伊達持宗(だて・もちむね) 1393〜1469

陸奥国伊達郡梁川城主。伊達氏宗の子。伊達(大膳大夫)政宗の嫡孫。幼名は松犬丸、ついで泰宗と称す。兵部少輔・大膳大夫。入道して円宗と号した。
父の氏宗は応永19年(1412)に没したといい、治世の期間が短いことから事跡はほとんど伝わっていない。氏宗のあとを受けて持宗が家督を相続した。
翌応永20年(1413)4月、一族の懸田定勝らとともに鎌倉府に叛旗を掲げ、信夫郡の大仏城に籠もった。この事態を受けて鎌倉公方の足利持氏は二本松(畠山)氏を遣わして討伐させたが、他の南奥の国人からの協力が得られなかったこともあり、めぼしい成果は挙がらなかったという。しかし12月下旬に至って大仏城の兵糧が尽きたため、持宗らは軍勢とともに城から退去したという。
持宗は鎌倉府には反発し、幕府とは良好な関係を築いていたが、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱には関与しなかったようである。
のちに梁川城を本拠とし、応永33年(1426)に梁川八幡宮を造営、嘉吉元年(1441)には祖母・蘭庭禅尼の菩提寺として輪王禅寺を創建した。
永享元年(1429)9月、幕府からの要請を受けて白川氏朝と石川一族の抗争を調停する。
足利持氏が関東管領の上杉憲実や幕府との関係が険悪となり、永享の乱勃発直前の永享10年(1438)8月には、幕府より篠川公方の足利満直に属して憲実を支援することを要請されている。その後の足利成氏と上杉氏一派の抗争に際しても出陣を要請されているが、応じた気配は見受けられない。
寛正3年(1462)10月頃に上洛して将軍・足利義政に謁見し、銭3万疋を進上している。
応仁3年(=文明元年:1469)1月8日に享年77で死去したというが、応永20年に挙兵したことを記した史料には幼名の「伊達松犬丸」と記すものが複数あることなどから、生没年には疑いも残る。法名は天海円宗常院殿。