備後國分寺だより

備後國分寺寺報 [平成十四年盆] 第四号



 
備後國分寺だより




ワールドカップに沸く

 アジア初、日韓共催サッカーワールドカップが、暑い日本をさらに暑くして閉幕した。

 数年前までサッカーになど全くといってよいほど関心の無かった私も、日本代表の試合を欠かさずに見るようになったのは、前回のワールドカップ予選あたりからだろうか。それでも、ヨーロッパ、南アメリカを中心に全世界的に熱狂するワールドカップが、なぜこれほどまでに多く人々の心をとらえるのかが実のところよく理解できなかった。

 しかし、このたび開催国となって、老若男女を問わず、サッカーの分かる人も分からない人も、日本代表をはじめ地元でキャンプを張った国など、縁のある国の試合に見入り、応援に沸く人たちを見ていると、こちらも自然と胸熱くなるものを感じざるを得なくなっていた。

 特に全国の青いユニフォームを身につけた若者たちの興奮を見るにつけ、これほどまでに彼らが一つになって、特に日本という国を応援する姿に、私も自然と共感していた。

 しらけの世代、フリーター感覚で自分が本当は何をしたらよいのかわからないといった今の若者たちにとって、終わった後のことは別としても、とにかく今そのときに本気になって取り組めるものがあるという喜びに、私もともに喜びたいと思った。

 少し前のことにはなるが、ある世論調査で「もしも戦争が起こったとしたら、あなたは国のために戦いますか」という問いかけに、多くの若者がノーという回答を寄せたことを思い出す。もちろんサッカーの応援と戦争を同レベルに論ずることなどできないが、少なくとも国の一員であるという意識が若者たちにないわけではないことを、この度のワールドカップは教えてくれたように思う。

 国のため、国旗を背負って頑張っている選手の姿に拍手喝采を叫んだ人たちすべてが、あらためて、なぜ自分がそれほどまでに応援したのか、その意味をつかんで欲しい。そして、今度は誰もが自らのグラウンドでゴールを目指して欲しいと思う。少しでも日本が元気を取り戻してくれることを期待しつつ・・・。


●お薬師さまの話●

 お薬師様にはふつう日光菩薩、月光菩薩、それに十二神将という脇侍がおられます。

 國分寺のご本尊様は本堂正面のお厨子の中におられますが、日光月光の両菩薩もともに同じお厨子の中にお祀りされています。そしてそのお厨子の両脇には六体ずつ十二神将がおられます。

 これら脇侍は、お薬師様をお助けする役目をもつのではありますが、単にお薬師様を守るということだけでなしに、お薬師様を慕いその教えに生きるものたちをも助ける役割をもつと言われています。

日光、月光菩薩は、日と月で、太陽とお月様のことですが、お薬師様のおられる浄瑠璃世界のいとなみをつかさどる菩薩であり、昼の世界夜の世界の摂理をこのお二人の菩薩でととのえ、常にいかなる時代にもお薬師様の威光が衰えることなく、瑠璃の光の輝きが失われないように守っておられると考えられています。

 また、十二神将は、みな甲冑に身をかため、怒りの相を示しているインドの神様です。そして、國分寺の本堂にお祀りされている十二神将にはみなそれぞれの頭頂に十二支をいただかれています。これは、一日を十二に分けてそれぞれ子の刻、丑の刻等々をおのおの受け持ってお守りしていることを表しています。

 ところで、皆さんよくご存知の、あの有名な讃岐の金比羅さまは、実は、この十二神将の中の、子の刻を守る宮毘羅大将のこと。もとは、インドの水の神クンビーラ神であり、クンビーラとは鰐のことです。ですから、昔から金比羅さまには海上安全を祈願する人が絶えないのです。

 本堂にお参りの際には、お薬師様の脇侍がたもよくご覧になり、しっかりお参りいたしましょう。


仏教ってなにー四

 仏教に奇跡なし、などと言いまして、キリスト教などに比べ、仏教というのは何か無味乾燥な面白みのない教えのように考えられがちです。ですが、仏教に奇跡がないというわけではなく、お釈迦さま自体が奇跡や神通力と言ったものを全くと言っていいほどに重視されなかった、または無関心であったと言うことができます。

 お釈迦さまは、サールナートで初めて教えを説かれ、その地に留まってベナレスの良家の青年たち五十人あまりをさとらせてから、かつて苦行に励んだウルヴェーラという町に一人で向かわれました。当時その地には火の神をまつることで解脱すると説く、有名なカッサパという三人兄弟の行者がおり、国王はじめ世人から絶大な尊敬を受けていました。

 そこで、お釈迦さまは、彼らの草庵を訪ね、悪竜が棲むという火堂に泊まり、害を与えようと攻撃してくる悪竜を慈心三昧によって逆に調伏し、やさしい無毒の小蛇にしてしまったということです。翌日、驚いたカッサパではありましたが、まだお釈迦さまの力量に気づかず、そのためお釈迦さまはさらに様々な神変をあらわされたと言われています。

 それによって、その人格と法力に屈服したカッサパ兄弟は弟子千人を連れてお釈迦様のもとで出家し、これによって発足間もない仏教僧団が一気に千人もの大所帯となり、仏教が世に知れ渡ることになったのです。

 このように経典の所々にはこうした神変奇瑞について記されてはいても、当のお釈迦さまはそれらに対して全くクールな態度であられたようです。

 あるお経には、神通力のあるお坊さんに食事の供養をしたいと申し出る信者に対して、真実の奇跡とは、変身術的な神通や読心術的な預言などではなく、人々の心の中にある煩悩が滅する知恵の完成にいたる仏教の実践、これこそがさとりに資する最上の奇跡であると教えられています。

 あくまでも、私たちが真に幸せになるために、この世の真理を知るにはどうしたらよいのか、何を私たちは求めるべきかを追求されたお釈迦さまらしい、だからこそ信頼するに値するお釈迦さまの姿勢をあらわしている点であろうと思います。 


お釈迦様の言葉-三

われわれはこの世で死ぬべき存在である、
と知らないものあり。
しかれども、もしそれを知るならば、
争いはしずまるなり。
(法句経第六偈)


 私たちは、若さや健康に慢心し、生まれてきた以上死なねばならない存在であるという現実を忘れがちです。それが故に、本来なすべきこともせずに、五感の刺激に翻弄され、目の前の損得にかられ相争い、貴重な時間を無駄に過ごしています。

 お釈迦様の時代、お坊さんとしてなすべき研鑽を忘れ、派閥の主義主張を譲らず、争いに興じていた弟子たちを戒めたのがこの偈文であると言われています。

 他を嫌悪する心、他をないがしろにする心、争う心、欲や貪りの心をもったまま死を迎えるべきでないことはもとより、来世にもっていくべき功徳を積み、真に清らかな心を育むためには、私たちの一生はまことに短いものといえます。

 私たち誰からも失われつつあるこの貴重な時間を大切にすべきことを、この偈文は教えてくれているようです。

◎毎月第四水曜日午後三時〜四時、仏教懇話会を國分寺会館にて開いています。
お気軽にご参加下さい。
◎御詠歌を新たに習いたい方を募集いたします。
来年の土砂加持法会に向けて講習会を開きたいと思いますので、お誘い合わせの上ご参加下さい。

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