勉強机に向かっていた甲児が、うーーんと大きく伸びをした。
 「こんな問題集、一日でできるさ」
 売り言葉に買い言葉で弟相手に大見得を切って、昨日から机にしがみつく羽目になった。いいかげん飽き飽きしている。
 残りはどれくらいかとページをめくる。最終ページまでいくらもない。
 「よし、これならシローが帰ってくる前に片づく」
 シローの挑発にうまく乗せられちまったか。いや、わかっていて乗ったんだ――。
 思い直してもういちど上体をそらし窓から空を見上げる。
 「おじいちゃんに教えてもらった、おじいちゃんが心配する、なんでシローのやつ突然」
 意識的にさけているわけでもないが、甲児もシローも両親や祖父のことを、日頃はあまり話題にしない。
 ここ数日、おれがおじいさんの日記を読み直していたのを、見るともなく見ていたのかもしれない――。
 いつもシローは付かず離れず甲児のそばにいる。甲児が五歳、シローが一歳になるやならずで両親が急逝してから、ずっとだ。
 この家に引っ越してからも、甲児が居間にいればシローも居間にいる。甲児が勉強机に向かえば、当たり前のように甲児のベッドに寝転がって本や漫画を読んでいる。それを甲児はうるさいと思ったことはない。
 窓から蝉時雨が流れ込む。
 甲児は勉強机の引き出しに手をかけた。両親や祖父の写真はすぐ手が届く場所にしまってある。取っ手をひくと引き出しの中でコトッと硬質な音がした。この家に来てから、甲児は一番大切な写真の手前に光子銃を置いている。
 「いけね」
 握りこんだ鉛筆をノートの上に投げ出して、小さく叫んだ。
 「光子銃のホルダーの予備をもらって来いって、言い忘れた」
 シローが出かけて一時間たっていない。研究所は遊び場じゃないぞと言い含めたが、それでもまだ帰途にはついていないだろう。
 「繊維室に直接連絡すれば間に合うか」
 受付に電話して伝言を頼んだら、広い研究所の中で話が大ごとになりそうだ。普段は使わない直通番号を調べて受話器をとった。
 呼び出し音がとぎれる。
 「はい、繊維室です」
 聞き慣れた少女の声だ。予想外のことに、甲児は軽い驚きがそのまま言葉になってしまう。
 「なんだ、さやかさんか」
 普段さやかは繊維室に長居しない。まして繊維室で電話を受けるなど年に数回もない。だから甲児に悪気はなく、面食らっただけだと見当がつく。そう思って、さやかは喉までこみ上げた「なんだとは、なによ」という言葉をかろうじて飲み込んだ。
 「繊維室でなにしてんだよ」
 悪気はないが、配慮もない甲児の追い討ちに、さやかの返事もはねっかえる。
 「仕事してるに決まってるでしょ。甲児くんこそ、繊維室になにか用でもあるの」
 また、じゃじゃ馬が、とげとげしやがって。用があるから、わざわざ直通番号にかけてるんだよ――。
 甲児も悪態はなんとか胸のうちにおさめた。しかし不快感を隠す気はなく、無愛想に要件を告げる。
 「シローに代わってくれないか」
 「シローちゃん? ここにはいないわよ」
 「もう、帰ったのか」
 「帰ったって。あたしはシローちゃんに会ってないわよ。今日はずっと繊維室にいるけど」
 さやかのけげんな声に、甲児が眉をひそめる。
 「まだ着いていないのか。おかしいな」
 「どういうこと、甲児くん。シローちゃんがどうかしたの」
 さやかも心配顔になって、直前までのささいなわだかまりを棚上げにする。
 「一時間前に、メンテナンスに出すガードスーツを持って、そっちに向かったんだ」
 超合金Z繊維はマジンガーZやホバーパイルダー同様、部外者の手に渡してはならない。シローだって心得ている。寄り道などするはずない。
 「なんですって。ちょっと待って。受付に聞いてみるわ」
 受付を通った記録がない。
 「交通事故なら警察から家に連絡があるはずだ。人通りのない道路でひき逃げでもされないかぎり」
 「縁起でもないこと言わないでよ。しっかり者のシローちゃんがそんなことあるはずないでしょ」
 「だとすると、考えられるのは」
 鉄仮面に待ち伏せされたのか、あしゅら男爵に拉致されたのか。電話の向こうとこちらで最悪の事態が脳裏をよぎる。
 「あたし、アフロダイAでシローちゃんを捜してくるわ。甲児くんは自宅で待機してて。シローちゃんから連絡があったら、あたしに無線で知らせてちょうだい」
 「わかった。頼む」
 「まかせて」
 甲児が「無理はするなよ」と言い終わる前に、さやかが受話器を置く派手な音がした。しかめっ面でぼやく。
 「面倒をふやすなよ」
 繊維室でなんの仕事をしていたのか知らないが、あのじゃじゃ馬のことだ。全部途中で投げ出して、アフロダイAの格納庫にすっ飛んで行ったにちがいない。
 
 
 
 結局、自宅待機で一日終わっちまったぜ――。
 甲児がふてくされ顔で居間の壁かけ時計を見た。とっくに四時をまわっている。
 しばらく前から庭の木々で響く蝉の合唱にも、カナカナとヒグラシが加わっている。
 「なんですって」
 そして、今、さやかの高いあきれ声も加わった。
 「甲児くんは夏休みの宿題で忙しいって、シローちゃんの宿題をやっていたの」
 「えへへ、実は……」
 ソファでシローが決まり悪そうに頭をかいて、となりに座るさやかを見上げた。兄は向かいの椅子で黙って腕組みをしている。
 「それより、さやかさん」
 シローの決まり悪そうな顔は長続きせず、すぐに悪びれない笑顔に変わった。
 「よく、ぼくを見つけてくれたね」
 あっけらかんとした弟の態度に、甲児の不機嫌が増す。
 じゃじゃ馬相手に、見え透いた機嫌とりをしやがって――。
 それでもシローの素直な話し方は嫌味に聞こえない。
 「この暑さでしょ。ちょっと遠回りでも、日陰の多い道を通ると思ったのよ」
 さやかも含みなく大らかに答える。
 「さすが、さやかさん。ぼくのこと良くわかってるなあ」
 シローがこれまた自然に感激の笑顔を見せる。
 「シローちゃんったら」
 さやかも笑みをたたえた瞳を大きく見開いて応える。
 「それで、なにがあったんだ」
 甲児のいらだった声が割り込んだ。
 「あれ、おにいちゃん、聞いてないの」
 弟の軽い返事にいっそうカチンと来たらしい。口をとがらせてさやかの口調を真似る。
 「シローちゃんは無事よ。後であたしが送っていくわ。もちろんガードスーツも問題なし。甲児くんは安心して宿題を終わらせちゃって――で、無線が切れちまったものでね」
 さやかが「いっけない」という表情でシローに目配せした。
 兄の不機嫌は心配の裏返しだ。安心させるのも弟の役目と、年不相応に世慣れた小学生はとってつけた神妙な顔で、
 「だから、さ、ぼく、今日はおにいちゃんがよくマジンガーZで歩く道を通ったんだよ。両側が森で舗装されていない…」
 と、半日前の出来事を話し始めた。
 今朝、家を出てから一時間半もたったころ、森を切り開いた泥道を、シローは自転車を押しながらよろよろ歩いていた。
 「シローちゃん」
 「あ、さやかさん」
 アフロダイAの姿を見ると、へなへなとその場にへたりこんだ。Tシャツが汗でべったり体に張りついている。
 「どうしたの」
 「どうしたも、こうしたも、見てよ」
 自転車のタイヤがぺしゃんこだった。
 「古釘かガラスを踏んじゃったみたい。家より研究所のほうが近いとこまで来てたから…」
 「まあ、大変だったわね。でも、もう大丈夫よ」
 アフロダイAは片膝をついてかがみ、右手で自転車をつまんで左の手のひらにそっと乗せた。
 「さ、シローちゃんも乗って」
 シローは「よいしょ」と、ロボットの手によじ登って額の汗をぬぐった。
 「ありがとう、さやかさん。おにいちゃんは宿題で忙しくて来られないから、ぼくが代わりに来たんだ」
 「まあ、そうだったの」
 さやかは「シローちゃん無事発見」と、研究所と甲児に無線で知らせ、シローに言った。
 「研究所においしいアイスクリームがあるわ。帰りはあたしがバイクで送ってあげるから安心して」
 「わあい、ぼく、さやかさんって大好きだ」
 シローはひとまずここで話を切った。甲児はソファの背もたれに寄りかかって天井を見ている。
 「おにいちゃん、聞いてるの」
 「聞いてるよ。それでおまえの話は終わりなのか」
 兄貴、まだご機嫌ななめだと見てとり、シローは研究所で食べたアイスクリームがデンマークだかスイスだかのお土産で、そうそう口にできない逸品だったことには触れまいと決めた。
 ぼくだけおいしいアイスを食べたなんて、妬まれたらかなわないもん。食べ物の恨みは怖いんだから。大人気ない兄貴を持つと弟が苦労するよ――。
 「つまり、本日ぼくは、さやかさんのおかげで遭難をまぬがれましたってこと」
 シローは無難に報告を切り上げて、再びさやかと視線を交わした。ちょっとした冒険を共有した愉しみを思い出し、「えへ」「うふ」と笑い声がこぼれる。これがまた甲児の癇(かん)に障った。
 「どこが遭難だよ」
 皮肉っぽく結論づける。
 「シローはお調子者で、さやかさんは外づらが良い。どっちもどっちだ」
 愉しい気分に水を注されてさやかが眉をつりあげた。
 「ちょっと、なによ、それ。お調子者とか、外づらが良いとか、甲児くんには、言われたくないわ」
 シローが、今日のおにいちゃんとさやかさんは角が立ちやすいみたいだと、空気を読んで話をまとめる。
 「とにかく、ガードスーツをメンテナンスに出して、光子銃の予備のホルダーを持って来たんだから、本日の予定は無事完了、だよね」
 上目がちに甲児とさやかの顔色を交互にうかがう。
 仲が良いんだか悪いんだか、その日によって全然違うんだもん。もう、世話が焼けるったらないよ――。
 「それで自転車はどうしたんだ、シロー」
 甲児も仏頂面はそのままだが、とりあえず矛先を収めて話題を変える。
 「うん、研究所にあずけて来た」
 シローは屈託なく笑顔を向ける。ぼくが無事でよかったって、内心ではおにいちゃんもほっとしているんだよねと、口には出さないが。
 「アフロダイAの格納庫の入り口に置いてあるから、直しに行かなくちゃ」
 「やれやれ、今度はパンクの修理かよ」
 「まあ、そう言わないで、よろしく頼みますよ。というわけで、明日は寝坊しちゃダメだからね」
 「明日なんて、そんなにあわてなくていいわよ。自転車の一台くらい邪魔にならないもの」
 「ところが、そうは、いかないんだな。これがあるから、ね」
 シローが立ちあがり、ローテーブルに置いた水槽に手をかける。二、三日前に自分で物置から引っ張り出し、風呂場でほこりを洗い流していた。
 「そうだ、聞こうと思ってたんだ。こんなでかい水槽、なにに使うんだ。おまえが水浴びできる大きさだぞ。暑いからって、庭で行水でもするつもりか」
 「ガラス張りの水槽で行水してどうすんだよ。おにいちゃんがやりたいなら止めないけどさ。あ、でも、後はきれいに洗ってよ。ぼくの使い道は決まってるんだから」
 「だからなんだよ、おまえの使い道って」
 「水槽は魚を飼うものって決まってるだろ」
 「こんな大きな水槽に、色とりどりの熱帯魚を泳がせたらきれいでしょうね。きっと見ているだけで涼しくなるわ」
 「せっかくだけど、さやかさん。ぼくは、そんなありきたりのことはしないよ。ちゃんと目星はつけてるんだ。だから、明日にでも自転車を直さなきゃならないんだ。夏休み、終っちゃうからね」
 「おい、なにを、どこまで買いにいくつもりだ」
 「それは、見てのお楽しみ」
 なにをたくらんでいるのか。甲児とさやかは「へへへ」と笑う小学生に煙(けむ)に巻かれる。
 「まあ、きれい」
 窓から差しこむ西日が水槽のガラスを茜色に染めている。さやかがシローの頭ごしに空の水槽をのぞきこんだ。
 「日が短くなったわねえ」
 シローの頬をさやかの長い髪が柔らかくなでた。見上げれば、さやかの顔も夕日に染まっている。
 「うん、七時前には暗くなるよね。もうすぐ九月、二学期が始まるなあ」
 甲児はなにも言わずどっかり座っている。相変わらず不機嫌な顔だ。
 「さあ、暗くなる前にあたしも帰らなくちゃ」
 アフロダイAに乗ってなら別として、さやかは日没後の一人歩きを避けている。光子力研究所が臨戦体制になって以来の自主規制だ。
 「夕方の風は気持ちいいわ」
 兄弟に見送られて玄関の高い石段を一段二段おりたところで、さやかが両腕をふわっと広げた。
 「ねえ、さやかさん。なんか良いことでもあったの」
 シローがうしろ姿に声をかけた。
 「え、なんで」
 さやかが振りかえった。背中を覆う明るい色の髪がさらっと流れる。
 「なんか、うれしそうだから」
 「良いこと、なにかあったかしら」
 やや伏せた目線の先で、ピンクのサッシュが夕風にゆれている。
 そうね、新しいガードスーツを作ってもらえるのがうれしいのは確かだわ――。
 心当たりは見つけたが、甲児やシローの前で口に出すのは気恥ずかしい。
 「きっと、おとうさまの傷が良くなってきたからよ」
 これも事実だ。
 「そうかあ、それはうれしいよね、さやかさん。ぼくもうれしいな。先生、大ケガだったもんね。十二針も縫って」
 シローがはしゃいだ声でさやかの横にかけよった。
 「ありがとう、シローちゃん。もうね、包帯はとれたのよ」
 弓教授は、ジェットスクランダーの格納庫で鉄仮面に撃たれて二週間になる。
 「包帯はとれたって。まだ全快なさってなかったのか」
 甲児が不機嫌を忘れて驚き、沈んだ声で自答する。
 「……そうだよな。レーザー銃で撃たれたんだもんな」
 スーツや白衣で仕事に奔走する光子力研究所長の姿に、甲児は弓教授が重傷を負ったことさえ忘れていた。
 そういえば弓先生の私室でミネルバXの話を聞いた夜、ガウンの左腕が少しはれぼったい感じがした。あれは包帯を巻いていたせいだったのか――。
 「ええ、あとは抜糸できれば、ほぼ全快なのよ。多分、明日は抜糸できると思うわ」
 左上腕部、上皮の火傷と筋肉の断裂だった。
 医療スタッフは止めた。しかし意地っ張りなひとり娘は聞き入れず、処置室に押しかけた。
 「おとうさまの負傷はどんな具合なんですか。あたしにも傷を見せてください」
 左の肩から肘にかけて筋肉がざっくり裂け、焼けただれた皮膚は血とリンパ液にまみれていた。
 「上腕骨に異常はありません」
 医師の言葉で、息を詰めてレントゲン写真を見つめていたさやかは呼吸を取り戻した。
 「腕だったのが不幸中の幸いでした」
 医師が続けた。
 「頭部を撃たれていたら、きわめて危険でした。上体でも、息を飲んだはずみに気道が熱傷を負った可能性が高く、場合によっては命にかかわったかもしれません」
 さやかは自分でも驚くほど冷静に、「そうですか」と一言答えただけだった。
 けれども、後からこの時の父の腕と医師の言葉を思い返すと、そのたびに涙ぐんだ。本当は今だって目頭が熱くなりそうなのをこらえている。
 「わあ、明日、抜糸できるといいね。そうしたら全快なんだ」
 涼しい風が流れる中、シローが全身ではずむように石段を跳ねおりた。東向きの前庭に茜色の夕陽は届かない。玄関から北に立ち並ぶ常緑樹の間には、すでに灰色の薄闇が広がっている。
 ものの気配に、甲児がふっと足を止めた。
 頭上の暗がりで、ばさっと羽音がした。樹上の枝に金色の目がふたつ並ぶ。
 「フクロウよ」
 さやかがささやくと、
 「うん、時々来るんだ」
 とシローも小声で答える。東京から引っ越してきたばかりの頃は、珍しくて鳴き声が聞こえただけでも大騒ぎしていた。半年以上過ぎた今となっては、時おり顔を見せる知り合いという感じになっている。
 「ミネルバのフクロウは宵闇(よいやみ)の訪れを待って飛び立つ」
 ぽつっと甲児がつぶやいた。
 「え、フクロウが飛び立つって…」
 兄らしくない言葉だ。シローが不思議そうに甲児を見る。
 「あ、いや、おじいさんの日記に書いてあったんだ」
 口をついて出た自分の言葉に、甲児自身もいささか驚いたようだ。甲児のとまどった様子にか、あるいはあまり耳にしない語句の響きにか、さやかは妙な不快感を覚えてほとんど無意識に毒づく。
 「そうでしょう、そうでしょう、甲児くんがそんな詩的なフレーズを思いつくはずないもの」
 明らかに甲児の神経を逆撫でした。
 どうして、あたしったら――。
 後悔しても言ってしまった言葉は取り消せない。その現実にいらだち、不似合いなことを口走る甲児くんがいけないのよと、見当違いを承知で八つ当たり気分になる。
 「それで、どういう意味なの、おにいちゃん」
 ひとりシローはのどかだ。
 「どういう意味って、その、意味は…」
 少し考えて、甲児が言い放った。
 「フクロウは暗くなったら飛ぶって、あったりまえだろ」
 「なあんだ。意味もわかっていないの」
 再びさやかの皮肉がほとばしった。
 「なんだよ。じゃあ、さやかさんは意味がわかるのか」
 甲児が噛みつく。
 「あったりまえ」
 シローがパチンと手を打って言った。おかげでさやかは条件反射で噛みつき返さずにすんだ。
 「そうか、なるほどねー。つまりさ、おにいちゃん」
 得意そうにシローが胸を張った。
 「マジンガーZのパイルダーは弓先生の無線を待って飛び立つって、やつだね」
 一瞬、毒気を抜かれた甲児だが、すぐにニヤリとした。
 「それを言うなら、シロー」
 横目でさやかのふくれっ面を一瞥(いちべつ)して、しゃらっと、
 「アフロダイAのおっぱいは機械獣の来襲を待って飛び出す――って、言うんだよ」
 「すごい、さすが、兄貴だ、あははは」
 「ん、まあ、なんですって」
 さやかの悲鳴のようなどなり声に、シローが首をすくめた。

(3)

ミネルバのフクロウは宵闇の訪れを待って飛び立つ