備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十三年盆月号]
第二十九号 備後國分寺だより 発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行
この世は無常である、とおっしゃられたのはお釈迦様である。この真理を本当に理解していれば、この危機的な状況もごく自然なこと、地球の自然の営みに起こるべくして起こったこととして受け取ることも出来るのかもしれない。 しかし、私たちはまったくこのことを自然のこと、当たり前のことと受けとることなど出来ない。何とか生き延びた方々は奇跡だった、運が良かったと思われるであろうし、本当にそのように思えるものであろう。かつて阪神大震災の折、ボランティアとして現地にあって、多くの被災した人たちの話を聞かせていただいた時、誰もがそう語られていた。 普通私たちは、今までの安定したこの状態がずっと続くものと思う。だから平穏に暮らしていけるのではあるけれども、ひとたび今回のように急激な変化を伴うと、突然すべてのことが急転直下、変化したと感じる。青天の霹靂(へきれき)、そう誰もが思ったであろう。 仏教では、何事も様々な原因、条件によってこの一瞬成り立っているに過ぎないと考える。私たち自身も、また私たちの立っている地面も本当はいつどうなるかも分からない。いま普通に暮らしている私たちにとっても、実は今という瞬間は奇跡的な一瞬なのであり、何事も移り変わる、常に変化しつつある一瞬の連続を私たちは生きている。 そう言われると、そんなことは当たり前だ、と思われるかもしれない。だが、おそらくそれは頭で理解しているに過ぎない。本当は無常ということを私たちは認めようとはしないし、受け入れたくはない。だから、ずっとこの安定した状態が続いて欲しいし、続くものと思って生きている。だからこそ、今回の地震は誰もが苦しみを伴う、青天の霹靂なのである。 この世は無常なるが故に苦である、ともお釈迦様はおっしゃられた。今私たちは、こうして、被災地の人たちとともにその苦しみを、レベルの違いこそあれ感じつつある。痛みを共感し、重苦しい毎日を過ごしている。無常なるが故にこの世は苦なりということを、正に私たちは学びつつある。そして、無常なるがゆえに、遅々として進まないように言われる復興もなされゆき、苦しみのどん底にあった人々の心も癒されていくであろう。 そして大切なことは、私たちも心構えとして、いざというときパニックや絶望せぬために、この世は無常なのだという真理を心の片隅に、頭の隅に留めておくことが必要であろう。そして一日一日を大切に生きることも。当然のことながら、私たちの日常も無常なのであるから・・・。 毎日、被災地での様子に心痛めながらも私たちの生活は進行していく。お彼岸があり、そしてお盆を迎え、また通常の仕事も当然のことながら進めていかねばならない。被災地の方々のために何か出来ることをと思いながらも、なかなか満足なことも出来ない。せめて毎朝の勤行には犠牲になられた方々に哀悼の意を込めて行じ続けて参りたいと思う。(ブログ・「住職のひとりごと」に三月十六日掲載した記事を抄録し、加筆しました)
「想定外」ということ それなのに、何故こうも簡単に想定外を口にするのか。それも皆その専門分野の権威ばかりである。そして、今頃になって想定外について様々な意見が発せられるようにもなってきたようだ。が、そもそも何故口々に想定外と語ってしまったのであろうか。 日本人は忌み言葉を嫌う。死や不浄など、あって欲しくないものには蓋をする。触れない。その言葉を口にするとそれが現実になるように思え、その言葉も嫌って口にしない。それこそ『千の風になって』が流行るまで、死そのことについて語るのはタブーであったように。受験生の前で、滑ったの落ちたのと言うことも嫌われてきた。 以前、ある浄土宗系のお寺さんと話をしていて、「地獄に行くような人は居ませんか」と尋ねたことがある。そのとき、そういうことを考えることも避けるべきだということを言われたと記憶している。考えなければそれが起こらないというものだろうかとその時思ったのだが、正に今回の震災の様々な場面でこのことが現実のこととなったように感じる。 想定外は、想定もしたくなかったのであり、想定するとあたかもそのことが現実となるような恐れの気持ちから、避けてしまったとは言えないだろうか。縁起でもない。悪いことを考えるとそれが起こる。起きて欲しくないから甘い想定をしてそれ以上については思考停止してしまう。だからこそ生ぬるい地震や津波の予測を設定して、防災対策が不備のまま今にいたり、緊急時にも後手後手の対応となってしまったのではないか。 もちろんそれなりに過去のデータから厳しく地震や津波を想定すれば、それだけの莫大な費用を要する設備設計のやり直しを迫られるであろう。余分な経費から利益が吹っ飛んでしまうということもあっただろう。様々な思惑の元に、長年推進されてきたものの根本が揺らぐということも考えられよう・・・。 イヤなことはなるべく考えずに、よいことだけ考えて努力する。そして、喉もと過ぎたら熱さを忘れ、何でもイヤなことは水に流す。そんな日本人の性質が決して悪いと言いたいのではない。それはとてもさわやかな印象を人々に与え、新しいことに向かってひたむきに努力するためには欠かせない長所とも言えよう。だからこそ、日本人はこれまでも度々過酷な災害や戦禍に見舞われながらも、そのつど復興し凄まじいばかりの発展を遂げてきたのだと言える。 そのことを『NEWSWEEK』(4/20号)の『日本人を襲う震災トラウマ』と題する評論の中で、ジョージ・ボナンノ、米コロンビア大学臨床心理学教授は、「人間は本質的に(危険や被害にあっても)再起力を持つが、なかでも日本人は飛び抜けて大きな再起力を持っているようだ」と語ってもいる。 そこには、考えることは現実となる、だから悪いことは考えない、良いことだけを考えてひたすら努力する、という日本人の美点が作用してもいるだろう。素晴らしい特性でもあろうかと思う。しかし、何事も善くも表れ、悪くも展開するのが現実だ。想定外と語られた多くの事々は、既に述べてきたようにおそらくそれが今回悪い方向に作用したのであろう。 そして、これからの復興においてはそれが善い方向に表れるべく、新たな未来に向けて発想を切り替え進むことが求められているのかもしれない。
しかし、こと防災や危機管理に関しては、努々(ゆめゆめ)甘い想定にとどまり、想定しなければ現実とならないなどと言わんばかりの発想は、この世の現実の前に何の役にも立たないことを肝に銘じるべきだろう。国民一人一人が今後は何事にも厳しい目で見定め、意思表示することが大切であることも忘れてはならない。(ブログ・「住職のひとりごと」に四月二一日掲載した記事に加筆しました)
大法輪平成二十三年六月号特集「これでわかるブッダ」に掲載 南方仏教とは、紀元前三世紀頃、アショーカ王の子マヒンダ長老が四人の比丘(びく)(出家僧)とともに仏教を伝えたスリランカから、ミャンマー、タイ、カンボジアなど東南アジア各国へ伝播した南伝仏教のことである。 その仏教は、ブッダ入滅後百年頃に起こった教団の根本分裂において、上座部と大衆部に分裂した際に、上座(長老)と言われた人たちの仏教である。ブッダがおられた時代からの伝統を重視し、正統派としての信念と誇りを持つ長老たちの教えであり、その教えを今日まで、彼ら南方仏教徒は頑なに守り伝えてきたという。
彼らにとってのブッダとは、紀元前六世紀にインド北部の釈迦族から出家し覚りを開かれたゴータマ・ブッダお一人である。(もちろん遠い過去に何度かブッダが出現されていたとするが、私たちに法を説かれたブッダはゴータマ・ブッダのみと考える) ところで、三宝(仏・法・僧)帰依は、仏教徒の条件と言われるが、それを表明する『三帰依文』の後に、彼らは『仏随念文』を唱える。それは、初期経典の中に度々登場するブッダを表現する決まり文句でもあり、比丘(びく)ばかりか在家信者にも唱えられる。
仏随念文は、『かの世尊(せそん)は、阿羅漢(あらかん)であり、正等覚者(しょうとうかくしゃ)であり、明行具足(みょうぎょうぐそく)者であり、善逝(ぜんぜい)であり、世間解(せけんげ)であり、無上士(むじょうし)であり、調御丈夫(ちょうごじょうぶ)であり、天人師であり、仏であり、世尊であります。』と和訳される。 では、南方仏教において、ブッダとはどのような人を言うのであろうか。この『仏随念文』にある、如来の十号とも言われる、これら十の徳目一つひとつを解明し明らかにしてみよう。
@ブッダとは阿羅漢である。まず、ブッダも当然のことながら阿羅漢であられる。四向四果(しこうしか)(初歩の覚りと言われる預流果(よるか)から最高の阿羅漢果までの四つの行果とそれに向かう四つの過程)という覚りの階梯の頂点阿羅漢果に覚った人である。
Aブッダとは正等覚者である。正等覚者とは、正しくよく覚った者との意。ブッダの教えを聞いて覚った他の阿羅漢とは違い、誰にも教えられずに自ら覚り、他をも覚らしめる覚者のこと。 Bブッダとは明行具足者である。明とは智慧であり、行とは行い、これら両方が良く具足したる人のこと。この世の中をありのままに観る智慧、自在に見たり聞いたり過去未来を知る智慧、一切の煩悩を断じる智慧が備わり、なおかつ日常の生活においても戒が自ずから守られ、無駄なく、悪を離れ、常に真理に目覚めているなど実践面でもきちんと完成している。 Cブッダとは善逝である。善逝とは、よく涅槃(一切の煩悩の火を吹き消した境地)に逝き尽き、もはや輪廻を繰り返さない解脱(げだつ)した人のこと。 Dブッダとは世間解である。世間、つまり一切衆生の世の中も、またその死後のことも、すべてを知り尽くしている人のこと。だからこそ、人々の苦しみの因を知悉し、性格機根に応じた教化が可能となる。 Eブッダとは無上士である。人としてこの上なき生き方を示し、最高の人格を完成させた人である。とくに真理を観る眼を持つが故にブッダは最勝なりと言われる。 Fブッダとは調御丈夫である。自らを成長させていける人間を調御する最高の馭者(ぎょしゃ)のこと。どんなに荒々しい馬でもよく飼い馴らす馭者の如くに、どんなに心乱した人でもその心を静めせしめ、高慢も汚れもない人に教え諭し導く人である。 Gブッダとは天人師である。天界の神々と人類すべての教師、すなわち三界の大導師との意。六道(衆生がその行いによって輪廻するという地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の世界)の中に住むすべての衆生を導く師である。 Hブッダとは仏である。仏の原意は、真理に目覚めた人という意。あまねく完全な最高の覚りを得た全知者であるということ。
Iブッダとは世尊である。世尊とは、尊敬すべき人、最高に崇められるべき尊格の意。すべての福徳をそなえ、すべてに卓越した威光があり、すべての苦から解放された人である。
南方の仏教徒にとってブッダとは、この『仏随念文』にあるように、誰にも教わることなく、私たちのこの世界ではじめて最高の覚りを得られた方であり、一切の煩悩を断じ、輪廻から解脱された。
彼ら仏教徒は、このような尊敬と報恩の気持ちから、ブッダに帰依礼拝するのだと言われる。 ブッダは弟子たちに、自らを別格とすることなく、同じ道にいそしむ同行(どうぎょう)、善友であると言われた。 ある時、めしいた弟子アヌルッダが衣のほころびを繕(つくろ)おうとして、「針に糸を通し功徳を積もうとする者はないか」とつぶやいた。そのとき、「私が功徳を積ましてもらおう」と手を差し出されたのはブッダその人であった。究極の覚りを得たブッダでさえ、徳を積むことに終わりはないと教えられたのである。 また、死の床に伏す比丘ヴァッカリが、最後の思い出にもう一度ブッダの御顔を仰ぎ御足を頂礼したいと願った。そのとき、その病床に歩みを進められたブッダは、「この年老いた身体を見ても何にもなりはしない。なんじはかく知らねばならない。法を見る者はわれを見る。われを見る者は法を見ると」。このように諭され、礼拝し救いを願うよりも、最期の瞬間まで覚りを求め、心を成長させよと教えられたのであった。
私たちは、ともすると超越的な力ある方にすがり、救われたい、善きところへ転生したいと願う。しかし、ブッダは、「私はただ道を教えるものである」と、その願いをはね除ける。それよりも、人として生まれたからには、徳を積むことを、一歩でも覚りに近づくことを、ブッダは私たちに願っておられる。ブッダは、何度生まれ変わってでも精進を重ねていこうとする仏教徒の理想像であり、目標なのである。 では、後にブッダとなる修行者ゴータマ・シッダッタは、どのような苦行をなさったのであろうか。初期の経典は次のように伝えている。 @心を制する苦行 A出息入息を止める苦行(止息禅) B断食の苦行
これらの苦行を成道までの六年の間に、過去未来、そして現在のいかなる修行者よりも急激に烈しく実践されたという。その厳しさは、既に「沙門ゴータマは死んでいる」と言われるほどであったというが、そうして徹底的に行うことで、苦行は煩悩を滅尽する覚りへの道ではないと確信するに至ったのである。 伝道開始間もなくの頃、ブッダはかつて苦行に励げんだウルヴェーラーに向かわれ、火を崇拝する結髪行者カッサパ三兄弟の庵(いおり)を訪ねた。そして、拝火堂に棲まう毒竜を神通力(じんつうりき)(超能力)で調伏(ちょうぶく)したという話は有名である。 がそのときブッダは、他にも沢山の奇跡を起こされている。神足通(じんそくつう)(自由に欲する所へ現れ得る能力)で遙か北部の土地に行き托鉢されたり、五百本の薪を一度に割ったり、燃えなかったそれらの薪に一どきに火をつけたり。大洪水が来てもブッダの周りはあらゆる方角に水を退け水に浸かることなく、船に乗って駆けつけたカッサパの所へ空を飛んで降り立つなど、三千五百もの奇跡を現されたという。 また、成道七年目には、ラージャガハ(王舎城)でビンビサーラ王との約束を果たすため、ブッダは三十三天界(帝釈天を主とする神々の住処)に昇られて、母上マーヤ王妃や神々に、三ヶ月間法を説かれた。ブッダは雨期の開ける満月の夜、四方に六色の光を放ちながら地上に降りてこられたという。 そして成道して十年ほどの頃、サーヴァッティ(舎衛城)で六師外道(ろくしげどう)が、ブッダに自分たち以上の神通力があるのを示せと要求した。そこで彼らを屈服させるために、ブッダはその時も様々な奇跡を現された。 国王や多くの人々が見守る中、ブッダは上空に浮遊し、身体から色とりどりの光を発して、頭上からは火を足からは水を噴きだす奇跡(双神変)、さらには無数の蓮華が現れ、そのどの蓮華にもブッダが座すという奇跡(千仏化現)を現された。 この他、サーヴァッティでブッダを殺そうと追いかける凶賊アングリマーラを神通力で改心させた話や、ブッダを害するため従兄弟のデーヴァダッタが放った狂象が、ブッダの威光と神通力の前に恭順となり、足を曲げて座った話などがよく知られている。
しかし、ブッダがこれら沢山の「神通の奇跡」を現されたのはひとえに法を説くためであり、正しい法を説きそれによって聞いた者の生き方が改まる「教誡の奇跡」こそが勝れているとされたのであった。 ニガンタは、結婚生活を経て三十歳で沙門となった。十二年の苦行の末大悟してジナ(勝者との意味で、ジャイナ教とはジナの教えのこと)となり、マハーヴィーラ(大雄)と名のる。 彼は、ブッダと同じ王族の出身であり、バラモン教の供儀や祭祀を否定し、宇宙の創造者としての神や絶対的原理を否認して、他の生命を尊重する意味から道徳を重視するなど、ジャイナ教は仏教と類似している点が多い。しかし、ブッダの中道説に対しては相対主義を、無我説に対しては要素の実在を、苦行否定に対して苦行主義を唱えるなど、教義面では大いに相違していた。 宇宙の要素を、霊魂・物質・運動の原理・静止の原理・空間に分け、これら五つの実体あるものによって私たちの世界は構成されるとした。運動、静止の原理さえも、物や心を動かしたり止める力をもった具体的な存在であり永遠の実体と捉えるのである。 そして、霊魂は上昇性を持つが、物質は下降性を有するとして、人は行為をなすとその業(ごう)によって微細な物質が霊魂に付着し束縛する。それにより霊魂の上昇性が妨げられ、輪廻の苦しみを繰り返す。そのため輪廻から解脱するには、苦行によって過去の古い業を滅ぼし、新しい業を防ぐ必要があると主張したのである。 出家者は、遊行生活の中で過酷に苦行をなし、仏教の五戒に似た五誓(不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有)の、特に不殺生や無所有を徹底することを説いた。そこで一糸まとわぬ裸形で過ごして菜食に徹し、さらに度々断食をして死に至ることまで称賛したのである。後には白衣を纏うことを許す白衣(びゃくえ)派が現れ、裸形派(らぎょうは)と分裂した。
一方在俗の信者は、生き物の命を大切にして道徳的な生活を送ると、死後神々の世界に達するとされた。在家者にも不殺生戒が厳命されるため、多くのジャイナ教徒が商業関係の職に従事している。インドの外に広まることなく、国内でも0.五%にも満たないジャイナ教徒ではあるが経済界を中心に大きな影響力を今も保持している。 《おたより》 今回の祭壇も中央に大型テレビのようなカラフルな遺影がどっかと置かれ、その上壇に本尊様の仏名を書いた小さな掛け軸が掛けてある。位牌はと探して見ると、「法号」と記した半紙の包みが添え物のように遺影のそばに置かれているだけ。告別式の祭壇は位牌が中心だと思っていたが、最近は写真中心に変わったのかなと思わせる。 その遺影も、「偲ぶ会」などでよく見かける遺影のように、若々しく、笑顔の横向きである。昔は静かな穏やかな表情の写真が選ばれていたが、最近は違う。表情の豊かな写真をよく見かける。そういえば、出棺で棺の蓋を開け最後のお別れをしている時、親族の若者がケータイでのぞき込むように写真を撮っていた。 また先日、友人が何を思ったか二枚の写真を持ってやってきた。そして、この写真のどちらかを僕の遺影にしてもらおうと思うのだがどちらがいいだろうか。実を言うと僕はこちらがいいと思うのだがどうだろうかと切り出す。何を言い出すかと戸惑いながら二枚の写真を比べて見た。一枚は、正面を向いた堅い表情で、生きているのか死んでいるのか分からないような顔。もう一方は、普段着でにっこりとリラックスした表情の写真。本人はこちらにしたいと言う。 私は迷わず堅い方がいいと言い切った。「なぜなら、会葬者はみなきちんと喪服を着て会葬しているではないか。その人々にきちんと応えるにはこの遺影でなくては。」とわけを言ってから互いに笑った。 遺影の良し悪しは別として、故人の遺影を中心に据えるのは主客転倒のように思えてならない。本来送るべき死者を、送りたくない、いつまでもこの世に引き留めておきたいという願望のあらわれであろうか。そう考えるのは考え過ぎなのかもしれない。(B)
国分寺は、天平十三年(七四一)に聖武天皇によって国分寺建立の詔(みことのり)が発せられて建立された。 しかし、その三十年ばかり前のこと、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国思想に基づき、天武天皇十四年に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられている。これにより、諸国への仏教の流通が計られ、ついで持統天皇八年、国分寺の詔に遡(さかのぼ)ること二十年の頃に、諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなる。
そして、国分寺の建立は、天平九年三月の詔で国毎に丈六釈迦如来像の造立が命ぜられたときに実質的には開始され、天平十三年二月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔が発布されるにいたる。
続日本紀巻十四にある「国分僧寺・尼寺建立の詔」の現代語訳を山形大学教授鈴木渉氏のホームページ「国分僧寺尼寺・全国の国分寺を巡る」(現在閉鎖中)より転載させていただく。 近年、稔(みの)りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。 【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。 そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするものである。 これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。 また国分僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶二十人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を十人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。 毎月八日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。』 聖武天皇は誠に心やさしき人柄であったと言う。自分の政治が悪いから牢獄が空にならないとも考えられた。都を巡視され、牢獄の近くを通った際に、そこからの悲哀こもる叫び声を聞かれて哀れに思い、囚人たちの罪状を問い質され、罰を軽減し衣服を与え更正できるようにしたと言われる。 だからこそ、即位後に続く干ばつ、飢饉、疫病の流行、地震が続く世に、それはひとえに自らの徳が薄いせいであると考えられたのであろう。 そして、一国を統治する者として、国土の疲弊と人々の苦しみに深く憂慮し、人智を越えた仏の力によって国の安泰を願った。仏に奉仕しお寺を造り、三宝の威光によって人々の幸せを願われたのであった。 こうして、国分寺は、聖武天皇の勅願により官立の寺院として、諸国に六十八ケ寺建立された。『国泰(やす)らかに人楽しみ、災除き福至る』と聖武天皇が詔勅に述べられたように、国民の幸せを祈念され、当時流行っていた疫病や戦乱から国民を守り、五穀豊穣の世となるようにと諸国に建立された。 天平十三年のこの詔によって、諸国国分寺の造営が開始されるが、天平十九年十一月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させたという。そして、向こう三年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかった。が、その後宝亀年間ころ、つまりその後三十年ほどの間には国分寺の多くが完成していたと見られている。 創建当初、国分寺は、寺域二町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔・食堂・経蔵・鐘楼・僧坊などの七堂伽藍があった。また、当初本尊は丈六の釈迦如来で、国分寺の正式名称は「金光明四天王護国の寺」と言った。
因みに、こうした国分寺の制に影響を与えた中国の制度としては、則天武后が六九〇年に天下に大雲寺経を頒(わか)ち諸州に設置した大雲寺、中宗が七〇五年に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観、玄宗が七三八年に州毎に設置を命じた開元寺などがあるという。 その後、平安中後期には、律令体制が衰退すると言われてはいるが、少なくとも三分の二強の国分寺は十世紀以降十二世紀に至るまで存続していたことが確認されている。 そして、国分寺の修理料や法会の布施供養料は原則として正税でまかなわれていたようで、国分寺僧・講師の任命手続きも律令制の枠内で行なわれていた。しかし、一方では東寺、法勝寺、成勝寺、観世音寺などの中央、地方の有力寺院の末寺、あるいはそれらの強い影響下におかれたという。
鎌倉初期には、表面的には変化ないものの、講師の名誉職化と役割の交代、境内などが狭くなり規模が縮小して、次第に諸寺化していった。さらに武士、特に地頭・守護による国分寺領などの掌握が促進されたが、そのことは、当時、国分寺の宗教活動が地域住民と密接な関係を有していたことを示しているという。 蒙古襲来期から建武の親政並びに南北朝の内乱期には、改めて鎮護国家の国分寺としての役割が見直されたと言われる。そしてこの頃には、当時最も隆盛を誇っていた奈良・西大寺流律宗による国分寺再興が進められた。 西大寺は聖武天皇の子称徳天皇(孝謙天皇重祚)が創建した大寺院であるが、一時は四王堂、食堂、東塔などを残すのみとなっていた。 しかし、一応はまがりなりにも奈良時代以来の鎮護国家寺院として機能し、南都七大寺の一つとして認識されていた。その西大寺の再興に、その頃戒律復興を宣揚して僧界の刷新を唱え民衆の支持を得ていた叡尊上人が、暦仁元年(一二三八)本格的に乗り出す。 叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなくその機能を継承したといわれ、また蒙古襲来期には、異国降伏の祈祷を盛んに行い効果をあげ、その名声を不動のものとする。こうした時代の潮流に乗った西大寺に対し為政者が、当時再認識されてきた国分寺を掌握させるのが適当と考えたのであろう。 西大寺は叡尊、忍性時代から国分寺と関係を持ち始め、十三世紀末から十四世紀のごく始めには形の上だけにせよ国分寺を管掌するようになったと見られている。 亀山法皇(一二八七〜一二九八)が叡尊在世時代に一九カ国の国分寺を西大寺に寄附。続いて、後宇多法皇(一三〇一〜一三〇八)が信空(第二代長老)からの受戒に感激し、六〇余州の国分寺を西大寺の子院としたとされる。 西大寺が国分寺にかかわりをもった早い例は一三一〇年西大寺上人御坊(信空)宛の長門国分寺復興の院宣である。続いて周防国分寺、伊予国分寺、丹後国分寺再興などである。そして、守護領国制の形成とも相まって国分寺の地位の回復が図られるに至る 一三九一年九月二八日付「西大寺諸国末寺帳」によると、周防、長門、丹後、因幡、讃岐、伊予、伯耆、但馬の八ヶ国の国分寺の名がある。さらに、尾張、加賀、越中、武蔵、陸奥の国分寺も末寺となっている。 その後、次第に国分寺と西大寺の結びつきが希薄になりつつも、中世後期まで西大寺との本末関係を維持していた国分寺の代表は、周防、長門であった。その関係は、本寺の重要法会への参加、本寺による住持職の補任といった近世の本末制さながらの関係が伺われる。 こうした西大寺流と国分寺との関係は、国分寺史の中でも一つの画期であり、中世のあり方をよく示しているとも言える。平安末期から鎌倉初期にかけて、国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあったことも西大寺系の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかった遠因と考えられる。 ところで、何故かこの蒙古襲来期に東大寺が「総国分寺」であることを強調する資料が残されている(東大寺文書に一二七二〜一二九二年の間に五回見られる)。しかし、そもそも東大寺が総国分寺として各国国分寺とどのような関係を有していたかは明らかになっていない。 しかも東大寺が特定の国分寺と本末関係を結んだり、国分寺再興に東大寺の僧が関わった形跡もない。当時の多くの国分寺の宗旨が真言宗であったことからもそれは難しかったであろうし、逆に西大寺は真言系の律宗であったから、入り込みやすかったのである。 ともかくも、この時期に第三者ではなく東大寺側が自ら総国分寺であると主張している点が興味深い。そのことは東大寺が異国降伏の祈祷を行う第一の寺院であるという自覚の表れとみることもできようが、当時異国降伏祈祷に最も活躍したのは西大寺であった。
祈祷寺院としての西大寺は蒙古襲来を契機に再認識され、西国国分寺進出の足がかりをつかむわけであるが、そうした西大寺の勢威に対する対抗意識から、総国分寺であるというかつての位置を主張し、国家鎮護の祈祷に相応しいことを標榜したのであろうか。 そして、中世後期、つまり戦国期には、ここ備後国分寺でも、戦(いくさ)に出る軍勢を徴収する陣屋として使われたことが資料に残されている。そうした戦争への関わりから焼失衰退する国分寺が多く、時期的には天正年間に集中している。
しかし、それまでの大名による保護政策があったためか焼失したまま放置されることはまれで、十七世紀後半までにほぼ再興修理がなされ、全国国分寺の三分の二以上が存続機能していた。 国分寺の教学や信仰面などを見ても、いわゆる鎌倉新仏教の影響は顕著でなく、天台、真言といった密教にかかわるものがほとんどである。 創立期の伽藍を維持していた国分寺は皆無に近かったであろうし、焼失のたびに規模を小さくしていったことは想像に難くない。しかし、現世利益の願いを満たす地方における中規模の一山寺院として、中世以降にも一定の役割を果たしつつ近世にも存続し、現在に至っているのである。 (全) (参考文献「国分寺の中世的展開」他)
四国遍路行記O 別当とは、もとは諸大寺に置かれた一山の寺務を統括する長官職のことであった。が後に熊野や宇佐、石清水、祇園、北野、白山、箱根、鶴ヶ岡、吉野など大きな神社は、どこも併設された寺院の僧侶(社僧)が別当に任命され、寺社領を統括し神主を兼務してきた。その別当職が住職する寺が別当寺ということになる。 元禄十四年再建の本堂に参り、真言宗豊山派の桐輪違紋が大きく描かれたガラス越しに中を窺う。そして、理趣経一巻。一夜の宿とさせていただいた阿弥陀堂と、その反対側に建つ大師堂でも心経一巻を唱える。 そして、そのまま六時前には寺務所に御礼を述べ遍路道に戻るところで、白装束のお遍路さんに呼び止められた。白い紙に包まれたお接待をいただく。久万(くま)の大宝寺でお会いしたのだという。網代傘に錫杖、足元は脚絆に草鞋、そして藍色の衣というのは結構目立つ格好なのであろう。誠に、かたじけなく思う。 歩いてきた国道を北上する。四十九番浄土寺までは三キロ。途中左に昔の遍路道だった小道をたどる。伊予鉄道高浜横河原線の踏切を渡ると、古い家並みが続きお寺の近いことを知らせてくれた。仁王門を潜ると、目の前に石段があり、上ると国の重文である本瓦葺き寄棟造りの簡素な本堂が現れる。赤茶けた木肌が古さを感じさせる。 浄土寺は聖武天皇の娘孝謙天皇の勅願で創建され、行基菩薩作と伝える釈迦如来が本尊。八十八カ所の札所でお釈迦様を本尊にする五か寺の一つ。大師堂は本堂の右にあるが、弘法大師が訪れて霊場に定めてから末寺六十六坊を数える大寺になったという。ここ浄土寺は平安時代中期、浄土教の先駆者とも言える市聖(いちひじり)・空也(くうや)上人が滞在した寺としても知られる。 境内には空也松と呼ばれる松の切り株も残っていた。空也上人は天徳年間(九五七〜六一)に滞在したとされ、出立する際に懇願されて自像を刻んだという。それがあの有名な六体の仏像を口から出している空也像(国重文)で、像高一三三p。現本堂に安置されている。しかし、残念ながら正面の格子戸から覗いても中の様子は見ることは出来ない。 この六体の仏像は当然のことながら「南無阿弥陀仏」の六字を象徴する。空也は、当時平将門や純友による乱が起こり騒然としていた畿内で、手に錫杖を持ち草鞋を履いて、金鼓をたたき念仏を唱え勧進して回った。そうして動揺した人々の心に弥陀(みだ)念仏による救いを授けていった。まさに鎌倉時代の爆発的な念仏流行のお膳立てをしたのがこの空也であり、また天台宗の源信僧都だったのである。 その後空也は比叡山に上り、正式に僧となってから修行の場としたのがこの地だったということであろう。後に庶民ばかりか貴族からも帰依され、十一面観音を造立して京キ東山に六波羅蜜寺を建立している。 現在の浄土寺は、境内もそう広いわけではないが、しっとりとした落ち着いた雰囲気の漂うお寺である。仁王門を入ると別世界に入ったような不思議な感覚がするのは私だけであろうか。いくつかの団体遍路さんたちに混じり懇ろに読経して、次の札所五十番繁多寺に向かう。 お寺を西に出て、いくつか温泉宿の看板を見ながら車道を北上する。新しい住宅街を左手に見て大きな池が見えてくるとその向こう側に繁多寺の境内が見えてきた。 繁多寺も孝謙天皇の勅願寺。山門を入ってから、しばし小石の道を歩いて伽藍に向かう。石段を上がると正面に本堂。本尊は像高九十pばかりの薬師如来。本瓦ののった屋根が大きくせり出していて落ち着いた雰囲気の中ゆったりと、上に掛かっている立派な字の扁額を見上げながら理趣経を唱える。 繁多寺は、浄土教の一派である時宗の開祖一遍上人が鎌倉時代に修行した寺でもある。浄土寺で修行した空也上人を先達と仰ぎ、三十五才で全国行脚を始めるまでの一時期、二十五歳頃この繁多寺で修行したとされる。本堂の少し手前に鐘楼があり、右に大師堂。さらに奥には弁天堂、歓喜天堂、毘沙門堂が所狭しと建っているが、全盛時はかなりの大寺院だったという。 室町時代に後小松天皇の命で京キ泉涌寺の僧が住持となり末寺百余りを数え、一時衰退の後、江戸時代には徳川家の帰依を受けて再興された。特に四代将軍家綱の念持仏歓喜天を祀り隆盛を極めた。
歓喜天とは、聖天さんのこと。人身象頭と言い、頭が象の姿で夫婦(めおと)が抱き合った御像が有名である。単身の場合は、左手に大根を左手には斧を持つ。財宝・和合の神とされ、商売をする人たちの中に篤信の信者が多く、大根をお供えしてお参りするとか。
まさに盤石と思って暮らしてきた大地も、長年大切に造り守ってきたものも、一瞬にしてそれらが崩れ流されていくものであることを、私たちも知りました。それと同様に、私たちのこの身体も心も移ろいゆくものであります。 陽炎(かげろう)のように人を騙し幻想を与える身体を自分と思い、つかの間の安楽、利益、思いにとらわれ、惑い迷うのが世間の人たちの生き方。これに対し、最高の覚りは死王も届かない境地であり、それこそが私たちの生きる目標だと理解し精進するなら、死をも恐れることはないと、この偈文は教えているのです。
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より
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