備後國分寺だより
備後國分寺 寺報[平成二十五年正月号] 第三十三号

 備後國分寺だより

発行所 唐尾山國分寺・寺報編集室 年三回発行

 


 

保坂俊司先生著『国家と宗教』を読んで

大乗仏教とは何か

 お釈迦様歿後五百年ほどして、一般大衆のための新しい仏教運動として起きてくるのが大乗仏教だと言われてきました。そして、大乗仏教は、仏滅一〇〇年目にあった根本分裂によって、上座部という伝統派の比丘(びく)と大衆部といわれる改革派の比丘との分裂をきっかけに起こったと過去に習った記憶があります。

 その大衆部の比丘たちから徐々に教えが開かれたものになり、大衆化して世俗化した教えが大乗仏教であるというのです。それから、もう一つの説が仏伝文学からの流れが部派仏教を越える思想に発展したとするものでした。

 そして、その後第三の説として、平川彰先生によって唱えられたのが、仏塔を護持し供養する在家の信者たちによって教えが語られ記録されて大乗仏教のもとをなしたとの説があります。しかし、それらはいずれも大乗仏教を仏教の側からごく一面を捉えて説を立てたものに過ぎないのだろうと思うに至りました。

 保坂俊司中央大学教授の著された『国家と宗教』(光文社新書)を読んでそのことを痛感したのです。先生は比較宗教学がご専門で、イスラム資料を渉猟されて何故インドから仏教が亡くなったのかを論証された先生です。

 そしてこの書では、なぜ大乗仏教がかくあるのかを西域からインドに侵攻して国家をなし、仏教を国の統治理念として採用したクシャーン朝などの仏教との関わりを詳細に検討することで明らかにされています。

 まず、仏教をインド全国へ宣布するアショーカ王について検討されています。アショーカ王のマウリア王朝のもとをなすマガダ国自体が実はバラモン教の原理を否定する地域であり正統バラモンからは蔑視される存在でした。アショーカ王も血統と階級を重視するバラモン教の視点からは異質な存在であったのです。だからこそ彼は平等と憐れみを説く仏教を必要としたのでした。

 そして、そのため仏教をインド世界で大きな社会的勢力に育て上げることが不可欠だったのです。すべての人の平等を説く仏教は当初一地域の教えに過ぎませんでした。しかし、他宗教に対して寛容な教えを政治的に利用することで、つまり仏教を政治思想として読み取ることによって、自己中心的な発想を超え、地域主義、血統主義など差別的な思想、認識を越えて国家の中枢の教えたるものとして採用されたのです。

 そして、王柱を立て、また岩などに法勅を刻むことで、インド全国に仏教は広まりました。その手法も、インド的ではなく、当時の先進国ペルシャの影響によるものであったと先生は言われます。

 このことはギリシャからインドに入った征服者においても同様であって、彼らが仏教に帰依したのは単に教えが素晴らしいということのみならず、インド社会にとっての異民族はすべて賤民であり最下位のカーストに属することになるので、宗教的救いにおいてその行いにより覚りありという点で誰をも差別しない仏教に帰依するほかなかったのです。

 その仏教がバラモン教にも増して、その思想性や豊かな文明を持つものである必要があったのです。そうして大乗仏教は発展を遂げるに至ります。

 外来の民族がインドに定着するために、彼らは仏教に普遍性を求め、その非インド系信者とその思想によって変化していったのであり、だからこそ大乗仏教はバラモン教から見て辺境の北西インドで隆盛するのです。特にペルシャの文化とその文明がそこには大きく影響するとしています。

 般若経典の膨大な量は、対するバラモン教のヴェーダ聖典に匹敵する典籍を求められたことが考えられ、儀式儀礼もインド古来の祭祀に対抗する大がかりな作法を求められたであろうと考えられます。また、沢山の諸仏諸菩薩もインドの神々のバリエーションにあわせたものとして生み出されていったと想像されるとのことです。

 西暦紀元前二世紀に国を興し、紀元後一世紀にインドに至る中央アジアに広がる大帝国となったクシャーン朝は、交易国家であったがために北西インドの交通の便の良さに注目し、インドのマトゥラーに宮殿を建設します。

 はじめは多様な信仰を保持したのですが、後に仏教の熱心な擁護者となり、仏像を造り、貨幣にまで仏像を刻み、経典を文字化して崇拝対象としました。そして国境を接して政治経済的結びつきの深いゾロアスター教などの多くの宗教との融合と、そうした新しい社会の出現によって仏教は大きく変革されるに至るのです。

 大乗仏教の菩薩の出現も、ゾロアスター教の「サオシャント」という、人々を利益する者を意味する、救世主がその起源として考えられると、岡田明憲氏の研究を引用されています。

 そして何よりも大事なことは、大乗仏教を代表する思想である「空の思想」こそが、この新しい社会にとって不可欠な思想として成長したのだと指摘されています。

 異質なるものの共存、多元的なあり方を認めつつ全体として緩やかな統一を形成する思想や方法論として、この空の思想がありました。いかなるものにも実体はないとするその理論が、自己を絶対化せず他の存在を認めるがゆえに、多種多様な思想の融合原理として有効だったのです。

 この思想を政治理念として採用することで、あらゆる対立の根拠を超越して、多民族多宗教などの共存社会建設が可能になったと先生は分析されています。

 さらに仏教は、経済・文化・芸術・医学・薬学・建築・土木工学に至るあらゆる文明を形成する諸要素を含み、各々の分野において指導原理となりうるものなのだと記されています。つまり大乗仏教とは、単なる宗教哲学倫理を遙かに超えた、一つの文明と位置づけられるものであると結論されています。

 そして今、二十一世紀に展開する宗教、ならびに文明の対立は大きな世界の不安材料となっているわけですが、先生は今こそこの大乗仏教の空の思想によって、その宥和を図るべく、日本人がそれを説き、世界に平和をもたらすべきであると提唱されています。

 なぜならば、日本こそ、仏教によって古来国造りがなされ、天皇を頂点として千年に亘り世界的にもまれに見る仏教外護者が政治の中心に常に存在し、国民一人ひとりに仏教がしみこんでいるはずだからであるということです。

 私たちは、今一度、自らと仏教の絆を見直してみる必要があるようです。仏教は単に儀式儀礼のものではありません。保坂先生が唱えるように、大きく国のあり方を決める政治思想として、また世界経済の動向を左右する経済思想たり得る思想体系でもあるのです。

 本書、『国家と宗教』のご一読をお勧めします。                (全)


大法輪平成二十四年十二月号特集

『知っておきたい天皇と仏教』掲載

 天皇のために行われる仏教の祈祷

看病僧

 はじめて仏教に帰依した用明天皇が病気になったとき、豊国法師を宮中に迎えて病気平癒を祈願したという。このように病者に寄り添い、看病から祈祷までする僧侶を看病僧、ないし看病禅師といった。

 奈良時代、広く読誦された『金光明最勝王経』は除病品第二十四に、身体の七種の組織構成を述べ、病気と食事の関係や治療法について記している。また、律蔵『十誦律』などにも看護に関する記述がある。僧尼は医学や看護の知識を有し、看病し法を説き祈願もしたのである。

玄ム(げんぼう)と道鏡

 聖武天皇の母藤原宮子は長年強度の神経症を患っていたが、それを快癒させたのは、唐から帰朝した玄ムだった。五千余巻の経典や多くの仏像を唐からもたらした玄ムではあったが、密教系の呪法や医薬の知識修得にも努めていたのであろう。その功績によって聖武天皇の信任を得て僧正となり、内道場(天皇家の持仏堂)に住した。

 玄ムは、左大臣橘諸兄の政治顧問として国分寺建立・大仏造営に深く関与するなど辣腕を振るう。しかし、いつしか専横となり僧の道を外れて九州太宰府の観世音寺に左遷されてしまった。

 そして、聖武太上天皇が不治の病に冒されたときには、東大寺を創建した良弁、興福寺の高僧慈訓などをはじめ、百二十六名もの看病禅師が招かれたといわれる。

 次の孝謙天皇の時には、宮中内道場で祈祷する看病僧として道鏡が頭角を現す。梵語に通じ宿曜秘法という占星術に基づいた陀羅尼を唱え女帝の病気を癒したという。道鏡は、大臣禅師から法王にまで昇りつめて直接政治に関わった。

 道鏡は重祚した称徳天皇と共に、それまで神仏混淆を避けてきた祭儀にまで仏教僧を招き参加させるなど、それまでの祭儀様式から逸脱したのであった。

看病僧から護持僧へ

 時代が変わると、これら看病僧による政治介入が天皇の権威そのものを損なうことが憂慮された。そこで、桓武天皇は看病僧という表現を改め護持僧と呼び、公的な一機関と位置づけた。

 護持僧は宮中内道場に出入りして宮廷の年中行事に奉仕し、天皇の心身に異常あるとき加持祈祷して天皇を護持したのである。おもに天台宗、真言宗の高僧が選ばれた。平安中期以降には、天皇が暮らした内裏清涼殿にある二間に夜毎伺候し、天皇の身体安穏を祈願したという。

 こうして、加持祈祷を専門に行う天台、真言両宗による密教が宮中に深く浸透していくのである。

天台宗の御衣加持御修法(ぎょいかじみしほう)

 延暦十六年(七九七)、最澄が内供奉十禅師(宮中で天皇の安穏を祈願し正月の御斎会で読師を勤める)に補任された。以来最澄は桓武天皇の護持僧として、毎日天下泰平と万民の豊楽(ぶらく)を祈り続けたという。天台宗では、これを長日御修法(ちょうじつみしほう)と呼んだ。

 そして特に国家の大事、特別の異変ある時、玉体安穏(天皇の身体健康)と鎮護国家のために「四箇(しか)の大法(たいほう)」が宮中にて修法された。

 四箇の大法とは、等身の七仏薬師を本尊として延命・息災・増益を祈る「七仏薬師法」、普賢延命菩薩を本尊として御産祈願・延命長寿などを祈念する「普賢延命法」、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅を本尊として天変地異を鎮静せしめ国家安泰を祈念する「熾盛光法」、鎮将夜叉(ちんじょうやしゃ)を本尊として諸魔退散・福徳増長により天下泰平を祈願する「鎮将夜叉法」の四つで、それぞれ大壇、護摩壇、十二天壇、聖天壇などを並置して修法される。

 その後、この四箇の大法は青蓮院、三千院、妙法院、延暦寺において順次修されてきた。しかし、明治四年に勅会廃止が布告されて断絶し、大正十年から比叡山根本中堂にて「御衣加持御修法」として再興されている。

 毎年四月四日から十一日までの一週間、天皇の御衣を奉安して、四箇の大法を毎年順次一法、天台座主(ざす)をはじめとする高僧が十七名出仕して一日三座厳修される。

真言宗の後七日御修法(ごしちにちみしほ)

 嵯峨天皇との個人的な親交によって朝廷の信任を獲得する空海は、承和元年(八三四)、宮中に真言院を建立し、毎年正月に「後七日御修法」を厳修することを奏請する。

 翌年、大内裏の中央・中和殿の西に真言院は竣工し、玉体安穏・皇祚無窮(天皇家の安泰)、そして鎮護国家・五穀豊穣を祈る勅修の大典として後七日御修法が厳修された。

 毎年正月には宮中前七日節会(ぜんしちにちせちえ)(神官だけが参加する神事)があり、次の日、正月八日より大極殿では御斎会(ごさいえ)が奈良時代から行われてきた。これは護国経典である『金光明最勝王経』を転読講讃する法会(ほうえ)であり、それに併せて密教の修法による国家護持をも図るべきであると空海は奏上したのであった。

 宮中恒例の厳儀となり、空海亡き後は東寺長者が大阿闍梨となって二十一人の高僧が出仕。本尊宝生如来の秘法を修する大壇と息災・増益の二種の護摩壇、他に聖天壇、五大尊壇など七種の壇で、一日三座七日間修法し、御衣加持が行われる。

 真言院壇所の東西に胎蔵界金剛界の両曼荼羅が掛けられ、その修法壇の前に御加持座(おかじざ)と御衣机(ぎょいづくえ)が置かれる。御衣机に置かれた御衣の加持が行われ、天皇がお出でになれば御加持座にお座りになられ、直接香水(こうずい)加持が行われる。これによって不浄なものを退散せしめ、玉体安穏が祈念されたのである。

 室町時代に戦乱のため約百七十年ほど途絶え、また明治四年に勅会廃止で中絶。再興運動により明治十六年から東寺灌頂院において御衣加持のみにて再興し、今日に至っている。

 また、宝寿無窮と鎮護国家のために修法された秘法に「太元帥法(だいげんすいほう)」がある。承和七年(八四〇)に内裏常寧殿にて初めて修され、後に後七日御修法の例に準じ、毎年正月に宮中において修法された。 

 太元帥明王を本尊として、大壇、息災・調伏の二種の護摩壇、聖天壇、十二天壇などを設け、大壇上には刀・弓・箭を四方に各二十三個、内側に八個の計百個並べる異常な荘厳をなす。今日では、天皇即位の翌年に後七日御修法に代わり東寺灌頂院にて修法される。

祝祷諷経(しゅくとうふぎん)

 鎌倉時代に伝えられた禅宗では、祝聖(しゅくしん)ないし祝祷諷経という玉体安穏と長寿を祈願する儀礼が行われた。天台、真言のような皇室との直接の繋がりはなかったが、毎月一日と十五日早朝に天皇の聖寿無窮が祝祷され、今日まで伝えられている。

 

皇族出身の僧

最初に出家された聖武天皇 

 皇族から初めて出家したのは、皇位の譲り合いで吉野に入った舒明天皇の皇子古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)であるという。そして、僧侶になった最初の天皇は、聖武天皇であった。

 聖武天皇は、天平二十一年(七四九)四月一日東大寺に行幸して、「三宝の奴」と自らを卑下し、未だ未完の大仏に北面して明(あか)き浄(きよ)き心をもって仕え奉る詔を奏上させた。

 そして、在位中はもちろんのこと仏教とは関係を持ちえないので、男帝としては初めて譲位。太上天皇(だじょうてんのう)となり出家に及んだ。同年七月、皇太后とともに僧行基について菩薩戒を受け、それぞれ勝満、萬福と称した。

 聖武天皇の曾祖父天武天皇は、天皇号を初めて採用するなど、自らを現人神と位置づける国家機構を作り上げたという。が、聖武は自ら出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、現人神の上に仏を位置づける新たな神仏の習合関係を規定したのであった。

 続く孝謙天皇も早くに譲位して出家、数年後出家の天子(称徳天皇)として重祚する。後に平城天皇もこの例に倣い出家後復祚を願われたがかなわず、その後出家の天子は居られない。が、仁明、清和、陽成と譲位後落飾(らくしょく)(出家)する天皇が続く。

 特に清和天皇は、在位中から仏道に精進し、譲位して東寺長者宗叡を戒師に出家。大和・山城・摂津の名山霊刹を巡幸し、苦修難行して俗世を厭い自ら膳を絶ち、三十一歳で崩ずるときには端厳なること神の如くと伝えている。

法皇の最初 宇多(うだ)法皇(ほうおう)

 譲位後落飾して仏門に入った上皇を法皇というが、法皇と称する先駆けとなるのは宇多天皇である。先帝の御遺志に奉じて仁和寺を造営し、譲位後、東寺長者益信(やくしん)を戒師に落飾。東大寺戒壇において正式な僧侶の大戒である具足戒(二五〇戒)を受けている。

 そして、仁和寺に入り三密修法に励まれ、延喜元年(九〇二)東寺灌頂院にて伝法灌頂(受者の頭頂に霊水を注ぎ、秘密究竟の印法を伝える儀礼)を受け、金剛覚と称し法皇となった。そして密教一流の法統を伝法され、智行学徳兼備の真言阿闍梨として、自ら真寂親王などに灌頂を授けた。

 その後も醍醐、朱雀、村上、円融、花山と法皇が続く。中でも、花山法皇は観音霊場を巡錫し、それが西国三十三観音霊場として今日まで継承されている。

院政期の法皇

 平安後期から鎌倉初期にかけて院政の時代に入ると、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の上皇は各々出家して法皇として院政を視た。法皇として別格の地位を得て、摂関政治からの脱却を計ったのである。

 四十三年もの長きにわたり院政を布いた白河法皇は、皇威の隆盛は修善によるとして、造像された仏像は一万余体。高野山御幸三度、熊野登山は八回に及んだ。

 また後白河法皇は、園城寺覚忠によって受戒し、特に『法華経』を愛誦し、熊野御幸三十二度をはじめ、高野山、東大寺など霊蹟を巡詣した。

 鎌倉後期になると、皇統が幕府の方寸に左右される苦難の時期を迎える。後嵯峨上皇は天台座主(ざす)尊助法親王(ほっしんのう)のもと落飾し、東大寺にて具足戒を受け、法皇として大覚寺に住した。

 次の亀山上皇は西大寺叡尊を召して『梵網経』を聴聞し、「弘安の役」に際しては西大寺など諸寺に勅して異国降伏(ごうぶく)を祈願した。落飾後法皇として大覚寺に入り、東大寺にて具足戒を受け、さらに伝法灌頂に浴している。

国家安泰を願う 後宇多法皇

 亀山天皇の皇子後宇多天皇は徳治二年(一三〇七)仁和寺禅助について落飾。東大寺にて具足戒を受け、大覚寺を仙洞(せんどう)(上皇御所)となした。翌年には伝法灌頂も受け金剛性と称して、自ら大阿闍梨となって伝法灌頂を七度開筵している。

 また、石清水八幡宮にて多くの公卿も受者として参列した結縁灌頂(壇上の曼荼羅に花を投じて仏と結縁する儀礼)を三度行じた。さらに、神護寺において八千枚護摩供を修法。同寺御影堂にて百日間参籠して修法祈念している。

 動かすべき兵馬のない朝廷にとって、仏天の加護によって、公武の対立、皇統の二統迭立、法流の分立など様々な並立を統一して、国家の安泰を一心に願ったのであった。

最後の法皇 霊元法皇

 その後南北朝時代にかけて、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇を除き、南朝北朝ともに譲位後落飾なさる天皇が続く。

 南北朝の動乱に翻弄された北朝第一代の光厳天皇は、長く院政を務めた後、西大寺求覚を戒師に落飾。河内金剛寺行在所にて禅の修行に入り、後に丹波常照寺の静寂の中、余生を送ったという。

 また後花園上皇は、応仁の乱の無益千万の修羅場を見たあと、にわかに捨世の念を抱き出家に及んだという。

 また江戸時代に入り、後水尾天皇は、紫衣事件などで徳川幕府に対する確執が原因となり譲位。学問詩歌を好み、五十五歳の時落飾されて法皇となり、歴代天皇の中で昭和天皇に次ぐ長寿を全うした。

 後水尾天皇の第十六皇子であった霊元天皇は、譲位後父帝に続き幕府の反対を黙殺して上皇として院政を執った。能書家で和歌の達人としても知られていたが、梶井門跡道仁親王を戒師に落飾し、最後の法皇となっている。

仏教に帰依された歴代皇室

 このように百二十五代の天皇のうち、実に四十五代もの天皇が歴史上法皇となった。落飾した皇后妃は、嵯峨天皇の皇后、檀林皇后をはじめとして七十余位。

 出家入道の皇子皇女は、平城天皇の第一皇子高丘親王が空海を戒師に弘仁元年に落飾し、真如と称したのをはじめとして三百余位に上る。真如親王は東大寺大仏の修理司検校(けんぎょう)を務めた後入唐。さらにインドに向かったがラオスで入寂したという。

 また、堀河天皇の第二皇子最雲法親王が初めて皇族から天台座主になるが、出家した多くの法親王ないし入道親王は天台、真言の門跡寺院並びに各本山寺院の門跡や座主となっている。

 日本の皇室は、世界に類を見ない仏教外護者として、千年にもわたり仏教を保護してきた。そればかりか、ここに縷々見てきたとおり、自ら身を投じて仏行に生きんとする数多の皇族出身の僧がいた。歴代皇室が、いかに深く仏教に帰依していたか窺われよう。               (全)


 ダライ・ラマ十四世   

『傷ついた日本人へ』 から 

 新潮新書ダライ・ラマ十四世『傷ついた日本人へ』(平成二十四年年四月二十日刊)を読みました。ダライ・ラマ法王は、東日本大震災後に何度か日本を訪問されていますが、一昨年十月には高野山に参詣され、同月三十一日には高野山大学創立百二十五周年の記念講演として特別講演をなされました。本書は、その時の講演内容を収録し再構成した内容となっています。

 当然のこととは言え、それは単なるお悔やみや励ましではなく、ただただシンプルな仏教論であります。平易な表現ながら素直に納得できる内容ばかりでした。

 ダライ・ラマ法王が言いたかったことは、「日本人の友たちよ、仏教の基本を学び給え。さすれば怖れること、悲しむことなどないであろう。ただ奮起せよ、努力すれば、自ずから救われよう。」ということでしょう。読みながら傍線を引いた重要箇所を以下に抜き書きしてみます。

『日本人は、日々仏教に慣れ親しんでいると思います。でも、その割に、仏教が何であるか、どんな教えかを知らない人が多い。

せっかく仏教と縁があったのに、とてももったいないことです。

宗教を学ぶことは、自分の人生を見定めることなのです。

自分の宗教だけが正しいと信じたり、他の宗教をバカにしたりすることも、まったく無意味なことです。

宗教を持たないと、精神を高めたり平和を願ったりという精神活動が疎かになりがちです。また、生きていくための指標や基準も見失いがち。そのままだととても貧しく寂しい人間になってしまうでしょう。

たとえば、宇宙はどうして生まれたのか、意識とはどのようなものか、生命とは何か、時間はどのように流れているかなど、仏教と科学には共通したテーマがとても多いのです。しかも、それらは現代の科学をもってしても、説き明かされてはいません。

瞑想ばかりして勉強を疎かにしている僧侶が多い。また、日本ではよく禅を組む修行が行われていますが、ただ座っているだけの人が多い。知識のないまま瞑想をしても意味はなく、悟りに近づくことすらできません。きちんとした勉強と瞑想があわさって初めて価値があるのです。

仏像も僧侶もあなたを救ってくれるわけではありません。あなた自身が自分の心と向き合わなくてはならない。自分の苦悩を取り除いて心の平和を得るには、自分で仏教の教えを学び、実践し、煩悩を減らす以外に方法はありません。

仏教では、死後も意識は消失せず、他の生命の意識として生まれ変わるものと考えています。これを仏教では輪廻と呼びます。意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続していくと考えられています。意識は何かから生み出されたわけでも、突然消失するわけでもなく、始まりも終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。

仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することは出来ないでしょう。唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。それは論理を超越した観念なのです。

論理と検証の結果、仏教が導き出したのが因果の法則です。

自分自身の存在も含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係し合っているのです。

因果の法則には三つのルールがあります。

第一のルールは、

因がないところに果は生じない。

第二のルールは、

不変から果は生じない。

第三のルールは、

因には果を生み出す素質がある。

果は同じ性質の因によって引き起こされます。よい因はよい果を引き起こし、悪い因は悪い果を引き起こします。

行為の影響、行為の持っていた力というのは、そのまま自分にも残り続けるのです。これを仏教ではカルマ・業と言います。その行為にこめられた力、はたらき、性質、そういったものを指して使うのです。

カルマは、いずれ自分の身に必ず結果を生み出します。

結局自分に起こることは、過去の自分がした行為の結果ということです。これを因果応報と言います。

因果に影響を与える条件や要素のことを縁といい、因と縁がそろったときに初めて結果が生じることを縁起といいます。

しくみのありようは複雑でも、因果やカルマの原理原則は変わりません。

一度してしまった行為は、決して取り消すことはできません。同じように一度背負ってしまったカルマが、勝手に消えることはありません。その人に深く根付き、積み重なっていきます。そして来るべきときに同じ性質の結果を生み出す力となるのです。要素や状況が整いさえすれば、必ず結果が生じます。

因果の法則やカルマの影響は、死後も変わることがありません。輪廻はこれを反映した考え方なのです。

私たちは日々生きていく中で、多かれ少なかれ悪い行いをしてしまうものです。そうやってたまった悪いカルマは、一体どうすればいいのでしょうか。その答えは、少しでもよい行いをしてよいカルマの力を増やすようにするしかありません。よいカルマが増えれば、それによってよい出来事が引き起こされ、悪い出来事が起こる条件を遠ざけるようになります。

(震災・津波・原発事故など)強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。

はるか何世代も前から積み重なっていたものでもあります。そう考えれば人類全体の因果応報といえます。たとえば、自然を破壊し、コントロールしようとしたことが影響しているのかもしれないし、物質的に豊かな生活を求めすぎたことが影響しているのかもしれない。

(先の戦争から)こうして復活を遂げた日本の皆さんですから、今回も同じように復興を遂げ、さらによい国づくりをなさる力がある、そう私は信じています。日本人は大変勤勉な国民性と強い精神力を持っているのです。

この事実に悲しんだり、怒ったりし続けるのではなく、この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えていって下さい。』


四国遍路行記S 

 仙遊寺から国分寺へ

(平成二年三月から五月)

 栄福寺から次の五十八番仙遊寺までは二.四キロ。すぐだと思うとなかなか目的地が見えてこない。この時にも、すぐ前に見えそうな気がするのだが、お寺らしきものは視界になかった。南に向いて遍路道を歩いていくと、間もなく、犬塚池があって小さな社が祀られていた。池の右側を通って進むとその先に小高い土手があり、その先に山が見えてくる。遍路道の矢印はその山を上がれとある。

 平坦な道がしばらく続いていたので久しぶりの山道だった。そんなに上に登ってきたわけでもないのに遮るものがないからか、坂道の途中できれいに今治の市街が見渡せた。頂上付近に来るとお堂が姿を現す。手前に本堂、その先に小さなお堂があってその奥に大師堂。作礼山という三〇〇メートルの山の頂にある仙遊寺は、天智天皇の勅願寺だという。

 本尊は千手観音。天智天皇の守護仏と伝えられている。やや暗い本堂に足を踏み入れ理趣経一巻。唱えていたら、本堂の奥にこちらを向いて阿字観本尊が置かれていた。阿字観とは、真言密教の瞑想法で、という石塔の頭に書かれる梵字のアを見て心に映像化しそれを宇宙大に拡大させたり縮めて胸の中に納めたりする。高野山で阿字観瞑想の課外授業を受けていたこともあり、また、住まいにも阿字観本尊を置いていたこともあって、唱えている間中、阿字本尊を何度も眺めた。

 寺号については、阿坊仙人という行者が四十年間も参籠し、ある時仙人の遊ぶ姿が雲とともに消えてしまったと言われ、それ故に仙遊寺と名付けられたという。平安初期に荒廃していた伽藍を弘法大師が再興して栄えたと言うが、昭和二十二年に山火事で本堂焼失。同二十八年に二層の破風の付いた本堂が昔のままに再建された。なかなか札所でなければ参れそうもないところにあり、仁王門から上に揚がろうとすると、鎖の付いた急斜面を這い上がるような道があり、仙人の修行場としての面影をとどめている。

 広いとは言えない境内を一巡して、来た坂道を下る。五十九番国分寺まで約六キロ。平地にかえって東に一路進むと国道に出た。その国道を今度は右に曲がって三十分ほども歩くと、道沿いにお地蔵さん方がいくつも祀られていた。その左側に国分寺の参道があり、礎石がゴロゴロした国分寺旧跡が見えてきた。一段上の境内には四国の札所らくし正面に立派な本堂と右に大きな如意宝珠を宝形造りの屋根にのせた大師堂があった。

 本堂も大師堂も夕刻せまっていたからか閉まっていた。ありがたいことに本堂と大師堂の間に欄干に作り付けた椅子があった。一目散に歩いてきたので椅子に腰掛け、お経を唱えた。本尊薬師如来。行基作の本尊がかつて安置されていたと言われ、百メートルほど東側に位置していたという奈良時代の七堂伽藍には巨大な円形の礎石などが残り国指定の史跡となっていた。源平の合戦でも焼失したとされ、何度か衰退と復興を繰り返してきた。現在の伽藍は寛政年間に再興されたという。

 大師堂のお詣りも済ませると、暗くなってきた。玄関にお訪ねして一夜の宿をと頼んでみたものの、お堂の縁でやってくれとすげなく断られた。とぼとぼと国道に引き返し、先に歩を進めてみたものの足に元気がない。それでも二十分ほど進むとかつて国分尼寺と言われた法華寺が見えてきた。

 同じ口上を玄関で述べてみると、若い男性のご住職が「よくお詣り下さいました」と中に案内して下さった。夕飯は、お風呂はと、さらに布団に乾燥機まで差し込んで下さって、申し訳ないほどのお接待を受けてしまった。夕食は途中買い込んでいたので、それを食べてお風呂をいただき、早々に日記を書いて寝込んだ。

 翌朝、住職が弘法大師の修法をなされているので、お経を上げさせていただいた。行法途中に外へ出て、庫裏におられた方へお礼を述べた。

 外は冷たい雨だった。国道沿いの歩道を歩く。次の六十番横峰寺までは二十七キロもある。先が見えないまま、草鞋に冷たい水がしみる。お腹が鳴る。九時過ぎにやっと道沿いに小さなマーケットがあり、何かご飯ものはと問うと手巻き寿司をお接待下さった。お店の電気ストーブに身体を温めながらお寿司を食べた。

 お昼近くになると雨は止み、歩くのに丁度良い薄曇りの中一路横峰へ。途中遍路道沿いの東予市楠というところに道安寺というお寺の看板が目に入った。急に真言密教学の碩学三井英光師の自坊に違いないと閃いた。三井先生は新潟のご出身だが、東予市の神宮寺に住職され、高野山の伽藍、奥の院の維那(ゆいな)を歴任された。いまは、こちらを隠居寺にしていると聞いていた。おそるおそる玄関にいたりチャイムを押すと、どうぞと本堂に案内された。

 少し待っていると小柄だがしっかりした体格の三井先生が現れた。当時九十歳になろうかというご高齢であった。拝むように挨拶をさせていただき、いきさつを話すと心安くいろいろとお話し下さった。その時その時を一生懸命に生きてきた、拝んでこられたという風格が感じられた。真言は意味を取った上での真言でなくてはいけない、阿字観はになり切らねばならない、など心に響くお言葉を頂戴した。気がつくと一時間半も経っていた。帰り際に二冊の本を頂戴し、遍路道に戻った。           (全)


《寄稿》

法道寺の磨崖仏

 久しぶりに下御領の法道寺の磨崖仏を訪ねた。磨崖仏は法道寺地内の渡辺氏所有の山の裾にある。墓地の裏から数メートル登ったところに、いくつもの巨石があり、その中でもひときわ大きい岩に、一メートル角もある二体の仏像が彫られている。石像はかなり風化しているがはっきりとわかる。向かって右は不動明王で、左は神変大菩薩(修験道の創始・役行者)である。そこからさらに十メートルほど登ったところにも磨崖仏がある。仏像は薬師如来と思われる。どちらの磨崖仏にも屋根と祭壇が付設されている。

 『福山志料』に、「山伏あり」という記述があるが、この聖地は修験者の道場であったのであろうか。現在の山の所有者、渡辺氏は今でも年に一度は國分寺住職によるおまつりをしているという。

 『御野村郷土史』には法道寺の由来について次のように記述されている。

(要約)《法道寺は正式には、「愛宕山華曼院法道寺」と号す天台宗の修験寺で、後深草院御宇三条右大臣藤原法道公が宝治二年(一二四八)開基造営したと伝えられる。ご本尊は、釈迦如来・不動明王である。

 古文書の中に、神辺城主杉原盛重より寺領十貫給付の趣旨がある。また、水野家の時より、例年六月朔日に、その年の新米を献上したとあり、この米は山王前町の田圃から収穫された米で、灌漑用水は護摩谷の湧水が引かれ、この水は枯渇したことがないと記されている》

 往時、法道寺は由緒ある寺で格式も高く、領主の庇護を受けていた。往時は三条家の幔幕を門に張ると駕籠や馬に乗ったまま門前を通り過ぎることが出来なかったと言われている。領国に一大事が起これば、山伏たちが錫杖を振り、法螺貝を吹き鳴らしながら加持祈祷をして領国の安泰を祈ったことであろう。

 また、同誌には付言として、《御領は、その地名や、耕地道路の整備と耕地名称により、皇室○○院直轄地で、その司宰貴紳の駐在せし所と推定せらる。後、鎌倉時代、長講堂領地として永遠に伝承せしめんために仏寺を創立し、もって長講堂領地を保護せしものなるに、乱世に及び終に荘園となり仏寺も漸次衰微せしものならん。》とある。

 昭和の初めころの当主三宅陽三先生(小学校の先生や、後に御野村長をされた。昭和十三年歿)のことや、昭和三十年頃まで、法道寺の庫裏の一部が残っていたのを記憶している方もある。現在は往時を偲ぶよすがもないが、歴代ご尊霊は國分寺墓地に宝篋印塔にして祀られ、ご子孫は関西にお住みになっていると聞く。

 法道寺が、御領にとって重要な遺跡であるということをあらためて認識した。            (B)

(※長講堂領地 後白河法皇の持仏堂である法華長講三昧堂に付属した所領)

参考文献 御野村史、御野村郷土史 


 お釈迦様の言葉(Voice of Buddha)  【三十二】     

 たとえ悪しき行為をなすとも、

 善にてこれを償わば、 

 よくこの世間を照らす。

 雲を出でたる月の如し。

      (法句経一七三)

 この偈文にある悪しき行為とはどんなことでしょうか。私たちが勤行次第の中で唱える十善戒の、そのそれぞれの項目から不を取り除いたものが十悪です。悪しき行為とは、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見のことです。

 私たちは生きている限り、悪しき行為を意図して行わずとも、気がつくとそのような行為に及んでしまっているということもあるでしょう。人の営みには悪事がつきものと言っても過言ではありません。

 つい急いでいて、道を横切る動物や昆虫をひき殺してしまうこともあります。つい人の言ったことを自分の考えのように話してしまうこともあるでしょう。公共のものを出来心から持って帰ってきてしまったということもあるかもしれません。人の言うことに反発して思わず汚い言葉を返してしまうこともありがちなことです。

 たとえそうして悪しき行いをしたとしても、それが悪業となって何をしてもダメというものではないことをこの偈文は教えてくれています。

 どんなに悪いことをしても、例えばこの偈文の因縁物語には、かの有名なアングリマーラとして知られる凶賊が登場します。アングリマーラは、多くの人々を殺してその右指を首輪にして吊すほどの悪事を働いたのに、お釈迦様は僧院に連れ帰り僧侶にして、善行で償わせ、さとらせてしまわれたのです。

 その場合の善とは、阿羅漢という最高のさとりを得るほどの高度な瞑想修行を指すのです。が、私たちはそこまでのことは出来ませんけれども、出来うる善行為を行うことで、過去の悪しき行為のマイナスは薄めていけるのだと教えられているのです。

 ところで、タイで修行されていた故チンナワンソ藤川師からかつて聞いた話では、タイのお寺にはよく、やくざ者が沢山の寄附をしていくのだそうです。ある時どうしてお寺にそんなに寄附するのかと問うと、普段している悪事を相殺するためだと答えたと言います。

 悪事を働くために善を施すのでは本末転倒です。やはり、少しばかりの悪事はどうともなるなどと考えてはいけないのです。ですが、過去になしたことに思い悩み、後悔ばかりして暗い心で日々を過ごすよりは、それよりたくさんの善いことをして明るく生きようと考えた方がよいのだと、この偈文は教えてくれています。    (全)


【國分寺通信】 謹賀新年 帰依三宝

○毎月第二金曜日は、平成十三年から「仏教懇話会」を続けております。仏前勤行次第の話、般若心経のやさしい解説、インドから日本にいたる仏教の歴史、時折々の関心事についてなど一時間程度のお話をしております。また、年に二回ほどはビデオ鑑賞もいたしており、過去には『NHKスペシャル空海の風景』『映画・天平の甍』などを上映してきました。どうぞお気軽にご参加下さい。本年度の予定は、一月十一日、NHKスペシャル・チベット死者の書ドキュメンタリー・『仏典に秘めた輪廻転生』上映。二月八日、同 『死と再生の四十九日』上映を予定しています。人の生と死を映像化した貴重なビデオです。是非、足をお運び下さい。

○四国八十八箇所巡拝と高野山参拝は、神辺の真言宗七寺院で神辺霊場会と称して合同の団体参拝を行っております。高野山は日帰りと一泊二日を隔年で行っており、昨年は高野山総持院に宿泊し二日目は西宮門戸厄神東光寺と総本山須磨寺に参詣しました。須磨寺では格調高い一絃琴の鑑賞を楽しみました。お四国は個人で参詣される方もあるようですが、大きな声でともに読経し御詠歌を唱えながらの参拝も良いものです。是非お気軽にご参加下さい。                                                                                                                            合掌


 平成二十五年度 國分寺年中行事

 修正会・元旦護摩祈祷      元旦午前零時

 土砂加持法会          四月七日

  正御影供・四国御砂踏み      四月二十一日

 四国八十八箇所巡拝(伊予讃岐)  五月八日〜九日

 万灯供養施餓鬼会      八月二十一日

  四国八十八箇所巡拝(讃岐) 並びに高野山参拝     十月九日〜十日

 除夜の鐘 十二月三十一日


   ◎ 御影供・護摩供 毎月二十一日午前八時〜九時

  ◎ 座禅会    毎月第一土曜日午後三時〜五時

  ◎ 仏教懇話会  毎月第二金曜日午後三時〜四時

  ◎ 写経会    毎月第二金曜日午後二時〜三時

  ◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時〜三時

  ◎ 御詠歌修道会 毎月第四土曜日午後三時〜四時

   ●備後國分寺HP・リニューアルしました。

              http://www7a.biglobe.ne.jp/~zen9you/

 ●ブログ【住職のひとりごと】月一、二回更新しています。

 □郵便振替口座01330-1-42745(名義國分寺) ご利用下さい


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