備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十四年正月号] 第三十号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行

 



大法輪平成二十三年十二月号
特集「葬儀・法事の
〈お経〉入門」
に掲載

『般若心経』
の現代語訳と解説


原文と現代語訳
摩訶般若波羅蜜多心經

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空度一切苦厄。


 観自在菩薩が、般若の智慧の完成に至る瞑想にいそしんでいる時、あらゆるものは空であると見通した。
 すると身も心も、つまり自分とはいかなるものかを探求するためにお釈迦様が説かれた五蘊も空なのだと分かり、一切の苦しみが消えた。

舎利子。色不異空空不異色。色即是空空即是色。受想行識亦復如是。

 そこで舎利弗尊者に、その瞑想で見抜いた境地を申し上げた。
 「この身体も含め形あるものが、どのように生じ、存在しているのかを探求すれば、それ自身で生まれ出たわけではなく、他の原因と条件により生じ絶えず移ろいゆく、空に他ならない。また、空なるもののあり方により、形あるものは存在せしめられている。
 だから、形あるものは空であり、空だからこそ形あるものは存在できるのです。
 同様に感受・イメージ・意志・認識など心の働きも、みな空なのです。

舎利子。是諸法空相。不生不滅不垢不淨不増不減。

 空という究極のもののあり方を見る心には、それらが実体あるものとして見えてくることはない。
 だから生ぜず滅せず。浄もなく不浄もなく。増えることもなく減ることもないのです。

是故空中。無色無受想行識。

 この故に、すべてのものを空と見抜いた境地にあっては、形あるものも、感受・イメージ・意志・認識など心の働きも固有の実体あるものとして捉えることはない。

無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界乃至無意識界。

 同様に、身近な周りとの分析から、この世界を把握する手立てとして説かれた六つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)も、それらに捉えられる六つの対象も、またそれらが触れることでその対象を理解識別する六つの心も、それらを固有の実体あるものとして見ることがない。

無無明亦無無明盡。乃至無老死亦無老死盡。

 さらには、六道輪廻の世界に生死を繰り返し苦しむ私たちの、その因果を説く十二の因縁も、その逆のプロセスによって悟りに至る十二の因縁も、それぞれそれらの固有の実体は存在しない。

無苦集滅道。無智亦無得。

 そして、人々を悟りの道へ導く四つの聖なる真実、つまり現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えさえも、空を直接的に体験している心にはあてはまらない。
 さらにそれらの実践による智慧も、それを獲得することもないのです。

以無所得故。菩提薩?。依般若波羅蜜多故。心無?礙無?礙故。無有恐怖遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。

 いかなるものも実体あるものとして捉えることがない、すなわち言葉による概念の世界をも越えているので、菩薩は智慧の完成に導く瞑想を成就し、心に妨げなく、恐れがない。迷いを生じることもなく、最高の悟りに安らいでいる。

三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

 過去現在未来の諸仏もこの般若の智慧の完成に至る瞑想によって、無上なる最高の正しい悟りを獲得したと言われるのです。

咒故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。
是無等等咒。能除一切苦。眞實不虚故。説般若波羅蜜多。

 その故に智慧の完成は大いなる真言なのです。大いなる智慧の真言、無上なる真言、並ぶべきものなき真言。一切の苦しみを除く空しからざる真実語。ここに示した階梯を学び、思惟し、瞑想して、人は智慧の完成に至るでありましょう。

即説咒曰
掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
般若心經


 その真言に曰く、
『行け(ガテー)、行け(ガテー)、彼方に行け(パーラガテー)、真実の彼方に行け(パーラサンガテー)、悟りに(ボーディ)至れ(スヴァーハー)』」 般若の智慧の完成に直結する教え

【解説】

すべては空なり

 物事を見るとき、誰もがその本質を見定めることなく、勝手な先入観を持ち、レッテルを貼って見ていることでしょう。そして、それを見ている私という尊い存在があるとも。しかし、すべてのものは他のものを原因としてある条件のもとで結果し移ろいゆく、不確かな幻のような存在に過ぎません。そのものだけで成り立っておらず、他によって存在せしめられています。だから、それ自体の固有の実体はないのです。

 そのような物事のあり方を空といい、私という存在も空なのです。はたして、どこに恒常不変の私などというものがあるでしょうか。その空にすぎないものを真実なる自己と妄想し、私たちは様々な悩み苦しみを生じさせています。

 そしてそもそも、その苦しみを滅するために、お釈迦様は様々な教説を説かれたのです。しかし、後世の部派教団の一部の学僧らはそれらを煩瑣な仏教哲学に変貌させ、その教説の諸法を実在と主張しました。そこで、般若経は、ことごとくそれら諸法も空である、固有の実体などないと説いたのでした。

智慧の完成は真言

 般若心経は、般若経を背景として、その綱要化が進む五、六世紀に成立したと言われます。その頃インドでは密教が流行し、その影響から、「智慧の完成は大いなる真言である」というフレーズが採用されたのでしょう。それは、智慧の完成に至るためには、言葉の概念世界を越える必要があることを示唆しています。

 この真言は古来様々な訳がなされていますが、『行け行け・・・』と解釈することによって、観自在という特別な菩薩の境地を開陳するだけでなく、それを読む人誰もが悟りに向かって精進することを督励する言葉として受け取ることが出来ます。

悟りこそ生きる目標 

 この世はすべて移ろいゆく。大事だと思っていた家も財産も、そして自分自身も何もかもがみな空なのです。般若心経は、お釈迦様の初転法輪からの根本教説を明示し臆念させつつ、空なるものからの執着を解き、すべてをありのままに見て、とらわれず迷わず、最高の悟りのために生きよ、と教えられているのです。

 般若心経は古来、諸祈願のために書写読誦されてきました。また追善供養のためにも用いられ、仏壇ではもとより、どこででもお唱えしていい経典と言えましょう。        (全)




 




『般若心経』とは何か

 今回、大法輪の特集記事執筆の依頼を受けて、『般若心経』について改めて深く勉強する機会を得た。そして、夜寝静まってから、突然心経の深秘かと思われるような内容が頭にひらめき、夜中に起きだして書き取ったこともあった。

 心経全体が、お釈迦様の瞑想中の一瞬のひらめきを書き取った陀羅尼(だらに)(真言)だと解釈すると、一字一句解釈するよりもその大まかな展開を捉えるべきなのではないか。悟りの究極において、それまで行じてきた教説をたよりに悟りの階梯を進み、完全に清らかな状態に至るために、つまり最終的な悟りに至るために、完璧に自己を捨てる、私がいるということを諦める、ということを観自在菩薩と舎利弗尊者二人の対話として表現したものではないか、などということが頭に浮かんできたりもした。

心経の功徳

 今心経を受持し、読誦し、また写経する私たちにとって大切なことは、この心経の呪術的とも言える功徳とは何かと考えるべきでなのではないかと思う。読誦し書写する私たち自身がその心経が教えている意味内容から救われ、また多くの人たちが救われて、はじめてその功徳、力があると言えるのではないか。
 心経が、私たちが今を生きる大切なことを教えてくれていてこそ大きな力になる。だからこそ今誰もが求めている、今をいかに受け入れ生きるべきか、それをこそ心経は説いていると解釈してはいかがかと思うのである。
空として見る 

 「毎日マントラ(真言)を唱えたり、諸尊を観想したりしても、それだけで根本的な無知に対処することは出来ない」(『ダライラマ般若心経入門』春秋社刊より)。このように、チベット仏教の最高指導者であるダライラマ法王もアメリカ各地での講演で述べておられる。

 周りのものを眺めるとき、それらを実在するもの、実際の出来事としてではなく空という物事の真のありようで、空というものの存在の仕方で見ていく。その、ものの見方を身につけていくことが大切なのだと言われる。

 庭先の雑草も、何年前の種か分からずとも、種がそこに風で飛ばされ存在する原因があり、土壌と気温と湿度の条件が調えば発芽し、私たちを悩ませる。そして、その場所が庭先ではなく、家の裏なら何とも思わないのかもしれない。

 そのような他のものによる原因と条件によって存在する。そのものだけで生まれ存在しているのでなく、すべて他に依存しあっている。そのようなあり方を空という。

 そんなことはあたりまえのことだと思われるかもしれない。しかし、自分も空なのだと言われて、それがどんなことか頭で分かっても、なかなか本当に、そう思いきれるものではない。たとえば、自分や家族が大病と診断されたとき、自分の家や財産が津波に流されたとき、なんの動揺もせずに他人事で居られるだろうか。

 すべてのものを空として見切る。深い瞑想状態の中で本当に空としてみられるようになると、すべてのものに対する価値、こだわり、レッテル、好悪など見えてこないのだという。

根本教説をどう読むか
  
 こうした空なるものの見方を理解するためにはその基礎となるお釈迦様の教説も必要であろう。心経に網羅された段階を踏まえて進まねばならない。戒を守り正しい生活によって健康となり心清まりその法を聞き、仏教の物の見方、自分とは何で、この世とはいかなるものか。そして禅を修して思索し、さらにそれを繰り返し行じることで般若の智慧はその人格となるという。

 お釈迦様の根本教説について少し見てみよう。五蘊は、私とは何であるか、それは心と体という形あるものとがあわさったものだということだろう。

 十二処十八界は、神のような普遍的な存在、絶対者を立てることなく、身近な周りの分析から、仏教徒の世界観を把握する手立てとして説かれたものだ。

 十二因縁は、六道の中に輪廻を繰り返し苦しみに至る私たちの心のその原因と結果を解明し、悟りに至る逆のプロセスによって悟りに至る仏教徒の歩み方を明らかにする。

 四聖諦は、現実を直視してその因果を見きわめ、私たちの生きる目標とは何か、どう生きればよいかを明らかにした教えである。

 そして心経では、観自在菩薩のように、すべてのものが空であると、究極のもののあり方を既に直接的に体験している心には、それらのことはあてはまらないと述べるに過ぎない。

 それなのに、般若心経に関する通俗的な解説には必ずといって、このお釈迦様の教説を小乗仏教と貶め大乗仏教を金科玉条の如くに推奨し、単に真言を唱えるだけでよいとする説き方が横行した。そして、あたかも何か唱えることが仏教の実践であるかのような錯覚を与えてしまった。それは余りにも乱暴な説き方であったと言えよう。

 こうして心経はお釈迦様の教説を否定し、大乗の教えが勝れていると、我が国において長い間、それを是認称賛したかのように受け取られ、それが為に日本仏教として、仏教の基本的な教えが説けなくなってしまったのではないか。日本仏教に禍根を残したとも言えよう。

心経を生きる

 何度も繰り返すようではあるが、心経は観自在菩薩の境地を開陳したものであり、凡夫である我々は、まずは、本来のお釈迦様の教説一つ一つをおろそかにすることなく、それらによって仏教の物の見方、歩み方を学び瞑想して、そうして空を体得しつつ、悟りを最終目標として、一歩一歩着実にしっかりと努力する必要がある。

 そして、心経はそこに向かって前進せよ、疾くつとめよと、仏教徒のあるべき生き方を指し示し、督励した教えなのであろう。

 私たちを取り巻く環境は、過酷である。沢山の困難、災難、災害多い人生。けれども、何かあったとき、いやすべては空なのだ、こうあるべくしてあったのだ、家族、家、財産は死ぬるときにはもってはいけない、やはり悟りへの前進こそ来世への土産なのであると思えねばならないのかもしれない。

 本当に求めるべきものは悟りなのだと言い切り、すべてはそのための一里塚と強く私たちを押し出してくれるのが、この心経なのではないか。だからこそ心経は、古来よりずっとこの日本で唱え続けられてきているのであろうと思えるのである。     (全)

 




雲照律師に学ぶ わが国における仏教の価値

雲照律師のこと

 釈雲照律師(一八二七-一九〇九)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請わしめた明治の傑僧である。

 生涯木綿の衣と袈裟を着し、非時食戒を守り、午後は食事を摂られなかった。慈雲尊者の唱導した正法律を復興され、東京に出て目白僧園を構えて戒律学校を開き、若い如法の僧侶を養成した。慈雲尊者の唱えた十善の教えを広く朝野の貴紳諸兄を始め多くの信徒に宣揚し、欧化思想蔓延する時代に神儒仏を基本に据えた本来の日本を取り戻すべく、文字通り身命を賭す生涯を送られた誠に尊い方であった。

仏教原論を読む

 ここでは、雲照律師述『仏教原論』(明治三十八年博文館刊)という著作から、第五章「佛教は原因結果の真理を演繹するものにして因果を離れて別の法無きことを辨ず」の中で、わが国における仏教の位置について述べられた内容をここに紹介したいと思う。(明治の文体なので現代語に置き換えて抄録する)

 「今日の日本人が宗教に冷淡なのは固有の天性であるという人があるけれども、決してそうではない。日本人が今日のようになってしまったのは、これはひとえに、習い性となったのであり、明治の維新前後に教育を受けた人たちは皆、これは水戸学派(儒学思想を中心として国学史学神道を結合させたもの、皇室の尊厳を説き、排仏のイデオロギーを持つ)の教育の力の致すところであって、それは江戸幕府の始めに萌芽した悪弊であって、林派に教育を担当させ、諸藩学校と称するものこの学派でなければ公許されなかったため、純白な児童の頭に自ずから陶冶されたのである。

 しかるに、今を遡る千三百余年前、推古天皇帝位にお就きになり、聖徳太子を皇太子とされ、太子はことに仏教を尊信弘通されて国民安心の大本となされた。儒教を倫理の範とし、神道を国家の本体として、仏教を百事の精神となされたのである。

 十七条憲法によれば、「第二条 篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり、すなわち三宝は胎・卵・湿・化によって生まれてくるすべての衆生のより所であり、万国の究極の教えであり、いつの時代でも誰でも三宝の教えを尊ばない人はない、人には甚だ悪しき人は少ないので教え聞かせたならこれに従うようになる、それには三宝に帰依することなくどうしてその狂いを直すことが出来ようか。」と記されている。

 このように太子は国民の安心の基礎を定められ、寺を建て僧侶を出家させ、自ら経典を講じて、仏像を彫りまた描かれて、礼拝供養して心を尽くされた。宮中の儀式も皆仏教をもってその精神とされ、人々が都に入れば、高塔、大殿、僧院、伽藍の美観がまず目に入り、君子も民衆も上下の区別無く仏を信仰し法を敬う精神はここに実現したのである。これにより文化が日々に開かれていく。

 そして、これを範として歴代の天皇も仏教を尊信なされたが、ことに嵯峨天皇(帝位八〇九-八二二)は、三教の根源に遡られ、仏教教理についてはその奥義を究められた。弘法大師を請ぜられて国師とされ、三密(身・口・意の仏の行いを行ずる真言宗の教え)を奥深く研鑽され、神道の根底に達して、両部神道の妙旨を伝えられた。これによって仏教は、異国の宗教ではなく、皇国の宗教となったのである。だからのちの後宇多法皇(ごうだほうおう)(帝位一二七四-一二八六)はその遺告に、

 「考えてみるに、わが大日本国なる国号は人為的なものではなく自然法爾の称号であって、密教に相応しい法身大日如来の仏国土である。だから、私の後に続く受法の弟子、並びに皇統を伝える天皇は、盛衰を同じくしなさい。興替を同じくしなさい。もし、我が仏法が断絶・荒廃すると、皇統も同様に廃滅するであろう。またわが寺が復興すると、天皇のまつりごとも安泰であろう。決して私のこの考えに背き、後悔してはならない。」(大本山大覚寺発行武内孝善高野山大学教授訳『詳解後宇多法皇宸翰御手印遺告』より訳文参照)と認(したた)められているのである。

 これより先きに、宇多法皇(帝位八八七-八九六)は、その尊位を返上され法衣を着されて、三密の秘奥を伝え、弘法大師から第五世の祖として、仏祖正統の法脈を継ぎ秘密十二流の大祖とならせられた。これにより、宰相以下百官ことごとく三宝を尊信すること益々盛んとなり、おそらく古今万国において、これに匹敵するほど仏法盛んなることはなかったであろう。

 その後天皇はじめその臣下においても剃髪得度される方々が益々多く、最近では、後水尾天皇(帝位一六一一-一六二八)が、落飾出家なされ三密の法を伝えられている。また、徳川家康公は、法服を着し、伊豆般若寺にて、関東関西の密宗の僧侶を集めて、三密の奥義を討論させている。そのとき自ら学頭の職位に座し、その討議を行司せられたが、そのとき「私は三軍の指揮を執って何度も列戦死地に赴いてきたけれども、今日ほど脇の下に汗を流したことはない」と感想を述べられたという。

 このように仏教がわが国に渡来してより、一千余年間、藤原鎌足公を始め、菅原道真公、楠木正成公、徳川家康公、加藤清正公、上杉謙信公、毛利公、島津公などの諸公にいたるまで篤く仏教を崇信せられたことを考えれば、そもそもわが国における仏教の旺盛なことは知られよう。
 しかし、それにもかかわらず江戸幕府の末路より今日の形勢に至り、全く相背馳する様相を呈しているのは、これ冒頭に述べたように、ただただ教育の方針いかんによるのであり、同じ日本人種をほとんど異人種の如くにしてしまったことは実に驚くべきことである。」

宗教教育の大事

 このように雲照律師は日本における仏教の旺盛な時代の主だった事績を指摘して、わが国における仏教の本来の価値について述べられている。

 それは、今の私たちが想像するよりも遙かに、日本の国にとって、つまり政治や経済の分野においても、また人々の精神文化を培う上でも大きな影響力あるものだったのである。明治時代に禅を世界に伝えた鈴木大拙師は、日本から仏教を除いてしまったら何が残るのだろうかと言われたが、まさに至言。雲照律師が述べられている幕末から施されていく国学を中心とする子弟教育は、その後戦時下での国家神道へと変化し日本人の精神に大きな陰をもたらした。さらに戦後の信教の自由という無宗教化、キリスト教文化の浸透、新宗教の乱立、オウム事件を経て現在の私たち日本人は宗教に関し全くの無知にさせられてしまった。

 ことに仏教に対して無関心無視を決め込むような現状に至らせた原因は、もちろん仏教僧の破戒の現状にも大きな原因が求められようが、雲照律師が言われるように、学校また家庭における長きにわたる宗教教育の貧困が大きく影響しているであろう。 (全)



 






《おたより》一里塚の見返り地蔵


 上御領中組に一里塚跡といわれる一角がある。一里塚のシンボルである大榎は跡形もないが、そのあたりでそばを売っていた茶店の風景を詠った菅茶山の「高屋途中」の詩碑が建てられている。

 その前に地蔵尊をまつるお堂と四ツ堂があり、四ツ堂の周囲にはおびただしい数の石仏が草に埋もれている。その中でふと目に止まるのが一体の横向きの地蔵さんである。「見返り地蔵」と呼ばれているらしい。仏像はどれも正面を見据えているから、このように後ろ向きなのはめずらしい。
 京都の永観堂(禅林寺)には、「見返り阿弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来像がある。この像には、つぎのようなエピソードがある。

 平安時代、永観という高僧が、念仏を唱えながら阿弥陀如来像の回りを一日中回り続ける常行三昧行という修行に励んでいた。ある日のこと、永観がいつものように常行三昧行を行っていたとき、寒さと空腹でもうろうとしてきたという。その時、阿弥陀如来像が須弥壇から降りてきて永観の前に立ち、振り向いて「永観遅し!」と叱咤した。永観は阿弥陀如来の先導で常行三昧行を成就することができたという。この永観の体験をもとに造られたのが、「見返り阿弥陀如来像」であるという。

 さて、一里塚の「見返り地蔵」はどんなエピソードから造られたものであろうか。                         

                                       (2011/8/5 B)
 

 



『葬式は、要らない』 を読んで


 
 昨年一月三十日発行で、著者は、元日本女子大教授、現在は東大の先端科学技術研究センター客員研究員の島田裕巳氏である。何度も新聞に広告が出ていたのでご存知の方も多いことと思う。

 さて、私の読後感は、はっきり言って、著者島田氏は何を言いたかったのだろうかということだ。このタイトルにあるように葬式は要らないと、時代の流れだと言いながら、条件付きでの不要論であることを結論としている。

 人が「最期まで生ききり、本人にも遺族にも悔いを残さない、私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のものでも関係な」く、自ずと葬式を不要にすると述べている。最期まで生ききる、悔いを残さないということをどのようなことをいうのかは記されていない。

 延々と日本の村社会での祖霊崇拝や仏教のあり方、また諸外国の葬送にまで言及していながら、大事なところを語らずに外面的経済的な事情から葬式が要らないとだけ結論している。はたして、おおかたの人が今病院で亡くなる中で最期の最期まで自分の生を生ききれる人がどれだけあるだろうか、完璧に悔いを残さない人生を送れる人がどれだけいるであろうか。

 そう考えるとき、この先生の言いたいことは葬式が要らないということではなくて、都会で流行る直葬(じきそう)に、安易にか、致し方なくか、そうせざるを得ない人たちに、やはり大切なことがあるのだということを教えたかったのだろうかとも思える。

 それにしてはその大切な部分、葬式は要らないとして、葬式をせずに、亡くなっていく本人をどう弔うのか、また、遺族はどうしたらいいのか、その心のありよう、いかにしたら身近な人の死を受け止め、癒していけるのかということには全くといって言及されていないのは残念なことである。

 確かに派手になりすぎるのも考え物であろう。金額的に各国ごとの比較もされているが、それがどのようなことに使われた金額なのか、その数字の取り方は内容的に整合するものなのかも詳しくは書かれていない。ただ日本人の葬式が贅沢になったのは仏教が葬式を担うようになったからだとし、葬式仏教と日本仏教を貶め、戒名という不透明な存在を批判する。

 歴史的背景にも言及されてはいるが、それによって人々はどのように人の死を受け止め、何代にもわたり先祖を祀ることをどのように受け入れてきているのかという内面については解明されていない。身近な人が亡くなったときの残された人たちの心の問題にもあまり触れられていない。

 島田氏が指摘するように都会と地方での家に対するとらえ方、地域の受け入れ体制の違いから葬式のありようが変わっていくことは致し方ないことであろう。経済的に誠に厳しい現状から葬式を出すこともできないことも考えられる。しかしだからといって、葬式が不要であると結論することはできまい。他の仏教国では、もちろん仏教徒が死後戒名をつけることはないが、葬式やその後の法要もきちんとなされている。

 インドでの経験しかないが、インドの伝統仏教教団・ベンガル仏教会で、何度となく、仏教徒の葬式やサンガダーンという法事にも参加させてもらってきた。裕福な家は盛大に、貧しい家は質素ではあるが葬式も、法事も行われている。他の国々も同様であろう。

 違うのは、日本では死後四十九日の後に来世に転生すると考えるが、インドでは、七日後に転生すると考えられている。だから日本でいう四十九日の盛大な満中陰忌に当たる法事を六日目ないし七日目にしていた。

 だから、葬式は仏教ですることになんの問題もないのではないか。それよりも問題なのは、檀那寺がある人は、そのことの意味をきちんと受け入れ、お寺の側は、人の死とはどのようなことか、葬式とはどのような意味があり、戒名とは何なのかをきちんと説明することではないか。そのことが不十分なので、この書でも、本人や家族知人が戒名をつけたらいいと書いてあり、それが単なる死後の名前、生前の人となりを表す称号だとのとらえ方をされてもいる。

 生きるとは何か、死とは何か、どう生きるべきかをことあるごとに布教することこそがお寺の役割ではないかと思う。そして、それは僧侶自らがどうあるべきかということにいたり、各本山ともどもこれからの宗団僧侶がいかにあるべきかを侃々諤々議論すべきなのだと思う。島田氏もそのことを指摘している。そうすれば葬式仏教、戒名のあり方に対する批判も違ったものになると。

 島田氏は、冒頭に引用したこの書の結論を述べる前に、故人を弔うために集まった人が故人がもう十分に生きた、立派に生き抜いたことを素直に喜ぶ、そんな葬式なら無用とは言えないとも述べている。また、「一人の人間が生きたということは様々な人間と関係を結んだということであ」り、「葬式にはその関係を再確認する機能がある。その機能が十分発揮される葬式が何よりも好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら誰もが上げてみたいと思うに違いない」とも書かれている。つまり葬式を擁護し、葬式のあるべき姿を提言してもいる。

 それはどこであっても、おそらく地方にあっては地域社会との関わりの中で当然そのような位置づけのもとに現在でも葬式が執り行われているであろう。願わくは、都会にあっても、日頃から宗教者との関係を結び、出来れば様々な機会に人の生き死に、について話し関係を深めつつ、そのときを迎えるようにあって欲しいものである。
 つまり本書は、『葬式は、要らない』のではなく、『意味のある葬式推進論』であると言えよう。   (全)

(なお、この記事をブログ「住職のひとりごと」に掲載していたところ、新潟の浄土真宗のお寺様がご覧になり、地元の講習会においてこの記事を資料として読まれ、「お寺に葬式等に自信がもてるようになりました」との礼状をお送り下さいました。)


 



常用経典の仏教私釈F 
 やさしい理趣経の話


第六段の概説

「ふぁあきぁあふぁんとくいっせいじょらいちいんじょらい・・・」と第六段が始まる。ここに「一切如来の智印を得たまえる如来」とあるが、教主大日如来が、そのはからいによる慈悲と智慧による実践教化の部分を象徴する如来・不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)として登場する。

 第二段にて、完全な覚りを展開して四つの平等の智慧に分けたが、第六段では、その中のC衆生を救う仕事を円満に成就させる智慧とはいかなるものかを開示している。

 第五段では、どんなものにも価値を見出し、適材適所に活用されればすべてのものがかけがえのない宝となる智慧(平等性智)を明らかにした。それは等しくすべての生き物たちを養い培うものとして無限の価値となって輝きだすと述べた。

 そこでこの第六段では、人はどのような活動を為すべきかを説くのである。「一切如来の智印加持の般若理趣」とあり、智印とは如来の心から湧き出る様々な身口意(しんくい)の働きを意味する。加持とは仏の大悲心と衆生の信心の寄り添うことによって仏の不可思議な力が発現されることをいう。

 仏教で行いと言うとき、それは身体による行いと口でなす言葉によってなされる行い、そして心の中でいろいろと考え思うことも行いとされる。これら凡夫の行いを三業(さんごう)というのに対して、仏の身口意の行いを三密という。

 凡夫が仏にならい善い行いを心がけつつ、仏の側も慈悲を垂れて衆生を救う働きかけがあるならばそこに三密相応の不可思議な加持感応(かじかんのう)が起こり、衆生全体が共に働き努力して自他ともに悟りの世界に向かって精進していくことが出来る。第六段は、このようにすべてのものたちの心を成長させ育むための実際の活動に関する智慧(成所作智)を説くのである。

 お釈迦様のお悟りになった境地のことを阿羅漢果(あらかんか)という。阿羅漢という最高の悟りを獲得した人は、自分のためには為すべき事は何もないのだという。そこで無為とも無学とも言われ、もはや悟りのために学ぶべき事はないという。当然ながら悪事をなすことはなく、たとえ善い行為を行っても来世に繋がる業にはならないと言われる。しかし、唯一、世の中の人々を教え導く仕事のみ残されているのである。

 お釈迦様は縁ある衆生すべてに対して分け隔てなく教えを垂れた。外道(げどう)と言われる異教徒たちに対しても、どんなに攻撃的な問答に対しても、落ち着いた心のまま、その人が良くあるように教え諭された。その人が一歩でも悟りに近づくことを願って、教え導かれたのである。

四種の印

 そうした仏の他に教え教化(きょうけ)して共に悟りの世界に導く慈悲の心に応えるべく、凡夫である私たちはどうあればよいのであろうか。お釈迦様の私たちへ向けられた心にふさわしい働きとは何か、それを説くのが、次なる四種の印の教えである。

 まず、「一切如来の身印を持すれば一切如来の身を為す」とある。身印を持するとは、自らのためにではなく、仏のように他を悟らしめ、他を救わんがために奉仕して働くということ。そうすれば自ずと一切如来の身を得ていることになるというのである。

 次に、「一切如来の語印を持すれば一切如来の法を得る」とあるが、これは、今日のように様々な情報が乱れ飛び、流言飛語、異端邪説が横行する世の中にあっても、縁ある人々を正しい教えに導き、仏のように他の者のためのみに真摯に教えを説くことで、一切如来の正法を体得することが出来るというのである。

 そして、「一切如来の心印を持すれば一切如来の三摩地を證す」とあるが、これは、人々を仏の教えに導くためには様々な障害、困難が待ち構えているけれども、堅忍不抜の心でそれらを克服して人々を正法に導くことで、自らも三摩地つまり悟りを證することができるというのである。

 さらに、「一切如来の金剛印を持すれば一切如来の身口意業の最勝の悉地(しっち)を成就す」とある。金剛の印とは身口意の仏の働きが一体となって自在の活動を為すことで人々を救うこと。それがダイヤモンド(金剛)のような堅固な智慧の働きとなることで、最も勝れた悟りを成し遂げることができるというのである。
 仏のように働く、仏のように法を説く、人々を救うと言っても、それはそう簡単なことではないだろう。しかし、何事もそれを理想として少しでも真似て馴染み、なりきることによって本物に近づいていくものなのではないか。

 私なども、法事の後の法話など、はじめは自ら何を言わんとしていたのかさえも分からなくなることを繰り返しつつも、こらえて学び思惟しつつ何度も説き続けることで、徐々にその真意が伝わるようにもなる。何事もひるんだり、飽きたり、へこたれることなく、お釈迦様の衆生に対する眼差しに応えて、自らを奮励督励し続けることが必要なのであろう。

第六段の功徳

 この段も、教えを聞く菩薩衆の代表である金剛手菩薩に呼びかけ功徳が説かれる。この教えを聞き受け取り、思索するならば、すべてに自在となり智慧とその働きと果徳を得ることができる。さらには、仏の身口意とそれらを一体とした妙果を得ることで無上なる正しき悟りをすみやかに証得するという。

 「即身成仏」とも言われるが、それは、この身このまますぐに成仏するというような簡単なことではないであろう。大切なことは、この身において、将来ではなく来世でもなく今を大切に、すべてのものたちの最高の幸せのために努力することがそのまま悟りに繋がっているのだと受け取ってはいかがかと思う。

金剛拳菩薩の心真言

 そして最後に改めて、世尊大日如来が不空成就如来から娑婆世界での姿として金剛拳菩薩に変化されて、仏と衆生の心と行いが一つになる瞑想に入られた。

 そしてその教えを自らの姿に現そうとされて、法悦の微笑をたたえ、左右の手に金剛拳をつくり左は仰げて腹の前に置き右はその上に覆いしかも着けずに重ねる三摩耶の印を結んで、真実なる心真言「アーハ」を唱えた。(全)




四国遍路行記P  
石手寺から太山寺へ
(平成二年三月から五月)


 石手寺に到着したのは十時過ぎ頃だったろうか。駐車場そして仲見世入口あたりから大勢の人で賑わっている。その流れに入り五十一番石手寺に参拝する。

 もとは聖武天皇勅願寺で安養寺と言った。後に行基菩薩が薬師如来を彫刻して本尊としたというが、その後弘法大師が巡錫。そして、現寺号の由来はよく知られるように、寛平四年(八九二)に道後湯築城主河野息利(こうのやすとし)の子息の開かぬ左手を安養寺住持が加持して開かせたところ「衛門三郎再来」と書いた石を握っていたことから改号された。

 土産物や昔懐かしい玩具類を置いた店など楽しい仲見世を通り過ぎると、大きな仁王さんの立つ国宝の門が姿を現す。お遍路さんや観光で参る人も多く、また地元信者さんも混じって人が行き交う中、正面の本堂に到達する。

 鰐口を勢いよく叩く参詣者の横で理趣経を唱える。落ち着かない気持ちを抑えつけるように先を急ぐ。そんな姿を見ている人もあるのか、袖の中に手が入りお接待を何人もの人から頂戴する。お礼も言えず、ただ会釈する。

 そこから右手奥に進み、大師堂を参ってから、ビルマの仏像を祀ったパゴダへ。その途中坂道を降りるところに「雲照律師供養塔」と陰刻された大きな石碑があった。明治の傑僧・釈雲照律師(一八二七-一九〇九)は、ここ石手寺において松山十善支会を催されていた。

 江戸時代の高僧慈雲尊者(一七一八-一八〇四)は、十善の教えは「人となる道」であると説かれた。十善会とは、その教えを継承する雲照律師が近代の世で十善を広めんがために、当初久邇宮殿下を上首と仰ぎ、通仏教で国民道徳の復興を目的に設立された一つの道徳的教会組織である。この碑は賑々しく沢山の稚児行列をもって催行された雲照律師三回忌法要の折に建立されたものであった。

 それから、その日特別に、庫裏の前に陳列されていたので、衛門三郎の名の入った石も拝見した。後から知ったのだが、その日は旧の四月八日で、茶堂前で甘茶の接待を受けた。どうりで参詣者が多いはずだった。

 そのあと参道の入り口付近で托鉢をさせていただいた。二時間ばかりの間に持参していた鉄鉢ならぬ木製の小さな鉢に入りきれないくらいの賽銭を頂戴した。

 そして、石手寺を後にして温泉街に入り、道後温泉本館の神の湯に入る。着替えをしているとあちこちからねぎらいの声を掛けられる。石の湯槽につかる。しみじみ道後の湯は肌にいいと感じた。お湯からあがり衣を着ていると、またお接待を頂戴した。草鞋を履いて歩き出すと心持ち身体も軽くなったように思えた。

 心も軽やかに温泉街を歩いていくと、通りの右側に山頭火が晩年を過ごした一草庵があった。ぐるりと庵の周囲を回ってみる。小さな家だが、管理が行き届いていて、窓から位牌や使われていた笠、鉄鉢などが見えるように並べられていた。

 一草庵を出て、国道へ進み、またすぐに左に続く遍路道を入る。次の札所五十二番は太山寺(たいさんじ)だが、道の途中先に五十三番円明寺に札を打つ。もとは和気西山の海岸に位置し、七堂伽藍を備えた大伽藍だったという。戦国時代兵火に焼かれ、江戸初期に須賀重久によって現在地に再建を果たした。

 本堂の厨子に貼られた銅板の収め札が有名である。慶安三年(一六五〇)江戸で材木商として巨万の富を築いた樋口平太夫家次翁が奉納したもので、家次翁は京都の五智山蓮華寺を再興したことでも知られている。

 余談ではあるが、この蓮華寺とは、江戸時代の学僧・曇寂(どんじゃく)(一六七四-一七四二)が住持した寺であり、曇寂は備後出身。草戸明王院で出家し、京都五智山に宗学を学び住持となり、明王院をも兼務した。弟子に備中寶島寺に晋住する梵学の大家で寛政の三書僧と言われる寂厳(じゃくごん)がある。なお、曇寂は経疏・事相に亘る沢山の著作を残しているが、備後國分寺には明王院現住曇寂書の「備後國々分寺鐘銘併序」が伝えられている。

 夕刻を迎えていたので本尊阿弥陀如来を拝して、急ぎ太山寺に歩く。山門をくぐったのに、延々と参道が続く。坂道にさしかかり、民家も軒を連ねる道を進むと、やっと右手に寺務所が見えた。お参り前なのに恐縮するが暗くなってきたので、この日は寺務所手前の通夜堂にお世話になることにした。      (全)

 


             



お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)二十九

                
『いつも恭しく
老人を敬う人は、
寿命、美、楽、力
の四事いや増す。』
(法句経一〇九)

 敬う心があってはじめて、その方から何事かを学んでいくことができると、昔スリランカの長老から教えられたことがあります。「仏前勤行次第」でも、まずはじめに合掌礼拝が教えられています。合掌し礼拝するのは敬う気持ちを表すためになされるのです。何よりもはじめに仏様にその気持ちを表してから次第が進行いたします。

 敬うべき存在があることは幸せなことです。私たちが生きていく上での手本となり、目標となり、その後をたどっていけるからです。だからこそ、いつも恭しく、私たちの先に生まれ、この世の中で苦労を重ねてこられた老人を敬い拝する人は、寿命も、美も、楽も、力も増すのです。

 先を歩まれた方に学び楽に生きるが故に長命を得て、心穏やかにあるが故に美がそなわり、周りの人たちと共ににこやかに楽しく過ごすことができ、生きる力もそなわると教えられているのです。                                                  (全)


 



┌─────────────────────────┐
│ 平成二十四年度 國分寺年中行事 │
│ 修正会並びに元旦護摩      元旦未明 │
│ 月例御影供並びに護摩供 毎月二十一日午前八時より │
│ 涅槃会並びに土砂加持法会    三月二十五日 │
│ 四国八十八箇所巡拝(土佐)    五月八〜九日 │
│ 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日 │
│ 高野山参拝         十月九〜十日 │
│ 四国八十八箇所巡拝(土佐伊予)  十一月六〜七日 │
│ 除夜の鐘 十二月三十一日 │
└─────────────────────────┘
 ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時
 ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時
 ◎ 写経会    毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時〜三時
 ◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時〜四時
中国四十九薬師霊場第十二番札所
真言宗大覚寺派 唐尾山國分寺
〒720-2117広島県福山市神辺町下御領一四五四
電話〇八四ー九六六ー二三八四
●毎月二十一日は「作務の日」です。 編集執筆
郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい
●備後國分寺HP http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/
◎今年はお涅槃の年、是非ご参詣下さい。また恒例の稚児 行列もございます。ご参加お待ちしています。

 

 



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