名の読みは「なりむね」ともされるが、成宗の名は室町幕府8代将軍・足利義政の前名「義成(よししげ)」から「成」の字を受けたものであることから、「しげむね」と読むと思われる。
陸奥国伊達氏第12代の当主。第11代・伊達持宗の二男。室は大崎教兼の娘。従四位下・兵部少輔。号は栖竜院殿。陸奥国伊達郡梁川城主。
寛正3年(1462)、父の持宗が上洛するに際して随行した。
持宗は応仁3年(=文明元年:1469)1月に没したとされ、その後に成宗が家督を継承したとみられる。長男の義宗は懸田氏に入嗣している。
同年12月、奥州探題大崎氏の被官である薄衣美濃入道経蓮が、陸奥国中部の争乱鎮撫を願って大崎氏の奉行所に提出した申状(『薄衣状』)に、探題の大崎教兼の出馬と併せて成宗の助力を要請されており、奥州探題に次ぐ、あるいはこれを凌ぐ声望や実力を備えていたことがうかがわれ、文明3年(1471)に大崎氏と葛西氏の紛争を調停した。
文明15年(1483)10月には自身が主体となって2度目の上洛を行い、将軍家や幕府要人、伊勢神宮や畿内の有力寺社等に太刀23振、馬95頭、砂金380両、銭6万疋を献上し、伊達氏の武威は奥州随一と知らしめた。
長享2年(1488)1月、領内で勃発した内乱を鎮められなかった大崎氏当主・大崎義兼(教兼の孫)が出奔した際には領内に保護し、3百騎ほどの軍勢をつけて帰還させた。
また成宗は出羽国へも版図を広げ、文明10年(1478)には出羽国米沢の成島八幡神社に大檀那として社壇を奉建していることから、これまでに米沢を掌中に入れていたことがうかがえる。
某年9月25日に没したとされて没年は不詳であるが、のちに没年を長享元年(1487)と定められ、子孫が追悼の祭礼を行ってきた。しかし長享元年死没とすると、先述の大崎義兼の庇護は、次代当主の伊達尚宗の事跡ということになる。