備後國分寺だより

 備後國分寺寺報 [平成十四年正月] 第三号



 備後國分寺だより



 世界はひとつ 

 昨年の九月に起きたニューヨークの同時多発テロによって、世界は一変してしまったかのように感じます。様々な情報が錯綜し、問題の本質が失われつつあるようにも感じます。報復によって無関係の犠牲者を作り出し、双方の心の溝も深まりつつあります。

 何事にも原因があり、その原因をただすことによって問題を解決しようとされたお釈迦様の教えからすれば、なぜテロが起きたのかと、まずは静かに思いをいたさねばならなかったのでありましょう。

 紛争の解決に暴力を用いることの誤りを私たちは前世紀に学んだはずなのに、またその過ちを繰り返してしまいました。恨みを恨みによって晴らそうとすることの無意味なことを、お釈迦様は教え諭されています。恨みを捨てることによって恨みは静まる、これは仏教の教えではありますが、人類普遍の真理でもあります。

 世界には様々な宗教があります。が、そのどれもが人々の幸せを願うことに変わりはありません。そして、ものも情報も瞬く間に世界を駆けめぐる現代にあって、自分たちだけの幸せなどあり得ようはずもありません。

 それなのに、自分たちと他のものたちとに分けてしまうことから、相手との違いを受け入れられなくなり、争いが起きてまいります。みな同じように、このひとつの地球上の恵みにより生かされている、まことに小さな存在にすぎないのに、愚かしいことだと思います。

 自分たちの主義主張を訴えるばかりでなく、他との違いを受け入れ、相手の存在を認め合う慈愛の心が、今何よりも求められているように感じます。新年にあたり、この心が世界の人々に浸透し平安をもたらしますように、皆様とともに念じたいと思います。


●お薬師さまの話●

 お薬師さまは、みなさんもよくご存じのように、左手には薬壺を乗せてお腹の前に置き、右手は開いてこちらに向けておられます。

 その右手の印相は施無畏の印といい、衆生の恐怖と不安を除く、ほとけの大悲の心を表しています。

 このほとけの大悲心とは、いわゆる慈悲の心であり、慈悲とはいつくしみあわれむこと、仏菩薩が衆生に楽を与えるを慈といい、苦を除くを悲というなどと教えられています。

 ですか、くわしく申しますと慈悲の教えは、慈・悲・喜・捨という四つの心を言い表したものであります。

 とは、自分以外の他のものをみな友と思う友情の心であり、

 とは、その友のように思うすべてのものたちが苦しんでいるとき、その苦しみを除いてあげたい癒したいと思う抜苦の心、

 とは、その友のように思うものたちが喜んでいるときに、嫉妬することなく自分もともに喜ぶ共感の心、

 とは、その友のように思うものたちとともにやさしい気持ちを保つ平静な心です。

 この慈悲の心は、よく子を持つお母さんの心に喩えて教えられています。お母さんはおさな子を自分と一体のもののように感じ、もし苦しんでいればなにものにも変えてその子の苦しみの無くなることを願い、喜ぶときはわが喜びとし、また冷静にその子の成長を眺め幸せを願うというように。

 私たちは誰もが幸せでありたいと思っています。ですが、そのためには自分を支えてくれている家族や身近な人たちも同じように幸せでなくては自分も幸せを実感することなど出来ません。

 さらには、それらの人たちを支えている人たちも幸せであってもらわねばならず、結局はすべてのものたち、生きとし生けるものたちが幸せであって欲しいという気持ちになります。もしも悩み苦しんでいるのなら、何とかその苦しみが早く無くなり癒されますようにと願う気持ちが生まれてまいります。

 そうした心を大悲心といい、その心こそがお薬師さまのお姿にあらわされているのです。お薬師さまのみ前にすすみ、心静かにそのお気持ちを感じ取りたいと思います。


仏教ってなに三

 前回は、お釈迦様が遊び呆けていた三十人の若者たちに対して、いかに生きるべきかと説かれた話をしました。

 善い行いをしなさい、そうすれば天界にも生まれることが出来ますよ、と説かれたわけですが、インドの人々は今でも、そうして死後どこかの世界に生まれ変わるという輪廻転生を信じています。

 以前インドのサールナートにいるとき、ある高校生が「僕は来世で英国のオックスフォードに留学するんだ」と言うので、「まだ今生でも間に合うじゃないか」と私が言うと「もうだめだよ、こんな貧乏なインドの田舎に生まれてしまっては、来世で良い家に生まれるように今生では功徳を積もうと思っているんだ」とごく自然に言ったことが思い出されます。
 
 その人の行い思いによっては、死後また人の世界に生まれ変われるとも限らないと言われますが、仏教では、六道に輪廻するといい、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界に生まれ変わると考えられています。

 地獄とは、心に苦しみや恐怖、殺し合うほどの刺激が無ければ生きられない世界を言います。
 餓鬼
の世界は心にものすごい欲をもってその刺激で生きている状態の世界。
 畜生
は飲食の刺激、
 修羅は怒りや争いの刺激でもって生きている生命の状態です。
 天界
は、楽しみや快楽を刺激として生きている、とても寿命の長い世界です。

 ですが、それでもまた死んでしまうと、どの世界に行くか分からない、結局は人間界に戻ってきて修行をしなければいけない、と言われています。

 この私たち人間の世界は、その他の世界のことを理解できる唯一の状態でもあります。それらの世界の生命が縛られているような心に陥ることなく、いかに生きるべきか、心を清めていくにはどう生きねばならないかを学ぶ場所が人の世界なのだと教えられています。つづく

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