國分寺仏教懇話会は、平成13年5月からスタートしたやさしい仏教のお話会です。
日頃接している仏事でも意外とその意味や起源は知られていません。
身近なところから仏教の話を通して楽しく学ぶ会として発足しました。
以下に懇話会でのお話の要旨を掲載いたします。
毎朝仏壇を前にお唱えしたり、法事の際にお唱えする仏前勤行次第(これは真言宗で用いられている在家勤行次第を使用しています)の内容について、一つ一つ解説しながらその意味内容や構成についてお話ししてみようと思います。
はじめに、お経は耳で読めと言われています。一人でお唱えするときも多人数で唱えるときにも、唱えているお経に耳を澄ませ、心落ち着かせてお唱えするものです。
特に大勢で唱える場合には、みんなで一つのお経を唱えているのですから、周りの人のお経に合わせ、速すぎず遅すぎず、高すぎず低すぎず、中庸の声でお唱えいたしましょう。
仏壇の上段にお祀りしたご本尊様、また檀那寺にお参りした際の本堂のご本尊様、さらには法事の際に十三仏の掛け軸に画かれた回忌にあたる本尊様など、そのときどきに応じて、仏様に合掌礼拝してからお参りが始まります。
本来はただ合掌するだけではなく、五体投地と言って、額、両肘、両膝を地に着けて礼拝するべきものです。その昔、お釈迦様にお話を聞いていただく際には、みなお釈迦様を右回りに三回周り、正面に立って合掌し五体投地礼を三度して、それからご挨拶をしたと言われています。
インドでは、今も「ナマステ(こんにちは)」と挨拶するときには合掌して頭を下げるのが習慣になっていますが、さらに尊敬する学校の先生や宗教者には、右手でそのお方の足を触りその手を額に着けてから合掌し挨拶をする光景によく出くわします。
仏前勤行次第をお唱えするときには、合掌し頭を傾げる程度でも宜しいのですが、丁寧にする場合は、お唱えする場所に座るときに先に投地礼を済ませておくとよいでしょう。
ところで、私たちが仏様を前に心新たに合掌礼拝するとき、私たちの心にはどのような心が生じているでしょうか。私たちの心の中を知り、広大なる智慧と慈悲を抱かれたお方であり、過去も未来もお見通しの尊い仏様を前に、ただ何かお願いする気持ちを抱くだけでなしに、その仏様の偉大なることを知れば知るほど私たちの心には、その仏様を前にして日頃の過ごし方を反省する懺悔する心が生じ、そしてまた、仏様に対する帰依の心が、さらにはこのただ今より正しく生きていこうとする誓願の心が生じてくるのではないでしょうか。
礼拝によって生じたそれら三つの心をそのままに唱え表明するのが、この次の懺悔であり、三帰、三境、十善戒であると言うことが出来ます。
懺悔と言う字は、仏教読みでは「さんげ」と読むことになっています。
私たちは誰もが好ましいものには欲の心を生じさせ、貪りをおこし、好ましくないものには嫌悪感を生じ、怒りの心を起こします。ものの道理をわきまえずに様々なストレスを生じトラブルを起こします。そうした日常の様々な心から生み出す身と口と意による過ちについて仏様を前に改めて自ら反省をするのが、この懺悔文です。
忙しい日々の中で自らの行いや心の中を観察するというのは、そう簡単なことではありません。仏壇を前に、またお寺にお参りし本尊様を前にしたときには、心静かに日々の行いを自ら振り返る意味でこの懺悔文をお唱えしたいものです。
仏法僧の三宝に帰依することを宣言するのがこの三帰依文です。
仏宝とは、世間の苦しみやその苦しみが起こる原因を知り、その苦しみからのがれた最高の悟りとその悟りにいたる道を知っている仏様のことであり、
法宝とは、世界に最高の平安と利益をもたらす仏様の教えであり、
僧宝とは、その教えを守って生き、教えを学び研究し伝え、仏教信者たちを教え導いてくれる僧団のことです。
三帰依文は、これら三つを自らの宝として、敬い尊敬し、よりどころとすることを表明することになります。この三宝に帰依することは仏教徒としての条件とされており、つまりはこの三帰依文をお唱えするということは、自ら仏教徒であることを仏様に誓う言葉でもあるのです。
三帰依文に、「未来際を尽くすまで三宝に帰依します」とありますのは、今生の終わりますまでということになりましょうか。
つまり三帰は死ぬまで仏教徒として修行いたしますということになるのですが、この三境には、「とこしなえにかわることなからん」とありますように、その三宝への帰依を次の来世にあっても、更にその次までも輪廻を続ける限りにおいて続けてまいりますということの宣言と見なすことが出来ます。
前回申し上げましたように合掌礼拝の意味しますところの三つの心・懺悔、帰依、誓願の誓願の部分をなしますのがこの十善戒です。十善戒は、単なる戒として受け取るものではなしに十善業道とも申しまして、そのまま私たちの生きる指標としてあるべきものです。
私たちの行いを仏教では、身と口と意の三つからなるとしていまして、それらを三業と言いますが、身の行いに関する善行が、不殺生、不偸盗、不邪淫で、口の行いに関する善行が、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌で、こころに関する善行が、不慳貪、不瞋恚、不邪見ということになります。
ですから、ただ殺生をしないとか、盗みをしないという戒めとしてではなく、たとえば不殺生戒であれば殺生の対極としてある慈悲の善行を積極的に行うことを仏様にお誓い申し上げるものなのです。
このように十善戒は悪い行いをしないということではなく、より積極的に善行を施していくものとしてありますので、私たちの日常のあるべき姿勢、いかに生きるべきかということを示してくれていると言えるのです。
昔お釈迦さまの時代に生地を染めるときに、まずはその生地に付いている汚れや色を洗い流し、真っ白になってから思い思いの色に染めていかれたといいます。
白浄の信心をおこしてとは、まさにこの色を染める前の状態のようにまっ白な清らかな心で、ひたすらにさとりに向かって仏道に精進することをお誓いするのがこの発菩提心です。
このご真言は正確には、オーン・ボーディ・チッタン・ウトパーダヤーミといいまして、その意味するところは、「オーン、我はさとりを求める心をおこしたり」となります。
自分自身を仏の子と自覚し仏様の慈悲の御心を信じ、仏と我が二つであって二つでない、ひとつのものとしてとけあっていると思って、他を利益する菩薩行に邁進せんとするのがこの三摩耶戒です。
このご真言は正確には、オーン・サマヤス・トバンといいまして、その意味するところは「オーン、汝は(如来と)平等なるものなり」となります。
真言とは、その昔インドの諸神を賛嘆し徳を讃える賛歌としてあったもので、儀礼の際に唱えられたものです。仏教では、如来などの真実かつ虚妄ならざる言葉として真言と言うのであります。したがいまして、仏前勤行次第の中で、こうしてご真言としてこの発菩提心真言、また三摩耶戒真言をお唱えするということは、すでに仏様に向かって、自分はさとりを求め真剣に努力し、既に仏様と一体である、ということを申し上げていることになるのです。
毎朝のお勤めの際には、その意味するところを改めてかみしめつつお唱えし、心静かに仏さまと一体であるという心持ちになっていただければよろしいのです。
お経をお唱えする前に読まれる偈文です。
どのようなお経をお唱えするときでも、たとえ何度もお唱えしたことのあるお経であったとしても、今まさに、ここに、この得難く有り難いお経にまみえることができたという感激とともに、この教えを自ら体得するのだという決意を仏さまに申し上げるのが、この開経偈です。
お経に親しめば親しむほど、お唱えしているときに様々な事を考えたり、思い出したり、心が散漫になりがちな私たちではありますが、そうした心の習慣を戒めて下さる偈文として受け取られるとよろしいのです。
般若心経は、我が国では一、二の宗派を除き、どこの宗派でも大変尊重され、どこへお参りしましてもお唱えされ、また写経されています。ですが、これほどまでに心経が何にもまして有り難く用いられている国は他になく、やや偏重に過ぎる感もいたすほどであります。
心経の前にあります和文は、お大師様の著作「般若心経秘鍵」からの抜き書きでありまして、心経は、広く仏教また真言宗(密教)の教えにとってもその肝要なるものであり、お唱えし、自らの教えとして受け取り、他に教え、また供養するならば、苦しみが楽に転じ、さらに、心経の教えにしたがって沈思黙考、坐禅瞑想するならば、さとり(成道)を得ることも、超能力(神通力)を発起することさえも出来るとあります。
そして世の中を明るく幸せに導く教えであり、私たちの人生にとって指針となるこの心経の功徳を仰ぎ尊び心を込めてお唱えします、とここで申し述べ、あらためて心経を唱える意義を確認するのです。
心経については、ここでは簡単に、観音さまがお釈迦様の智慧第一と称されたお弟子サーリプッタに対して、さとりの智慧を完成させるためには「空」に徹すべき事を説いた教えであるとだけ述べておきます。
「空」とは大乗仏教を通して重要なキーワードですが、その意味するところは、すべてのものはいろいろな原因条件の下に仮に存在しているに過ぎないということ。すべてのものは氷のように、温度が上がれば水にもなり水蒸気として消えていくものである、そのようなあり方を「空」と表現しているのです。
悩み苦しみ多い私たちではありますが、それも「空」、絶対的なものではありません。いずれ水のように流れ、水蒸気のように蒸発して行ってしまうもの。思いわずらうことなく、すべき事をしたらよろしい、と心経は諭してくれているのです。
なお心経全体については、稿を改めて詳述したいと思います。
この十三仏は、室町時代頃に中国の十王信仰から発展し形成されたもので、人が亡くなってから初七日、二七日という具合に忌日をきざむ際の御本尊として、まとめてお祀りをされる仏さま方です。
七日参りをはじめ年忌法要の際にはそれぞれ該当する仏さまにお参りしてその仏さまのお徳を頂戴するのです。
初七日までのご本尊不動明王は怒りの形相で、故人の今生への執着、様々な思いを断ち切って下さる仏さま。ご真言の本来の発音とその意味は次の通りです。
不動明王 ナマッ・サマンタ・ヴァジュラーナーム・チャンダマハーローシャナ・スフォータヤ・フーム・トラット・ハーム・マーム
帰命 普く 諸金剛に 暴悪な大忿怒者よ (煩悩を)破壊せよフーン
二七日から四七日までは、釈迦三尊にお参りして仏教に新たに入門して頂くのです。お釈迦様に帰依礼拝し、文殊の智慧と普賢の慈悲という仏教にとって不可欠な徳目を学ぶべくお参りします。
釈迦如来 ナマッ・サマンタ・ブッダーナム・バァフ
帰命 普く 諸仏の中の 釈迦牟尼世尊に
文殊菩薩 オーム・ア・ラ・パ・チャ・ナ
オーム、五字尊に(真実を見開く智慧に)
普賢菩薩 三摩耶戒真言と同じ
五七日は、私たち六道に輪廻する衆生を見守りお救い下さるお地蔵さまにお参りします。地獄の責め苦に苦しむ衆生や、三途の川の賽の河原に迷う子供もお救い下さると言われています。
地蔵菩薩 オーム・ハハハ・ヴィスマエ・スヴァーハー
オーム、ハハハ(歓喜の笑い声)勝れたものを体得した尊よ、幸あれ
六七日は、お釈迦様の説法に漏れた衆生を済度して下さるために、遙か五十七億六千万年も後にこの地上に現れると約束されている弥勒さま、その弥勒さまがその時まで修行されているお姿である弥勒菩薩にお参りします。
弥勒菩薩 オーム・マイトレーヤ・スヴァーハー
オーム、弥勒尊よ、幸あれ
七七日は、いよいよ来世に旅立ちをするにあたり、故人が現世で御利益を頂いたお薬師さまに感謝と報恩の気持ちを込めてお参りし、来世でも心身健全であらんことを願うのです。
薬師如来 オーム・フルフル・チャンダリ・マータンギ・スヴァーハー
オーム、フルフル(喜ばしきことよ)、チャンダリ、マータンギ尊は、幸あれ (意訳・いかなる貧しく卑しい者ももれなく救う尊よ、幸あれ) つづく
百ヶ日、一周忌、三回忌は、阿弥陀三尊にお参りします。
慈しみ溢れる仏さまたちに、誕生間もない来世での歩みに力を与えて下さるようにとお参りします。
観音菩薩 オーム・アーローリク・スヴァーハー
オーム、蓮華部尊よ、 幸あれ
勢至菩薩 オーム・サム・ジャム・ジャム・サハッ・スヴァーハー
オーム、サムジャム・ジャム・サクの尊よ、幸あれ
阿弥陀如来 オーム・アムルタ・テージェ・ハラ・フーム
オーム、甘露の威力を具足したまえる尊よ、フーム
次の七回忌は、絶対に怒らないと誓いを立てた阿?如来さま、少し来世で我が儘になりがちなこの時期、阿?さんのお徳を頂戴するためにお参りします。
阿シュク如来 オーム・アクソービィヤ・フーム
オーム、阿シュク尊よ、フーム
十三回忌は、真言宗の総本尊、あらゆる叡智が宇宙大に遍満する大日如来さま。功徳を積んで正しい志を立てるべくお参りします。
大日如来 オーム・ア・ヴィ・ラ・フーム・カン・ヴァジュラ・ダートゥ・ヴァン
オーム、胎蔵の五字尊よ、金剛界の尊よ、ヴァン尊よ
三十三回忌は、宇宙全体全てのものを宝にしてしまう虚空蔵菩薩。ご真言を唱え心に菩提心を養うことでその徳を頂戴するべくお参りします。
虚空蔵菩薩 ナマッ・アーカーシャ・ガルバーヤ・オーム・アリ・カマーリ・マウリ・スヴァーハー
帰命 虚空蔵尊に、オーム、アリ、蓮華を冠したまえる尊よ、幸あれ
次の光明真言は、大日如来のご真言であるとともに一切諸仏の総呪で、どんなときでもお唱えされるとても大切な真言です。
お唱えしておりますと仏さまの五色の光に包まれ、マニ・宝珠、パドマ・蓮華、ジュヴァラ・光明、つまり恵みと慈悲と智慧を授かる功徳多い真言なのです。
正確な発音は、オーム・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラー・マニ・パドマ・ジュヴァラ・プラヴァルッタラ・フームと言い。
その意味は、
オーム、空しからざる、遍照の 大印よ、宝珠と、蓮華と、光明を、 転じせしめよ、フーム
(意訳・空しからざる大日如来の真実の広大なるはたらきである、福寿安楽をもたらす宝珠と、一切の罪障を滅して仏性を顕す蓮華と、豊かな命をもたらす光明とによって、迷いを転じてさとりに導きたまえ)
御宝号は、お大師様のお名前をお唱えし、そのお徳を拝するのです。 南無は、ナモーというインドの言葉の音訳で、帰依し挨拶しますということ。
大師とは、もちろん弘法大師のことですが、この大師号は、亡くなられて八十六年後に醍醐天皇からいただかれたのです。
「今も生きて法を弘め衆生を利益されている空海上人は弘法利生の菩薩である」との醍醐天皇のご意向から弘法大師という大師号が下賜されたと言われています。
また遍照金剛とは、大日如来のことですが、これはお大師様が唐の都長安に留学され、青龍寺で師匠の恵果和尚からいただかれたお名前です。
大師の並々ならぬ機根を見抜き、入門してすぐに金剛界・胎藏界の両灌頂を大師が受けられたとき、それぞれの曼荼羅に投げた投花がともに中央大日如来に落ち、これを恵果和尚がとても珍しいことだと喜ばれ、特に遍照金剛という灌頂名を大師に差し上げたと言われています。
遍照とは、世間の闇を遍く照らす大日如来の徳をあらわしているのですが、その光はすべてのものを育て働かしむる永遠不滅の光のこと。
また金剛とは、ダイヤモンドのような堅固なさとりの智慧をあらわしています。
なお、和文にある「二仏中間のわれら」とは、お釈迦様と五十六億七千万年後に現れるとする弥勒仏との間の世界にある私たちのこと。
祈願文は、ここまでお唱えしてきた功徳によって祈願が叶いますようにとお唱えするものです。
この世の中が永遠でこの身のまま仏として、地上がそのまま仏の世界となり、自然の営みも順調に作物も豊かで、世界がともに平和で人々も安楽でありますよう。そしてすべてのものに平等にこの利益がめぐりますように、ということです。
ですが、法事の席などではこの部分を省略して、「南無過去精霊」とお唱えします。その日の回忌の精霊に南無と挨拶して、ご法事のお経の功徳がめぐりますように、とお唱えするのです。
これらすべての功徳を六道に輪廻する一切の衆生におよぼして、みなさとりに至りますようにと願うのです。
法事の席でも仏壇でお唱えするときでも、ご先祖様の為にと思っていても、やはりすべてのものたちが良くあらねば一人の幸せもないという根本を忘れてはいけないのです。
一人だけうまくいけばいいと思ってやっていても長い目で見ればやはりうまくない、結局は後退しているということは今の世の中を見ても明らかなことです。
すべてのものに功徳が行きわたりますようにという気持ちで回向された功徳は、必ずやご先祖様の元にも届くことの大切さを教えている偈文と言えましょう。 つづく