備後國分寺は、仏教が我が国に伝来してまだ間もない天平十三年(741)、聖武天皇による「國分僧寺尼寺建立の詔」によって、律令体制のもとで仏教の力によって国内の社会不安、疫病などを鎮め、国家の安全、五穀豊穣、万民豊楽を祈願する寺として全国六十六洲に創建された寺の一つでありました。
当時既に、国家は氏族の首長が官僚となり、寺院は国家の管理に入りつつありました。それらの寺院には早くから「金光明最勝王経」や「仁王護国経」など、護国経典が置かれ、各寺院二十人ほどの僧侶がそれらの経典の読誦講宣の役割を担っていました。
そして天平の頃にはこうした寺院が各国に配置され、寺院の威容を整備し、統制を強化して、『金光明四天王護国寺』という寺号を与えて、七重塔を建立させ、その中に天皇宸筆の金字の「金光明最勝王経」を安置させたと言われています。また別に「金光明最勝王経」と「法華経」各十巻を安置し、毎月八日に「金光明最勝王経」の転読をさせたということです。
さらに國分僧寺の他に、各々その近くに、尼寺として、法華経を中心とする「法華滅罪之寺」が建立されていきました。こうした國分寺の創建は大がかりなものであり、かなりの困難も各地でともなうものではありましたが、十七年目の757年にはおおよそ完成したと言われています。
また総國分寺として知られる東大寺も、國分寺と別にあるわけではなく、各地の國分寺の創建にともなって、大和においては金鐘寺が金光明寺と改称されて大和國分寺となり、のちに帝都の國分寺という地位にあることから、特別に大仏を安置する大仏殿を擁する東大寺へと発展したものでありました。
國分寺の中心は、はじめは、先に述べたように塔に納められた天皇宸筆の金字「金光明最勝王経」でありましたが、しだいに金堂中の本尊に重きが置かれるようになり、もともと國分寺制がとられる前に各国に造立させた一丈六尺の釈迦如来像がその本尊として祀られていたと言われています。しかししだいに、この頃信仰され始めていた薬師如来に病気平癒や、天災を鎮静させることを願うようになり、國分寺の本尊に薬師如来を祀ろうとする気運が高まっていきました。
天武天皇が皇后の病気平癒のために薬師寺を建立したのをはじめ、多くの薬師像が造立され、天平十七年、畿内で地震や火災が度々発生し、また天皇不予に際して、薬師如来に罪過を懺悔する悔過法という儀式が盛んに行われ、諸国に六尺三寸の薬師像の造立が命ぜられました。
奈良から平安朝初期にかけて吉祥天や阿弥陀如来、十一面観音、などを本尊とする悔過法に比べても薬師悔過法が最も多く行われるなど、この時期に薬師如来へのすがるような信仰が皇室に行き渡っていたのでした。
なお、この備後には國分寺創建当時既にいくつかの寺が存在しており、それらの瓦なども集められ、国をあげて他の国に先立って國分寺の創建が進められたと言われています。当時の古い瓦も、蓮華文軒丸瓦、重圏文軒丸瓦、唐草文軒平瓦など、が出土して現在もお寺に保存されており、また当時の礎石も現参道の両側に置かれています。
当時の備後國分寺は、広島県並びに神辺町教育委員会により昭和四十七年から行われた発掘調査によれば、現在の参道を中心に東西六百尺の築地塀に囲まれた寺域があり、古代山陽道に面した南大門、参道を入り中程左側に金堂、右に七重塔、その北側に講堂があったとされており、いわゆる法起寺式伽藍配置をなしていました。金堂は東西30メートル、南北20メートル、七重塔は基壇が18メートル四方、講堂は東西30メートル。
当寺の古記録には寺内に薬師堂があったとされており、当時の金堂の本尊を釈迦如来とし、別に薬師堂を建て薬師像を安置していたことをうかがわせています。そして後に述べるように天文年間に焼失した金堂を再建した際には、本尊薬師如来の開眼供養が行われたとしています。このように、いつの頃からか、薬師像を本尊として祀り、今日に至っています。
また当寺にゆかりのものとして、現在奈良国立博物館所蔵の『紫紙金泥金光明最勝王経』があります。尾道の西國寺に旧蔵され、もとは備後國分寺に安置されていたものと伝えられており、十巻完備したものとしてその価値は高いという。
天暦十年(956)沼隈郡新庄の長者が西國寺に寄進したとあり、平安時代半ばには既に律令体制の崩壊とともに國分寺は衰退しつつあり、またその後の戦国時代に神辺の合戦に際して新庄太郎が國分寺焼失の際に経巻を持ちだし西国寺へ寄進したとも伝えられています。
そしてその後、鎌倉時代中期になると、中国で元が勢いを増し元寇として海を渡って攻めてくる気運が高まると、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直され、その時には東大寺ではなく奈良の西大寺の律僧たちが、盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。
数年前に仁王門前の発掘調査があり、その時には、鎌倉室町戦国時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われており、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となりました。
そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれていきます。文明十五年(1483)、備後福岡合戦の時、太田垣軍勢が國分寺に勢揃いして出陣するなど、鎌倉、室町という戦乱の世にあって衰退を余儀なくされ、天文七年(1538)の大内氏と山名氏による神辺の合戦によって兵火を受け院宇焼失。天文十九年、舜洪上人により焼失した寺を再建し、本尊薬師如来の供養が行われました。
また、天文二十年には毛利元就が参拝し、香華料を献上、永禄四年(1561)には、神辺城主杉原盛重が二十貫の土地を寄進して香華料とし、七間四方の草葺きの本堂が建立されたということです。しかし慶長五年、福島正則が芸備二国を領すると荘園を悉く没収。
さらに、江戸時代には、延宝元年(1673)にこの上の大原池が大雨で決壊して土石流となり、國分寺を流して伽藍は廃滅。たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、国指定の文化財となっております。
その後、快範上人が晋山して、現在の地に伽藍を移し、福山城主水野勝種候が大檀那となり、金穀役夫並びに用材が給付され、近郷全村から寄付を集め、元禄七年本堂を再建。元禄十年、客殿庫裏、永禄四年、梵鐘、元文五年仁王門が建立され、今日ある伽藍がほぼととのうこととなりました。
その頃、神辺に登場して参ります儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。それが仁王門前の詩碑に刻まれております。そして、茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時は文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していました。今日では、真言宗大覚寺派の寺院として、江戸時代から続く信仰厚い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。
なお、詳しくは、本堂再建三百年祭に際して刊行された備後国國分寺誌、並びにパンフレットを頒布しております。