔だったら鬼女と言われるようなことをしている。まさに今の日本はそんなことが日常茶飯事となり、地獄の様相を呈している。まさに冷たい戦争状態にあるのではないか。経済の停滞ということもあるが、それよりも、心をおろそかにして、経済第一、拝金主義が蔓延している。

 明治以後、排仏そして嫌仏主義のもとに仏教の教えが忘れ去られ、大国に並ぶため経済さえ良ければいい、自分さえ良ければいいという精神が、人々の心に他を思いやる気持ちをおろそかにさせてきた。経済の良かった時代にはその歪みが見えにくく問題視されていなかっただけなのかもしれない。
 しかしそもそも、今私たちが使う宗教という言葉は、明治以降キリスト教などの教えを意味するRELIGIONを訳したときに用いた言葉で、それ以前に宗教と言えば、「深い教えを言葉に表したもの」を言い、仏教ではそれぞれの宗派の教えを意味していた。しかし明治以降、宗教という言葉は、キリスト教的な神が中心にあり儀式儀礼を伴う教えを意味するようになった。

 明治政府は、その中に神道は含まれないという見解を採用した。神国日本にとって「神道」こそが国民の崇敬すべきものであって、仏教、キリスト教などの「宗教」は、迷信であり、呪的なものであり、それは弱い者、おんな子供など水準以下の者がするものであると国民に教え込んでいった。それは初等教育の道徳の教科書などにより広く流布していった。
 こうした近代における歪められた宗教観を私たちは教え込まれ今日に至っているということさえ全く認識していない。そのことがまずもって大きな問題なのである。
 その終結となるのが先の大戦であり、だからこそ私たちは、戦後宗教に対する関心を端に置いて、経済の復興、国際的な地位の向上だけにばく進することとなった。だから今の私たちは、宗教の体系的な見方を全く知らないし、知ろうともしないのだと言えよう。

仏教文明論

 では宗教とは何か、特に仏教とは何かと言えば、それは、一つの文明なのであると言えよう。(保坂先生は仏教を文明として捉える考え方が特に大切なのだと強調される)。日本では葬式法事、仏事のための仏教のように誠に限定した見方しかされないが、本来の仏教は、政治理念、経済活動、芸術文化までを含む一つの大きな文明として捉えられるものなのだという。
 日本は国家の形成期にすでに仏教があり、聖徳太子は、四方極宗(よものおおむね)と言って、当時のグローバルスタンダードとして仏教を採用し、国際レベルの国家形成をはかるために、仏教と一体となって国造りがなされた。仏教伝来時には日本の神と抗争したかに言われるが、それは豪族の権力争いに利用されたに過ぎず、死にまとわれた存在だった日本の神は仏教にその穢れを救って欲しかったのである。

 気が枯れることを穢れとも言うが、仏教に本来穢れはなく、または穢れそのものとも言える。本来修行僧は死体置き場で瞑想するよう指導されたのであり、その身にも糞掃衣という糞にまみれた布で作った袈裟を纏った。神々、人々の死の穢れを引き受け、清らかにしていったのが仏教であり、その根底にはすべての者に価値を認め、立場を与えるという理念があった。
 そうした考え方を政治理念として、聖武天皇により大仏が造られ諸国に国分寺が造られて国を統一した制度の下で機能させていく方針がとられた。さらに立派な堂舎建築の技術、経典になる紙や筆墨の製法、仏像仏具を造る精密な金属加工、木工技術、法要に用いる歌舞音曲や仏画などの絵画芸術に至るすべての当時の先進文化技術を仏教によって取り込むことが出来た。こうして仏教の教えを中心にして国家が形成されたのである。

 さらに「三宝の奴(やっこ)」と自ら言われる天皇は、すべての者の頂点にありながら、最底辺にあった民も含め、すべての者の苦しみを引き受けた。飢饉疫病によって国土が荒れ民が苦しみ疲弊するのは自らの徳が薄いからであるという思いを持っていた。そうした政治理念も当然仏教の慈悲、自他同置という教えのもとに醸成されたものだった。
 正しいと思っているのは自分だけではない、自分を他者の立場で眺め自分を客観視して他を認め、よいところを評価する、自分も絶対ではないかもしれないという思いを持つ。そういう自己を客観視するためにも空(無我)という教えがあり、何物も切り捨てることなく総体としての幸せを考えた。その共通原理に基づいた経済、社会、文化を形成していく。その中心に、仏教があったのである。

明治時代の宗教観の変化

 明治以前の日本は、このように仏教一色だったので、何が仏教なのか、何がありがたいのかも分からなくなっていたと言える。今日では葬式法事、仏事にきわめて限定されたものとしか見られない仏教だが、遙かに大きな広がりのある総合的なものとして捉える必要がある。では、なぜ今日のように仏教を限定的なものと捉えるようになってしまったのであろうか。
 明治時代はある意味革命であり、世界の列強によって圧迫されていく世界情勢の中で日本の国が生き残りをかけて国力を集約する意味からも、また薩長による政権交代に権威付けする意味からも日本の国の伝統ある天皇の後ろ盾が必要であった。

 そこでそれまでの幕府の統制に荷担し民衆掌握のために国家の官吏の役割をはたしていた仏教を排除して、神道を国教化して、近代国家形成のために西欧の思想文化を採用していった。
 だから仏教は、すぐれた宗教観念と当時考えられ始めた一神教ではない多神教であり、呪術にまつわれた野蛮な教えと貶められた。しかしはたして一神教とはいかなるものか。一神教には二つの捉え方があり、それは「一神多現教」と「排他的一神教」と表現できる。
 「一神多現教」とは、ヒンドゥー教などのように一つの原理、法の下に多くの神々が現れていると考える宗教であり、多くの神々が化身、または権現として現れるが、それらも大きくは一つの神と見る。

 一方、「排他的一神教」とは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などのように、唯一の神をたて他を排除する宗教をいう。しかしキリスト教は三位一体と言い、カトリックはマリア様などの多くの神を認めている。だからイスラム教徒はキリスト教は多神教であると考えている。
 神道は、明治時代初めには「大教」(だいきょう)と言ったが、明治政府が他の宗教と違うものと認識させるために神道と言うようになった。しかし仏教を否定した明治政府も後にキリスト教が蔓延するとの懸念から限定的に仏教を認めていったのである。
 しかし本来仏教こそ道であり、法であった。だから、本来は「仏道」、または「仏法」と言った。単なる教えなのではなく、一生を通しての行、生きる道として捉える必要がある。

仏教の特質

 仏教はインドの教えであるが、インドでは最大時で人口の三割ほどが仏教徒だったと言われるが、実際はその双璧としてあるヒンドゥー教徒とかなり重なり合い、ヒンドゥー教徒でありながら仏教徒でもあるという人々が多くあった。日本人の多くが仏教徒でもあり神社の氏子でもあるというのと似ている。
 では、仏教とヒンドゥー教と何が違うのであろうか。仏教は絶対平等のもとに社会を作った。しかしヒンドゥー教は階級社会、カーストを規定し、不可触民は輪廻転生できず、寺院にも立ち入ることが出来なかった。しかし仏教は、人の価値は生まれではなく、行いによって決まるとした。
 これは当時のインドでは革命的な教えであり、一つの道徳運動、自分にも周りにも多くの人々のためになる経済、政治、芸術活動によって、仏教による一つの社会が出来ていった。その代表たる存在がマウリヤ王朝のアショカ王であり、すべての民の底辺を支える者として自分を位置づけ、「民衆のためのアショカ」と自ら言った。

 日本でも、それを歴代天皇が体現し、世界でも最大の仏教外護者として天皇があられた。だからこそ、京都の御所は塀一つの無防備とも言える構造にもかかわらず、軍勢も盗賊もほとんど侵入することがなかった。民衆から敬われ、守られてきたのはそうした信仰心、仏教に基づく民を思いやる御心あったればこそであったと言えよう。
 また、仏教は、インドでは都市住民に浸透していくが、生まれたときから仏教徒なのではなく、改めて自らが決めて改宗して仏教徒になる「改宗宗教」である。しかし、江戸時代には幕府の檀家制度によって家の宗教となり、生まれたらそのまま仏教徒と認識されるようになってしまった。しかし明治四年に「氏子調規則」(うじこしらべきそく)が制定され、日本人は生まれると誰もが神社の氏子になるとされた。

インド仏教の変遷と現在

 インドの仏教は、紀元前後に大乗仏教が現れ、民衆化していく。西アジアからの影響もあり、僧侶だけが救われるというのは納得できない在家信者たちが日常生活の中の行体験から悟りの階梯に進む、つまり救いの平等の要求であったと言えよう。そこでは様々な救いの道を新発見してきた。だからこそ中国日本において様々な人々が仏教を受け入れる素地となった。
 そして、その民衆化した仏教がさらにより民衆に近い形で理念を説こうとすると、インドにあっては当然のことながら教化の対象であったヒンドゥー教の人々に合わせて説くことになるのであり、それが密教であった。

 だから、仏教のヒンドゥー教化は避けがたいものであったが、それが最高の到達点であったと見ることも出来る。それはインドの社会の変化に伴う当然の変容であったと言えるが、それを仏教の堕落と見る向きもある。特に明治以後、密教は非合理で非理性的な教えに堕したとの受け取り方をなされた。しかし、その見方自体が、東洋的ではなく、近代西欧の理性というもの、つまりカント的な、言葉で合理的に納得できるものを物差しにしていたからに過ぎない。が、本来宗教とはそのように言葉ですべてを説明できるものではない。言葉で仏教が分かるというものではない。必ずそこには行、実践が必要であるように、より実践と体験を重視する密教に仏教は移行していった。
 七世紀頃のインドには沢山の小国があり、仏教僧と王が仏教を中心に統治していた国々が、ヒンドゥー教の国と対立を生んでいた。そうした中にイスラムが侵攻して来る。七一一年に初めてイスラム軍のインド侵入があり、ヒンドゥー教の国々はこれと闘うが、仏教徒の国では、仏教や社会を守るためであっても、暴力を用いたり、血を流すことは戒律に反するとして闘わず、特に西インドの仏教国はイスラムに飲み込まれていった。

 仏教の不殺生(非暴力)や慈悲の教えがそこまで浸透していたかと驚くほどであり、当時のインドにあった一つの仏教文明として彼らが何を重視したのかを良く表した事例であると言える。こうして十三世紀初頭には、仏教はインド社会から衰滅したとされるが、今日でもヒンドゥー教徒たちが菜食を尊重し、非暴力を賞賛することに仏教精神が彼らの中に生きていると見ることも出来る。
 また、今日のインドでは、仏教徒はごく一握りの存在と見なされがちだが、実際には、戦後インド憲法を起草した、ネルー政権の初代法務大臣で、アウトカーストであったアンベードカル氏が、世界の様々な宗教を研究して最も人類の平等を説く仏教が優れた教えであるとして仏教を選択し、一九五六年同じマハールの人々五十万人とともに集団改宗した。そしてその後も増え続け、インドでの仏教徒は今日、公称で七百万人、実際には三千万人とも言われるようにインドで仏教は息を吹き返しつつあるのである。

仏教に救われた日本

 一九五一年、サンフランシスコ講和会議において、日本は連合国四カ国に領土を四分割統治されようとしていた。しかし、この会議において、セイロン(スリランカ)代表ジャヤワルダナ蔵相のなした演説によってそれをまぬがれることが出来た。
 彼は、悪魔の国と罵(ののし)られた日本に対し、怨みは怨みをもって消え去るものではなく、愛によってのみ消え去るものであると『法句経』第五偈を引用して、日本には仏教がある、長年彼らとの関係をそれによってつなぎ、諸大臣から僧侶、庶民に至る国民が、今も偉大な平和の教師ブッダの影響の元にあり、さらにそれに従おうと欲しているという印象を受けた。だから、日本を許しすべての賠償を放棄すると演説した。その演説に、インド、パキスタンが同調して国際社会から孤立し窮地に追い込まれた日本は救われたのであった。

 戦後、ドイツのように分割統治されようとしていた日本は、この時仏教によって救われたのである。だからこそ今日の繁栄がある。それなのに、今私たち日本人はまったくと言っていいほどにこの事実を忘れ、仏教に対して無関心、無視を決め込んでいる。
 仏教こそが唯一平和な教えである。仏教だけが世界に広まるときに暴力、軍事力を用いずに浸透していった唯一の宗教である。お釈迦様は現地語で教えを語れと言われた。キリスト教は一千年にわたって翻訳はなされず、イスラム教は未だにアラビア語以外の聖典は認めていない。つまりアラビア語圏しか対象にしていないということだ。

日本における仏教の性格

 日本は古来、この仏教の平和思想に基づいた国造りがなされてきた。聖徳太子に始まり歴代天皇がそれを継承した。それを破ったのが明治政府であり、仏教を捨ててから多くの戦争をする国となってしまった。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、七割八割の寺院が廃寺となった。明治四年には四十六万か寺あったとも言われるが、現在はわずかに七万か寺である。
 明治四年には修験道(しゅげんどう)が廃止になっている。神仏を融合し、自然の中にその実践活動の場を見いだした修験道は、すべてのものに価値を見いだし、その役割を認め多元的世界観を表現するものとして存在したが、それはそのまま本来の仏教が持っていた性格であり、それを体現するものが密教であった。

 すべてのものがそのままで意味あるものと捉え日本の神々も不可欠のものとして、その思想体系の中に含めて調和ある社会、精神世界を醸成した。それが日本仏教の姿だったが、鎌倉時代には切り捨て主義とも言える専修仏教、念仏、禅、題目などに絞られた一行主義が流行したが、それはキリスト教で言えばプロテスタント的なものであった。
 そもそも仏教は、お釈迦様が成道されたあと誰に説いてもこの境地は理解されまいと思われたのに、梵天がやってきて、この世の中には煩悩が薄い者もあり、教えを垂れることによって悟れるでありましょうとの進言により教えが説かれ、仏教がある。いわゆる「梵天勧請」があって仏教が生まれた。

 つまり、他の刺激によって開かれていく教えであり、他の者を自らのために役立て、また他を生かしていく教え。他の言葉、神、地域に応じて教えを説いていく。他のすべての価値を認め、それらすべてを対象にして教えがある。
 このような、たぐいまれなすべての者に優しい平和な教えである仏教を否定したのが明治政府であり、それは維新と言われる前には「御一洗(ごいっせん)」、「一新(いっしん)」と言った。仏教にまつわる旧弊を洗い流す、一新するのだとの意味があった。そうして神道を国の教えとして仏教を貶めたものの、キリスト教が猛威となると手のひらを返したように仏教をごく限定的に認めていく。
 その仏教は、西欧の近代科学思想を学んだ人々によって好まれた、つまりプロテスタント的な一行主義の鎌倉仏教が珍重された。一方で総合仏教である密教、特に真言宗は貶められた。特にその祖である弘法大師は仏教学者たちの世界での立場を失った。
 戦後になって、京都学派の湯川博士らが日本における最も才能あふれる人物として弘法大師に注目した程度なのである。が、本当は、これからの日本社会には、この空海の思想、密教的なる世界観が不可欠なのではないかと考える。

世界に求められる仏教

 人は、自分が良くあるために必ずその世界観を必要とする。もともと日本人はその世界観を仏教に求めてきた。だからその世界観、理想の世界像を表したものとして寺院があった。それは仏菩薩の世界であり、浄土の世界であり、死後の救いの世界であった。インドでもヒンドゥー教もシク教も寺院とはそのような作りとなっている。
 本堂は救済のモデルルームであり、人々はそれを見て、何事かを体感して日々の苦しみの中にあっても安心を得て救われていった。仏教のすばらしさに安堵した。そして仏法を学び、仏道としての実践の中に人生を位置づけていった。他を助け、ともに先に進むことを考えた、皆一緒にという考え方があった。

 仏教は自らの意志で入門し、自分で歩んでいく。自らの行いによって救われていくもの。だから、僧は救いのガイドであり、導き手として存在する。私たちは今、恵まれた国に生きてはいるが、仏教という我々の先祖が持ち合わせていた心臓をもぎ取られてしまったことに全く気づいていない。そこに心の荒廃、修羅のような、餓鬼のような、地獄のような世間が現出している。
 「信」のみでよいとする教えは簡単のようだが、それに徹することはそう簡単なことではない。イスラム教は、信仰と義務を要求するが、それは一生かけて休むことを許されないものだ。一日五回の礼拝と一年一回二十八日間の断食は、休めば地獄に堕ちるとされる。それは自分で決めることも許されない。浄土教的な絶対的な信も同じことである。
 それよりは、自分で決めて日々行じ、少しずつ上っていける、本来の仏教の方が優しい教えといえる。いろいろな意味ですぐれている仏教を自信をもって人々に勧め、教え施して欲しい。草の根レベルでの寺院、僧侶、檀信徒が一体となった力なくしては仏教の復興はあり得ないのであるから。

 仏教は、まさに平和の教えであり、誰にも門戸を開放している。今日でも仏教圏ではほとんど争いがない。
 世界に目を転じれば、ガンジーさんの非暴力に学んだマーチン・ルーサー・キング牧師を尊敬するオバマ氏は、世界に平和をもたらさんとしているかに見える。そしてまた、鳩山現日本政府も友愛を掲げて人々に優しい政治を標榜している。回りまわって新しい仏教的な発想が世界を変えようとしていると言えよう。(文責・横山全雄)


〈おたより〉       
  『昔の葬儀』                   

 過日、友人の葬儀に会葬した。自分もそろそろ考えておかなければならないという思いを強くした。その夜、たまたま家族の者と話す機会があったのでそのことが話題になった。
 近頃は、この辺でも「家族葬」「自由葬」といった葬儀も出始めた。東京では、五人に一人ぐらいが「直葬」という葬儀を選んでいるとも聞く。ところで昔はこの辺はどうしていたのかと、話が昔の葬儀の仕方に移ったのでこんな話をした。
                           ◆
 当家から近所へ危篤の連絡があると、隣近所の者はいち早く駆けつけて最期を見届ける。その後、すぐ組内の者が集まり葬儀の段取りにかかることになる。組内にはかならず一人ぐらいは経験豊かな人がおり、その人が葬儀委員長をつとめる。
 まず、当家の親戚縁者に訃報を連絡する。当時は電話がなかったので、市内くらいは真夜中でも自転車か歩きで出かける。遠いところへは電報で知らせる。檀那寺、病院、役場へそれぞれの手続きをする。
 その間、他の者は、葬儀壇や、火葬の場合は火葬場を、土葬の場合は墓の穴掘りの手筈にかかる。女衆は米粉で「しとぎ団子」を作り遺体の枕元に供える。当家の食事の支度は以後すべて組内の者の手ごしらえで用意する。買い物帳や受付帳簿を用意する。

 葬儀壇は集落の集会所に保管されている道具を借りて組み立てる。座棺は大工さんに頼んで作ってもらう時もある。私の父は生前棺桶の板まで用意していた。
 町営の火葬場もあったが、集落のルールにより昭和四十年頃までは、そこを使用する家はほとんどなかったし、土葬も多かった。火葬・土葬の準備をする当番になった者は大変である。ここの集落の露天火葬場は裏山の谷の窪地にあったから、火葬に使う薪、藁、筵などは背負って運び上げるのである。土葬の場合は、座棺が普通であったから三メートル近く掘らねばならない。しかも棺に合わせてきちんと掘らねばならない。大きな根っこや大石が出てくると思いがけない難儀な作業となる。

 葬儀の前日、夕方から身内の者が揃って「湯灌」を行う。湯灌酒で元気をつけ故人に話しかけながら涙ながらに遺体を清めるのである。その夜は深夜まで故人を偲びながら静かな時を過ごす「お通夜」である。
 葬儀の時刻が近くなると、身内、近親者により故人との最後のお別れをする「立ち飯」が行われる。「立ち飯」には膳棚に黒塗りの会席膳が用意され、手作りの会席料理が差し出される。
 葬儀は導師をはじめ寺方によって始まる。読経中、会葬者が次々に焼香する。読経が終わると、「野辺送り」である。身内の配役が読み上げられ、それぞれの役にしたがって葬列が組まれる。葬列は身内、近親者、組内の者だけで、火葬場または墓地まで行列して送る。作法に従って火葬・土葬が行われる。特に火葬ではどうか無事に終わりますようにと祈る気持ちである。

 野辺送りから帰ると、身内、親族の者は、「仕上げ」といって会食膳に座る。それを忙しく済ませると、お世話になった組内の方々へのお礼の気持ちを込めてもてなす。
 火葬では翌朝早く、「骨上げ」が行われ、これで葬送の儀式は一応終了する。
                           ◇
 このように、葬儀は通常三日はかけて、組内みんなで取り組む大仕事であった。人ひとりを弔うということはそういうことだったのである。そんなに古い話ではない。ついこの間までのことである。わたしらの親もこうして送ったのだから。    (2010/1 B)


祝 行基菩薩立像
  造立開眼法会

 奈良時代の高僧にして社会事業家でもあり、また当時の国と日本仏教界をあげて建立せんとした東大寺大仏の勧進職(かんじんしょく)として活躍し、また全国國分寺の創建にも関わられた行基菩薩の立像造立を、平成二十年四月に発願しました。その浄財を檀信徒の皆様からの写経奉納に求めましたところ、お陰様で、二年ほどの間に予定額を大幅に上回り沢山の写経が奉納されました。行基菩薩報恩謝徳の為とした『般若心経』の写経は、二三七人より、丁度六〇〇巻を数え、その他金一封の奉納も沢山いただきました。ここに、その浄行に深く感謝し御礼を申し上げます。

 なお、奉納された写経は、奉納者のご芳名簿と共にすべて軽金属製の箱に収め、菩薩立像の台石下に埋経(まいきょう)させていただきました。
 埋経とは、その昔、寛弘四年(一〇〇七)藤原道長が弥勒下生(みろくげしょう)の地と言われた金峯山(きんぷせん)に、『法華経』、『弥勒経』、『阿弥陀経』、『心経』を埋経したことが江戸時代に経塚が発見され明らかになっています。
 これを先駆として、その時代から埋経と経塚の流行が起こるのですが、これは五十六億七千万年後に下生(げしょう)すると言われた弥勒仏の法座に立ち会い、またその時に埋経した経巻が自然に湧出すると信じられたからでありました。その場合の埋経された経巻は「法身之舎利」と言われ、まさに仏の悟りの心をそのままに生き写したものと信じる信仰に基づいていました。

 ここに皆様からお預かりした写経も、尊い信仰心の現れとして、後世の法座に立ち会う信者の為に湧き出ることを願い、そしてその功徳が皆様に廻らされることを祈願し、なされたものであります。
台座南面には、
「奉埋経心経六百巻
 奉為行基菩薩報恩謝徳
 功徳主國分寺檀信徒二百三十七名  平成二十二年四月吉日」
と刻まれました。
 そして、ご案内の通り、四月四日午前十時半より、五十名を超える檀信徒が参列する中、開眼法会を挙行いたしました。開眼作法の後、理趣経の読誦に続き、心経三巻を大衆唱和、左記の通り願文を奉読し、『南無行基菩薩』と唱えて、「家内安全・家運長久・福寿増長・智慧如海」を祈願しました。

『行基菩薩像造立開眼法会慶讃祈願文』
「夫れおもんみるに、経典を読み正法を観ずれば即ち自他の仏性を開発し、仏像を造り宝塔を建つれば忽ちに仏菩薩の福徳を荘厳す。凡夫是を学んで安心を得、衆生是を仰いで淨信を増す。かるが故に、福徳を得んと欲すれば、仏像を造り供養するをもって要となす。三世の諸仏十方の薩?みなこの福智を営んで仏果を円満すと。

今茲に、機縁熟して、行基菩薩の尊像を造立、安置し奉る。行基菩薩と言っ者、大和薬師寺の僧にして、瑜伽唯識論を覚りて、都鄙を周遊し衆生を教化。諸々の要害に橋を造り堤を築く。聖武皇帝甚だ敬重し給い、東大寺建立の勧進職に任命し、詔して大僧正の位を授け給う。霊異神験類に触れて多し。時の人名付けて行基菩薩という。留まるところ皆道場を建つ。畿内に凡そ四拾九処。殊には、諸国國分寺創建にも努めたりと。夫れ我が備後国國分寺にも巡錫の由あり、福山城主伽藍造営の折行基菩薩像を安置し給えり。

よって今新たに菩薩立像を造立し、國分寺檀信徒二百三十七人六百巻の心経写経を埋経して報恩謝徳の真を捧げ、開眼供養の法席を敷く、請い願わくば、法会功徳主國分寺檀信徒写経奉納の善男善女、家内安全家運長久福壽増長智慧如海ならんことを。
乃至法界平等利益
干時平成弐拾弐年四月四日
唐尾山國分寺中興第十四世全雄敬白」

 なお、行基菩薩立像造立の記念の品として、この開眼供養の際に御祈願した『行基菩薩御祈祷寶牘』を用意いたしました。開眼法会の後、近隣の方々には配布授与させていただきました。遠方の方など、まだお受け取りでない方は、御一報下されば発送させていただきますので、何卒宜しくお願い申し上げます。         (全)


四国遍路行記L 
明石寺から大寶寺へ
(平成二年三月から五月)

 仏木寺から明石寺までの距離は十・五キロある。四時半に仏木寺を出たので、三時間半ほど山道と車道を歩いてきたことになる。かなりの疲労をしたようで、足は棒のようになり身体がバラバラになりそうだと日記に記している。宿の部屋に入ってもしばらく動けず、ようやく風呂に入って布団にもぐり込んだ。寝汗をかき、二時間おきに起きた。寝ていながら、上から自分を眺めていた。
 丁度初めてインドに行ったとき、ヨガの聖地・リシケーシュで下痢をして高熱を出して寝込んだときのようだった。アシュラム付属の診療所でもらった強い下痢止めの薬を飲んで寝ていたら、気がつくとベッドの蚊帳のずっと上の方から下を見ていた。すると、五人ほどの人たちがベッドの縁につかまって寝ている私を見ていた。が、その時は、いるはずもない人を見ることはなかった。

 翌朝も寝不足なので、まったく自分の身体のような感触がない中、四三番明石寺に参詣する。寺伝には欽明天皇が勅願して、円手院正澄という僧が千手観音を安置して創建したという。欽明天皇の時代に百済から仏教が正伝したことを考えると少し無理があるかもしれない。その後修験道の道場として栄えたが、弘仁十三年(八二二)に弘法大師が訪れて伽藍を復興した。
 駐車場から緩やかな坂道を進むと境内に出る。鬱蒼とした木々に覆われた石段を登り本堂に参る。地元のお年寄りたちがお参りに来られている中で読経。下の大師堂でお勤めの後、しばしベンチに座りお地蔵さんの前に祀られた風車を眺めた。現在は天台宗寺門派に属することもあるのだろか、建物の瓦が銅色をしていたり、造りも重厚で、少し雰囲気が独特であった。

 ゆっくり風に吹かれていたら、徳島の九番法輪寺前で車のお接待をいただいた方との約束を思い出した。明石寺に来たら遍路道沿いのフジマートに寄って下さいとのことだった。急に動く元気が湧いてきて遍路道に戻る。卯之町の商店街の中程にそのスーパーがあった。レジの人に問うと、すぐに出て来てくれて、大きなお弁当と缶コーヒーを持ってきて、「これお接待です、すんません、少し待っていて下さい」と言うとどこかに消えてしまった。
 しばらくするとあのときのシーマが店の前に横付けされ、どうやら車の接待をしてくれるらしいと、やっとその時気がついた。この次の大寶寺までは、六十七キロもある。その途中までお連れしましょうとのことであった。内子の町に入ったあたりまで送ってくれた。別に近くに用事があったわけではなかったようだ。のろのろと歩き出す。途中遍路無料宿と書いた看板などを眺めつつ歩くものの、身体が冷えてきて、どうも風邪を引いてしまったようで熱っぽい。

 左手の小高いところにお寺があったので、少し休ませてくれるよう頼むが、断られてしまった。細い一車線の一本道をひたすら歩く。気分も低迷して、人に頼る心ばかりが先行する。車が横を通れば乗せてくれないかとか、どこぞに宿を貸して下さらないかとか、そんな気持ちばかりが湧いてくる。お弁当を途中で食べ、小田町まで来たところで夕刻にさしかかった。道沿いの大きな樽のある造り酒屋の先に小さな古い宿があった。四時頃だったが宿に入る。
 泊まり客が私だけだったこともあってか、宿の女将さんがとても気遣って下さって、洗濯までしてくれた。夕飯には、天ぷらに玉子、ワカメの吸い物、それに唐揚げも。精の付く食事を用意して下さった。その上翌日には、宿賃まで、素泊まり同然の支払いで送り出して下さった。誠にかたじけなく思う。

 お陰で、昨日の朝と違って、この日は足取りも軽やかに大寶寺への道を急いだ。大寶寺のある久万町は林業の町に相応しく、遍路道沿いに太い丸太が積み重ねられた材木置き場をいくつも越えて、小高い森に向かう道を一直線に進んだ。左側に樹齢数百年という杉や檜の大木が四四番大寶寺の伽藍を護持していた。
 左手に入り斜め後ろに伸びた坂道を上がる。信徒会館の奥に伽藍が広がっていた。聖徳太子の父用明天皇の御代に、明神右京という狩人が十一面観音を発見して、その百年後大宝元年(七〇一)に文武天皇の勅願で創建されたとも、同年に百済から十一面観音を奉持して来日した僧がここに草庵を結んだとも言われている。弘法大師が弘仁十三年に巡錫の折、天台宗から真言宗に改めたのだと言う。大正時代に再建された本堂は銅板屋根ではあるが、とても豪壮な造りをしている。

 この時は外の椅子に座りゆっくりと理趣経を読み、経文とともに大木に囲まれた深山の霊気を胸一杯に吸い込んだ。
 実はこの一年後遍路したときには車のお接待もなく、内子の手前の大洲の国道五六号線下の別格二十霊場の一つ十夜ヶ橋(とよがはし)の札所で夕刻にさしかかり、その通夜堂に泊めてもらった。
 十夜ヶ橋は、お大師様が巡錫の折、この辺りには宿も民家もなく、仕方なく空腹のまま土橋の下で休んだとき、一夜が十夜にも思われると歌を残されたことから十夜ヶ橋と呼ばれる。今もお大師様がお休みになられているとの信仰から、この橋を通るときには杖を突いてはならないと言われている。

 因みに、『行き悩む浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ』というお大師様の和歌を、明治の傑僧・釈雲照律師が晩年揮毫された筆跡を刻んだ石板が霊跡に置かれている。
 私がその時泊まったのはお寺の向かいにあった古い通夜堂で、ノミがいたのか痒い思いをしたことを今も思い出すが、翌朝元気だったこともあり、遍路道を外れて別格二十霊場七番札所の金山出石寺(しゅっせきじ)へと歩を進めた。ところが途中道に迷い、山の道無き道をよじ登り何とか出石寺にたどり着いた。本堂に参っていると、今度は強い雨が降ってきて、困り果てていたら、お堂の下を覗き込んでいた人から声をかけられ、お接待しますと言われ、車でその人の家に連れて行かれた。
 聞くと、十夜ヶ橋永徳寺の檀家さんで、その大師堂を再建することになった大工さんなのだとのこと。見ると右手の指が二本欠けている。それでも大工仕事ができるような道具を工夫して続けているのだとか。誰もいない家に案内されて、何故か用意されていたご飯をご馳走になり、しばらく待っていてくれとのことで少し横になり休んでいたら、どうぞと。娘さんが大寶寺の近くまでクラブ活動で行っているので迎えに行くから乗って下さいとのことだった。大雨の降りしきる中、何の苦労もなく大寶寺へ参ることができたのであった。

 道が今のように整備されていなかった時代には、この明石寺から大寶寺にかけての遍路道が最難関の順路だったとも言われるのに申し訳ないことではあるが、この前年のこの辺りでの難儀を考えると丁度バランスを取ってくださったものかと得心したものだった。その日は既に夕刻、外はどしゃ降りということもあり、そのまま大寶寺で宿泊を乞うと、乗務員用の部屋に案内され、お接待を受けた。
 翌朝、本堂に他のお遍路さんたちと共にお詣りした。その時、本堂の左側手前に、正に生きているかの如くの先代住職さんの御像が祀られていて、読経中目が離せなくなったのを記憶している。確かに木肌なのに、つやつやと輝き、眼光も生きているように感じられたのだった。ご住職は真言宗豊山派の抑揚にとんだ豪快なお経を唱えられた。            (全)


いざというとき困らないための仏事豆知識E

『年忌法要ー法事』

 いわゆる法事とは、今日では故人の追善のために精霊を供養する行事と思われていますが、もとは仏教徒が仏道に精進する仏教行事全般を法事と言っていました。ですから、法事は故人の追善のために開かれる仏事ではありますが、あくまでも、参会者自身のためにあるものです。その機会に日頃なかなか出来ない仏道に励み、徳を積んで、その功徳を精霊に回向するというのが本来のあり方です。

 法事は、礼拝に始まり礼拝に終わります。額、両肘、両膝を地につけて礼拝することを投地礼と言いますが、導師は正面に掛けた十三仏の掛け軸の仏様方に投地礼をします。それから焼香し、香水加持をして三度香水を洒ぎ道場を清め、読経が始まります。
 法事はお経を聞くという時間が長いのですが、リラックスしてゆったりした気持ちでお過ごし下さい。正座が慣れていなければ、胡座でも椅子に座ってもかまいません。大事なのは、その間、日頃五官の刺激に反応し続けている私たちの心のあり方を改め、頭の中で色々と物思いに耽ることなく、普段と違った落ち着いた心でお過ごしいただければありがたいと思います。仏教の実践は、「持戒」「禅定」「智慧」に分けることが出来ますが、その中の「禅定」の静かな心をこのとき体験して下されば、誠に仏道にかなう法事の過ごし方であるとも言えましょう。

 導師の読経後、「仏前勤行次第」を唱えますが、これは回忌の精霊のためではなく、ご自身のためにお唱えするのです。だからこそ読誦する意味があります。お唱えする人に意味のないものなら功徳はなく、回向することも出来ないことになります。ですから、勤行次第は「合掌礼拝」から始まりますが、『恭しく御仏を礼拝したてまつる』と読みながら、自然と頭が下がるようにお唱えいただきたいと思います。
 その後、「懺悔(懺悔文)」・「帰依(三帰三竟)」・「誓願(十善戒)」の心を確認し、「発菩提心」「三摩耶戒」の真言をお唱えして仏前で仏道に精進することを宣誓し、『般若心経』を唱えて「空」を体感していただく。そして十三仏の真言をお唱えしてそれぞれの仏菩薩のお徳を賛嘆し、光明真言、御宝号を唱えて特別に縁の深い仏壇の本尊様でもある大日如来とお大師様に報恩謝徳の心を捧げます。そして、回忌の精霊に対し『南無過去精霊』と唱え、最後に回向文をお唱えしますが、『願わくばこの功徳をもって・・・』とありますように、勤行次第を唱えたご自身の功徳をあまねく一切の衆生に回向して、勤行次第を読了します。

 礼拝して法要をひとまず終えて、導師は振り向き座して、法要の意味などなどについて法話いたします。
 その後、墓前に参って、四十九日忌の法要であれば納骨し、それから檀那寺本堂に参詣し、ご本尊様へ日頃の報恩と年忌法要の御報告に参ります。
 そして、お斎となりますが、お斎の席では、出来れば普段話題にのぼらないような仏教に関連したことごとなど法事ならではの話ができましたなら、より意味深い法事となることでしょう。                                                 (全)


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十五

『およそこの世において、
怨みは怨みによりて静まることなし。
怨みを捨ててこそ静まるなれ。
これ不変の真理なり。』(法句経五)

 一九五一年戦後日本の国際社会への復帰を話し合うサンフランシスコ講和会議で、セイロン代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相は、賠償請求放棄を表明する演説を行った。これは、その演説の中で紹介された有名な『法句経』の一偈である。

 「日本とは仏教によって長年交流してきた。アジアの諸国民の中で、日本だけが強力で自由であり、アジア隷属人民は日本に対して高い尊敬を抱いていた。もちろん自分たちには、占領はされなくとも、その被害に対して賠償を請求する権利がある。しかしそれを請求するつもりはない。なぜならば・・・」と引用されたのが、この偈文であった。「我々は偉大なる教師であり仏教の創始者であるブッダの、このメッセージを信じるからである」と述べている。

 「仏教は南アジア、東南アジア、ヒマラヤを越えてチベット、中国、そして最後に日本にまで広まり、幾百年にわたり共通の文化と遺産で我々を結合した。日本はいまだ偉大なる平和の教師・ブッダの影響を受けており、その教えに従おうとしている、だからこそ我々は日本にその機会を与えなくてはならない。」このように述べて演説を締めくくった。

 この演説は、世界を敵に回し、孤独の極みにあった日本に仏教という絆をもって手を差し伸べて下さっている人々がいたことを知らしめ、当時の日本人に異常なる感動を呼び起こしたと言われている。私たち日本人は戦後、アジアの仏教世界の同胞から、この一偈によって救われたというこの事実を忘れてはならないのではないだろうか。(全)


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│ 平成二十二年度 國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 高野山参拝         十月十二・十三日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
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 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 理趣経講読会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
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編集執筆 横山全雄
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