UFOロボグレンダイザー(正規版)

作品紹介
平和なフリード星を、突如ベガ星連合軍が襲い掛かってきた。フリード星はその猛攻の前に為す術もなく滅び去る。
だが、滅びゆくフリード星から逃れた男がいた。王子・デュークフリードである。デュークフリードは父の遺言を受け、フリード星の守り神・グレンダイザーを悪の手に渡すまいと、独りフリード星を後にしたのだった。
それから5年ーーーー。アンドロメダ星雲全域を手中に収めたベガ星連合軍は、その野望の牙を銀河系へと向け始めた。その第一に太陽系の地球の征服を目論むベガ星連合軍。だが、それにたちむかってきたのはグレンダイザー、かつて故星を滅ぼされたデュークフリードであった。地球の仲間たちの支援を受けてグレンダイザーは闘い続ける。
解説
シリーズ三作の中で「UFOロボグレンダイザー」ほど毀誉褒貶の激しい作品はないだろう。
いわゆる正統派と称するマジンガーファンからは、「マジンガーシリーズはグレートで完結している」として標榜され単なる「ロボットメロドラマ」として一顧だにされてないかと思えば、一方では海外、特にフランスやイタリアといった国ではロボットアニメの最高峰として崇め奉られてもいるのだ。この正反対の現象を見るにつけ、「UFOロボグレンダイザー」とはなんだったのかと改めて懐疑せずにはいられない。
「UFOロボグレンダイザー」は、確かに前二作とは趣を異にするところ大であることは等しく認めるところのものであろう。ロボット同士のバトルの爽快さというものは、グレンにおいてはおよそ絶無だったといって過言ない。否、逆に、戦いの悲しさを随所に物語り、且つ、主人公のデュークフリード自身「争いの被害者」として徹頭徹尾描かれ、その戦い振りは全身に悲壮感をまとっていたという表現が最もしっくりくる。故星を滅ぼされ流亡し、遠い異境の地でまで命を狙われながらも、その地の危機を救えるのは自分だけしか存在せず戦わねばならない身の上・・・・・・・・・・やがてはかつての古傷がもとで命旦夕に迫るなど、凡そ考えられるだけの不幸を付与したようなキャラクターだったといえよう。この、言わばある一時代の少女漫画に顕著であった「不幸」を身上とするパーソナリティーが、「戦争ごっこ」に夢中な男の子層に受け入れ難いものであったことは想像に難くない。また、「男の子層」には主人公のデュークフリード自体がなじみ難い属性を有していたことも見逃せない。というのも、古来より日本男児には「色男」を嫌う向きがあるということである。「色男、金と力は無かりけり」に代表されるように、女性に持て囃される男に対して嫉視と劣等感が激しく、為に「色男」と絶えず対比して少しでも己に優位な部分で凱歌を挙げると謂った具合で、「色男」に対して潜在的に「敵意」を抱いているというのがむしろ至当だろう。デュークフリードとはそんな害意に予め晒されていたキャラクターであったということが鍵となる。加えて、今までマジンガーシリーズを視聴してきた「男の子層」というのは多かれ少なかれ兜甲児に己を同化させてきた甲児ファンであり、それが「グレンダイザー」になった途端にデュークフリードに主役を奪われ脇役に転落したことに対する怒りも相当部分加わっている。嫌な「色男」がこともあろうに「自分たちの偶像=憬れの英雄」より悉く能力が上とあっては「面白くない」のである。更には、「ロボットアニメ」という言わば「自分たちの世界」に、今まで無関係だった女性層がデュークフリード目当てになだれ込んできたことに対する嫌悪感といおうか、「縄張りを侵された」意識も手伝って益々反感が募ったということであろう。そこで実に些細な部分で難癖をつけまくるという行為に走り、本末転倒といった状態にまで堕すことになるのである。日本において「UFOロボグレンダイザー」とは「悲しい出会い」だったとしか云い様が無い。
だが、フランスやイタリアで爆発的な人気を得たというのは、悉く日本とは反対にそれぞれの要素が好転したことによるのであろう。「マジンガー」は「爽快」でなければならないという縛りも存在しない彼らにとってはむしろ「少女漫画的不幸話」であるところの「悲劇性」やオーバーアクション気味のドラマ性は国民性に大いに合致しており、「悩めるヒーロー」こそは最も感情移入のしやすい「自己と同一化しやすい」ヒーローだったのであろう。また、日本の男児に不評の素となったデュークの色男振りも、恋愛大国フランスやイタリアにおいては極自然な描写の範疇であり、むしろ女性も満足に口説けないような男こそ侮蔑の対象となるのだ。彼ら彼女らには、デュークの恋愛交友の多さこそが彼の魅力として映るのだと思う。
甲児との絡みについても、初めて「UFOロボグレンダイザー」から接して「マジンガーZ」を経験しなかった彼らにとっては、兜甲児は別段「憬れのヒーロー」でもなんでもなく、むしろ不幸を背負って悩み苦しみながらも戦いつづける悲壮なデューク・かつ戦えば誰よりも強く優れた能力を持つ戦場の英雄たるデュークのほうが物語をとおして「彼らの英雄」になったと言えよう。日本人の相当数の人が、しょせんは甲児を主軸としてしか「UFOロボグレンダイザー」を観ていなかったのに対して、むしろ異国のフランスやイタリアのほうが素直に「英雄デュークフリードの叙情詩」として楽しんでいたのだ。
日本人男性も、素直に「デュークフリードの物語」として捉えれば「UFOロボグレンダイザー」はとても面白く視聴できることであろう。デュークの色男ぶりも不幸のオンパレードも、洋モノ映画と割り切ってしまえば気になるものでもない。異星から来た宇宙人が日本的でなかったからといって排斥する理由など全く無く、むしろ西洋人のパーソナリティーを多分に持った「擬似西洋人」として彼を捉えたほうがすっきりとくる。事実、「グレンダイザー」はフランス語吹替版やイタリア語吹替版で観たほうが断然面白く、むしろ「ゴールドラック」「ゴールドレイク」こそが本家であって日本版の「UFOロボグレンダイザー」のほうが外来の作品を輸入した「吹替版」にすら見えてくるほどである。機会があるならば是非ご視聴せられんことを勧めるものである。
「戦争」というものは爽快性を持つ反面、悲惨な面をも併せ持つ事もまた真実である。物語である以上、読者がその爽快さを希求するのは当然なのだが、しかしだからといって、戦争の持つ暗黒面を「要らないもの」として切り捨て去る行為は決して涼とは言えない。むしろ、マジンガーシリーズとは、三作通してはじめて「戦争」の持つ陽性と陰性を描ききったといっても良いのだ。
例えて言う。「三国志」において、英雄たちの国づくりが好きだからといって孔明の死まででその興味を止めてしまっては、それは本当の「三国志」ではない。呉が滅びるまでのいわば「英雄たちの夢の後始末」まで見届けて初めて「三国志」なのであり、また、この世界を「正統に理解した」といえるのだ。逆もまた然りで、自分の好きな一部分だけを抜き出して後は棄て去るというのであれば、それは真実その世界を理解することは不可能である。翻って「マジンガー」世界で当てはめるならば、「Z」「グレート」「グレン」三作全てを認めて初めて「マジンガー」という世界が理解できるとここに断言する。
「戦争ごっこ」に夢中になるのもいい。しかし、「戦争ごっこ」を満喫した後はその背後にある「戦争の悲惨さ」というものをぜひ見据えてほしい。「UFOロボグレンダイザー」という作品は「マジンガー」におけるその格好の材料となるだろう。そしてその「戦争ごっこ」と「戦争の悲惨さ」の両輪をそろえてはじめて「戦争」というものが語れるのだから。長々と難しい言い回しだったかもしれないが、ようは「川中島の戦い」の血湧き肉踊る合戦絵巻も善いが「忠臣蔵」の判官贔屓的な仇討ち悲話もグッとくるゾということなんである。両方認めようよ。