吉良満家(きら・みついえ) ?〜?

奥州管領・吉良貞家の嫡男。文和2:正平8年(1353)12月以降の父・貞家の没後、そのあとを継いで多賀国府(陸奥国府)に拠った(貞家の没年には異説あり)。
しかし文和3:正平9年(1354)6月に石塔義元の急襲を受け、抗戦するも敗れて伊達郡の伊達宮内少輔のもとへと逃れた。義元の父である石塔義房はかつて奥州総大将として軍事面から陸奥国の統治に貢献したが、康永4(=貞和元):興国6年(1345)8月に解任され、代わって満家の父である吉良貞家と畠山国氏が奥州管領として赴任したという経緯があり、「陸奥国の統治者」の地位をめぐる確執があったのだろう。
伊達郡に逃れた満家は和賀郡の和賀義綱に助力を求め、翌月には和賀一族の助力を得て府中奪還に成功し、義元を玉造郡鳴子へと逐った。
満家はこの国府奪還後に、和賀氏に加美郡内の地を「勲功之賞」として与えている。
また、 延文元:正平11年(1356)6月に伊達長門入道(政長)に伊達郡桑折を、同年10月には岩城郡の伊賀盛光に本領を安堵しているが、これは文和3:正平9年の秋〜冬頃に新たな奥州管領に任じられて陸奥国に入部してきた斯波家兼への牽制だろうか。
その後の満家の活動は不明となる。