備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十三年正月号] 第二十七号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行


<いきいきサロン>でのお話『死んだら皆、仏様 
誤解』を読みながら前編


本日(22年5月26日)は、こちらの〈いきいきサロン〉にお招きいただきましてありがとうございます。

読売新聞のコラムに【見えざるものへ】という連載がありますが。今日は、その中から、今年一月二十九日の記事を読んで、いろいろとお話しをさせていただこうと思います。このコラムは末木文美士(すえきふみひこ)さんという仏教学者が書かれています。

用意したコピーをご覧下さい。『死ねば皆仏様、誤解』とありますが、丁度この日の晩に檀家さんの七日参りに行きましたら見せて下さって、「こんなこと書いてありますが、これでいいんですか」と問われました。突然のことでしたが、「これでいいのです・・・」などとお話したことを憶えています。それでは早速一度読みながら解説していきたいと思います。
 


(平成二十二年一月二十九日読売新聞)
見えざるものへ―末木文美士
「死ねば皆、仏様」誤解

 民主党政権となって、政治のニュースに事欠かない。事業仕分け、沖縄基地問題、日米密約から鳩山献金問題まで、政府と民主党がらみの話題が新聞紙面を賑(にぎ)わせている。その中で、小沢一郎幹事長(当時)のキリスト教発言もいささか波紋を呼んでいる。

ことの起こりは、昨年十一月に小沢氏が高野山を訪れたことで、それ自体異例のことであったが、それよりも大きな問題となったのはその後の記者会見だった。そこで氏は、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ」などとキリスト教を批判し、仏教を持ち上げた。それに対してキリスト教団体が抗議をすると、改めて会見で「(仏教では)死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか」などと述べて撤回を拒否し、十二月にも同趣旨の発言を繰り返した。

ちょっと意外なことだが、日本の政治家はしばしば重要な場面で日本の宗教に拠(よ)りどころを求めた発言をしている。中曽根康弘首相(当時)は、国会の施政方針演説で「仏教思想」の「山川草木悉皆(しっかい)成仏」を持ち上げた。森喜朗首相(同)は、日本が「天皇を中心としている神の国」と発言して、批判を浴びた。小泉純一郎首相(同)は、靖国参拝に際して、「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏(神)様になる」などと、その宗教観を披露した。

そのような発言に対して政治的な観点から批判がなされることがあっても、それらが日本の宗教を正しく理解しているかという肝腎(かんじん)の点に関しては、ほとんど検討されることがなかった。ところが、実はこれらの発言は、いずれも日本の宗教を誤解している。「山川草木悉皆成仏」という言葉は古典に見えない新造語で、正しくは「草木国土悉皆成仏」でなければならない。日本が「天皇を中心としている神の国」と考えられたのは明治の国家神道によるもので、それ以前には一般的ではなかった。人が死んで神となるのは、古くは菅原道真のように、恨みを呑(の)んで死んでいった人だけで、一般の人が神となれるわけではなかった。

それでは、小沢発言はどうであろうか。それが日本では少数者のキリスト教徒への配慮を欠くという批判や、日本の仏教や神道も、キリシタン弾圧や国家神道に見られるように寛容ではないという批判は随分見かけた。確かにそのような批判はもっともなことではある。しかし、小泉発言にも通ずる「死ねば皆、仏様」という理解も実は問題があることは、あまり注意されていない。

そもそも日本以外の仏教では、仏は特別な存在であるから、誰でも死んだら仏様になるなどということはありえない。それ故、それを仏教の一般的な特徴とすることはできない。日本でも、そのような観念が広く普及したのは近世頃からで、決して古いことではない。近世以後でも、もう一方には悪いことをすれば地獄に堕(お)ちるという観念があり、それが道徳的な歯止めとなっていた。

確かに、誰でも仏となる可能性を持っているという「仏性」の観念は、最澄以後、日本仏教の共通の基盤となった。しかし、それさえも広く受け入れられたのは東アジアの仏教だけであり、東南アジアやチベットの仏教では認められていない。日本人は、ともすれば仏教というと何でもありのルーズな宗教のように考えがちだが、決してそうではない。誤解の上に立った自国賛美はきわめて危険である。

(すえき・ふみひこ 仏教学者)
 


いかがでしたでしょうか。どんなご感想をお持ちになられたでしょうか。こういう内容について話題にされたというのはとてもいいことなのですが、その先が書いてないですね。死ねばみんな仏様、というのが誤解なら、では死んだらどうなるのかということが書かれていませんね。やはり仏教本来の知識、世界の仏教徒の常識についてきちんと触れなくてはいけないのではないかと思います。死んでも終わりではない、その行いによって六道に輪廻(りんね)するということを書かなくてはいけないのではないかと私は思います。

それから、小沢氏の話に関連すれば、仏教だけが平和な教えだということ、その通り(國分寺だより第二十六号七ページ参照)なんですから、自信を持って仏教学者ならきちんと言って欲しい、そう思います。

また、冒頭で小沢氏が高野山に訪れたこと自体が異例ともありますが、昔は政治家がお寺神社に参るのは当たり前のことでした。特に、今回の訪問はこの後高野山の松長管長猊下がダボス会議に招待されていることもあっての訪問であったのです。

輪廻ということ

今日は、そこで、死ということについて、縁起でもないと言わずに考えていきたいと思います。生きている限り死から逃れられないのですし、お釈迦様も生老病死を見つめよと言われています。ところで、皆さんは死んだらみんな仏様だと思っておいででしたか。それとも、やっぱりそんなうまい話あるはずないと思っておられたでしょうか。

数年前に國分寺にミャンマーから仏教徒が来たんです。そのとき丁度お話会があり、檀信徒に何か一言お話をと言ったとき、このことを言われました。 何も打ち合わせしたわけでもなかったのに、「私たちは死んで終わりではない、行かなくてはならない来世(らいせ)がある。行いによって地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に行く。人間に生まれてもいろいろなところがある。だから沢山功徳を積んで瞑想などして心を清らかにすることが私たち仏教徒の勤めです」と話されました。

その人生の行いによって、つまり業に応じて輪廻する。業には善業も悪業もあるわけですが、私は坊さんになるとき、先輩のお坊さんからあなたは業が深いんだねと言われました。善悪の業があると知らない人には嫌みに聞こえることなのでしょうが。その業の集約されたものとして死ぬ瞬間の心があり、そのときの心に応じて死後ふさわしい来世に転生すると言います。

実は輪廻を肯定して為していること

この輪廻ということは皆さん普段余り意識されていないものかもしれません。ですが、実はそのことを肯定してなされていることが結構あるのです。

もう二、三年前のことになりますか、あの『千の風になって』が流行ったとき、檀家のおばあちゃんが来られて、「あの歌詞はあれでいいんですか、お墓に亡くなった人がいなくていいんですか」と聞きに来られました。私は、「いいんじゃないですか」とそのときはお答えして、お話会にお越しの方でしたので、その次の回にじっくりとお話しました。

亡くなった人がお墓にいるというのは、この世に未練を残して来世に行けない浮遊霊、地縛霊ということになりますよと。

体と心が一つで私たちは生きていますが、死ぬと五時間後に身体と心は分離して、お葬式の後、体は火葬してお骨になり、四十九日の法事の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だから、より良いところへ逝ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけですね。そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変われるなら、身籠もったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するんですよと話しました。ですから、皆さん当たり前のように四十九日の法事をしますが、それは輪廻ということを前提に特別に大事に為されていることなのです。

また、たとえば、お経の前に唱える開経偈というのがありますね、「百千万劫難遭遇」というところの「劫」とはインドの言葉でカルパといい、とてつもない長い、永遠にも近い時間を言うわけですが、私たちはそれだけ前からずっと時間を掛けて、やっとこの経文に出会ったという意味ですね。なぜ自分がそれだけの長い時間を過ごしてきたと言えるのかというと、それはずっと無始より輪廻してきているからということなんです。たった一度の人生というわけではないのです。私たちは輪廻して輪廻してきて、やっと今人間として生まれ仏教に出会い、ここにこの経文にまみえられたという感激を言うわけです。知らぬ間に皆さんそうお唱えになっているのです。

また、身近な例では、皆さんの家の仏壇。古いものなら、下と上が広くなって段々に中間が少し細くなっていませんか。七つないし十くらい段々に作られていますが、これは何かというと、六道、それにその上の仏界を表しているのです。下の段から地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、その上に仏界。古い型の仏壇は丁度人界の部分が仏壇の開放部になっています。だから昔の人は、江戸時代くらいまでの人たちはみんな六道に輪廻するという、そんな世界観を共有していた、理解していたということができるのです。

この中には真宗の門徒さんもおられると思いますが、念仏、何のためにされるかと言えば、地獄ではなく極楽世界に往生したいからということですね、単純には。死んでからいく世界、来世に極楽世界に転生する、それは紛れもなく、輪廻して天界に行くことを意味しています。仏界ではない。仏界に行くには今生でお釈迦様のように悟らないと行けない。だから輪廻するというこの考え方のもとに往生、極楽世界、ないし念仏の教えがあるんです。

平安時代中期から盛んに浄土思想が蔓延します。貴族がこぞって立派な阿弥陀堂を建てる。宇治の平等院とか。藤原道長さんなどは、丈六の阿弥陀さんを九体並べて、その前に北枕で西を向いて臥し、念仏を沢山の坊さんに唱えさせながら亡くなっていきますね。六道に輪廻するから念仏するということになるのです。

輪廻とは希望である

あんまり昔のことばかり言っていても仕方ありませんが。たとえば、数年前ノーベル平和賞を授賞されたチベット仏教の指導者ダライラマ法王などは、来日した講演会の際に、「私は仏教徒ですから来世を信じます。そしていつまでも希望を持っています」と言われています。チベットの自治権を巡って中国ともめたままですが、希望を持っている、それは来世できっと果たせるだろうからというのです。

ダライラマという法王の位は世襲ではなく、死後生まれ変わりの少年を捜して、いろいろな試験をしてクリアしたら承認されて地位を継ぐことになっていますね。だから自分はまた来世で違う体をもらって生まれ変われるからということです。

でも、それはダライラマさんが特別ということではなく、私たちも同じです。来世がある。だから、今生でかなわないことでも手放すことはない、死ぬまでちゃんと出来るんだと信じていることが大切です。異常な欲をかいたり恨みを晴らすというような悪い内容ではなくですね。

ですから、年取ったからと夢や希望、願いをあきらめることはない。輪廻するというのはだから、もう死ぬからとか、死が近いからと言って、変にジタバタせずに冷静に信じていられる。もちろん今のこの自分が目的を達成するというわけではありませんが、いつか出来ると信じられる。そういうありがたい教えでもあります。

不平等な世の中・生まれの違い

で、また、この輪廻ということを信じると、いろいろなことがきちんと説明できます。たとえばこの世の中はとてつもなく不平等です。皆さんあまり疑問に思わないのですが、生まれや生活環境、全く違います。持ち合わせた才能や性格、ものの好き嫌いまで。日本国内なら何とかこんなものかと思えますが、世界に目を転じるとものすごいことになっています。だから自爆テロなどという惨事も起こるのかもしれませんが。

それはなぜなのか。それは、輪廻ということを前提に考えるとよく分かります。それは、前世やもっと前の過去世の因縁、業によるのだと説明できます。これを自業自得(じごうじとく)、因果応報(いんがおうほう)と言います。

ですが、たとえば過酷な人生に見えるような境遇で生まれてきても、だからといって過去世が悪かったと一概に言えるものではありません。わざとそのような過酷な境遇を選択して、心がものすごく早く成長して、その次の来世では悟りに近いところに行くのかもしれない。五体不満足の乙武さんなんか見ていますと、本当にそう思えます。

逆にたとえ恵まれた環境に生まれたとしても、それをうまく使えずに功徳を使い果たすだけで堕落した人生を送ってしまったら、その次の世では地獄や餓鬼の世界に行くかもしれない。

こんなことを言うと心配なさる方もあるかもしれませんが、今こうして仏教の話に注目して関心を持って聞いて下さっている皆さんは、それだけで、ものすごく安心していい人生を歩んでおられると思います。つづく (全)
 


大法輪七月号
特集「死についての話」
第二部「仏教と死」に掲載

『キサーゴータミーへの教え』

お釈迦様のおられた時代、コーサラ国の都サーヴァッティに、ゴータミーという貧者の娘がいた。痩せていたのでキサー(痩せた)ゴータミーと呼ばれた。ある家に嫁ぎ一子を儲けたが、その子が一人で歩きはじめた頃、病のために亡くなった。彼女はその子を抱き町にさまよい出ると、「この子に薬を下さい」と家々を乞い歩いた。ある人がその哀れな姿に同情して、「お釈迦様なら、その薬をご存知かもしれない」と教えてくれた。早速僧院を訪ね、礼拝して子の薬を乞うと、「町の端から家ごとに回り、一人も死者を出したことのない家から一つかみの白芥子をもらって来るがよい」とお釈迦様は教えられた。彼女は言われたとおりに家々を回るが、どの家にも家族の誰かが亡くなり、死者のない家など一軒もなかった。彼女は我が子だけが死んだと思っていたのに、かえって死者の方が生きている人間より多かった。この世は無常であり、生まれた者は必ず死ぬべきであることことを自ら悟った。

ゴータミーは町はずれの森に子を埋葬すると、僧院に帰り、お釈迦様を訪ね、教えを請うた。お釈迦様は、「死は生きとし生けるもの誰にもやってくる。死は人の欲望が満たされないうちに、洪水があたかも眠っている村を流すように地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの海に押し流すのだ」。彼女は、この説法により初歩の悟りを得て出家を願い、大戒を受け尼僧となった。

彼女はある日一夜布薩堂(ふさつどう)で、燈火を点じ瞑想していると、明滅する燈火を見ながら、人の世の営みとは煩悩という炎を燃やし、それを生きる栄養としながら生死輪廻を繰り返していると明らかに観て、一切の煩悩の火を吹き消し、最高の悟りを得たという。お釈迦様から最も優れた尼僧の一人と賞賛され、ボロ布による袈裟を終生纏っていたことから麁衣(そえ)第一と言われる。

キサーゴータミーは、大切な子供を失うことで仏縁を得ることが出来た。お釈迦様は誰も死んだことのない家から白芥子をもらえという方便を用いられて、自ら悟らしめた。身近な人の死は深い悲しみをもたらすが、それは真理に目覚める契機でもあると言えよう。

『仏典に説かれる天人の死に方 五衰』

数年前、ミャンマーから仏教徒が来訪した。お話会の折に、檀信徒に何かお話しをと言ったとき、「私たちは死んで終わりではない、死んでも次に行く来世がある。来世は生きてきた違いによって地獄や餓鬼、畜生の世界に行くかもしれないし、修羅の世界に行くかもしれない。人間に生まれても様々な違いがあるし、天界に行くこともできる。だから沢山功徳を積んで、瞑想したりして心を清らかにする生活こそ私たち仏教徒の勤めなのだと思う」と話された。

仏教徒は古来、生きとし生けるものは皆その行いにより死後五道ないし六道に輪廻すると信じてきた。その最上部に天界がある。天界は人間世界よりもはるかにまさった幸福な快楽の多い境涯ではあるけれども、苦しみがないため生死輪廻の苦界からの解脱を願うことなく、功徳を使い果たすだけの世界でもある。

たとえば、?利天(とうりてん)の天人の一日は人間界の百年に相当し、寿は一千年と言われ、途方もなく長い時間を過ごす。しかし永遠ではないから、いずれは天界から退く時が来る。そしてその天人が、いざ死ぬというときには五種の衰亡の相が現れるという。これを「天人五衰」といい、出典によって多少の違いはあるが、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の『往生要集』には、『六波羅蜜経』を参照し、?利天の主宰者である帝釈天の世界において、@頭上の飾りの花がしぼみ、A天衣が汚れ、B腋に汗が流れ、C目がしばしば眩み、D天の王宮にいても楽しめなくなる、とある。

そして、今まで共に戯れていた仲間や異性は去っていき、失望の中で死んでいく。その天人が死ぬときの大苦悩に比べたら地獄の苦毒も十六分の一にも及ばないと、『正法念処経』の偈を引用し述べている。

私たちは、漫然と死後極楽世界に行くことを願いがちではないだろうか。しかし、たとえ快楽な世界に長く悠々したとしても、いずれは五衰の苦しみに遭い下層の世界に転落する憂き目にあう。解脱しない限り輪廻の境涯を離れることはできない。その観点からすれば、地獄の底での苦しみも天人の生活も変わりがない。やはり私たちの目標は解脱であり、そのための修行を始められる人間界にある素晴らしさを知らねばならないのであろう。

『仏教と火葬』

お釈迦様がご入滅になると、その遺体はクシナガラに住むマッラ族の人々によって、歌舞音曲、花輪、妙香によって六日間供養された。そして、七日目に荼毘(火葬)するためマクタバンダナというマッラ族の廟へ、町の中心を通り運ばれた。葬儀や火葬は不浄なものと考えられ、町外れで行われた当時のインドでは、これは異例のことであった。

遺体は転輪王の如くに丁寧に、立派な棺に収めて幾重にも囲み、栴檀(せんだん)などの香木によって火葬薪が用意された。そして、五百人の比丘僧団と共に第一の長老・マハーカッサパが遠方より駆けつけ、お釈迦様の遺体を右回りに三度まわり礼拝すると自然に火葬の薪が燃え上がったという。不浄な遺体には左回りになされたインドの伝統に則ることなく、生前同様の仕方で尊敬、尊重、敬愛の意を表した。

そして、お釈迦様の遺身舎利は、八等分され周辺部族の長が各々舎利塔を建て奉祀。河や池に投棄されたインドの慣習によらず、後々まで供養崇拝の対象とされた。

日本では、文武天皇四年(七〇〇)法相宗(ほっそうしゅう)の祖道昭(どうしょう)が初めて火葬されたと『続日本紀』に記されているが、実際には六世紀後半頃から火葬が行われたと言われる。天皇としては、持統天皇が道昭の三年後に初めて火葬に付され、次第に貴族の間でも火葬が行われるようになった。持統天皇以後、例外もあるがほぼ江戸時代前期まで天皇は火葬に付された。そして、天皇・皇后のお墓である陵(みささぎ)はその大半が仏教式の墓碑や塔を建て埋葬された。

民衆の間では、それ以前の葬法、路傍に放置する野捨てと言われる風葬、または水葬、土葬が主で、人々は腐乱していく死体に恐怖して死を穢れと感じた。そこで、道昭の弟子行基(ぎょうき)が火葬場を併設した四十九の寺院を畿内に建てて、仏教による葬送を人々に勧めていった。平安時代中期頃からは、葬送に専門的に携わる三昧聖(さんまいひじり)たちが遺棄された遺体をも仏の如く丁重に火葬して埋葬し、次第にそれが畿内から全国に広まっていったという。

火葬は遺体をすみやかに白骨化することで、恐れや穢れを抱くことなく、人の死を清浄なものとして弔い供養することを可能にさせた葬法であると言えよう。

『死を見つめる修行』

お釈迦様は四門出遊(しもんしつゆう)の物語に語られるように、他人の老い、病み、死にゆく姿を見て我が身に引き当てて悩み、深く世を厭う心が生じ出家なされた。

そして、成道(じょうどう)後の最初の説法において、かつて苦行を共にした五人の修行者に、四聖諦(ししょうたい)という四つの聖なる真理を説かれた。それは、自分自身の今をどう認識しいかに生きるべきかを説く実践の体系であるが、その第一(苦聖諦)に、生老病死をはじめとする苦しみの現実を直視せよと教えられている。私たちの周りにあるすべてのものが、自分自身ももちろん含め、移ろい変わりゆく、無常なるものである、生滅変化を繰り返している、この現実のありのままの姿を知るべきであると教えられた。

そして当時、多くの比丘が死体置き場で瞑想し、病におかされ、不潔で、腐って悪臭を放つ死体を観察しつつ、肉体に対する愛欲を克服していかれた。

後にこれは不浄観と言われ、「九相観」または「十不浄」としてまとめられていく。死体が次第に朽ち変化していく様子を、九ないし十の段階に応じて観察していくのである。すなわち、@屍体の皮膚が膨張し、A青く膿んできて、B膿がながれ、C獣に食われ、D食い散らかされ、E散乱し、F血が流れ散り、Gウジが這い回り、H骸骨となる、それぞれの様子を克明に観察し心にとどめ瞑想する。自他の肉体への執着を断って心が寂静(じゃくじょう)となり、生死輪廻の苦界から脱したいという強い思いが生じ、禅定に至るという。

そして、輪廻の因となる生存への執着を断ち切るために、自らの死について観念する「死随念(しずいねん)」という瞑想法がある。お釈迦様が我が身に引き当てて他者の老病死を見られたように、他人の死に接するとき、そこから悲しみや喜び、恐れを抱くのではなしに、また人ごととせずに、自分の身にも死が起こる、寿命が尽きる、死、死のみがあると自分の死に思いをいたす。瞬間瞬間老い、死に向かいつつあることに気づき、その現実を冷静に受け入れる心を養うのである。悟りに逆行する不益なことに心が向かうことなく、いつ死が訪れても戦慄することなく、解脱に至らなくとも死後は天界に生まれると教えられている。

『臨終行儀』

平安時代、栄華を極めた藤原道長は、九体の丈六阿弥陀如来像の前に北枕で西向きに臥し、仏の御手に結ばれた五色の糸を手に大勢の僧侶による念仏の中、六十二才の生涯を閉じた。

道長は、源信の著した『往生要集』にある「臨終行儀」にならって他界したと言われる。「臨終行儀」とは、人が臨終に際し極楽往生を遂げるための念仏の作法である。臨終時の最後の一声の念仏が、正に浄土に生まれるか否かが決まる決定的な瞬間であると考えられた。そこで、源信は『往生要集』第六「別時念仏」中に、中国浄土教の祖師善導(ぜんどう)や道綽(どうしゃく)の説を交え懇切丁寧に「臨終行儀」を説いた。

まず、臨終に及ぼうとする人があれば、日常の衣類や日用品から愛着を起こすことのないように別の建物に移動させ、そこを無常院と呼ぶ。仏の立像(りゅうぞう)を安置して、仏像の左手から五色の細長い布を垂らし、病者の左手にその布を握らせ西向に寝かせる。仏像を西に向ける場合には病者はその後ろに寝かせ、東に向ける場合には病者はその前に寝かせて、香を焚き花を散らして荘厳する。

そして、まさに念仏の行者が臨終を迎えようとするときには、顔を西に向け、一心に阿弥陀仏を観じて、心にも口にも仏を念じ、絶えず「南無阿弥陀仏」を唱え、蓮華に乗って来迎(らいごう)する仏菩薩を思う。そして病者は、もしもまのあたりに来迎を見たなら看病人に説き、看病人はそれを記録しなくてはいけない。語ることが無ければ看病人はしばしばいかなる境界を見たかを問わねばならない。もし罪の報いを受けて苦しむ姿を見たなら、そばの人ともどもに念仏して懺悔し、必ず罪を滅しなければならないという。

臨終に際して正しく念仏する心が定まることを臨終正念(りんじゅうしょうねん)と言い、眼前に蓮華の台(うてな)に乗る仏や諸菩薩が来迎して浄土へと導かれるけれども、心乱れたならば鬼神が騒ぎ地獄餓鬼畜生に転生してしまう。そのため、苦しみが襲い来る最後の瞬間であっても念仏する信心が堅固になるよう、日頃の念仏の習慣が大事であるとされた。そして、同行の仲間三人五人とあらかじめ約束し、命終の時に互いに励まし合い名号を唱え、極楽に生まれんことを願い、一心に念仏を成就せよと教えている。 (全)
 


           
 常用経典の仏教私釈D 
 やさしい理趣経の話
            


第四段の概説

「ふぁあきゃあふぁんとくしーせいせいせいはっせいじょらい・・・」と第四段が始まる。ここに「得自性清浄(とくしせいせいせい)法性如来(はっせいじょらい)」とあるのは、教主大日如来が、この世の中を自在に観察し、すべての物事の本質はみな清らかなものだと照らし観る如来に転じた姿。つまりこの世を自在にご覧になる観自在菩薩と同体とされる阿弥陀如来となって登場する。

第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第四段では、その中のB清らかな目で世の中を観る智慧とはいかなるものかを開示している。

第三段では、貪瞋痴の三毒に関して、小さな自分という、とらわれた分別からの開放を説いた。それによってこの現実世界が広大なる清浄世界であると知られる(大円鏡智(だいえんきょうち))と、自(おの)ずからものの見方も清浄になる。

そこで、この第四段では、「一切法平等観の自在の智印が出生する」とあるように、どんなものも、それぞれに異なり、その違いを如実に観察する。すると、各々に尊く等しく価値あるものと見出される。このように、阿弥陀如来の眼差しで、あらゆるものが悉く等しく清らかな価値あるものと観察する智慧(妙観察智(みょうかんざっち))を、ここに明らかにしようというのである。

たとえば、ただやっかいなものと思いがちな落ち葉も朽ちて土壌となり、動物の排泄物も肥やしとなって作物を生長させる。私たちの心に霧が掛かっているかのように存在する欲や怒りや愚かしい思いも、自分というとらわれた思いがなくなれば、すべてのものを利する智慧となって輝き出す。

まるで波打つ湖面が静まると湖底まできれいに見通せるように、すべてのものにそのものの本来の価値を見出すならば、みなそれぞれが平等に清らかに光り輝いていることが分かる、その清浄なる見方でものを観る教えをここに説くと、簡潔にこの段の趣旨を説明している。

ものの見方を清浄にする

そして、「そーいーせーかんいっせいよくせいせいこー」と教えが展開されていく。はじめに、いわゆる世間のすべての欲が本来清らかなものであると言う。清らかというのは、既に何度か述べているとおり、自他の対立を越えたものであるということ。意識的に自分と他の境をなくしていくと、波のない湖底を見通せるようにそのものの本質が顕現する。

人々の心を汚し、不幸に陥れ、争いの原因ともなるような欲や怒りの心も、その心が生じたとき、一瞬にしてその心に気づき、全体として一つなのだという清らかな心で捉え直していくならば、どんなに醜いと思われる欲の心も、純粋な心のエネルギーとして、命を育み向上させていく力として存在している。

ダライラマ法王は日本人社会学者上田紀行氏との対談(『ダライ・ラマとの対話』講談社文庫)の中で、偏見に基づいた欲望はなくすべきだが、利他の心、覚りを求める心など価値ある良き欲望は滅すべきではないと述べられている。自分のための、偏見に基づいた欲の心を利他や覚りを求める欲へと転換させることで、良い欲の心として生かされていく。

またダライラマ法王は、怒りについても、愛情や慈悲の心が存在していて怒りが生まれる場合は相手を害するような悪い動機はなく、社会の不正を正していこうというような有益な怒りであるとも述べられている。

欲の心がすべてのものを向上させる、全体が良くあることを願う利他の力となるならば、そのような欲の心が満たされずに発する怒りの心は、世の中の不公平な不正な状態に対する怒りとなり、怒りの心もすべてのものが良くあるようにと働きかける力となるであろう。

そのような自他の区別をつけないで欲や怒りの心を捉えてみると、それら煩悩にとらわれ愚かしく頑な心も、それによって引き起こされる様々な罪業も、無始なる輪廻世界での行為と捉えるならば、本来はそれぞれに純粋な心に導かれるべき行いと捉えることが出来る。

だから、すべてのものも、生きとし生けるものも、純粋なる心に向かいつつある、清らかな存在である。そうした清らかな存在である人々のすべての知識も、また覚りの智慧も、一切衆生を清らかな世界に導く教えとなり、すべての心も存在も清浄なるものだというのである。

第四段の功徳

次に、この教えを聞く菩薩衆を代表する金剛手菩薩に呼びかけ、この第四段の功徳が説かれる。

「貪る人々の中にありて、貪なく、いと楽しく生きん。貪る人々の間にありて、貪なく暮らさん」(法句経一九九)と、お釈迦様は教えられているが、ここでは、ものの見方を清浄にするならば、そのような世間にあっても完全なる覚りを証得すると説く。

つまり、その教えを聞き、それを信じ、その智慧を体得すべく努力するならば、たとえ世間の中にあって、欲にまとわれ怒りや愚痴の心が生じたとしても、蓮華が泥の中にあってその周りの泥にけがされること無く清らかな花を咲かせるように、それら諸悪に染まることなく、すみやかに、無上なる正しい覚りに至ることが出来るというのである。

観自在菩薩の心真言

そして最後に、改めて、世尊大日如来が阿弥陀如来から娑婆世界での姿である観自在菩薩に変化(へんげ)せられて、この世の中のあらわれをすべて清らかなものと照らし観る瞑想に入られる。

そして、その教えを自らの姿に明らかに示そうとして、その法悦を顔面に顕(あらわ)して微笑し、左の手に蓮華を持ち、右の手をもってそれを開かせようとの勢いをなす。

一切の衆生の様々な異なる姿そのものに各々の価値を観察し、煩悩の中にあっても汚染されることなく、みな清らかなものであるとの心を説き示し、その心髄を表す一字真言「キリーク」を唱えた。          (全)
 


四国遍路行記M 
大寶寺から岩屋寺へ

(平成二年三月から五月)

一回目の遍路の時は、ゆっくりと大寶寺での読経を済ませ、昼過ぎに次の四五番岩屋寺へ向けて歩く。距離は八キロとある。夕方までには十分な時間があると思って、のんきに歩き出した。門前の来た道に出ると、その前からすぐに遍路道は山道に入るように矢印がある。迷わず獣道のような細い道を上がる。アスファルトの道よりも足には心地良い。車も横を通らないので気ままに歩けるのもありがたい。

明るいところに出ると、「まむしに注意!」という看板があった。山と言うよりも、長く続く丘の中腹を通る道が続く。ハイキングコースのような快適な道だ。右側には何か福祉施設のような大きな建物が見える。ずっとその道を進んでいくと、車道に出た。住吉神社や久万(くま)高原ふるさと旅行村という施設の看板が目にはいる。それからまた山道にはいる。

今度は鬱蒼とした木々の間に大きな岩が散在する道が続いていた。登ったり降りたりを繰り返していたら、岩の裂け目の上に鉄の鎖で上に登れるように設えられた行場があった。これは弘法大師の行場として知られる「逼割(せりわり)禅定(ぜんじょう)」と言い、岩の頂には白山権現(はくさんごんげん)が祀られている。

そこからさらに三百メートルほど下ると、岩屋寺の門があり、大師堂が百メートルはあろうかという大岩壁の下に建っているのが見えてくる。その前を通り、隣に建つ本堂へ。

岩屋寺のあるこの山中には、昔法華仙人と言われる神通力を持つ女人が住んでいたそうだ。弘仁六年(八一五)に弘法大師が訪れると、仙人は大師に帰依し、この地を献じて大往生を遂げたという。

大師は不動明王像を木と石で刻み、木像を本堂の本尊にして、石像は山の岩石に封じ山全体を本尊にしたと伝承される。この岩山にかかる雲を海に見立てて、海岸山岩屋寺と名付けられた。

岩壁にくくりつけられたような本堂前で理趣経を唱え、大師堂に参る。よく見ると大師堂はどことなく変わっている。向拝(こうはい)の柱が二本一組でその上部にはバラの花から綱が下がっているし、手すりの柱には優勝カップのような飾りがあり、四隅の柱には波形の装飾がある。

後から調べたら、焼失後大正九年に再建する際に、地元出身で国会議事堂の建築技師を務めた河口庄一氏が手がけたものと分かった。和風の骨格の中に西洋のモチーフがちりばめられた、他に例を見ない稀有な文化財と言えるようだ。国の重文に最近指定されている。

本堂の下から弘法大師が彫った霊水が沸いており、その水をすすっていると事務所から声を掛けられた。「歩いてお越しなさったのでしょう。通夜堂がありますよ」。こんなことは初めてだった。札所の方からこんなお声を掛けて下さるとは。

本堂の下の段に古ぼけたモルタルの大きな通夜堂があった。中は六畳ほどの部屋が廊下づたいに並ぶ二階建ての建物だった。ありがたいことではあるが、ただ泊まるだけのお接待なので食べるものに困った。聞くと参道下の店がまだ開いているでしょう、とのことだった。

早速、バスで巡る遍路さんにとって八十八カ所のうちで最も難所と言われる所以の、幾重にも石段が続く岩屋寺の参道を往復することになった。だんだんと夕刻に近づき、暗くなりかかっていた。下に降りていくと、土産物屋があり、直瀬川に架かる橋を渡る。小椋商店と書かれた、よろず屋に入る。

何かご飯ものをと探していると、店の奥さんが出てこられて、「岩屋寺にお泊まりになんなさるのかい、じゃ、ちょっとお待ちなさい」

そんなことを言われたかと思うと奥に入り、しばらくすると大きなパックに沢山のご飯を詰めておかずまで沢山のせて、「お接待よ」と下さった。ありがたく頂戴する。

石段を登り、通夜堂に向かう。小さなガスストーブを付けて温まりながらご飯を食べる。混ぜご飯にタケノコ、里芋、厚揚げ。おいしい。ご飯を食べながら、しみじみご恩を頂いていることを思う。食べていたら、お寺の奥さんが、饅頭とリンゴと夏みかんを持ってきて下さった。ありがたい奥さんだと思った。

この日は山越えの道が続いたせいか、膝がガクガクする。二三日前から右の膝の外側を押すと痛みが走る。左の草鞋の後ろ側が切れたので履き替えることにした。気になりつつ歩いていたのでマメが出来るかと思われたが大丈夫だったようだ。大きな通夜堂にその日はたった一人、風呂もないポットントイレだけの宿で横になった。                 (全)
 


大覚寺写経
 奉納の勧め

お釈迦様入滅後、弟子たちは生前に説かれた教えが散逸することを恐れ、経文の編纂(へんさん)会議を開きました。五百人もの弟子たちが編集作業に立ち会ったため五百結集とも言われます。この膨大な量の経典を伝承するために、彼らは各パートごとに分かれて数人ずつで暗唱し記憶保持して、弟子らに伝えていったと言われています。

こうして伝えられた経文が初めて文字に記録されるのはその四百年も後のこと。西暦紀元前一世紀頃、スリランカでシュロの葉に鉄筆で文字を刻して保存され、また、広く流布(るふ)することが可能となりました。

それらはシルクロードを通って中国にも運ばれていきました。そして中国では、国家事業として経典の大規模な翻訳が行われます。そして、特に隋唐時代には、沢山の写経生らによって一字一句正確に写経がなされ、多くの漢訳経典が東アジアの国々に伝えられたのでした。

我が国では、奈良時代の天平年間に聖武天皇が仏教に厚く帰依されたこともあり、写経が盛んとなります。官立の写経所が設けられ、専門の写経生たちによって、国家事業としての写経が行われました。

國分寺の本山である大覚寺の基(もとい)をお造りになられた嵯峨天皇は、弘仁九年の全国的な疫病の流行に心痛められ、「般若心経」を紺紙に金字で浄書なされたところ、たちまちに効験現れ疫病が収まったと言われます。このとき天皇がお書きになられた『宸翰(しんかん)般若心経』は、現在も大覚寺心経殿に伝えられています。

これにより大覚寺は、今日も心経写経の本山として、多くの信徒が写経に訪れ、また、檀信徒は特製の用紙に写経して檀那寺で一括奉納することになっています。

写経は、経文の文字を一字一字書き写すことで心鎮まり、また経典を弘伝流布することで、普遍的な人の道を指し示してくれる仏教によって多くの人々を幸福に導く功徳にまみえる浄行であります。

國分寺では、先に行基菩薩石像造立にあたり沢山の皆様から写経が奉納されましたが、これを機に、本年より毎月第二金曜日午後二時より、写経会を開くことにいたしました。是非沢山の檀信徒の皆様が来山され、写経下さいますことを念願いたします。(全)
 


《おたより》

『回想法で脳トレ』

竹馬の友のひとりH君が、最近市内の老人ホームに入所していると聞いた。彼は成人後、故郷を出て関西を転々とし、最近ふるさとに帰ってきたが、生家も家族もすでに無く、浦島太郎の心境で福祉施設の介護を受けているという。

彼に六十年ぶりに会いに行ったが、話そうにも共通の話題がない。気まずい時間が過ぎるばかりであった。数日後、私はふと思いついて、子供の頃の古い写真を探し出し、それを持ってまた話しに行った。

一緒に牛を飼った高屋川の河原。いたずらして叱られた鎮守の森。唯一残る小学校のケヤキなどの写真である。写真を一緒に見ながら話を始めた。すると彼の目が輝きだし、次から次へと話題が広がっていき、楽しい時間を過ごすことができた。その後、古い写真を見つけたらはがきにコピーして時々彼に送ることにしている。

認知症の予防や治療に、「回想法」という療法が効果的であると聞いたことがある。昔の写真、映像や道具などを利用して、高齢者が「懐かしいなあ」「楽しいなあ」といった記憶をよみがえらせることで、脳や心を活性化させ、認知症の予防や治療に役立ち、高齢者の生活の質の向上につながるとされる療法である。五十年ぐらい前にアメリカの精神科医バトラーが提唱した療法である。

過日、新聞に、「各地の博物館で、ほこりをかぶっていた民具や農具が、記憶を取り戻す道具として人気を呼び、高齢者福祉に活路を見出しつつある」という記事が載っていた。

博物館の収蔵品を老人福祉施設に貸し出し、物を手に思い出を語ることでお年寄りに元気になってもらおうという取り組みを始めているところもある。また、博物館の館内に昔の茶の間をイメージした空間を設け、収蔵品を生かした回想法を実践している館もあるという。

脳トレにひとつのヒントを得た思いである。          (B)

 


お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十六

『すべて悪しきことをなさず、
善きことを実践し、
自己の心をきよむること、
これ諸々の仏陀の教えなり。』
(法句経一八三)

仏教とは何か、端的にそれを表す偈文として、有名な一偈です。ここでの善悪とは、仏教徒の目標としての悟り、真理の獲得、解脱に資する行いかどうかということ。

他の人々や生き物と共に良くあるように、自分の物などと狭い考えにとらわれず他と分かち合い、快楽におぼれることなく。相手を思いやり優しく真実を語る。少欲知足を心がけ、誰にも慈しみの心で接して功徳を積み、この世の真実の姿を見据えていくこと。これが仏教徒としての善行でしょうか。

行いとは、身と口と心でなされることを言います。普通、心で何を考えても、別に害を及ぼさないと思いがちですが、心で悪いことをあれこれ思い考えると、心は穏やかではあり得ず、身体にも悪影響があるものです。そして何よりも悪い業として蓄積していきます。身で行うことは口で言うより行いがたく、心は口で言うよりも遙かに沢山の悪業を作り出すのです。ですから、自分の心を浄めること、そのことが仏の教えであると教えられているのです。

因みに漢訳では、

「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸佛教(ぜしょぶっきょう)」と訳されます。                  (全)
 



┌─────────────────────────
│ 平成二十三年度 國分寺年中行事
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
│ 土砂加持法会          四月三日
│ 四国八十八箇所巡拝(阿波)    五月十二〜十三日
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日
│ 高野山参拝         十月十四日
│ 四国八十八箇所巡拝(阿波土佐)  十一月八〜九日
│ 除夜の鐘 十二月三十一日
└─────────────────────────
 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 写経会    毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
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編集執筆 横山全雄
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