ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ
「マジンガーZ」第38.5話






 夏休みだ。朝食をすませた小学生は家でくすぶってなんかいられない。シローは玄関を飛び出し、勢いよく階段を駆け下りる。腕を大きく振って、下から三つ目の石段を踏み切った。
 「よっしょ」
 膝を深くまげてトンと着地する。目標ラインの庭木の影は余裕で越えた。満足顔で立ち上がって飛距離をふりかえり、駆け下りた階段を見上げた。
 昇ってきた太陽がロッジ風の三角屋根から二階の玄関ポーチを照らしている。そして一階のガレージにも朝日が届き始めた。ガレージの中ではホバーパイルダーの丸みを帯びた風防が日差しをきらきら反射している。
 「わぁ」
 まぶしくてシローが顔をしかめる。だが、こうして平和な朝をのんびり過ごす風情のパイルダーも嫌いじゃない。
 そりゃ、機械獣に立ち向かうパイルダーは大好きだよ。とっても勇ましくてかっこよくて。でも、ぼくたちみんなの願いは光子力の平和利用なんだから――。
 そんな気持ちをこめて、「おはよう」と声をかける代わりにジェットエンジンを軽くパンとたたいた。
 朝日を浴びるパイルダーの朱赤を、ガレージの濃いグレーのタイルがいっそう鮮やかに引き立てている。シローは首をめぐらして、床から天井まで一面にグレーの耐熱タイルを張り詰めたガレージを見まわす。
 「これって偶然なのかな。それとも弓先生か誰かが、パイルダーの色に合わせて壁や天井の色を決めたのかな」
 昨年十二月、甲児とシローが初めて富士山麓の光子力研究所を訪れた日、ありていはマジンガーZが光子力研究所にころがりこんだ日だが、弓教授が言った。
 「ホバーパイルダーの保管場所を考えなければならないね。こうして屋外で見ると小さく感じるが、主翼を広げると幅は軽自動車二台分になる。機体の長さは軽自動車より短いが…」
 「ああ、そんな大きさなら、おれの家の裏庭に置けます。東京都内なんで、ここからはちょっと遠いけど」
 甲児はこともなげに答えた。
 「いや、発進時のジェット噴射をまともに浴びたら、普通の家屋や庭木はひとたまりもない」
 弓教授は腕組みをして考えこんだ。
 確かにホバリングで中空に上がってからジェットエンジンに点火するという方法も、理屈では考えられる。しかし、「機械獣が暴れている。一秒でも早くマジンガーZの元へ」と気が急(せ)く少年にそんな悠長な配慮を求めるのは、酷というより非現実的だ。
 「やっぱり、おじいさんの別荘を建て直すしかないか。考えてみりゃ、パイルダーは東京の家に置けるけど、マジンガーZは置いとけないもんな」
 中央自動車道の河口湖線を降りて、湖畔の細い道に入る。そこからさらにうっそうとした森を走り抜けたところに、祖父の別荘はひっそりと建っていた。
 この人里離れた一軒家でマジンガーZが建造されていたことを、甲児とシローは祖父の今際(いまわ)に初めて知った。
 建造は極秘プロジェクトだった。途中、悲劇的な事故もあった。それでも兜博士はマジンガーZを完成させた。
 けれども完成から二か月もたたず、別荘はあしゅら男爵に発見され、爆破された。
 「じゃあ、ぼくたち東京の家を引き払って、別荘に引っ越すのかい」
 甲児のひとり言にシローが口をはさんだ。
 「おにいちゃんと一緒なら引っ越すのも転校するのも、ぼくはかまわないよ。だけど、いったいどこに学校があるんだろ」
 「そうだな。学校は遠くなるな」
 「おにいちゃんはバイク通学、ぼくは自転車通学だね。雨の日が大変だ」
 「合羽着てランニングさ」
 甲児の口調は本気とも冗談ともつかない。そぼ降る雨の中、重いランドセルを背負ってぬかるんだ林道を走る自分の姿を想像し、思わずシローの声が高くなった。
 「だったら、合羽着て自転車に乗るよ」
 兄弟の話は一見堅実そうだが、実際には無謀この上ない方向に進んでいる。弓教授は大らかで大胆だった恩師を思い出してほほ笑ましい気持ちになるが、敢えて深刻な顔で言った。
 「別荘で兜博士が、東京の家ではお手伝いさんが、ドクターヘルの手の者に殺されてしまった。マジンガーZの存在も知られている。そう考えると……」
 甲児とシローは二学期が終わるのを待たず、東京から光子力研究所にほど近い家に引っ越した。
 冬の晴れた午後だった。
 ふたりがこの家に着いた時、ガレージはすでにパイルダー用に改装されていた。大型車二台分の駐車スペースをパイルダーの大きさに仕切って、断熱材と耐熱タイルで補強したのだと、シローは後から兄に聞いた。
 夏の朝日がパイルダーの風防に反射して、小さなスポットライトのような光輪がガレージの横壁を照らしている。
 「あ」
 光が当たる数枚のタイルは、わずかながら周囲と色が違う。シローがくすぐったいような、なつかしいような笑いを浮かべる。
 人目がないのを幸いと、頭上の色違いのタイルに腕を伸ばした。背伸びをしなくても指先が届いた。
 あれから、ぼくも背が伸びたんだ――。
 「あは」と、今度はうれしい笑いがこぼれた。同級生の中でも小柄な身体、気にならないと言えば嘘になる。
 「本当にね、ここに引っ越して来た頃は、どうなることかと思ったよ。このタイルだって…」
 今、甲児はマジンガーZを手足のように操って機械獣を倒す。だが、最初はパイルダーの操縦さえ思うにまかせなかった。
 シローはいつも新居の冬枯れの庭に立って、ハラハラしながらガレージへの入庫を見守っていた。
 「ホバリングのバックは不安定なんだから。ああ、もう、見てらんない」
 自分の心配をまぎらわせるためのつぶやきが、いつの間にか大声を張り上げての誘導になった。
 「だめだよ、おにいちゃん、もっと下、それじゃ天井にぶつかる。だめだったら、ちゃんと横も見なくちゃ。翼を柱に引っかけるよ。左に寄りすぎ、あ、おにいちゃんから見たら右だ」
 両腕をばたばた振りまわして叫ぶシローの頭上に、甲児がどなり声を浴びせる。
 「いちいちうるさい。かえって気が散る」
 「うるさいったって、うわ、それじゃ右に寄りすぎだよ。違う、おにいちゃんから見たら左だ」
 「だから、うるさいんだよ」
 「頼むから、とにかく一回静止して、頭冷やしてくれよ」
 「おまえこそ黙って頭冷やせ」
 弟にどなり返した自分の言葉に、はっとする。
 頭、冷やすか。そうだな――。
 二階の窓付近まで上昇して一息入れた。呼吸と視界が変われば、気分が変わり、発想も変わる。
 「そうだ」
 なにを思いついたのか、へへんと気楽に笑って操縦桿を右に切った。パイルダーがゆらりと南の中庭に移る。
 「後ろがダメなら横がある。横の移動は簡単なんだ」
 「なあるほど」
 弟の視線も尊敬の色に変わった。パイルダーは居間のベランダの下をくぐり、するりとガレージに入った。
 「どんなもんだい」
 その瞬間、甲児は微弱な振動を感じた。調子に乗って幅を寄せすぎ、主翼が壁に接触したのだ。
 音もしないかすかな衝撃に、「しまった」という言葉が思い浮かぶ暇もなく、身体が勝手に制動をかけた。
 しかし、超合金Z製のフレームの接触によって耐熱タイルは砕け、破片がポロポロ床に落ちた。翼にふりかかるタイルの粉を横目に、とにかく定位置にパイルダーを着陸させる。飛び降りて、壁を見上げた。
 「あーあ、やっちまった」
 ヘルメットのバイザーを上げ、壁の破損箇所をなでた。ザラザラとタイルが崩れ落ちる。
 「おにいちゃん、さすがだよ。よく、とっさに止めたねえ。やっぱ、並みの反射神経じゃない」
 感心したふりで、なぐさめる。小学生らしからぬませた心遣いだが、甲児は弟の心根の心配を素直に受け取る。
 「うん、よかったよ。下の断熱材は無傷だ」
 ほっとした顔で壁に残るタイルの破片を指先で掻き落とした。
 「シロー、ちりとり持って来てくれ」
 庭箒で掃き集めると破片は結構な量になった。
 「断熱材がむき出しだ。タイル四枚分だな。側面だからジェット噴射は直接当たらないけど、早目に修理しないと家が傷むだろうなあ」
 「家が傷むだろうなあ、じゃないよ」
 のんきな兄の言葉にシローがいつものお目付け役になる。
 「いいかい、おにいちゃんは飛んでっちゃうから知らないだろうけど、パイルダーが飛び立った直後のガレージの中って、すっごく熱いんだよ。ガレージ全体にジェット噴射の熱がこもって」
 「え、そうなのか。着陸した時は、そんなに熱くないけど」
 「あたりまえだろ。入れる時はホバリングじゃないか。全然違うよ。発射直後はオーブンの中みたいだよ」
 「へえー、発射するだけで、そんなに熱くなるのか。小型でもさすがは光子力エンジンだな」
 「感心してないで、急いで弓先生に電話して修理をお願いしてよ」
 ちりとりを手にしたシローが念押しした。
 「わかったよ」
 と答えてから、急に甲児はうんざりした顔になった。
 「あのじゃじゃ馬が、またうるさいぞ」
 この時の兄とさやかのやりとりが穏便だったか剣呑になったか、シローの記憶にはない。ただ、弓教授の配慮で、凍てつく木枯しの中で突貫工事が行われ、あっという間に耐熱タイルが張り替えられたことは憶えている。
 玄関のほうからジージーと蝉の声が聞こえる。東向きの前庭に朝日が行き渡ったのだろう。
 「あっと、こうしちゃいられない」
 シローはパイルダーの横を小走りでぬけて、厚い断熱壁の裏側にまわりこんだ。ガレージの残りのスペースは、甲児のバイクとシローの自転車の置き場所になっている。
 サイクリング車のドロップハンドルに手をかけ、サイドスタンドを軽く蹴りあげた。愛車を押してガレージを出る。真夏の空の下で、ホイールがカラカラと乾いた音を立てる。
 「今日も朝から暑いなあ」
 直射日光から逃がれて玄関わきの木陰に自転車を止めた。樹上の蝉は自転車の物音も人の気配も関係なくジージー騒ぎ続ける。シローは屋根にも届きそうな庭木をふりあおぐが、黒っぽい木肌に溶けこんだ油蝉の姿は見つからない。
 「一匹でも暑苦しいや」
 裏庭の木々に日が当たる時間ともなれば蝉時雨がわんわん響いて、気温が三度は上昇した気分になる。
 「なんだ、シロー。朝からぼんやり空を見上げて」
 いつの間に玄関の石段をおりたのか、甲児がボストンバッグを持って立っている。
 「あ、おにいちゃん。ぼんやりなんかしてないよ。蝉を探してたんだ。それにしても、毎日毎日、日本中で記録的猛暑なんてニュース、もう聞きあきたよ」
 「だったら、家で留守番してればいいだろ。この暑い中、おまえが自転車で行くこともない」
 なだめるような兄の物言いに、むきになって言い返す。
 「なに言ってんだよ、夏は暑いに決まってるだろ」
 「なんだよ、今、おまえ、猛暑のニュースは聞きあきたって」
 「それより、その鞄だね」
 兄の言葉を最後まで聞かず、シローは強引に甲児のボストンバッグの持ち手をつかんだ。勢いに押されて甲児はバッグを手放す。
 「大丈夫か、本当に…」
 兄の気乗りしない言葉をさえぎって、シローが言いつのる。
 「ガードスーツを研究所に届けるくらい、ぼくだってできるよ。もう昨日のうちに、もりもり博士にぼくが行くって電話しちゃったんだから」
 甲児に言葉をはさませず、バッグを自転車の荷台にさっさとくくりつけ、
 「それより、おにいちゃんは今日中に宿題片づけちゃってよ。もう十日も夏休み残ってないんだ。これで、また戦闘が入ったら宿題どころじゃなくなっちゃうだろ」
 小生意気な口は休まないが、荷物にロープをかける手つきは丁寧だ。甲児もまかせてみるかという気になってくる。
 だが、心配はぬぐいきれない。
 「気をつけろよ。この前とは別の道を通るんだぞ」
 光子力研究所から帰る甲児のバイクを鉄仮面が待ち伏せしたことがあった。甲児を暗殺しようと、この家に鉄仮面がなだれこんだこともある。
 シローも真顔で兄を見返し、きっぱり応える。
 「そして、行きと帰りは違う道を通ること」
 唯一の肉親だった祖父や、住み込みで自分たちの世話をしてくれていたお手伝いさんの死を忘れるはずもない。シロー自身、あしゅら男爵にこの家から拉致された経験もある。
 それでも兄が「そうだ」とうなずくと、「うん」と、からっと明るい普通の小学生の笑顔に戻る。
 シローは車体を立て直し、スタンドを蹴りあげた。荷台に積んだガードスーツの重さが伝わる。その頭上をついとトンボが飛んだ。
 「あ、オニヤンマ。大っきいなあ」
 自転車を支えて顔を上げる。
 「うん、あれだけ大きいのは珍しいな」
 甲児の視線もトンボを追って上下している。
 「あのね、おにいちゃん。オニヤンマが日本にいるトンボで一番大きいって、おじいちゃんが教えてくれたんだよ」
 ――おじいさんが教えてくれた?
 甲児がちょっと驚いてシローを見る。シローは兄の視線に気づかず、飛んでゆくトンボを眺めている。オニヤンマは時おり羽を銀色にきらめかせ、植え込みを越えて塀の向こうに姿を消した。
 「そういや、おまえ、ガードスーツを持っていく場所はわかってんのか」
 「失礼だなあ。わかってますよ。四階の奥、超合金テスト室のとなりの繊維室」
 勢いのよい返事に甲児がため息をつく。
 「これだ」
 「え」
 「それは、この前まで」
 「あ、そうか。そうでした。光子力研究所、建て直したんだ」
 かゆいわけでもないのに、ぽりぽり頭をかいてしまう。
 「繊維室は二階、精錬室のとなりに移ったの」
 「そうそう、二階だった。でもね、ご心配は無用。わからなくなったら受付で聞くから」
 「そこらで油売ってないで、届けたらさっさと帰って来いよ。みんな忙しいんだから、仕事の邪魔するんじゃないぞ」
 「人聞き悪いなあ。兄貴の用事を感心な弟が代わりにつとめるっていうのに」
 「調子良いこと言うな。もとはと言えば」
 甲児の語気が荒くなったのを潮時と、シローはペダルに足をかけた。
 「じゃあ、おにいちゃんはしっかり宿題をやっておいてよ。急いでも計算違いなんかしちゃだめだからね。いっくら機械獣を倒しても、やることはちゃんとやらないと、おじいちゃんだって心配すると思うよ。行ってきまーーす」
 「まったく、おまえはいつもひとこと多いんだよ」
 こぎだしたシローの背中に甲児のどなり声が飛んできた。
 シローは「ほうら、予想どおりだ」と、えへへっと舌を出し、今日はどの道を走ろうかと考える。
 育ちはじめた入道雲のてっぺんが白銀に光っている。まぶしい空に大きなトンボがゆうゆうと泳ぐ。
 「あ、さっきのオニヤンマ」
 エメラルドの大きな複眼、黒い身体には黄色の縞がくっきりと映える。優雅で精悍な姿に見惚れて、「おーい」と呼んでみた。
 ――トンボが返事するわけないだろ。
 おにいちゃんに聞かれたら笑われる。シローはもう一度えへへと舌を出した。
 湿度の高い夏の風の中、走り始めて十分とたたず汗ばんでくる。
 ガードスーツが重いからかな。だいたい後ろに積んだ荷物って重く感じるんだよ――。
 ちらっと荷台のボストンバッグをふりかえる。でも、軽快なサイクリング車にフロントバスケットは似合わない。仕方ないさと、力をこめてペダルを踏む。
 「うん、日陰の多い道がいいや。舗装されてないけど、熱々のフライパンみたいなアスファルトの上を走るよりましだもん」
 シローは森へ続く小道にハンドルを切った。

(1)

ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ