最上家親(もがみ・いえちか) 1582〜1617

最上氏第12代当主。最上義光の二男。最上義康の弟。通称は太郎四郎。従五位下・左馬助・駿河守・侍従。出羽国山形城主。
天正19年(1591)、徳川家康への接近を図る父・義光の命によって徳川氏に出仕、近習として仕えた。文禄3年(1594)の元服に際しては家康を烏帽子親とし、一字を与えられて家親と名乗る。
その後も徳川氏に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の役には徳川秀忠軍に属して信濃国上田城攻め(上田城の戦い:その2)に従軍した。
慶長8年(1603)8月に兄の義康を亡くし、実質的に最上氏の次期継嗣となる。
その後も江戸に在って慶長9年(1604)8月8日の竹千代(のちの3代将軍・徳川家光)の三七夜の祝いの席に着座、慶長15年(1610)に琉球国王・尚寧が来朝した際には奏者役を務めるなど、将軍の側近として仕えた。
慶長19年(1614)1月、父・義光が死没したことを受けて帰国、最上氏の家督を相続する。
同年10月、大坂冬の陣への出陣に際しては江戸城の留守居役を命じられたが、弟で出羽国清水城主の清水義親に豊臣氏への内通の疑いがあるとして、延沢康満日野将監らに義親を討たせた。
元和3年(1617)3月6日に山形城内で急死した。享年36。光禅寺に葬られ、法名は盛光院殿安景長公。
最上氏の家督は子・義俊が継承したが、元和8年(1622)に松根光広が「家親の死因は楯岡光直・山野辺義忠(光茂)・鮭延秀綱らによる毒殺だった」と幕府に訴えたことから御家騒動が起こり、同年8月に最上氏は取り潰しとなった。